第7話 少女ジャンヌ
アリアは、ルークと向かい合ったまま言葉を選びあぐねていた。
すっかり油断して変装もしていなかった迂闊な自分を苦々しく思い一度瞑目してから、気まずそうにそろ~りと正面に立つルークを改めて見やる。
ばっちり目が合った。
「――っ」
後ろめたさと同時に、気味悪がられるかもしれないと思えば、そんな不安に直前までとはかなり違う意味合いでドキドキした。
十年一昔なんて言う程に、普通は十年も経てば人の老いは明確に見て取れる。しかもルークにとっては十年どころではなく十五、六年、いや彼の記憶力によっては十七、八年前と変わらないのを悟るかもしれない。
しかしアリアには予想外にも、ルークにとっては彼女の身の上の不思議なんて今は後回しだった。
「会いたかった。――やっと見つけた、僕のアリア」
その感情の深い声は、妙にアリアの耳の奥にまで響いて沁みた。
脇に挟んでいた書物を放り出すようにして駆けてきた彼から抱きすくめられたアリアは、腕の強さだけでなく台詞の間の取り方にも彼の気持ちの強さを感じて不覚にもまたドキリとした。
ジャンヌは驚いたのか目を大きく丸くしている。次第にフグのように頬を膨らませたのはアリアを見知らぬ男に取られたようで面白くなかったからかもしれない。
抱き締めは加減はされていて痛くはなかったけれど、ぎゅうう~っという表現がぴったりな腕の強さだ。この期に及んで人違いだと誤魔化しても無駄だろうと悟り、彼女はややあって溜息にも似た吐息を漏らした。
「大きくなられましたね、ルーク坊ちゃま」
アリアからもおずおずと腕を回して背中を軽く叩いてあやすと、彼は酷く安堵したような吐息を零した。
「そりゃあね。何年経ったと思っているの」
子供のように拗ねた口調に、昔を思い出して少しアリアの口元が弛む。
「アリアって本当は金髪だった。……でしょう?」
「ああ、これですか。そうですね」
「いなくなる最後まで黒髪だったから、まさか金髪だとは思わなかったよ」
ルークからの半ば恨み言に、アリアは苦笑する。
「色々と、坊ちゃまを騙すような形になってしまい申し訳なく思っています」
「……そこはこうして会えたし、会えたってわかって僕の気持ちももういいやってなった。だから本当にもういいよ。貴重な黒髪のアリアを見れてたんだって思ってよしとする」
「……優しいところは変わりませんね」
微かに笑うアリアがしみじみとして称賛を送れば、ルークはどこか自嘲的な笑みを浮かべた。
「優しさだけじゃ、駄目だった。僕はもっと人生に狡く生きるべきだったと思ってる」
「……坊ちゃま?」
控えめに真意を尋ねたのだけれど、ルークは黙して首を小さく否定に振るだけで、答えてはくれなかった。
傍で見ているジャンヌは、目は据わってはいるものの空気を読んで大人しい。どころか、ルークが道端に放り出していた書物をいつの間にやら拾って集めて両腕に抱えているところなんて、良い子過ぎる。
アリアはそんな天使なジャンヌを後でたっぷり可愛がってあげようと決めた。
「アリア、今までごめんね」
「どうして坊ちゃまが謝るのですか。謝るのなら私の方ですよ。あなたに黙って勝手にいなくなったのは私です。少々人に言えない事情がありまして。けれど、もし万一どこかでお会いすることがあれば、きっと開口一番詰られると思っていました」
ルークが苦笑する。
「詰る気持ちがないとは言わない。でもね、そんなものよりも何よりも、アリアと会えた喜びや嬉しさを伝えたかったから。これは僕の人生における僥倖なんだよ」
もしかして運を使い果たしたかも、なんて彼はおどけたように言う。
「ええと、大袈裟ですよ」
「全然。正直この喜びを表現するにはさっぱり足りないくらいだよ。できるなら子供の頃みたいに、思い切り君に気持ちをぶつけて再会の喜びを表したいけど、今の僕がここでそれをやると色々と際どいからね」
一体どんな表現をしたかったのか、アリアは気にはなったものの何となくそこを突っ込むのはやめておいた。
やっと放してくれるのかと思えば、今度はそのまま肩を掴まれて顔を覗き込まれる。
「ああ、ホントにアリアだ。……夢にまで見てたって言うか夢のまんまっていうか、とにかく、元気そうで何よりだよ」
そうしてはにかんだ彼は、次にはどうしてか困ったように両目を細めた。
見ていると切なくなるような、そんな笑い方だった。
アリアの心に動揺の波がまた押し寄せてくる。
アリア、と囁かれ彼からまた抱き寄せられたのもあって動揺レベルも数段回跳ね上がった。戸惑いが動きを鈍らせ彼を押し退けるのもできない。
「本当に、ごめんね?」
「で、ですから坊ちゃまが謝る必要は――」
「――ううん、謝らせて。今まで一人にして、ごめん――……リア」
アリア、と言ったのだろうか。最後の部分は彼が口の中だけで言葉を紡いでしまったのでよく聞き取れなかったけれど、きっとそうだ。
こう頑なに謝られては、逆にアリアの立つ瀬がなかった。悪いのは全面的に自分なのだ。なのに何をどう言えばいいのかわからなくなる。えーととかうーとかあのとか意味をなさない声が口から出ただけだ。
その時だ。
ジャンヌが拾い上げて持っていた本でパーンとルークの尻を叩いた。
「いっ、て!?」
「アリアせんせーが困ってるーっ! お兄ちゃんは悪い人ーっ!」
即座に離れたルークが尻を擦る様子から死角で何が起きたのかを察したアリアは、あらまと思わず口元を押さえた。ジャンヌが可愛らしい大きな目を眇めてルークを睨んでいる。
「あのね、違うのよジャンヌ。この人は、この人はね……ぷふふっ、ふふふふっ、先生の、ふふふっ、大事な人なの、あははは!」
「笑わないでよアリア~!」
「でもごめんって謝ってるのは、悪いことしたからなんでしょー?」
「ええとね、だからこの人はそうじゃなくて……っ、あはははっ」
言葉よりもアリアの中では笑いが弾けてしまい、止まらない。ツボったと言っていい。ルークはばつが悪そうにしているけれど、決して怒っているわけではなさそうだ。
アリアにもルークの「ごめん」の意味はわからない。
けれどジャンヌのことでは喜ばしい。アリアはまだ教会で働き初めて一月足らず。それでも一緒に過ごして日の浅い自分の教えがちゃんとジャンヌに活きているのは素直に誇らしいし嬉しかった。
「ジャンヌ、だったかな? ええーっとね、僕がアリア先生にずっと会いに来れなくて寂しい思いをさせちゃってたから、謝ってたんだよ。……本当はもっともっと早く会いに来れたらよかったんだけどね。ね、アリア?」
「え? あ、そ、そうなの。だからジャンヌは心配しなくていいのよ」
取り繕ったルークとアリアを交互にじっと見つめたジャンヌは、子供なりに何かを納得したのか、やがてこくりと頷くと「はいこれ。ジャンヌも叩いてごめんなさい」とルークの書物を彼へと差し出した。
その光景にアリアはまた感激する。
「まあ、ジャンヌったら優しいのね」
「拾ってくれてどうもありがとう、ジャンヌ」
アリアには頭を撫でられ、ルークもルークで大袈裟に喜んでみせたので、ジャンヌは手放しに褒められて満更でもなさそうに胸を張った。
「ところで、ルーク坊ちゃまはどこかへ行かれる途中だったのでは? もしや大学ですか?」
「え? ああ……まあ……そ、そんなところ?」
「ではそろそろ行かないといけませんね。足止めしてしまって申し訳ありません」
「ああいや、気にしないでよ」
「坊ちゃま、私は今あそこの教会に住み込んでいます。しばらくは滞在します。ですから、大丈夫です」
大丈夫。
ルークは意表を突かれたような顔をしてから、頬を緩めた。
「……そっか。わかった。ならもう僕は行くよ。アリア、また来るからね。絶対に。……本当に、いなくならないでよ?」
「はい。子供たちも遊び相手が増えたら喜ぶと思いますし、坊ちゃまさえ良ければいつでも遊びに来て下さい。ああ、けれど教会建物を見ての通り、豪華なおもてなしは期待しないで下さいよ?」
「僕にとったらアリアがいてくれるのが世界一豪華なおもてなしだよ」
「ごほっ、そ、そうですか。それは光栄ですね」
ストレートな親愛表現に、さすがのアリアも噎せてしまった。この麗しの坊っちゃまは油断ならない男のようだと新しい認識を胸にした。
「ところでアリアは? 君は僕が来たら喜ばないの?」
「もちろん嬉しいですよ。坊ちゃまに嫌われていなくて良かったとも思っています。……赦して下さって、ありがとうございます」
アリアは心のままに相好を崩した。
それはあたかも秘境の可憐な花が綻ぶようで……。
途端ルークはどぎまぎとして慌てたように視線を外すと、どこか責めるように横目で見てくる。
「アリアってホントずるい……」
「ええ?」
「まあいいけどね。僕だってやられっ放しじゃないから」
「……?」
「それじゃあまたねジャンヌ、――と、僕のアリア」
気を取り直したのか、ルークは挨拶を込めて恭しくアリアの手を取って甲にキスを落とした。
「……本当に坊ちゃまは私の予想通りのお姿になられているようで」
「え? どういう意味? まあいいけど、もしかしてアリアは前よりも笑うようになった?」
「それはどうでしょう。自分ではあまり意識していないので。でも子供たちといると気持ちは和らぎますね。……ああもしや上手く笑えていないとか?」
「まさか。――思わずキスしたくなるかな」
「……。……本当にもう感動するくらいに想像以上におなりで! 乳母として涙が出そうです、乳母として!」
乳母としてを強調し、そっぽを向いてやや俯いて目元を拭うふりをするアリアは気が気ではない。
(何今の? え? キスしたくなる? 百年超の婆さんに何を言ってくれるのよこの子は……!)
しかしルークは秘密を知らないのだから仕方がないと言い聞かせる。落ち着け、と。
「せんせー赤くなってるー?」
「なっ!? そんなことはありませんよ!」
下からのジャンヌには丸見えだったらしい。
「え、まさかアリア……照れてるの? 僕を意識して……?」
「こ、これはっ、すっごく呆れたせいです! 坊ちゃまは早く行って下さい!」
顔を上げたアリアは赤面していると証明してしまうのを苦々しくも思いつつ下手な言い訳を口にする。それが下手な言い訳だと自分でも自覚しているだけに益々顔の熱さが増していく。
「アリアせんせー真っ赤ー! りんごせんせーだ! アリアせんせーはりんごせんせー!」
無邪気なジャンヌの楽し気な笑い声が上がって、どこか照れたようにしていたルークまでが釣られたように笑うと、アリア自身も気が抜けてしまって弱く笑った。
ああもう、とアリアは頬の赤みを隠すように両手で押さえた。
「アリア、それじゃあ必ずまた来るよ。ジャンヌもまたね」
ルークは手をひらりと振って爽やかに歩いていった。
その顔は若さ故か希望の光に満ち溢れ、アリアは彼から視線を外せずに彼の姿が角向こうに見えなくなるまで見送った。
(どどどうして胸の高鳴りが止まないのーっ! こんなのは駄目なのに!)
内心極めて狼狽するアリアはジャンヌと手を繋いで教会に戻る間も、自らを落ち着かせようとスーハーと大きく深呼吸を繰り返したのだった。
乳母と子供から始まった、いやそれよりも遥かに過去から繋がる奇縁な二人の物語は、少し違った形で再び回り始めたのかもしれない。
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