第4話 老ドラゴン

「よもや再会するとはな、人間の娘御よ。ふむ、これも何かの縁よの。ところで、死に関して思い出したことがあるのだが」


 老ドラゴンはエミリアが瀕死だろうと関係ないのか、老人が世間話でもするような緩慢な口調でそんな無神経発言をかました。

 だからと言って人ではないドラゴンに、いちいち人の気持ちを考えるよう説教したり腹を立てたりするエミリアではない。それ以前にそんな気力体力は既にない。


「……なん、ですか?」


 けれどそれどころではないはずなのに律儀に会話に付き合うエミリアは、本音を言えば声を出すのさえも億劫だ。ただもしもここで朽ち果てるなら、最後の会話相手がこの老ドラゴンというのも酔狂で面白いと思っていた。


「うむ。取り替えるのだ」

「それは、どういう……?」

「お主の死とこのわしの呪いを取り替える。さすればわしは死ねるのだよ。今なら取り替えてもよいぞ?」


 次第に朦朧としてくる意識下でエミリアは言葉を聞き、それは悪くない取引だと考えた。

 嘘か本当かはこの際どうでもよかった。そこまで考えている余裕ももうなかった。


「それは、いい、ですね……」

「では、応じてくれると言うのかね? 本当に? 一分の後悔もなく?」

「ふふっ、後悔、は今はわかり……ません。けれど、ええ、もう私には、王女として、国し……か、愛し護るべきものがないの……だから、せめて……国だけ、は……」

「ふむ……」


 憐れみか国を思う者への感心か、老ドラゴンが次に何を呟いたのかはもう意識が霞んで聞き取れなかった。きっと契約成立とかそんなことを言ったのだろう。


「――あ……? 私……?」


 ハッと朝寝坊でもした性急さでエミリアが目を開けると、老ドラゴンは最早老ドラゴンではなく、ただの大きな岩に成り果てていた。

 いや元から大岩だったのかもしれない。

 夢だったのかもしれない。

 全てが。

 そうだ、夢ならどんなにか……。

 そう愚かに思いもしたけれど、現実は無情でエミリアをそんな優しい逃避には浸らせてもくれなかった。

 敵の追撃兵が岩に背を凭れるエミリアを発見し、嬉々として剣を抜いたのだ。


「ああもう……ままならないわね」


 息を吐いて大きく吸う。あたかも古い自分を振り切って新しい自分を取り込むような前向きさで。

 不思議と体に力がみなぎる彼女は戦闘に身を投じ、その後たった一人で見事に敵の隠密部隊を壊滅させた。


 この頃にはもう自分の体の異変に気付いていた。


 負っていたはずの酷い怪我は一切がなくなっていて、たとえ新たな怪我を負っても立ちどころに治ってしまう。

 やはりドラゴンとの取引は現実で、自分はかのドラゴンの呪いを引き受けてしまったのだと悟った。


 つまりは、死ねないのだ。


 けれど今は体の件は後回しで考えることにして、山中で奇跡的に生き延びていた配下たちを見つけると、彼らを連れて王都へと急ぎ帰還した。敵本陣は待ってはくれないのだ。

 そして見事に隣国からの侵略は防がれ、彼女は一躍時の人となった。


 後に開催された王女と生還者たちのための凱旋パレードは華々しく、パレードの最後まで大歓声に包まれた。

 けれど、自分を賛嘆する自国民たちの顔を眺めながらエミリアは思っていた。


 通りを埋め尽くす程に大勢の人間がいるのに、その中に自分の会いたい人はいない、と。


 ジョンやその他死んだ仲間を手厚く弔う猶予もなく、連れても帰ってやれず、最優先で危機を伝えに戻ると決断したこと自体に間違いを感じてはいない。

 しかし、一国の王女、公人としての自分は評価する反面、エミリア個人としては猛烈な後悔を感じていた。

 最後の最後まで護ってもらうばっかりだった。

 エミリアだって稽古を重ねた自負がある。自分だっていざと言う時は……と思っていたのに、全部が驕りだった。

 恋人を犠牲にした。

 果たしてジョンは人生の今際に何を思っただろう。こんなはずじゃなかったと思っただろうか。それとも思う間もなかっただろうか。

 挙句は、一時的な措置と簡単に土を掛けただけにした墓とも呼べない墓に置き去りにしたジョンや部下たちを引き取りに行ったのは自分ではない人間だったのだから、薄情な恋人だと彼女自身でもそう思う。精神を苛むのも無理はない。自分が行きたいとのエミリアの申し出は、国王からあっさり却下されていたのだ。


(こんなことなら、隠さずジョンと交際していると公言してしまえば良かった……っ)


 称賛の声と沢山の花が舞う中、飾られた馬車の上から万民に手を振り微笑みを貼り付けながら、エミリアは必死に叫び出したい衝動と、それと相反する空虚さに苛まれていた。


 一方、異常なまでの治癒能力、それも次第に苦悩を齎した。


 この体の秘密がバレればどうなるだろう。国民は自分を魔物と呼び忌み嫌うのかもしれない。国の安定のためにも王家の立場を悪くするわけにもいかない。


 そんなわけで数年のうちに国民の前に出なくなった彼女は、悩んだ末に父である国王に真実を打ち明け、自分に関する一切の物をそれとなく回収し焼かせてしまうように頼んだ。

 エミリア王女に関して歴史資料がほとんどないのはそのためだ。

 ただ一点、創作物が実は正鵠せいこくを射ていたのは運命の皮肉としか思えない。

 そうして彼女は表向き原因不明の死を遂げる。


 ――偽りの死だ。


 彼女の望み通り、時と共にエミリア王女の実像は人々の記憶から薄れていった。

 不死身に加えて不老なのは、その後しばらくした隠棲生活で知った。

 また、生前の父王の計らいでエミリアの秘密の共有者たちが選ばれ、限られた彼らは長年エミリアをサポートしてくれている。


 それから百年、代替わりはあれ王女の支援者と呼ばれるようになる存在たちだ。


 支援者たちは決して自らの役割を公にはしない。


 エミリア王女の生存は、国家レベルの秘密なのだ。


 ――その当代の一人がルークの祖父ブライトン伯爵であり、そしてその役は世襲ではない。


 だからルークがこの先エミリア王女の秘密と彼女の現在を知る機会はないだろう。


「でも、それでいいんだわ」


 アリア――かつてエミリア王女と呼ばれていた娘は、昔から変わらず、そしてこの先も変わらない姿でそこにあるのだろう空から目を外した。

 未だに思い出すと滲んでしまう涙を指先で掬うと、気分を切り替えるように両の頬をそれぞれの手でむぎゅーっと押して挟んだ。


「んーッ、ふう。弱い心は封印! よし気分転換も終了。次のダンスの授業への気合いも十分。……にしても私、あとどれくらいこの屋敷に居られるかしら」


 大事な可愛いルークを妙なことに巻き込むわけにはいかないし、自分はもっと別れに慣れなければならない。


「これでも、少しは慣れたと思ったんだけど……私もまだまだね」


 別れる時を想像すると心細くなる。何度とそんな気持ちを味わうのも、愚かにも安易に老ドラゴンの言葉に乗ってしまった自分への罰だ。

 やはりドラゴンは人智を超え、地上の理はどうあれ、少なくとも人の理からは外れている。

 きっと自分はあの老ドラゴンと同じように、自分が何者かすら覚えているのも億劫になるほどこの世を彷徨うのだろう。

 それはどれほど孤独で恐ろしくて精神を病んでいくのだろうかと彼女は身を人知れず震わせる。


「まだ百年足らずでもしんどいのに、それが何百年、ううん何千年と続くなんて……」


 想像もできないし、まだそこまでの覚悟も備わっていない。

 しかし一つだけは確実に断言できる。


「たとえ自分すら忘れてしまっても、ジョンだけは忘れないわ」


 魂は輪廻する、とそう言われる。


 それが本当ならきっといつか彼の生まれ変わりとも会えるだろうか。

 会ったら自分は彼だと気付くのだろうか。


「ジョンとは姿が違うだろうし、わからないわよね。でも、直感とかで気付けたらそれはそれでロマンチックかも…………なーんて気休めを言ってみたり」


 アリアははふぅと小さく息を吐いた。

 転生者なんて最早別人だ。愛した相手じゃない。


 逆に、彼の生まれ変わりに前世の記憶でもない限り、アリアの正体にも気付くことはないだろう。


 そして普通、人はそんな記憶なんて持ち合わせていない。そもそも自分だってそうだ。自分の前世があるのかすらわからない。

 それでもいつか会えるのなら、彼の生まれ変わりに会ってみたいとは思ってしまった。

 永遠を生きるかもしれない自分にとって、彼の魂との邂逅は癒しと慰めにはなるだろう。

 他の過去の知り合いのように、たとえ川面の泡沫のようにあっという間に過ぎて手の届かない所へ消え去っていくとしても。


「ふふ、私も大概ね」


 苦笑を漏らし一抹の寂しさを胸に押し込めると、いつもの乳母の顔で屋敷へと爪先を向けた。

 これでもこの屋敷に来て随分と表情の豊かさが戻ったと思う。

 コロコロと表情の変わる無邪気な少年のおかげだ。


「さーてと、そろそろ坊ちゃまは起きたかしら?」


 別れの時が来るまでは、今日も精一杯の愛情で以てルーク坊ちゃまの相手をしようと意気込んだ。






 乳母と言ってもアリアは別にルークに乳をあげたわけではないので、乳母というよりは小さな弟を世話している感覚に近かったかもしれない。

 実際にエミリア王女として生きていた頃には弟もいて可愛がっていた。


 そんなアリアとルークの関係は概ね良好だった。


 ただ恋する少年ルークにとって悲しいことには、アリアに全くその気がなかった点だろう。まあ彼女がショタでもない限り脈があるわけもなかった。

 最も親密な位置に居て散々(子供なりの)好意を示してきたのに、暖簾に腕押し、糠に釘、馬の耳に念仏等々、つまりは無駄な一方通行の極み。それを肌でもろに感じ取っていたからこそ、常々少年は「早く大きくなりたい……」と珍しく陰のある表情で口癖のように言っていた。


 アリアはアリアで、ブライトン伯爵と話を詰め、ルークには内緒で着々と転職の準備を進めていた。


 何故なら、アリアが少しでも次の職場への展望や転職を臭わせると、途端にルークの機嫌が悪くなって、しばらく……と言っても半日にも満たなかったけれど、口も利いてくれなくなったのでその手の話は禁句に等しくなったのだ。

 されど、どんなに目を逸らそうと人の上に等しく時は流れるのだ。


 何年かの後、その時は唐突に、そして無情にも、当時間もなく十歳になろうとしていたルークに訪れた。


 アリアは手紙だけを残して屋敷を、ルークの元を去った。

 顔を合わせての挨拶もしないで去る無礼への心からの謝罪と、ルークと重ねた日々が如何に幸福だったかということが伝わるように、至極丁寧に書き記してあった。

 知られれば絶対に止められる。

 だからアリアは伯爵との間で話が決まってから去る前日まで、平素と全く変わらない態度で接し続け密かに荷物を纏めたのだ。


 計画通りおよそ十年で屋敷を去ったアリアの次の奉公先は、希望通り片田舎の小さな町。そこで細々と子供たちの教師を務め、二年後更に別の地へと旅立った。


 当初の予定ではここにも十年といるはずだったのが二年とかなり早い転地だったのは、どうしても乳母の行方を捜したいルークから居場所を嗅ぎ付けられそうだったからだ。


 アリア不在の間の数多の教師をしても神童の評価が変わらなかった彼の卓越した記憶力判断力に加え、特定の相手への嗅覚にも似た類い稀なる勘の良さも一役買っていた。


 彼の祖父ブライトン伯爵のように、アリアの、つまりエミリア王女の秘密を引き継ぐ立場にある者以外に秘密を知られることは避けたい。


 伯爵から密かにルークの動向が怪しいのでよくよく身辺には慎重に行動するようとの手紙をもらった時は、大いに焦ったものだった。


 いくら自分を慕ってくれていても、ルークにはもう会えない、会わないと決めていた。

 会えば彼はアリアの異常さ異質さに間違いなく気付いてしまうのは、彼の優秀さからして疑いの余地はない。

 何年と世話をした子供や教え子の成長を近くで見られないのは些か寂しいけれど、それが自分の選択した運命なのだと彼女は割り切っていた。


 ルークの捜索の手から逃れ隠れるように過ごして短いスパンでの何度目かの転地の折、これ以上ブライトン伯爵と連絡を取るのはかえって危険とも判断し、アリアはしばらく連絡を途絶して身を隠す旨と今までの謝意を記した手紙を送った。


 この先十年二十年と隔たりがあれば、現伯爵とはおそらく今生の別れとなる手紙を。


 極力自力で生きていくつもりでいるし、これまでもそうしてきた。ルークの乳母になったのはブライトン伯爵のたっての頼みだったので引き受けたのだ。


 先々何事もなければ当代の支援者たちやその後任にさえも一生会わないかもしれない。


 むしろその方が彼女にとっても好ましい。


 実を言えば、彼女は要らぬ秘密を背負う必要のない誰かにその役割を継がせ責任を負わせるのを、将来的には終わりにしたいと思っていたのでいい機会だった。

 本当に誰も素性を知らない何でもない存在としてこの世界に生きていけるのならそれが最善。何でもない一庶民として世間に紛れて生活していれば、下手な組織に追われる面倒もないだろう。


 そうやって、彼女は決心して支援者たちから距離を置いた。その任を解かれ喜んだ者腹を立てた者悲しんだ者と反応は人それぞれ異なるだろうけれど、スッパリ連絡を途絶えさせた。


 彼女の方から連絡を入れない限り、どこへ行ったのかは把握できない。


 ――だからアリアがどこでどうしているのか、今は誰も知らなかった。

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