百年の恋は冷めずにこれから

まるめぐ

第1話 乳母アリア

 春先の野の原は多彩で、大小様々な季節の花が咲き乱れている。

 明るい緑の草原が風を受けて柔らかにそよぐと、若草の匂いがふんわりと辺りを包んだ。


 そんな夢の中で長く眩い金髪がゆるやかに踊る。


 白いドレスを纏い笑顔を向けて来る彼女はとても綺麗で凛々しくて、だけど少し照れているのかはにかんでいる。摘んだ野の花を一纏めにして、まるで騎士のように膝を突いてこちらへと差し出しているのは彼女なりの一種の茶目っ気だろう。


(本来なら差し出すのは僕の役目なのだし)


 苦笑しながらもこの逆転劇にのって、鎧を着た自分は剣ダコのある武骨な掌で恭しく受け取った。


 いつもこんな夢を見る度に思う。


 泣いたり怒ったりしているのだとはわかるのに、どうして――彼女の顔が認識できないのだろう。


 目鼻立ちや細部を見ようとしても、まるで逃げ水のように輪郭がぼやけるのだ。

 最も不可解なのは、顔もわからないのにこうも感じることだった。


 ――彼女は誰かに似ている、と。


 でも誰に似ているのだか、記憶の中にこんな繊細で見事な金の髪をした女性はいないのに。

 まるで王家の姫君のような髪色の彼女は何者だろう。彼女を見つめ深い幸福感に満たされている自分も誰なのだろう。


(……この夢は、何なのだろう?)


 けれどふとした疑問を浮かべた途端、いつも夢は唐突に終わってしまうのだ。

 そして今日も夢現の曖昧な気分のまま目が覚めた。

 記憶はあるのに、記憶がない。


 夢の中、自分とは思考回路も趣味も全く違った男は、夢の中での自分だ。一つの違和感もない感覚でそれは確信していた。


 けれどその中にあって自らのことだというのに素性だけはどうしても判然としない。

 また、彼女の正体も。


 ただ、着ている衣服が今より百年は前の時代のデザインだとは感じた。


 では果たしてその百年の過去に彼女は実在するのか?


 それもわからない。知りたいけれどわからない。調べてみても当然わかるわけもなかった。

 それでも、絶対に知っている誰かに似ていると思うのだ。

 そんな不可解な夢への疑問を悶々と抱えて、早十年以上。

 いや、物心ついた時には見ていた夢だから生まれてこの方二十年とも言えるだろうか。


(というか僕は気が多い男だったらしい)


 今日も自分は王都の雑踏の中を王立大学へと向かう。

 馬車を使わず徒歩なのは、仮住まいから割かし大学が近いことと、石畳の人混みの中に見つけたい人がいるからだ。

 自分はどこか無意識に夢の彼女を追いつつも、現実の別の女性にどうしようもなく惹かれている。

 夢の女性が誰に似ているのかさえわかってしまえば、この想いの対象者は更に増えるのかもしれないし、或いは逆にすっきりとして纏まるのかもしれない。

 本当に全く一体誰に似ているのか。


(女性の顔を忘れるなんて失礼、正直有り得ないけど、夢だから僕にはどうにもできないし、仕方がないか)


 この件に関して自分はどうかしている。けれどそれでもいいから想っていたい。


 そんな風に思う度にいちいち苦笑が零れ出る、ルーク・ブライトン青年なのだった。






「この国はつい百年ほど前までは隣国からの脅威に晒されていたのですよ。けれど隣国が我が国へと侵攻しようとしていた極秘作戦は当時の王国軍によって暴かれ、更にこの国の多くの人々の協力によって阻止されました。だから今現在私たちはこうやって平和に暮らしていられるのです」


 屋敷の三階に設けられた子供部屋で乳母の説明を聞くまだ幼いルーク少年は、説明に納得したかのようにこくりと一つ頷いた。


「でも戦争にならなかったのはどうして? 極秘の作戦を暴かれたら敵国は別の作戦を立てて侵攻してくるんじゃないの? 領土拡大がしたかったんでしょ?」

「それはですね。不可侵条約を結んだからです。隣国にとっては極秘作戦がばれたのは対外的にもまずかったようですよ。国家の面子とかもあったのでしょうね。結局は非を認め、局所的にでしたけれど起きてしまった戦闘の賠償をする旨も盛り込んでの条約が結ばれたわけです」


 若い乳母の言葉に少年は「ふうん、そうだったんだあ」と妙に得心のいった顔で手元の歴史書を覗き込んだ。

 六歳の彼は神童なんて呼ばれるくらいに物覚えも早く理解も的確だ。もう文字だってすらすら書けるし、分厚い本だって重さに難儀しながらも本棚から一人で取って来ては暇があれば眺めている。


 だからこそ、本来はわんぱく盛りの子供の世話を焼くはずの乳母は、まるで家庭教師のように毎日彼に勉学や礼儀作法を教授しなければならなかった。


 そして、彼女はそれができたのでこのように抜擢されているのだ。


「アリアは何でも知っているんだね。すごいや」


 自分なりに文章を呼んで知識をものにしたのか、少年が本から顔を上げて若い乳母を尊敬の眼差しで見つめる。

 彼の明るい木々の色をした綺麗な緑色の瞳には、年相応の幼さとそれとは違った大人びた聡明さがあった。

 乳母アリアは彼の猫の毛のようにやわらかな栗色の頭を撫でてやって少し控えめな笑みを浮かべた。


「ルーク坊ちゃまより長~く生きているからですよ。すごいのは坊ちゃまの方です。私が坊ちゃまくらいの頃はこんなにお勉強出来ませんでしたし。どちらかというと勉強嫌いで他の稽古事に逃げていましたね」


 貴族令息であるルーク少年は目を丸くする。


「アリアって勉強嫌いだったの? 本当? だってお父様よりもお母様よりもそれからお祖父様よりもいっぱい色んなことを知っているのに?」


 アリアは長い夜闇のような黒髪を後ろ一つにひっ詰めた自身の小さな頭を、少しだけ困ったように傾げた。


「確かに沢山のことを知ってはいますけれど、私の知らない物事だってたくさんありますよ。私には旦那様や奥様やそれこそ大旦那様のように領地を纏める仕事も屋敷の仕事もなかったので、その分他愛もない知識ばかりが積もってしまったのです」

「あーほらもーまたー。アリアは自分のことをいつも何でそんなに冴えないように言うのー? ぼくは凄いと思ったんだからエッヘンとして物知りですって偉ぶればいいんだよ」


 むくれた顔付きでジト目を真っ向から向けてきてアリアのために怒ったルークは、そんな表情でいてもなんて天使のように可愛らしいんだろうなんて思ってはいても、アリアは絶対に口には出さない。その代わりにスミレ色の瞳をゆるりと瞬き優しい少年に感謝した。


「ルーク坊ちゃまはお優しいですね。自分を卑下した私のために叱って励ましてくれるそういうところは、昔の知り合いに少し似ています……」


 心の温かさに触れ、ぐるぐるきつく巻いていたはずの気持ちの縄が弛んで、思わず感情が漏れ出た。けれど普段あまり表情を変えない自分がこの時どんな顔をしているかなんて彼女は意識もしていない。


「……べ、勉強終わりっ。外で遊んで、ぼくのアリア!」


 何故かうろたえて乱暴に席を立ったルークはアリアにぎゅっと抱きついて、甘えたように頭を擦り寄せてきた。急に機嫌を損ねたのだろうか。ここのところそんなルークは初めてではないのであやすように頭を撫でつつ、手を引っ張られて促されるままアリアも席を立って子供部屋の外へ出た。


 起床や就寝、食事など一応は時間に決まりがあるけれど、ルークの年で歴史など二歩も三歩も進んだ勉強までしているとなると、通常の子供のようにはいかない。そういうわけで家族とルーク本人の希望によりこの家では遊びや散歩の時間の中にも好きに勉強の時間を取り入れている。

 ルークが望めばいつでも遊びにも勉強にもその時間は変わるのだ。まだ午後のお茶の時間には余裕があるのでアリアは一緒に芝や植え込みの立派な庭先に降りると、機嫌を直し駆けたり歩いたり木に登ったり忙しい無邪気な少年の世話を焼いた。


 アリアは誰が何と言おうと、ルークの正式な乳母だ。


 彼が生まれて間もなくこの屋敷に雇われた。

 もうここに来て六年が過ぎている。


『まだ十代の半ばか後半という年頃で、貴族のしかも格式高い歴史ある名門貴族の子供の乳母になれるなんてね、幸運にも程があるよ。肝心のお乳もやれないって言うのにさ』


 雇われて早々はやっかんだ周囲がそんな風に囁いていたのを覚えている。

 確かに未婚で授乳期の子供もいないアリアに母乳はやれないのでその役は他にいたし、子供部屋関係で普通新人がなれるのはせいぜい子供部屋の掃除などの雑用を担当する子供部屋付きメイドか、良くても乳母を補佐するメイド辺りだろうからだ。


 しかし経験も浅そうな年若いアリアが乳母になれたのは、運というよりもアリア自身の有能さによるところが大きかった。どこの家の家庭教師にもなれるだろう偏りない知識量と上流階級の完璧な発音、複数ヵ国語を流暢にも話せる語学力。そして貴族令嬢も顔負けの優雅な礼儀作法を身に着けているという点で、他の乳母候補よりも抜きん出ていたからだ。

 この時代この国では、大抵の乳母は労働者階級出身が多く、ある程度の礼儀作法はメイド時代からの経験を積んで覚えていても言葉までは完璧とは言い難い。

 故にこそ、名門貴族の子供の躾という観点から、子供に発音の癖がうつらないように田舎や下町訛りのない発音は大事だったし、アリアは若い娘には珍しい程生真面目で落ち着きがあり、どことなく寡黙な武人を思わせる厳格な雰囲気を持っていた点も、採用される要素だったかもしれない。


 この素養を見る限り、アリアが労働者階級の娘ではないと気付く者はいたけれど、アリアを招いてこの屋敷で雇うように薦めたこの屋敷の大旦那、つまりルークの祖父はアリアの素性を他者に詮索されるのをとても嫌った。


 アリア自身も答えなかったので、彼女がどこの誰なのか実際に知る者は極々一部の人間だけだった。





「ルーク坊ちゃま、そろそろお茶の時間なので部屋に戻って着替えましょう」


 散々アリアと二人で遊んだルークは満足したのか、呼びかけに素直に応じて観察していた蟻の行列から駆け戻ってくるとアリアの手をぎゅっと握った。

 一丁前にルークはエスコートでもするように得意げに部屋までアリアの手を引いていくのだ。外に出たり戻ったりする時はいつもこんな感じで、これは別にアリアが教えたわけではなかったので、ルークの気質なのだろうと彼女は思う。

 何だか将来は女性からの熱視線が尽きない社交界の寵児になりそうだと、内心でくすりと笑った。


「あっ、今アリア笑った!」

「そうでしたか?」

「笑ったよ。くすりとしたでしょ。聞こえたもの。ねえもう一回笑ってみて。ぼくちゃんと見てなかったんだ。お願い」

「そう言われましても……どうしましょうか………………にこっ」

「……やっぱもういいや」


 急に笑えと言われても、意識せずに出た笑みを再現できる自信はアリアにはない。無理に頬を吊り上げて笑い顔を作ったら、案の定ルークが残念な眼差しで首を横に振った。


「アリア戻ろ」


 慰めのつもりなのか一度ぎゅっと腰回りに抱き付くと、再びアリアの手を上機嫌に引いて歩き出す。切り替えの早さにちょっと振り回されてしまったりもするけれど、アリアは気を取り直して後に続いた。

 ルークはとてもとてもアリアに懐いている。

 散歩なども子供部屋付きのメイドと行ってもいいはずなのに、決してアリア以外とはしようとしなかった。

 多少行き過ぎているきらいはあるけれど、乳母とは幼少期の子供にとっては両親よりも余程身近な存在なのだ。四六時中一緒にいるのだからそれはこのご時世まあよくある依存だけれど、これからルークが成長していくにつれ世間を知って行けば、まだ曖昧に感じているだろう階級の違いを意識し、乳母の自分よりも気になって手を握りたい女性だって出てくるはずだとアリアは思う。


(きっとそれまでには私もここからいなくなっているけれど)


 子育てが専門の仕事である乳母は、例外はあれ期限付きの使用人。

 アリアの場合、ルークが寄宿学校に入るようになればもうここでの仕事は終了だ。


 或いはもっと早くにその時がくるかもしれない。


 その際にはアリアを雇い入れたここブライトン伯爵家の主人から紹介状を書いてもらい次の仕事場に移るのが一般的だろう。中には屋敷に残り家政婦に昇格したりする者もいるにはいるけれど、アリアにはそんな野心はない。むしろ屋敷の人間にしばらく会わなくて済むような遠方に働き口を見付けたいと思っている。


 おそらくは何も言わずとも、現ブラィトン伯爵であるルークの祖父がそのように取り計らってくれるだろう。


 遠くはないそんな未来を少し寂しいと感じる心にそっと蓋をして、アリアはルークの着替えを手伝う。土や草の汁で汚れた衣服は後でメイドに洗濯へ回してもらうので編み籠に一纏めにした。

 すっきりと綺麗な白いシャツに着替えた愛らしい少年は午後のお茶の時間が始まると、


「ねえアリア、さっきの歴史の本ここに持ってきていい?」


 そう主張した。


「途中だったから気になるんだよー。歴史の続きを知りたいよアリア。ねえい~い~?」

「ルーク坊ちゃま、今はお茶のマナーを学ぶ時間ですから、それはなりません」

「お茶のマナーは全部習ったから覚えたよ。アリアが教えてくれたことは一通りできるでしょ、ぼく」


 確かにそうだった。神童たるルークは物覚えが恐ろしくいいのだった。アリアが全く覚えていない小さなことでも詳細まで覚えている。

 アリアとしてはその記憶力が脅威であり不安に思う時もあったりするのだけれど、今はそんな不確実な懸念に気を回す必要はない。


「駄目です。今はお茶の時間です。このテーブルの上にあんな分厚くて重い本を置いたらそれこそどうやってお茶を飲むのですか?」

「うー、でも読みたい読みたい読みたーい!」

「後でも読めるのにどうして今そんなにも読みたいのです?」

「早く知りたいからだよ。だってぼくは史実を知らないから、だから読みたいの」


 行儀悪く椅子の上でじたばたと両脚を振り回すルークは、いつになく我が儘根性を発揮している。こうも強情なのはあまりないので余程続きが気になっているのだろう。百年も前の歴史を物語か何かだとでも捉えているのだろうか。

 百年前の小競り合いも極秘作戦の阻止も実際にこの国に起こった暗い過去なのだと知るアリアは、絵本の中のように思うのだろう子供の無邪気さを羨ましくも腹立たしくも悲しくも感じ、空虚さえも感じた。

 とは言っても、ルークには一切非はないのだけれど……。

 ほとんど八つ当たりだ。アリアの胸に自己嫌悪にも似た疼くような申し訳なさが湧いた。


「読みたい読みたい読みたいーッアリアお願いーッ」


 駄々をこねるルークは退かないだろうとわかったのでアリアは譲歩を提案する。


「仕方がないですね。けれど本ではなく、私が史実をお話ししましょう。もちろんきちんとお茶を飲みながら、ですよ。それでも宜しいですか?」

「うん、全然いいよ。やったあ! アリアのお話だあ! アリア大好き!」


 否やはなかった。どころか予想外にも満面の笑みで感謝されて椅子から立ったルークに飛び付かれてしまったので、不意打ちを食らった彼女はルークの体重ごとよろけて尻餅を着いてしまった。周囲に控えていたメイドたちが慌てて駆け寄ってくる。


「うわわっアリアごめんね! 大丈夫っ?」


 メイド達に助け起こされるルークは自身も驚いたのだろう大きく目を瞠っていたが、自分の身よりアリアを心配して真っ先に謝ってきたのにはすっかり毒気を抜かれ、行儀が云々と怒る気も失せてアリアも一つ溜息をつくに止める。


「私は大丈夫ですよ。ルーク坊ちゃまこそ痛いところはございませんか?」

「ぼくは全然平気。だってアリアを押し倒しちゃっただけだもの」


 それなら良かったとホッと一安心したアリアは、身を起こしつつ苦笑の気配を滲ませる。


「全くもう、ルーク坊ちゃまは……」


 その続きに何を繋げるつもりもなかった呟きだけれど、その顔はルークがようやくはっきりと見たアリアの笑った顔の一つだった。


「――っっ、アリア笑ったよね!」


 何やら心底嬉しそうに目を輝かせて興奮して部屋の中を飛び跳ねるルークは、アリアにとって不可解な生物にすら見え、子供だってそう単純ではないのだとしみじみ実感させられる瞬間でもあった。

 未だに読めないところのあるルークの思考は、アリアには新鮮でもあり面白いと興味を持つには十分なのだった。

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