第2話 貴族令息ルーク・ブライトン
程なく、落ち着き席に戻ったルークへと語り聞かせる朗々としたアリアの声が室内に響く。
他のメイド達も彼女の話に聞き入っていた。或いは、アリアの淀みなく滑らかな語り口は、聞く者の心を捉えてその世界に引き込むような、目に見えない魔力でもあるのかもしれない。
遠い異国ではその声一つさえ人々を魅了するとも語り継がれる、ドラゴンのように。
それ程までにその場の皆が音もなく聞き入り、口を挟む無粋すらしなかった。これは朗読会と言われれば本当にそうなのだと誰もが思っただろう、そんな積極的な静寂に満ちていた。
言われてみれば、およそ百年前のあの頃の歴史を今言葉にすれば、それは物語のような展開の連続だと、アリアは確かにそう思う。
隣国の極秘作戦に初めに気が付いたのは、この国の王女エミリアとその騎士である将軍ジョンだった。
自身も護られるだけではなく剣士でもあった王女は、王族の中では変わり種と言われていたものの優秀な武人で、二人は当時国の重要事項でもあったドラゴン退治に少数精鋭を率いて赴いていた。
この国では悪しき魔物と認識されているドラゴン。
総じて手強いとされるドラゴン相手に精鋭とは言え少人数だったのは、それが出現したと思われる場所が隣国国境に程近い山岳地帯だったために、隣国を刺激しないよう配慮し人員を絞った結果だ。
そしてその配慮が裏目に出る。
二人の部隊は偶然隣国の極秘侵攻作戦を知り、そのために既に越境して暗躍していた隣国兵との予期せぬ激しい戦闘に陥ったのだ。
エミリア王女一行は苦戦こそしたけれど、奇策でも講じたのか王女がたった一人で敵を押し返し、山岳地帯に各個逃げのび生き残っていた自軍兵士らを何とか回収。急ぎ帰路に就き隣国が侵攻の意図ありと王都へと知らせた。知らせを受け即座に臨戦態勢を整えたおかげで、奇襲同然の開戦準備を整えつつあった隣国は諦め早々に引き揚げていった。そうして賠償も兼ねた条約が締結されたのだ。
王女の孤軍奮闘がなければ知らせを王都に届けることも叶わず、この国は現在の姿では存在しなかっただろうと言われる。
将軍のジョンは戦闘の最中に命を落としていた。
局地戦で身近な配下たちを失った王女の激怒と戦いぶりは苛烈で凄まじく、物語の鬼神のような強さだったと、唯一その光景を目撃し生き残った敵兵士が自身の回顧録にそう書き遺していたものが近年発見されていた。
救国の王女はその事件の数年後、戦闘で負ったとされる怪我が原因か流行病かは定かではないものの、亡くなった。
当時、美しくも悲壮な戦女神として、王女の姿は創作者たちの意欲を掻き立てた。歳も近しかった王女と王女の唯一の騎士でもあった青年将軍に焦点を当て、明らかに二人をベースとした悲恋を劇や物語として発表する者が相次いだ。
しかも人気を博した結果、今では悲劇のヒロインとして実名そのままで舞台や読み物の定番として浸透し、本当の二人がどうだったのかはともかくも、この国で最も有名なカップルとなっていた。
ただ不思議なのは、ほんの百年前の、しかも王族と言う公的な立場の人間にもかかわらず、エミリア王女に関する史料は非常に少ない。
そのせいで果たして将軍と恋仲にあったのかどうか、王女に他に恋人はいたのかどうかなどの正確なところはわからないままでもあるのだ。歴史家たちの議論は未だに決着をみないし、将来においても曖昧なままに違いない。将軍ジョンに関しても王女の騎士となってからの史料には乏しいという。
まるで当時、秘密裏に何らかの圧力が掛けられたかのようだと陰謀論的な言及をする専門家は、少なくなかった。
「――……とまあ、大まかにはこんなところですね」
あの時代の一通りの出来事を時間の順を追って語り、中心人物たちの概要を説明し終えたアリアは、小さく一息つくと僅かな意外感をもってルークを見つめる。
一番幼いルークがその場で一番真剣で、一番悲しそうだったのだ。
「ルーク坊ちゃま……何もそこまで泣かなくても」
「えっあっ、泣いてないよ。ぼくは泣いてない! 胸が痛いだけだよ」
ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、ルークは恥じて慌てたように言い訳をした。男のくせにべそっ掻きだと思われるのが子供ながらに嫌なのだろう。袖口でごしごし何度も目元を擦るから赤くもなってしまった。
こんなにも過去の人物に感情移入したルークは、自分が思う以上に感受性が豊かで純粋で優しい心の持ち主なのだろうと思えば、アリアは彼の中の温かなものが自分の乾き切って凍え、ヒビさえ入っていた心に流れ込んで癒されていくような気がした。
急いで氷水を用意させ、ハンカチを濡らす。
「見ず知らずの人のために泣くことができるのは、とても尊いご気質ですよ。だからそんなに恥ずかしがらないで下さい。これはルーク坊ちゃまが誰よりもお優しい証拠なんですからね。私は誇りに思いますし、そんな坊ちゃまだから大好きなんですよ?」
赤くなった目元をハンカチで冷やしてやりながら、アリアは感じたままを告げる。
「私は、ルーク坊ちゃまに出会えて、あなたの乳母になれて、幸せ者です」
柔らかな声音のアリアはスミレ色の瞳をふわりと細め、花のようににっこりと微笑んだ。
周りのメイド達は初めて見る心からの微笑みに驚いて何故かちょっと頬を赤くしたものの、それ以上に真っ赤になっていたルークには誰も気が付く様子はなかった。何故なら彼は泣いて既に顔を赤くしていたし、皆、幼いルークはその時瞼の上にハンカチを押し当てられていたので見ることはなかったと思っていたからだ。
ほんの少しズラしたハンカチの下から見ていたなんて思わなかったからだ。
彼はいつになく動揺し、これまでも感じていたドキドキの正体に幼いながらも聡さ故に気付いてしまった。
(ぼくは、アリアを他の誰にもあげたくない。だからぼくの全部でアリアがどこにも行っちゃわないように頑張らないと……!)
ハンカチの下で決然と自身に課した覚悟。
黒い髪に薄紫の瞳の美しい乳母アリア。
彼女がルーク少年の初恋であり、その後十年以上、ずっと彼を苛む夢と現の二人の女性の片方――現実の方の相手だった。
ブライトン伯爵家の庭の小道。
整然と並ぶ花壇や生垣を横目にアリアは一人歩を進める。
ルーク自身感情が制御できないように泣いたせいか、あの後彼は眠気を訴え眠ってしまった。まさか歴史の講釈で泣かれるとは思っていなかったアリアは少し動揺していた。なので彼のお昼寝タイムに自身の休憩をと、気分転換も兼ねて庭を歩いていたのだ。
ざあっと一陣の風が吹く。思いもかけず強くて立ち止まらざるを得なかったアリアは、黒髪の前髪を弄ばれながら細めた両目で青天を見上げた。
あの頃から変わらないスミレの瞳は、今はない遥か彼方のどこかを見つめる。
それは今から約百年も昔のこと。
エミリアと言うお転婆姫が勇敢にも剣を振るっていた頃の話。
ジョンという青年が軍の一将軍として生きていた時。
そのジョンがこの国の王女エミリアの秘密の恋人だった頃の真実。
史実には決して載らない残らない、救国の王女と彼女の運命の騎士との話。
王女エミリアと将軍ジョンは、史実にもある通り国王命令で辺境へとドラゴン退治に出向いていた。
ドラゴンは悪しき者とされていて討伐するのは当然の感覚だった二人とその配下の精鋭たちは、地元民からの目撃情報通りに国境近くの深い山中でそのドラゴンを発見した。
ドラゴンとは遠い遠い異国では神聖なものともされていて、時に魔女や魔法使いと呼ばれる者たちが友と、共と、供とする獣でもあったのだけれど、この国のこの時代の大半の人間同様エミリアたちの常識の中にも魔法というものはほとんど存在せず、しかも人々の認識の低さ同様に魔法使いもいない土地だった。
緑が濃すぎて暗がりさえ作る程に草木が鬱蒼と生い茂り絡まり合った、地元民も山登りのベテランでもない限りはほとんど奥まで入らない山野。
その大きな剛体は自然の中に埋没するかのように存在していた。
ドラゴンは一体いつからそうしていたのか、初めからそこにある大岩のようで、何十年何百年とそこに体を横たえただ丸まっていたかのような、一種独特の時の経過と古さのような雰囲気を醸していた。
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