第3話 王女エミリア

 警戒そして敵意も露わに自分を取り囲む人間らを、ドラゴンは薄く開いた厚い瞼の裏からうっそりとした眼差しで見やって一度瞼を下ろした。爬虫類のようなその金色の眼差しはやれやれ面倒な客人どもが来たなとでも思っているかのようだった。


 エミリアたちが手に汗を握り極度の緊張に息を呑むこと暫し、どうしてかそれきりドラゴンは全く動く素振りを見せない。


「ジョン、どう出る?」

「そうだな……」


 王女と将軍が二人で思案しているとようやくドラゴンが身じろぎした。丸まっていても見上げるような大きさに圧倒されていた皆の両肩が微かに揺れ、次には無理やり自分を奮い立たせるように武器を構える掌に力が込められた。兵士の誰もが余裕なんて微塵も感じられなかった。

 何故なら、倒すべき敵は過去数百年の報告例を鑑みても稀に見るような巨体だった。


「ふうむ、血気盛んだな。主らはきっとわしを殺しにきたのだろうね。まあ、それができるというのならそれもいいかもしれん」


 しかしドラゴンは臨戦態勢を取った人間たちへ開口一番そんなことを言った。

 低く、割と女性受けしそうな渋い声だった。


「わ、ドラゴンは案外良い声ね」


 ほう、と思わぬ魅力に目を瞠る王女エミリアに、内緒の恋人将軍ジョンは周囲からはわからない程度に不満そうにする。

 それができるというのなら……なんて挑発とも取れたけれど、ドラゴンの口調は酷く緩慢で、遠く静かで、諦めのような気配が滲んでいた。人語を解するドラゴンは長命で厄介な程に手強いとされている。何か裏があるのかと必然皆の背を冷たい汗が伝った。


「そこの人間らよ。この、老いさらばえたとは言えドラゴンのわしを殺せるか? やってみよ……いや、そう頼みたい」


 王女たち一行は予想もしなかった台詞に戸惑った。人間たちの迷いを見て取ったのか、ドラゴンはふっと吐息で笑ったようだった。それは達観し小さきものを見守る者のそれと、もう一つ、自嘲のようなものも含まれていた。


「わしはもう自分の名すらわからぬのだ。主らの手に掛かって死ねるなら本望よ」


 言葉遣いから王女たちは何となく察していたけれど、案の定ドラゴンは老いた個体だった。


「死にたいのなら何故自らで死なないの?」


 湧き出た畏怖を呑み込みエミリアが問うと、老ドラゴンは牙だらけの大口を小さく剥いて薄い苦笑を滲ませる。牙は大半が黄ばみ所々欠けていたり抜けていたりして、このドラゴンが言葉通り老体なのだという証左を改めて実感させられた。……ついでに言うなら息も結構臭かった。


「できるならとっくにそうしておるよ。それが叶わぬから主らのような人間に、藁をも掴む思いで頼んでおるのだ」


 人間からすれば気の遠くなるような長い年月、幾星霜を生きてきたそのドラゴンは、いつしか死に方すら忘れてしまった憐れな者だった。

 果ては、さあ殺してくれとばかりの隙だらけの態度で分厚い瞼を下ろす始末。

 だから王女一行はどうすればいいのか誰一人としてわからなかった。自分たちが信じていた悪しきドラゴン像というものが揺らいでしまったために手を下すのを躊躇った。過去の報告例や聞き知っているドラゴンとは、人を取るに足らない存在と蔑み、単なる餌だと慈悲なく襲い喰らう恐怖と災厄の元凶でしかなかったのに……。

 今目の前にいる老ドラゴンは何なのだ、とすら混乱した。

 その場の誰もが、まるで別種の生物を前にしている気がしてならなかった。


「それは、本当に本気なの?」


 警戒を緩めたのか、おずおずとして少し近付いてエミリアが問いかけた直後、しかし油断を誘う演技だったのか、老ドラコンは突然馬のように長い首をもたげ立ち上がってぐわあっと大口を開けた。

 一気に緊張が走る。

 各々武器を手に再度身構えた格好でいると、ドラコンはその鋭い牙を何と自身の腕に食い込ませ、硬そうな鱗と表皮をバリバリと噛み砕いて裂いたではないか。

 唖然となる間もなく、鮮血が飛び散ってエミリアの頬に生温く生臭いものがびちゃりと飛んできて付着した。


「……ドラコンの血も、赤いのね」


 しかも錆臭い。こんなのはまるで人間や動物と同じような生き物だ。

 いや、事実そうなのだ。

 指先で掬い取って見下ろすエミリアは、そこでドラコンもこの地上の理の中で生きる者なのだと初めて思い至った。

 気遣ったジョンが差し出したハンカチで頬の血を拭いつつ、場違いに緊張感のないことを思ってドラコンから目を離せない。

 気でも狂ったのか自傷行為に及んだドラコンは、一転その牙を抜くとそのままの体勢でしばらく動かなかった。傷口からはドクドクドクと結構な量の血が溢れ出ている。

 誰もが固唾を飲んで見守る中、しかし変化は起きていた。


「なっ何だって!? 傷がすごい勢いで塞がっていくぞ……!」


 誰が声に出したものか、けれどその叫びは全員の心境と同じくしていた。

 見る間に元通りになった皮膚を一瞥してドラゴンはまた地に体を沈める。


「見せた通り、これだけ生きると咽を掻っ切ろうともすぐさま体に染みついた魔法で治癒されてしまうのだよ。もう何百年と何も口にしておらぬのに死なぬし、身を大海に沈めども窒息もせんのだ。炎の中でも同じこと、この全身を覆う硬い鱗が炎の熱も相殺してくれるのよ」


 何度も死のうとしたのに死ねなかったのだと老ドラゴンは訥々と語った。本当にどうやったら死ねるだろうかと、何でも良いから意見を上げてみるようしまいにはそんな催促までされる始末。

 王女も将軍も部隊の面々も困惑したのは言うまでもない。

 何故退治しようとしている相手から自殺相談をされなければならないのだ。滑稽にも程がある。





「あなたはドラゴンの中では別格のようだ」


 気を取り直したのか将軍ジョンがそう言えば、王女エミリアも同意に頷いた。


「他のドラゴンのように人を襲う様子もない。我々は退こう。殿下もそれでいいだろう?」

「そうね。戦意もない丸腰の相手に飛びかかるのは趣味じゃないし」


 隊の面々の意見も概ねそのようで、集団は老ドラゴンをそのまま置いて引き返した。

 ドラゴンは何も言わずにまた元のように蹲って時の流れに身を沈めた。

 けれど、その選択が正しかったのかどうかはわからない。

 少なくとも老ドラゴンへ何らかの動きを取っていれば、本隊よりも一足先に進路を探っていた敵国の分隊と途中鉢合わせることはなかっただろう。


 そうすれば彼らが口封じのために襲撃してくることもなかったし、それによりジョンが死ぬことはなかったはずだ。


 知らないままでいれば隣国の侵攻を受けて国自体が疲弊もしくは蹂躙されていたかもしれないけれど、それはまた別の話だ。されなかったかもしれない。

 奇襲を仕掛けてきたおよそ五十人はいる敵分隊と、小隊に少し上乗せした程度の三十人足らずのエミリアたちとでは、戦力差は自ずと現れてくる。

 エミリアたちは一旦体勢を整えるためにも道を引き返し山奥への退避を余儀なくされた。


 そして、逃げ込んでいた山中で、まっすぐエミリアを狙った敵兵の不意の矢は、寸前で彼女を庇ったジョンの胸に突き刺さった。


 身を挺して恋人のエミリアを護ったジョンはその場で事切れ、彼女は狂乱の自覚もないまま全身全霊をかけて近くにいた敵兵を屠った。

 しかし多勢に無勢で戦力差は覆せず、エミリアの隊は「各自生き延びよ!」との彼女の苦渋の命令を最後に散り散りになるほかなかった。部下の逃げる時間を稼ぐためにも囮として山中に留まるエミリアは、配下の中の誰か一人でも王都へと辿り着いてくれるのを切に願った。


 果てのないような失意とまだ本当にそうと自覚したくない悲しみに、生存本能すら麻痺していて、彼女はこのまま今日死んでもいいと本気で命を諦めていた。

 そうすれば向こうで愛するジョンに会えるはずだから、と。


 鮮烈な斜陽に照らされた黄金の稜線を遠くに、王女エミリアは自分のか他人のものかもわからない鮮血で全身を染め、剣を杖代わりに何処とも知れない山中を孤独に彷徨った。


 酷くだるいし足は片方引き摺らなければ歩けもしないし、体の至る所に打撲や擦過傷があるのでビリビリじりじり痛む。息も酷く苦しい。

 とうとう霞む視界に大きな岩が見えて、そこで休息しようと背を預けて目を閉じた。最早ここがどこなのかわからない。


(このまま永遠に眠ってしまってもいいかもしれない……)


 妙な安堵を胸に広げながら、暗い眼裏には恋人ジョンの困ったような笑みが浮かんだ。


(何でそんな笑みなの? ちゃんと笑ってよ、ジョン。お願い)


 それでもエミリアの中の彼は悲し気な笑みを消さない。


(悲しいのは、私の方なのに……。死んじゃったあなたが何かを言うなんてできないのよ?)


 なのに物言いたげで、見たい微笑みを浮かべてはくれないのだ。


「何で……酷い……、私を置いて行っただけでも業腹なのに、どうして最後の最後に笑ってもくれないの……!」


 突然過ぎて別れの言葉さえ交わせなかった。

 彼のむくろもそのままに逃げるしかなかった。

 自分を庇ったせいで彼は死んだ。

 彼にあんな最期は相応しくなかったのに。


「……ッ、うぅ……ッ……ふ、うくっ、ジョン……ジョン……ッ」


 こんなのは現実じゃない。

 きっと悪い夢なのだ。

 夢魔が見せる悪夢なのだ。

 嗚咽が詰まって、上手く呼吸もできない。

 外傷の何よりも、胸の内が一番痛い。

 敵兵はまだその辺にいるだろうに体もろくに動かないなんてどうしようもない。

 今ほど長くを生きているドラゴンを羨んだことはなかった。

 あの愚かなまでの治癒力が羨ましかった。

 傷が治ってまだ戦えれば、自分がそうできたなら、心残りなく敵兵を壊滅させ心残りなく恋人の所に逝けるのに。


 まだ、彼の笑みは曇っている。


 自分は自分に嘘をついているのだ。

 死んでしまった恋人はエミリアの投げやりな死を決して望まない。

 加えて言えば、エミリアと同じく彼はこの国を大切に思っていた。

 この国の民のことも。

 孤児を養う教会や、病人老人たちを世話する善意の小さな医院にいつも食べ物やお金を持って行っていた。給金のほとんどを与えていたので、若くして将軍だった割に全然豪勢な生活はしていなかった。なのに彼は明るく爽やかで生き生きとしていた。まあ傍から見ると堅物で頑固に見えたそうだけれど。


 エミリアにだけは自然体な人だった。


 そんな男、今までエミリアの周りにはいなかった。


 いたのはいつもご機嫌を窺うような目で香水臭く着飾ってばかりな連中で、だから淑やかさが美徳とされた身でありながら、男勝りにも武芸に没頭していったのだ。性格にも合っていたので我が儘を言って軍にまで籍を置いたけれど、そこでジョンと初めて会った。

 真面目で部下から頼られ慕われる姿には、恋心を募らせた。


 ただ、そのくせ堅物なところもあって、交際を公にしていなかったのは彼の意思を尊重したからだ。


 案外心配性だから、きちんと国王に申し出て認めてもらうまでは……とか無駄に大真面目に考えていたのだ。そうしなければ礼儀がとかエミリアの立場が云々とか言っていたけれど、陰口なんて片っ端から蹴っ飛ばしてやるくらいに思っていたエミリアとしては少々呆れたものだった。

 とにかく彼は、そんな面でも彼自身の出来ることをしていた。


(……ああ、そうだった)


 疲れた心で気付きに至り、ジョンがようやくいつもの爽やかな笑みを向けてくれた。

 けれど出来ることと言っても、この状況を打破する策なんてない。血を流し過ぎたせいか力がまるで入らない。

 生きようと思い直したのに、これだ。

 思わず苦笑してしまった。


「このまま、死ぬのは、嫌だわ……」


「――――死にとうないか」


 聞き覚えのあるやけに渋い声に薄らと瞼を持ち上げのろのろと背後を見やる。


「ドラゴン……? ああ、そうか、この山は……ふふっ、なるほど、これは、見苦しいところを。失礼、したわね……」


 大岩は先日の老ドラゴンだったのだ。

 エミリアは奇跡か偶然か運命か、奇しくもこのドラゴンがいる場所へと辿り着いてしまっていたらしい。

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