第6話 ブライトン老伯爵

 彼は最初、本気で幻かと思った。

 会いたいと強く願う自分の心がとうとう壊れたのかとさえ思った。


 そしてこの時、ずっと不鮮明だった王女の輪郭が急にはっきりして、目の前の現実とピタと重なった。


「………エ、ミリア?」


 声にならない声が零れた。

 自分の頭はおかしくなったのかと思った。

 何故なら例の王女は百年前にとっくに死んでいるはずで、目の前で生きて動いているはずがない。

 けれど馬鹿みたいに直感が訴えるのだ。

 彼女は過去の自分が心から求めた相手だと。


(いや、それだけじゃない。彼女は……――アリアだ!)


 そして、現在のルーク・ブライトンとしての自分の求める相手でもあるのだと。


 およそ現実的でも論理的でもなくて理由なんてわからないけれど、彼女はエミリアでありアリアなのだと確信さえしていた。


 雑踏を背にするルークは、とうとう願いが叶った、この上ない幸運が我が身に舞い降りたのだと、大きな感動を胸にしていた。

 ただ、早く傍に行き触れたいと心は急かすのに、無様なほど踏み出す爪先が震えた。





 アリアの視線の先で背の高い茶色髪の青年は愕然として彼女を見つめると何言かを呟いたけれど、アリアの所からは聞こえなかった。

 彼女は彼女で青年はどこかで見た顔だとマジマジと見つめてしまってから……――答えが閃いた瞬間、即座にくるりと後ろを向いた。


(えっ、ええっ……!? あれってままままさかルーク坊ちゃま!? どどどどうしよう!)


「せんせー? アリアせんせー?」


(ああああーっ、もっと別の偽名を名乗るんだったーっ)


 パタパタと走って戻って来たジャンヌが不思議そうな顔でアリアを見上げてくる。

 アリアの全身を変な汗がダラダラと流れた。いっそのことこのまま溶けて地中に染み込んでしまえればどんなにいいか。しかし残念かなドラゴンの呪いはスライム化できるものではない。


(一旦落ち着くのよアリア、本当の本当にルーク坊ちゃまだった? 似た子かもしれないわ。大体、十歳くらいの時までしか見ていないから、私が想像するのとは全く違う感じに育っているかもしれないし!)


 うんきっとそうだとおかしな自信さえ抱いたアリアはそろーりともう一度青年に確認の目を向ける。


(まんまーーーー!!)


 あのルーク少年が成長したら……と想像する姿とまさにピタリと一致している。

 しかしながら、だからと言ってルーク本人だと決め付けるのは早計だ。

 彼女はこほんと咳払いを一つすると、腰に抱き付いてきたジャンヌを撫でながら何食わぬ顔でゆっくりと彼の方に近付いた。


「ええと、あなたのおかげでこの子が馬車通りに飛び出して行かずに済みました。まだ一人では危ない頃ですし、心から感謝を申し上げます」


 アリアが深々と下げた頭を上げてからも青年はやや呆然とした顔で突っ立っている。


「その声も……」


 彼はうわ言のように呟いた。


(えっ声!? くっ、太く喋れば良かった……っ)


 アリアとしても、彼の態度のおかしさに気付かないわけもなく、ごくりと緊張に咽を鳴らした。明らかに、何でもない相手を見て見せる態度ではないからだ。


 真実本当に目の前の青年があのルーク坊ちゃまだとしても、それでもアリアは乳母アリアだと認めるわけにはいかない。

 彼は秘密を一切知らないのだ。

 黒から金へと変わったと言うか元色に戻しただけの髪の毛はともかく、絶対に姿が変わらないのを不審に思われる。ここは誤魔化すのがベストだろう。


(エミリアだとまでは当然わからないにしても、この不老不死体質が発覚したらまずいわ。ルーク坊ちゃまがそうするとは思わないけれど、どこからかこっちの情報を嗅ぎ付けた怪しげな組織に目を付けられて、果ては恐ろしい研究所に送られたりしたら堪らないもの。私は実験体としては最適でしょうからね)


 今までは支援者たちのおかげでその手の不気味で非道な闇組織とは関わりを持たずに済んでいたけれど、もうアリアはその保護を期待できない。いわば別れの手紙一つで彼らの元を自ら去ったのだ。ピンチの時だけお願いしますなんて虫のいい話はない。


(この十年、風の便りでブライトン伯爵が儚くなったのは知っているからこそ、最早何の繋がりもない坊ちゃまにまで迷惑をかけるわけにはいかないわ。愛孫の平穏無事、それが亡くなった伯爵への手向けにもなるでしょうからね)


 そう心を決めると、アリアはジャンヌの背に手を添えた。


「こほん、この子のことは改めて本当にどうもありがとうございました。それでは私たちは失礼しますね。さあ行きましょうね、ジャンヌ」


 笑顔で促すようにする。けれどジャンヌは不満を露わにした。


「ええー、もっと遊ぶ~」

「ジャンヌ、お外へはまだ先生と一緒にじゃないと危ないからって今までも何度も注意していたわよね? 行かないって約束もしたでしょう? それを破ったのはだぁれかな?」

「あ、うー……ごめんなさい」


 にーっこりとするアリアから怒りの角がにょきにょき生えている幻覚を見たかのように、ジャンヌは青くなると素直に反省してしょんぼりとした。

 アリアはさりげなくジャンヌの手を取って青年に軽くお辞儀をして背を返す。本当ならジャンヌを担いで全力疾走で立ち去ってしまいたかったけれど、それでは完全なる不審者だ。ともすれば急ぎそうになる足の運びをどうにか抑えゆっくりとジャンヌに合わせて歩く。

 このまま何事もなく終わってほしい、と切に願った。


「あ、お兄ちゃん、本当にどうもありがとー!」


 途中ジャンヌが後ろを振り返ってひらりと手を振ったので、アリアはヒヤリとしながらもその反面そんな彼女を優しい眼差しで見やる。アリアから言われずとも人への感謝を忘れない。ジャンヌはとてもわんぱくだけれどとても良い子だ。


 そして、敢えて背中の存在は意識しない、とアリアは苦労して平素の自分を装いつつ無理やり足を動かすのだった。






 他方、緊張に固まるルークはどこか慌ただしい展開に目を瞬いて手を振ってきた小さな少女を眺めた。

 自分も昔はアリアからするとあんなようだったのだろうか、なんて客観視できてしまえば、何となく気恥ずかしい気がしてくる。

 ともあれ、ジャンヌから純粋な感謝の念を向けられてふっと両目を優しく細めた。


(――って、和んでいる場合じゃないだろう!)


 この調子ではアリアが行ってしまう。

 幸いジャンヌのおかげで緊張は幾分和らいで、ジャンヌがいなければ大興奮した危ない男だと思われて警察を呼ばれたかもしれなかったので、そこは素直に感謝した。


 しかし予想に反してアリアはジャンヌと共にルークに背を向けた。


 彼は心底ショックだった。


 どうして彼女は何もなかったようにして去って行こうとするのだろう、と。


(僕はこんなに会いたくて会いたくて仕方がなかったのに、君にとっては僕は懐かしいとすら感じない取るに足らない存在なの? 一瞬、アリアは僕が世話をしていたルークだとわかっていないのかもって考えた。でも……)


 態度こそ他人行儀でよそよそしかったけれど、彼女の一挙一動を逃さずつぶさに見ていたルークには、彼女も自分に気付いたのだと確信していた。

 彼はアリアの小さな動揺から大体が推察できるくらいは、ずっと彼女の傍で彼女を見つめ続けていたのだ。たとえ十年のブランクがあろうとも、ルーク・ブライトンの執念の観察眼と洞察力は侮れない。造作もないと言ってしまえばそうだった。


 泣きそうだ、と冗談ではなく思う彼は、離れていく華奢な背中から目を離せない。


 ずっと望んでいたのだ。

 この場で別れても、向こうに見えている教会を後日また訪ねればアリアには会えるだろう。言及こそしていなかったけれど、二人はあの古い教会から出てきたに違いない。

 因みに大学で友人の言っていた教会美少女はアリアのことだろう。

 ぶっちゃけ自分よりも先に他の男たちに目を付けられていた事実がこなくそ不愉快でもある。誰か強面の役者でも雇って教会を見張らせて、アリア目的で教会に行く男共を密かに追い払おうかとさえ真面目に思案した。

 一旦その案は置いておくにしても、見張りは本気で雇おうかと思った。


 それもこれも不安だからだ。


 もしも隙を突くようにして彼女がいなくなってしまったら?


 アリアが屋敷にいた頃、彼女と祖父との間に何か大きな隠しごとがあるようなのはわかってはいた。けれど、予告なく離れるなんて思ってもいなかった当時は詮索しなかった。

 まあ彼女がいなくなってからは別で、彼女はどこだと祖父へと詰め寄った記憶はまだ鮮明だ。それも一度や二度ではない。

 しかし何度問い詰めようと祖父の口は分厚い貝のように固く、結局何も彼の口からは彼女の行き先や素性については語られず、わからないままに逝ってしまった。


 アリアへ繋がる手掛かりがゼロになってしまった祖父の葬式の日は、薄情にも涙は出なかった。


 心のどこかでは、自分から彼女を奪った非難を祖父に向けていたのだ。どうして話してくれないのか。自分を彼女と関わらせないのは身分差が云々でないのはルークにもわかっていた。


 その理由は今に至るまでついぞ思い至っていなかったけれど、アリアと再会してようやくわかった気がする。


 彼女には誰にも言えない秘密がある。


 それは外見の変わらなさから明白だ。


 如何に若作りの者でもどこかには老いが見えるのが普通にもかかわらず、アリアには一切のそれがない。

 人間であれば当然の時の流れを感じられないのだ。


 ――異質なのだ。


『もしもお前が家族と反目してでも、たとえたった一人ででもアリアを捜すと決めたなら、わしは止めはしない。だがな、これだけは覚悟しておけ。彼女と生きるのは容易ではないと。場合によっては絶望すらするだろう』


 ふと、生前の祖父の言葉を思い出す。


『それでも共に歩むつもりなら、お前が幸せをより多く感じられることを願っているよ』


 彼はアリアをよく知っていた一人なのだろう。


 たとえばこのたった今彼女に抱いた奇妙な異質の正体すらも祖父は知っていたのだろう。


 ルークはそれごと、大事な人の大事な秘密ごとを掴みたい。無知なまま失いたくない。


 されどアリアの方は無関係な他者を巻き込まんとして逃げるかもしれないからこそ、彼はこの機会を逃せないと強く思った。


「――アリア!」


 故に、勇気を振り絞った。

 切なる想いが路地の空気を震わせた。





 アリアは少しホッとしていた。青年はまだ佇んでいるようだけれど、佇んでいるだけだったからだ。この分だと追いかけてはこないだろうと思われた。


(まあそうよね、初めましてーな応対したからね。坊ちゃま(仮)はそもそも私の顔をちゃんと覚えていないかもしれないんだし。さっきは何だかどこかで見た顔のようなーって感じたとしても、もう十年近く会っていないんだし、私の髪も含めたイメージは全然違うからきっと平気――)


「――アリア!」


 ギクーッとなったものの驚いて飛び上がらなかったのはせめてもの幸いか。取り繕った顔で振り返る。

 青年が追いかけてきていた。安心するにはだいぶ早かったらしい。


「は、はい? 確かに私はアリアと申しますけれど、なな何かまだご用ですか?」


 教会に寄付を募る際に向ける営業スマイルでやり過ごせとアリアは心で気張った。


(はっ、まさかお礼に何かを要求してくるつもり? けれど彼が本当にあのルーク坊ちゃまならそんな真似はしないわね)


 では、もし要求してきたのなら彼はルークではないのだろうか?

 アリアの頭に疑問や疑心がぐるぐると渦巻く。

 すると、青年が何故か悲しそうに顔を歪めた。


「アリアは、僕なんてとっくに忘れてしまったの?」


(わあーその台詞、詐欺師かルーク坊ちゃまじゃないと出てこないやつ! けれど誤魔化さないと!)


「ええと、すみません、どちら様でしょう? こちらもうっかりしていました。まだお名前を伺っていませんでしたものね」

「……。ああ、そう言えばそうだったよね。面目無い」


 間があったものの彼はあっさり非とは言えない非を認めると、自らをルークと名乗った。

 案の定の、ルーク・ブライトン、と。

 ついでなのか、王立大学の学生だとも。


(ああ……本当に坊っちゃまだった。しかも、現在はここ王都在住って、どうしてこう……)


 運命の悪戯としか思えない。

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