余命七日
その事件の後、九十九君は一躍ヒーローになった。
テレビの全国ニュースにもなったし、新聞にも載った。警察から表彰状ももらった。
九十九君は他の学年どころか他校からまで見に来る人が出るくらいの有名人になってしまった。
だけど、彼本人はというと、それで調子に乗ることもなく、かといって変に慎重になることもなく、いつも通りの明るく元気な九十九君だった。
私は、彼の病気が嘘ではないかと疑ったことを後悔した。
包丁を恐れずに彼が飛び出すことができた理由は、明白だった。
九十九君が、死ぬことを恐れていなかったからだ。
自分に未来がないと知っていたからだ。
突然ばらばらに吹き飛んでしまうくらいなら、包丁で刺された方がまだましだ。きっと、九十九君はそう考えたんだ。
笹川さんが九十九君に告白したけどフラれた、という噂を聞いた。
九十九君は、他に好きな人がいるんだと断ったらしい。
きっと、それは
あんな可愛い笹川さんの告白を断る理由なんてないし、そもそも九十九君は笹川さんの危機だからこそ、あんなにも勇敢に飛び出したのだろうから。
九十九君は、あと少しで自分が死ぬということを知っている。笹川さんを悲しませるわけにはいかない。
だから、断ったんだ。
「百川さん」
もうすぐ冬休みというある日の放課後、九十九君に声を掛けられた。
「今日、一緒に帰らない?」
「え?」
「駅まで一緒に帰ろうよ」
九十九君は笑顔で言った。
「ね」
「いいけど……」
私たちは連れ立って学校を出た。九十九君は、遠回りして帰ろう、と言って駅とは違う方向に歩き出した。
九十九君が私を連れて行ったのは、私が女子サッカー部だったころにはよくランニングをした、河川敷の道だった。
冬の太陽はもう川の向こうに沈みかけていて、河川敷のグラウンドには白い照明が灯っていた。
「ここを女子と歩いてみたかったんだ」
はしゃいだ声で、九十九君は言った。
「ここってうちの高校のカップルがよく歩いてるんだよ。知ってる?」
「うん、まあ」
部活のランニング中に、よくうちの制服を着たカップルとすれ違っていた。
その当時はそんなの全然羨ましいとも思わなかったし、そっち側に行きたいとも思ってなかったけど。
「……そういえば百川さん、この前走れたでしょ」
「え? ああ……あの日のこと?」
刃物男が学校に侵入して暴れた日。私は九十九君に駆け寄った。と言っても、それはごく短い距離のことだ。
「膝は大丈夫?」
「うん、平気」
「よかった」
九十九君は微笑む。
「百川さん、ほんとは走れるんだね」
「走れるっていうか……」
怪我をする前のようには走れない。それは事実だった。
だけど、全く走れないわけじゃない。多分。
身体ではなくメンタル面の原因が大きいと、お医者さんも言っていた。
走るのを怖がっている、と。
それは確かだった。
だって、本当に怖かったから。
急に膝が自分の身体じゃなくなったみたいに言うことを聞かなくなって、力を失って、ぐにゃりと倒れてしまったときのあの感覚。
自分の全てを奪われるようで、本当に怖かった。
また走れる? でも、もしもう一度ああなってしまったら?
その時は、歩くことすらできなくなるかもしれない。
それが怖かった。
どっちにしたって、もう今までのようなプレイはできないことは確かだった。
だから私は、サッカーを辞めた。
「走れるんだよ」
九十九君が言った。
「俺、あの時すごく嬉しかった。ああ、俺がこの世界に生まれてきた意味があったって、そう思った」
そんな大げさな、と思ったけれど、九十九君の命があとわずかだということを考えると、そうも言えなかった。
歩きながら九十九君は、河川敷のグラウンドでサッカーをしている小学生くらいの子供たちに目を向けていた。照明がその顔を白く照らしていた。
「俺、ここで結構何回も百川さんとすれ違ってるんだけど、覚えてる?」
「え?」
私はちょっと慌てた。
全然記憶になかったからだ。
「百川さん、よくランニングに来てたでしょ」
「あ、うん。でも一年以上前だよ。サッカー部だった時のことだもん」
「俺、いつもあの辺に座って待ってたんだ」
九十九君は河川敷へ下りる階段を指差した。
「で、女子サッカー部がランニングに来ると何気ない顔ですれ違ってた」
「どうして……」
「百川さんとすれ違いたかったから」
九十九君の顔は真剣だった。冗談を言っているふうではなかった。
「そこから何か始まるんじゃないかって、そう思ってたから」
「え……」
「まあ、何にも始まらなかったけどね」
九十九君は表情を緩めた。
「ごめん」
何でか分からないけど、私は謝っていた。
「全然、気付いてなかった」
「当たり前だよ」
九十九君は明るく笑う。
「何にもしないで偶然を待ってたって、何も起きるわけないんだ。そんな当たり前のことに気付いたのは、病院で余命宣告を受けてからなんだけどさ」
九十九君が私を見た。
「だから、ちゃんと動こうと思った。今まで何となく逃げてきたこととかほったらかしてきたことに、全部真っ正面から取り組もうって思った」
九十九君の話を聞いているうちに、私はなんだか胸が苦しくなってきていた。
うまく息が吸えなかった。
「俺も中学までサッカー部だったんだ」
「うん。知ってる」
私は頷く。
「この前聞いたから」
「あ、そうだっけ」
九十九君は、ばつが悪そうに笑う。
「高校でサッカー部に入らなかったのは、別に何か理由があったからじゃないんだ。部活に入ると忙しいから、高校はのんびり過ごそうって思ってた。毎日授業が終わったらすぐに家に帰って、三年間だらだらしようって」
そのせいなのかな、と九十九君は言った。こんな病気になったのは。
「時間って有限だったんだよな。だから、生きてるうちに一番やりたかったことをしようと決めた」
「一番やりたかったこと……」
私もおずおずと九十九君の顔を見た。
「……って、何?」
「俺、わがままで自己中だからさ」
九十九君は笑顔で言った。
「忘れてほしくないと思った。好きになった子に、ずっと俺のことを忘れないでいてほしかった。俺が死ぬとき、その子にめちゃくちゃ泣いてほしかった。だから、自分はもうすぐ死ぬくせに、その子に俺のことを好きになってもらおうと思った」
九十九君は、足を止めた。
私が立ち止まってしまったからだ。
胸が苦しくて、どういう顔で九十九君を見ればいいのか分からなかった。
九十九君は穏やかな声で続ける。
「でもどうすれば、ただのクラスメイトとは違う目で俺を見てくれるんだろうって思った。一生懸命考えて、俺にはこれしか思いつかなかった」
九十九君は自分の左腕の腕時計を私に見せた。そこに表示されている日付を指差す。
12月18日。
「俺の余命はあと七日」
九十九君は静かに言った。
「自分の秘密を、百川さんにも共有してもらうこと。サッカー部を辞めてから人を避けてるように見える百川さんに、少しでも俺のことを考えてもらうには、自分の病気を利用するしかないと思った」
私は九十九君のことを、すごくいい人だと思っていた。
笹川さんを悲しませないために、九十九君は告白を断ったんだって。
だけど、違った。
九十九君だって、聖人君子じゃなかった。
九十九君も、自分の計算で動いていた。
けれど、その事実が私には全く不快ではなかった。裏切られたとも思わなかった。
不意に、ぽん、と足元に軽い感触があった。
サッカーボールが転がってきていた。
「すいませーん」
河川敷のグラウンドで小学生が手を振っている。
「取ってくださーい」
どうしようかと思う間もなく、
「蹴り返して、百川さん」
九十九君がそう言って、一歩退いた。
「俺、見たい」
私はためらった。
足元のボールを見て、それからもう一度、九十九君の顔を見た。
九十九君は小さく頷く。
「余命あと七日の同級生の頼みだと思って」
と九十九君は言った。
「ね、いいでしょ」
私は息を吸った。
「九十九君」
「ん?」
「あのね、九十九君の余命があと三日だって一年だって、たとえ百年だとしたって、九十九君が見たいって言うなら私、見せるよ」
「え」
私は足先でボールをちょんと蹴り出すと、踏み込んだ。
足を振り抜くと、スカートがふわりと翻った。
こんな風に自分の足を使うのは、本当に久しぶりだった。
足は、まだ私の命令通りに動いてくれた。
きれいな放物線を描いて自分の足元に戻ってきたボールに、小学生が「すげえ!」と歓声を上げた。他の子たちからも拍手が上がる。
「だから、もう言わないで」
私は九十九君を見た。
「余命が何日とか。九十九くんの価値は、そんなところにはないよ」
九十九君はしばらく黙っていた。
それから小さな声で、
「ありがとう」
と言った。
「百川さん、24日の終業式の後、俺に時間をください」
グラウンドの照明から顔を背けた九十九君の表情は、私には見えなかった。
「そのときに告白するから。返事は、百川さんの思った通りでいいから。同情とかは、無しで」
九十九君はそう言うと、ぺこりと頭を下げ、走り去っていった。
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