Ⅴ-Ⅶ 大崎五樹



*一二月二四日 日曜日 夢



「この教会、俺が一番に見つけたとこなんだぞ!」

「そんなの知らないよ! 『しょうこ』あるわけ?」

 薄曇りの、今にも雪が降り出しそうな空。

 冷たい風に、木々がまるで大きなお化けのように揺れていた。

 ここは、街の隅にある森。

 そこにある小さな教会の入口で、対峙した小さな綾人が、俺を睨み返してくる。

 ああ……これは、綾人と初めて会った時。

 小学校に入る少し前の記憶だ。

 ……いや、正確には初めてでは無かったのだが。

 そのことに気付くのは、もう少しだけ後のことだった。

 新しい家に引っ越したばかりだったが、すぐに近所の探索にも飽き、秘密基地である森の教会に通うことが日課になっていた。

 家の近くの公園は、仲のいい親子連れで溢れていたため、居づらかったというのもここに来る理由の一つだった。

 この辺りは土地勘もあったので、子供の足でも問題なく辿り着けた。

 もちろん今とは比べ物にならないくらい時間はかかったわけだが、買ってもらったばかりの自転車が俺をどこまでも連れて行ってくれるような気がしていた。

 母さんは夜にならないと帰ってこなかったし、父さんにはいつも友達と遊びに行くと言っていたため、特に心配されることはなかった。

 その日もいつも通り愛車に乗り、日が暮れるまで遊ぶ予定だったのに――――そこにぽつんと、同じくらいの年齢の子供が立っていたのだ。

 そして、冒頭に戻る。

 俺だけの秘密基地に侵入する人物を、俺は許すことができなかった。

 それは綾人も同じだった様で、突然現れた俺に警戒心剥き出しで向かい合う。

 しばらくの間どちらかが山を降りないか探り合う、膠着状態が続く。

 その睨み合いを終わらせたのは、綾人の方だった。

「おおさきいつき……」

「?」

 なんで名前を呼ばれたのか分からなかった。

 俺の記憶の中にこんなちんちくりんはいなかったからだ。

「おぼえてないの……?」

 綾人は小さく呟くと、不機嫌な顔のまま言葉を続けた。

「ボク……となりの家の、えと……月島、綾人」

「月島……?」

 なんとなく、聞いたことのある名前だと思った。

 そしてそれを聞いたのはつい最近のことだ。

「あ」

 そして俺は思い出す。

 うちのすぐ後に隣に引っ越して来た一家で、一度だけ家に挨拶に来たことがあったことを思い出した。

 といってもその時は後ろで一人、つまらなそうな顔で、そっぽを向いているコイツを見た程度だったが。

 全く仲良くなる気配もなくその場は終わったのだが……まさかこんな場所で再会するとは。

「おもいだした?」

 初めて会った時と同じ、愛想のかけらもない顔で俺に問う。

 初期の綾人って、こんなに無表情だったんだな。

「いや、全然」

 コイツに言われて思い出したのも癪だったので、わざと意地悪を言う。

 しかし。

「ウソ。ホントはおもいだしたんでしょ」

「…………」

 あっさり見破られていた。

「なんでそんなこと分かるんだよ」

「べつに、なんでだっていいじゃん」

 この当時から、考えていることが顔に出ていたのだろうか。

 綾人はフンと顔を背け、すぐ横にあるベンチに腰掛けた。

 大人用のため、地面に届かない足をブラブラとさせている。

 小綺麗な洋服に身を包んでいるが、両膝にはべっとりと泥がついていた。

 きっとここに来るまでに何度か転んだんだろう。

 ドジなとこは昔から変わらない。

「ったく……」

 俺はポケットから、いつも持たされているハンカチを取り出す。

 水の代わりに、地面に少し積もった雪をハンカチにつけ、その部分を軽く拭いてやった。

「…………」

 綾人は何も言わずそれを見ている。

「よし、こんなもんか」

 粗方綺麗になったので、泥のついたハンカチをポケットに戻した。

「なんでそんなことするの」

 綾人は不機嫌なまま言う。

「したいと思ったから」

 思ったことをそのまま返してやった。

「ほっとけないだろ、こんなんになってたら」

「…………」

 綾人は納得いかない顔をしていたが、コイツなんかに見返りを求めるわけがない。

 保育園にはいないタイプの人間に、少しだけ興味を持ったというのが本音かもしれない。

 とりあえず隣に座ってみた。

 拒否されるかと思いきや、特に突き飛ばされたりすることはなかった。

 寒空に晒されていたベンチは冷たく、尻が一気に冷たくなる。。

「なんでこんなことに来たんだよ」

 この頃はほとんど身長差が無かったため、座った時の目線は同じものだった。

「家出」

「は?」

 まさかの返答に、俺は聞き返す。

「なんでまた……」

「おうちにいるのも、おじさんもおばさんもきらいだから」

「あー……」

 綾人が施設出身で、同居しているのも本当の両親じゃないことはなんとなく知っていた。

 けどまさか、こんなに上手くいっていないとは初耳だった。

 でも俺だって当時から両親の仲は悪かったし、決して幸せな家族ではなかった。

 家庭が円満じゃないということに関しては、似たもの同士だったようだ。

 少しだけ親近感が湧き、話し相手になってやることにする。

「家出して、どこ行くつもりだったんだよ」

「……海」

「ここ、森だけど」

「…………」

 分かってると言わんばかりに、ムッとした顔になる。

 子供の足じゃ、海なんてどうやっても辿り着けないもんな。

「海って、ここから遠いって聞いたぞ」

「だから行きたかったの」

 綾人は震える両手を擦りながら答える。

 鼻の頭も少し赤くなっていた。

 そういえば、綾人は上着を着ていなかった。

 衝動的に飛び出してきたのだろうか。

 仕方ないので、自分のマフラーを巻いてやる。

 綾人は再び驚いた表情で、俺のことを見た。

「……さむくないもん」

「嘘つけ」

 なんでコイツがこんなにも意地を張るのかは分からなかった。

 けれど、別に悪い気はしなかった。

 似た環境で育った綾人に対して、すでに親近感が湧いていたのかもしれない。

「まあ、家にいるのが嫌なら、ここに遊びにくることくらいは許してやる」

「なんでキミに、ゆるしてもらわないといけないのさ」

 せっかく譲歩してやったのに、綾人はまだ俺に食いついてくる。

 こんなにツンケンしたヤツだったんだな。

「なんでって、俺が一番に見つけた秘密基地だから」

「…………」

 綾人が反論を諦めたところで、遠くの方で学校のチャイムが鳴ったのが聞こえた。

「やべ」

 俺は慌てて、ベンチからジャンプして地面に降りる。

 当時はこの鐘の音が聞こえたら帰ってくるように言われていたのだ。

「俺、そろそろ帰るけど」

 一応、声をかけてやる。

 すっかり日も落ちてきたし、風も冷たくなってきた。

「…………」

 綾人は小さく首を振る。

 ここにまだいる、という意思表示だった。

「ここ、夜になるとお化け出るらしいぞ」

「ウソでしょそれ」

 すぐにその嘘を見破り、頑なに動こうとしない。

「ほっといて」

 綾人は俯くが、なんだか泣きそうな顔になっていた。

 これから一人になることを想像して不安になっているのだろう。

 俺の予想が正しければ、綾人はこの場所に初めて来たはずだ。

 土地勘のないここから、一人で真っ直ぐに帰れる自信がないのだろう。

「そういうわりには泣きそうだけど」

「泣きそうじゃない!」

「ったく……」

 俺は痺れを切らし、無理矢理にでも連れて行こうと綾人の腕を掴もうとする。

 しかし綾人は、俺がそうしようとするのを分かっていたかのように手を振り払い、ベンチから立ち上がり俺と距離をとる。

「だから、いいっていってるじゃん!」

「そういうわけにいかないだろ」

「どうして!? ほっとくとおこられるから!?」

「は? なんで怒られるんだ?」

 質問の意味が分からなかった。

「ボクのこと、ほっといたら、『けいさつ』とか『じそう』におこられるんでしょ!? だからやさしくしてくれるんでしょ!?」

 綾人は顔を真っ赤にしている。

 どうしてコイツがこんなことを言い出すのか、俺の方が分からなかった。

「いみ分かんねー。こんなとこに夜まで一人でいたら、フツーに心配だろ」

 綾人から出てくる単語は、この頃の俺には全く聞き慣れないもので、何を指しているのかさっぱりだった。

 しかしそれ以上に、何故こんなにも人のことを拒否するのかが理解できなかった。

 俺には綾人を純粋に心配する以外の気持ちは無かったからだ。

「…………」

 綾人の表情が、いつの間にか驚いたものになっていた。

「なんで……心配なの……」

「なんでって……。そんなの、理由なんか分かんねーよ……」

 目の前に危険なことをしようとしているヤツがいる……それが心配じゃない理由の方が分からない。

「だって、ボクたち……べつになかよくないし……」

「そんなの……」

 綾人にそう言われてハッとした。

 俺達は似たもの同士で……そして、一人ぼっち同士だったから。

 だから……もっと知りたくなったんだ、コイツのこと。

 もしかしたら、仲良くなれるかもしれないなんて……そんな都合のいいことを思っていたのかもしれない。

 だって、俺はコイツのこと、そんなに嫌いじゃなかったからだ。

 それが何故なのかは分からなかったけれど……。

 だからこそ、コイツがツラい目に遭う未来を、想像してしまうのが嫌なんだ。

 だから……そうならないように、助けたいんだ。

「お、俺だって別に、オマエと仲良くなりたいとかは思ってないけどな!」

「…………」

 綾人は不思議そうな、泣きそうな、色々な感情が織り混ざったような複雑な顔をする。

 ……そして。

「ふふ……」

 その近寄りがたり眉間のシワを崩して、初めて笑った。

「な、なんだよ……」

「なんでもないよ。ちょっとおもしろかっただけ」

「はあ!?」

 今のどこに面白さがあったって言うんだ。

 全てを見透かされたような表情に悔しくなり、俺は自転車の方へ向かう。

「さっさと行くぞっ」

 この辺りは街灯がないため、すぐに真っ暗になってしまう。

 二人して迷子になるなんてごめんだ。

「ま、まってよ、いちゅ……」

 慌てて後を追いかけてくる綾人が、名前を噛んだ。

「言えてねーけど」

 からかってやると、綾人は柔らかそうな頬を膨らませた。

 呼びにくい俺の名前が悪い、と言いたいのが伝わってくる。

「いっちゃん」

「は?」

「言いにくいから、今日からいっちゃんね」

「何勝手に……」

「もうきめたもーん」

 綾人はさっきとはまるで違う軽い足取りで、細い獣道を下っていく。

 そしてくるりと振り返れば、少し照れたような表情で……。

「さっきはいろいろありがとね。いっちゃん」

 月明かりに照らされた綾人の姿は、今でも鮮明に思い出せる程に酷く儚げだった。

 それは今にも消えてしまいそうなほどに――――。



 *一二月二四日 日曜日 自室



「ん……」

 部屋に差し込む光で、俺の頭はゆっくりと覚醒していく。

 なんだか……すげえ爆睡した気分だ……。

「って!」

 気分じゃねえよ、爆睡させられたんだよ!

 俺はベッドから飛び起き、辺りを見回す。

 アイのヤツ……何が『初めから巻き込まれる存在では無かった』だ……!

 めちゃくちゃ関係あるじゃねーか!

「え、ベッド……?」

 寝かされていた場所は、自室のベッドの上だった。

 俺の最後の記憶は、リビングの床だったはずだ。

 ということは、誰かがここに運んできたことに……。

「おはよう、イツキは朝から元気だね」

 声がした方に顔を向ける。

 もう二度と顔を見たくないと思っていた人物が、机に備え付けられているキャスター付きの椅子に座っていた。

 ムカつくくらい爽やかに、そして優雅に紅茶を飲んでいる。

 ……人んちで。

「ああ、もう朝じゃないね」

 アイはそう言うと紅茶を机に置き、こちらへ近づいて来る。

 そして俺がいるベッドへと遠慮なく腰を下ろした。

 アイから香ってくるのは石鹸の匂い。

 コイツ、勝手に風呂にまで入りやがったな……。

 会話などしてやるもんかと、俺はアイを睨みつける。

 しかしアイは、こっちを見ながらニコニコしているだけだ。

 ただの天然な不思議系だと思っていたのに……とんだ腹黒野郎だったとは。

「あれ……?」

 何の違和感もなく腕を組んでいたが……。

 手の縄が解いてあった。

 手首に痕もついていない。

 身体も痛くないことから、俺が寝てからすぐに縄を解き、ベッドに運んだんだろう。

 さすがに服はそのままだったため、あちこちに皺が付いていたが。

 だからって、コイツへの信頼が回復したわけじゃないけどな。

「オマエに言われたとおり、朝になったぜ。本当に綾人に会えるんだろうな……!?」

「やだな、信用してよ」

「昨日の行動で、今までの信頼メーターが地に落ちたんだよ」

「あはは、素直なのは本当にキミのいいとこだよね」

「バカにしてんのか……」

「まさか。本心を覆い隠してしまう人間より、ずっと信頼に値するよ。だからカレも……キミのこと」

 意味深に呟くと、アイは立ち上がり携帯の画面を見る。

「さて、まだ出かけるまでに時間があるね。シャワーでも浴びてくるといい」

「シャワー……」

 意外と目を離してくれるらしい。

 それなら、隙をついて綾人のところに向かうこともできるということだ。

「ああ、ちなみにアヤトはもう出かけているから、窓から逃げても無駄だよ」

「…………」

 やはりもう、何か良からぬことが色々と動き始めているみたいだ。

「そんなに慌てなくても、すぐに会えるから」

 まるで幼子を宥めるような優しい口調ではあったが、裏では何を考えているか分からない。

 ベッドの上にある目覚まし時計は、一四時を少しまわった時間を指していた。

 あの怪しげな薬のせいで、一二時間以上眠らされていたのか……。

「もしかして身体がよく動かない? 手伝ってあげようか?」

「触るな!」

 近づくアイを振り払い、俺は逃げるように風呂場に向かう。

 アイを突き飛ばして出ていくことも考えたが、もしかしたらあの男が潜んでいるかもしれないし、それに。

 もしかしたら綾人に、危険が及ぶかもしれない。

 ひとまず、アイの言うことに従うしかないのだ。



 *



 一五時になったところで、迎えの車が現れたのがリビングの窓から見えた。

 確か劇の開始時間は一六時からだったな……。

「さて、行こうか」

 アイは立ち上がり、シャワーと着替えを終えた俺を玄関に連れて行く。

 俺は綾人から受け取った招待状があったことを思い出す。

 それをカバンから取り出し、ポケットに入れた。

 これが無くてもひとまず入場するには問題ないはずだが……せっかく綾人がくれた物だからとりあえず持って行こう。

「携帯電話でも探しているのかい?」

 アイは俺の携帯を手に持ちながら覗き込んできた。

「返せよ」

「残念だけど、それはムリ」

「…………」

 アイは俺の電話をダイニングテーブルの上に置く。

 手袋を付けた真っ白な手で俺の腕を掴むと、リビングを出て玄関に連れて来る。

 俺は仕方なくラックに掛かったコートを手に取った。

 そしてアイに次いで外に出る。

 雪の降る中、玄関先にいつもの外車が停車していた。

 真っ黒な車体に、雪が薄らと積もっていた。

 アイに左後方のドアが開けられ、そっと背中を押される。

 乗れということだろう。

 俺は素直に車内に乗り込む。

 人工的な、少し甘い匂いが車内に少し残っている。

 しかし今回は、革製品の匂いがやけに鼻についた。

 硬いが座り心地のいい椅子に座ると、反対側の座席にアイも座る。

「出ていいよ」

 その声と共に、車は静かに発進した。

「素直に乗ってエライエライ」

 アイが俺を見ながらニコリと笑う。

「やっぱりバカにしてんのか」

 俺は首だけ動かして、アイの方を睨む。

「まさか、賞賛だよ。キミのその純粋さには、こちらが毒気を抜かれてしまう」

「やっぱり毒を持っていたんだな」

「ふふ……。キミ達二人は本当に真逆な存在なんだね。アヤトの方がよっぽど警戒心が強い」

「…………」

 車は、赤信号で止まった。

 目の前をたくさんの歩行者が通り過ぎていく。

 日曜日だからだろうか、いつもよりも道が混んでいる気がした。

「まあ、カレの場合は……魔法で人の心が読めてしまうから、仕方ないことなんだけどね」

「は……?」

 コイツ、今、何て……。

 魔法で……人の心が読める……?

「そんなわけ……」

「おや、疑うのかい?」

 だって魔法使いってのは特殊な存在で……。

 そもそも、綾人とは小さいころからずっと一緒にいたんだ。

 心を読むなんて……そんな力……。

「まあ私の心は、私の反魔法の力によって読めないけどね。だからカレも私のことを警戒していたんだろう」

 アイは俺から顔を背け、窓の外を見る。

「でもキミには……思い当たることは、何度かあったと思うよ?」

 思い当たることなんて……。

「……っ」

 ああ、あったさ……。

 何度も、考えていることが分かる、心が分かる、なんて言われていたじゃないか。

 でも……そんなの、本気にするわけ……。

「なんだ、やっぱりなんとなく気付いてるじゃないか」

「それは……っ」

 俺が息を呑んだところで、車は再び動き出した。

「カレは自分の持つ力が嫌いで、恐れていた。だけど同時に、初めて出会う人間を識別する基準として、アテにもしていた。目の前にいる人物が信頼に値するか分かってしまうわけだからね。自分にとって敵にしろ味方にしろ、本心が分かっていた方が距離をとりやすい。だから、自分が信頼に値しないと思った人間にはあからさまに距離を置いていたはずだよ。そして、キミにも遠回りながらも警告していたと思うな」

 それが、悠希を極端に嫌がっていた理由か。

「カレは施設で育ったんだってね。人が集まっている場所というのは、それだけマイナスの感情が多い。だけど、幸運だったのは……イツキ、キミと巡り会えたことだ。キミは思ったことはすぐに口に出す人間だ。ウソをついても、すぐに顔に出る」

「それが、一体どんな関係が……」

「アヤトが安心して寄りかかることができる、数少ない人間ってことだよ。人を大切に思うっていうのは、とても難しいことだから。心から他人を、真っ直ぐに大切に思い続けられる人って……世の中には、一体何人いるんだろうね」

「そんなの……いくらだっているだろ。恋人同士とか、元は他人同士なんだし……」

「心が見えないからだよ。ほんの一瞬でさえも、嫌いとか離れたいとか思わない人なんて……この世に存在するのかな?」

「それは……」

「どんなに酷いことを思っていたって……他人に対しては、それを隠すだろう? そんな人を、キミは信用できるのかい?」

「そんなの……仕方ないだろ……っ。気分によって感情が乱れることだって……」

「うん。その年齢まで成長すれば、そう割り切ることを覚えていくよね。それじゃあ、幼少の頃から施設で過ごし、新しい親に引き取られたアヤトは……どんな心になってしまうんだろうね」

 ふと、耳を塞ぐクセを思い出した。

 自分の嫌なことや不利なことを、聞こえないようにしているとばかり思っていた。

 綾人は、他人の心の声を聞かないようにしていたのだろうか。

 『けいさつ』とか『じそう』とか……そう言って泣きそうに叫んでいた、幼い綾人を思い出す。

 きっと読んでしまったんだろう、新しい両親の心を。

 幼い綾人の心のキャパシティなんて、知れたものだ。

 怖いと思ってしまったら、きっと二度と歩み寄ろうとはしないだろう。

「……さて、そろそろ教会だ。降りる用意をして。アヤトに会いたいんだろう?」

 俺の質問には答えず、アイはサングラスをした運転手に声をかける。

「ありがとう、ここでいいよ」

 車は少し広くなった道に停車し、俺達二人を降ろした。



 *一二月二四日 日曜日 教会



 教会のイベントのため、付近には親子連れや老夫婦など、様々な年代の人達が大勢歩いていた。

 俺は綾人からの招待状をポケットから出し、ギュッと握りしめる。

「場所は分かるよね?」

「……多分な」

 入り口の受付近くにある案内図を見上げる。

 流れは倉庫を調べた時と同じだ。

「それじゃあ、いってらっしゃい。ここで待ってるから、終わったら戻っておいで」

 前回と同様、アイは教会には入らず、その一歩手前でにこやかに手を振る。

「いいのかよ。オマエから見えなくなったところで、逃げ出すかもしれないぞ?」

「逃げ出して、どこに行くの?」

「どこって、そりゃあ……」

 どこだろう。

 そもそもこれから綾人に会えるっていうのに、逃げてどうする……?

「キミのそういうとこ、好きだよ」

 アイに背中を押され、仕方なく入り口へ向かう。

「どうぞ、ごゆっくり」

 そのまま受付を通り教会を通り過ぎて施設の方へとやってくる。

 教会はたくさんの人がいて、各々に誰かと話したり、キッチンカーの列に並んだりしていた。

 そんな中、唯一俺だけがこの空間から浮いているような気がして、人の往来の真ん中で立ち止まる。

 行き交う人が、不思議そうに俺を見てはすぐに視線を戻す。

「…………」

 俺はこのままアイの言う通りにしてていいのだろうか……。

 確かに今までのアイは、このおかしな世界で彷徨っていた俺の手を取り、進むべき道を教えてくれた。

 でも今のアイはどうだろう……。

 全てを笑顔で覆い隠しているようにしか見えない。

 本当のことを言っているのかどうかも俺には確かめようがないのだ。

「……くそ」

 どうすればいい……。

 このことを、誰に相談すれば……。

「あ」

 俺の頭の中に、一人の人物が思い浮かんだ。

 ……どうして忘れていたんだ。

 アイと同じ組織にいて、しかも魔法使いである神田がいるじゃないか。

 綾人は心を読むことができるということが本当であるとするならば……。

 神田には懐いてたってことは、少なくとも神田は信頼に値する人間だってことだ。

 俺も、神田と委員長なら信頼できると思う。

 教会の奥へ行って、あまり人気のない場所の塀を越えれば、いくらでも外へ出られる。

 そのまま、神田の家へ行けば――――。

「はい、動かなーい」

「!?」

 耳元で低い声がした。

 振り向けば、昨日アイが連れてきたアシンメトリーの髪の男がすぐ後ろで立っていた。

 ヘラヘラとした胡散臭い笑顔も昨日と同じだ。

 いくら考え事をしていたとはいえ、どうしてこんな至近距離になるまで、コイツの存在に気付かなかったんだ……!?

「劇を観にきたんだろ? 寄り道禁止。つーか、カンダシュースケとは、連絡取れないと思うぜ?」

「なんで……」

「そりゃ、オマエさんの頼みの綱は、あとはソイツしかいないからさ。先に手を打っておくでしょ、フツー」

「……神田に何かしたのか?」

「そいつは、オレの口からは言えないなあ」

「…………」

 それ以上は何もしゃべるなと言わんばかりに、そいつは俺の背を押してくる。

 やはり何か特殊な訓練を受けているのだろうか、力では全く抵抗できない。

 俺はされるがままに、目的地に向かって歩き出す。

「そうそう。大人しく演劇鑑賞しろって」

 俺を見張りたいだけなら、家に閉じ込めておいた方が確実のはずだ。

 やはり、劇を鑑賞することが重要になってくるのか。

 ということは、俺が劇を見ることが……アイの言う、シナリオってヤツに繋がっているということだ。

 少し離れたところに、多目的ホールはあった。

 俺達はまっすぐにその建物に入る。

 開場一〇分前だけに、入り口は人で賑わいを見せていた。

 内部はすでに光が遮断されていて、映画館のように薄暗い状態になっている。

 前方には黒い垂れ幕が引かれ、舞台が見えないようになっていた。

 座っているのは五〇人くらいだろうか。

 他にも周りには係員や関係者らしき人が慌ただしく動いている。

 思った以上に、大規模な劇のようだった。

「招待状、貸してみ」

 そいつは俺の手から招待状を取り上げ、近くの係員に渡す。

 すると係員はすぐに笑顔になり、席まで案内してくれる。

 ずらりと椅子が並んだ客席だったが、最前列の真ん中の二席にぽつんと空きがあった。

 まさかとは思ったが、その場所には椅子の上に、予約席と書かれた紙が置いてあった。

 他の観客の視線が一気に集まるのを感じる。

「さすが主演の力。VIP席だねえ」

 そいつは笑いながら、その席の一つにどかっと腰を下ろした。

 風が起こり、香水とタバコの混ざった臭いが辺りを漂う。

 まさか、コイツも観劇するのか?

「ここ、オマエの席なのか?」

「いちお、友達設定だから」

 空いている椅子をポンポンと叩き、隣に座るよう促される。

 俺は大人しく、そこに座った。

「何が友達だよ。月曜日から、突然現れただけだろ」

「オマエさんの目の前にはね。ずっと前の世界から、アイちゃんとはお仕事してたけど」

 確かに、一緒に住んでいるとは言っていたな。

 前の世界ということは、やはりコイツもループの記憶があるわけか。

「で、今回の世界から、仕事内容が月島綾人を見張るものになったってわけ」

「見張る?」

「そ。妙な動きをしないように」

「何だよ、妙な動きって」

「アイちゃんに聞いてるでしょ? 上が考えたシナリオが壊れる動きだよ」

 またそれか。

「綾人は……どこまで知ってるんだ?」

「えー、こんなとこでネタバラシしちゃう? 本人から直接訊いた方がいいんじゃない?」

「…………」

 それもそうか……。

 コイツが言っていることも、どこまで本当か分からないし。

「でもオマエら、たまに突拍子もない動きするからなー。こっちとしては最後までドキドキよ」

「なんだよそれ……今回もアイの言うことに従ってたはずだぞ」

「そんなことないっしょ。突然の青春ごっことか。あの時が一番焦ったわー」

「青春ごっこ?」

「水曜日に海行ったヤツ」

「ああ……」

 あの時もついてきてたのか。

 綾人がやけに後ろを気にしていたのはそのせいだったんだな。

「……オマエは何者なんだ?」

 そいつはチラリとこちらを見た。

「オレ? アイちゃんの同棲相手」

「それは聞いた」

 いつまでもふざけた態度のコイツに、少しずつ苛立ちを感じ始める。

「そんな睨むなって。オマエはオレのことほとんど知らないかもしれないけど、色々感謝して欲しいことたくさんやってるんだぜ?」

「は?」

 俺はこんなヤツに感謝することなんて一つも……。

「まず、オレが当てたディナーチケット使ったろ? あれはアイちゃんが欲しいっていうからあげたのにさー。まさか行くのがオマエと」

 どうなのよ、と言葉を続ける。

 あの、ホテルのディナーの話か。

 知り合いが当てたって言ってたけど……コイツのことだったのか。

「そうだ。靴紐結び直してたら、オマエの友達に先に引かれちまうこともあったな。オレも食べたかったぜ、高級ディナー」

 そう言って大袈裟にため息をつく。

「あと、前の週はオマエの命も助けてやったんだからな」

「命? 何の話だ?」

「前回の駒込悠希の件だよ。アイちゃんに言われてエアガンで狙ったこと。しかもナイフに当てるとか、オレ天才過ぎない?」

「!」

 アイが片手を上げて合図した時か。

 まさかコイツ撃ったものだったなんて……。

「駒込悠希が買った魔法道具のことまで調べさせられるし。ギャラ以上にこき使われてんだわ」

 やれやれと、深く椅子に座り直し腕を組む。

「駒込悠希なんて、殺しとけば良かったんだよ。どうせループしたら生き返るんだからさ」

「な……っ!」

「はいはい、静かに」

 勢いよく立ち上がろうとした俺の足を、瞬時に自分の足で薙ぎ払う。

「い……っ!」

 バランスを崩した俺は、椅子の上に思い切り尻餅をついた。

 くそ、どんな芸当だよ……!?

『このたびはご来場いただき、ありがとうございます』

 その時、場内アナウンスが場の雰囲気を壊さぬ上品な声で流れ始めた。

 会場が静寂に包まれ、幕がゆっくりと上がりだす。

 照明が舞台の中央に集まり、照らし出される人影。

 その中心にいたのは、綾人だった。

 さすが主役だけあり、いつものあのオドオドとした雰囲気からは考えられないほどに堂々としている。

 会場全員の視線が、綾人に向けられていた。

「これから始まる物語は、一人の少年の物語……」

 決して大きいわけではないのに、会場内に響く透き通った声。

 観客を物語の中へと、手を引くには十分だった。

 誰もがその劇に見入ってしまっている。

 その声に誘われるように、今度はライトの色が変化しはじめた。

 キラキラと、まるで雪のように舞台上に紙吹雪が舞う。

 幻想的なその光景はまるで催眠術のようだ。

 舞台から目が離せない。

 ……ああ、そうか。

 俺はすでに、その劇に魅了されてしまっていたのだ。



 *



「あー、終わった終わった」

 劇が終わり、その余韻を壊すように男が声を上げる。

 他の観客達もぞろぞろと会場を出ていくところだった。

「おーい、どしたん? ボーっとして」

「……なんでもない」

 俺はその男をあしらい、誰も居なくなったステージの上を見る。

 まだ、胸の高鳴りは消えない。

 劇は、一人ぼっちの少年が旅をしながらその風景を絵に残していくというものだった。

 丁寧な語り口調で進んでいく物語はどこか儚げで、美しいものだった。

 途中で失敗するかもしれないという心配など杞憂で……。

 綾人は最後まで劇をやり遂げることができたのだ。

「さて、そろそろアイちゃんのとこ行くかねえ」

「…………」

 俺は返事もせずに男のあとに続いた。

 外に出れば、辺りはすっかり暗くなっていた。

 雪の量も多くなっていて、道にもしっかりと積もり始めていた。

 遠くにある教会の出口が混雑しているのが見える。

「Guten tag」

「!」

「特別席からの、劇は如何でしたか?」

 背後から話しかけられ、慌てて振り返る。

 そこには、前に倉庫に忍び込んだときに出会った神父さんが立っていた。

 うねった金色の髪と糸目は変わらずだ。

 綾人の知り合いでもあるんだったな。

「えと……」

「ああ、すみません。突然話しかけてしまって、驚かれましたよね。ワタシはここの教会で神父をしております、フリードリヒ・ヴァルターと申します」

 神父さんは、まるでお辞儀の手本のように頭を下げる。

「いっちゃんさん、ですよね? 綾人クンのお友達の」

「あ……はい」

「そして、貴方も」

 神父さんは俺の後ろは視線を逸らす。

「Wie geht’s? この前はどーも」

 そいつは馴れ馴れしく挨拶を返している。

 この世界では、友達設定になっていると言っていたんだっけ。

「綾人クン、今日はとても上手にできていましたね」

「そうですね……まあ、こちらとしてはセリフを間違えないかとか、すっころばないかとかでヒヤヒヤでしたけど」

 日本人らしく、やや謙虚に言ってみる。

「フフ。綾人クンの性格を、よく分かっていらっしゃるんですね」

「いや……そんなんじゃ……」

 アイツが本番に弱いことなんか、三日も一緒にいれば分かるさ。

「ちなみに、話の内容はいかがでしたか?」

「ええと……なんていうか、不思議な感じ……でしたね。話は……童話とかじゃないんですよね?」

 といっても、本を読むタイプじゃないから、童話のタイトルを言われても反応できないのだが……。

 確かこの人が書いた脚本とか言っていたよな。

「実はですね……これはヒミツなんですけど……」

 そう言って神父さんは、長い間人差し指を口元に当てる。

「あの脚本、ワタシが書いたんですよ」

「ああ……」

 やっぱりそうだったんだな。

「恥ずかしながら、ワタシ……小説を書くのが趣味でして」

 神父さんも、意外な趣味を持ってるんだな……。

「と、言いましても今回のはとある絵師の伝記を少しだけ脚色したものなのですが……たまたま机の上に置きっぱなしにしておいたら、綾人クンにそれを見られてしまいまして。ワタシはとても恥ずかしかったのですが……やたらその話を気に入ってくれましてね。それで今回、劇にあの話をやることになったんです。何せ初めから暗い雰囲気な上にラストが悲劇ですから、お客様の反応がとても怖かったのですが……。綾人クンのおかげで劇は大成功でした。彼、何度も練習していましたから、その努力が実って本当に良かったですよ」

 そう言って神父さんは、嬉しそうに微笑んだ。

 慈愛に満ちた笑顔をずっと見ていたら、うっかりと心の底にあることを吐露してしまいそうだ。

「さてワタシはこれから予定がありますので、綾人クンに会った際は、素晴らしかったと伝えておいてください」

「……分かりました」

 俺がそう答えると、神父さんは満足したように頷いた。

「それでは、失礼します」

 神父さんは一礼して建物の中に入って行く。

「相変わらず、何考えてるか分かんねー聖職者だなあ」

 隣の男は、警戒を押し隠したように笑っていた。

「神父さんもオマエ達の仲間なのか?」

「まさか。こんな場所、今週オマエの友達に初めて連れて来られたぜ」

 俺の予想通り、やはりこういう厳粛な場所とは無縁らしい。

 辺りを見回し、再び出口に向かって歩き出す。

 わざと雪の多い場所を歩きながら、男はぽつり呟く。

「でもなんかあの神父……なーんか妙な感じがするんだよなぁ……」

「妙?」

 男は光の宿らない瞳で、チラリと教会を見上げた。

「………………死臭がする」



 *



「おかえり」

 教会の入り口に寄りかかる姿勢で、アイが待っていた。

 ずっとそこにいたのか、頭の上には薄っすらと雪が積もっている。

 辺りには人がすっかりいなくなっていて、ぽつんぽつんと街灯が寂しく点いているだけだった。

「ご苦労様」

 アイは後ろの男にも声かける。

「いいってことよ。ギャラ分は働かないとな」

 その男はアイの頭についた雪をサッと払った。

「劇はどうだった?」

「ま、大成功だろうな」

「そう……」

「で、オレはこれで帰っていいん?」

 ワークパンツのポケットからタバコを取り出すと、銀色のライターで火を付ける。

「うん。あとは手を打ってあるから大丈夫だよ」

「よっしゃ。今日こそ行けるじゃん!」

 タバコを咥えたまま嬉しそうに笑う。

「あんまりハメを外しすぎないようにね」

「わーってるって。それじゃあな」

 そして男は一度もこちらを振り返ることもなく、颯爽と商店街の方へ向かって歩いていく。

「何なんだよアイツ……」

「キミが不審な動きをしたら、誘導してくれって頼んでおいたんだけど……。つまり、キミは不審な動きをしたわけだ」

 アイは困ったように笑っている。

 なるほど、だから出てくるタイミングが完璧だったわけか。

「……神田は、無事なんだろうな?」

「シュースケ? ああ、なるほど……連絡を取ろうとしたんだね」

「…………」

「無事……といえば、無事だよ」

「なんだよ、その含みのある言い方」

「目立った行動はしないようにって、忠告はしたんだけどなあ……」

 アイは意味深にため息をつくが、それ以上話す気はないようだった。

 そのとき、遠くからエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。

 道の向こう側から黒いセダンが走ってくるのが見える。

「それじゃあ、行こうか」

 アイは俺の手を取る。

「行くってどこへ……」

「この世界の、最終ステージ」

「え……」

「物語は、着実に進んでいく……でも、どんな物語でも必ず到着する場所があるんだ」

 まるで詩人のようなことを言う。

「次に私達が向かうのは……終幕だよ」

「終幕?」

「何もかも明るみになる、ネタばらしの喜劇……舞台から降りた役者は、もう待っているよ」

 舞台から降りた、役者……。

「おい……」

 それって、まさか……。

 嫌な予感がじわじわと大きくなっていく。

 口の中が乾いていくのが分かった。



 *一二月二四日 日曜日 森の教会



 背の高い木々が鬱蒼と生い茂る森の中、二人の足音だけがやけに大きく響いていた。

 辺りには人の気配どころか、動物の気配すら感じられない。

 車から降りて、もう一〇分は歩き続けている。

 昔は土地勘があった場所だが、今ではあちこちに手入れのされていない草木が生い茂り、すっかり景色が変わってしまっていた。

「ここだよ」

 アイはとある建物の前で立ち止まった。

 見上げた先にはまるで人々から見捨てられたように、寂しげに古びた教会が佇んでいた。

 壁の至る所に蔦が這いずりまわり、煉瓦を侵食している。

 屋根さえもその役目を果たしておらず、ところどころに大穴が開いていた。

 唯一鮮明な記憶で残っているバスケットリングも、もうどこにも存在していなかった。

 俺の記憶にあった教会とは、かけ離れた、変わり果てた姿だった。

「どうして、こんなところに連れてきたんだよ……」

「嫌だな、解ってるくせに」

 物語の結末が、常に幸福であるとは限らない。

 そんなの、ずっと昔から知っていたことだ。

「さあ、進んで。知らないまま世界を終えることもできるけど……それはキミが納得できないんだろう?」

 アイの声に背中を押され、俺は震える手で教会の扉に触れる。

 昔は鍵がかかっていて入れなかったのだが、今ではそれは無惨に壊されていた。

 押せば簡単に開いてしまう扉は、もうその意味を果たしているのかも怪しい。

 両脇に並んだ椅子はほとんどが壊れ、木材が黒色に腐食している。

「あ……」

 教会の最奥の祭壇、そこに小さな人影があった。

 その人物はゆっくりとこちらに身体を向ける。

 いつもと同じ、白いパーカーとジーンズ姿。

 そこにずっといたのか、鼻の頭が赤くなっている。

 穴の空いた天井から、真っ白な雪が降り続いていた。

「待ってたよ、いっちゃん」

 そう言って笑ったのは、よく知った幼馴染だった。

「綾人……」

「もう隠す必要はないんだよね……ここは、全てを話さないといけない場所だから」

 綾人はまるで懺悔するように、見る影もないほど割れてしまっているステンドグラスを見上げる。

「まずは、何からお話ししようか」

 俺に背を向けたまま、綾人はゆっくりと話しだす。

 何故だろう……その姿はもう、俺の知っている綾人には見えなかった。

 一体綾人には、いくつ隠し事があるのだろうか。

 いつから、それを隠し続けてきたのだろうか……。

「たぶん……初めて会った時からずっと、かな」

「な……」

 言い当てられてしまった……。

 今までだって何度もこんなことはあった。

 それなのに、今更鳥肌が立つ。

「本当だったのか……? 人の心が読めるって……」

「いっちゃんの方が、知ってるんじゃない? そういう不思議な力のこと」

「それは……」

 綾人の言う通り、そういう力……魔法のことは嫌というほど知っていた。

「心が読めるって言っても、そんなすごいものじゃないんだよ。相手が口に出した言葉と、心の中で思っている言葉が……それが同時に聞こえちゃうんだ。たまに、全然読めない人もいるんだけどね。渋谷くんとか、神父さんとか……。神田くんも、ちゃんとは分からなかったけど……なんでだろ、悪い人じゃない確信はあった」

 それが、綾人が神田に懐いていた理由だったのか。

「もちろん、マイナスな面ばかりじゃなくて、ほら。球技大会の時も……悠希くんの動きを読んでたでしょ。そういう使い方も、できるんだ。だから、意外とチームプレイは向いてるのかも」

 アイはそれを知っていたから、悠希の相手を綾人にさせたのか。

「そんなの、チートじゃねえか」

「まあね」

 綾人は少しだけ楽しそうに笑った。

「中にはこの魔法で、人の上に立つすごい人もいるんだって。でもボクはダメだった。人のこと、嫌いになってくだけだったよ」

 綾人がそんな器用にその魔法を使いこなせるはずがないなんて、俺でもすぐに分かる。

 コイツは、可哀想なくらい傷付きやすいんだ。

「…………」

 俺はふと、海へ行った時のことを思い出す。

 道端にあった花束。

 あの高校生の事故の話も、携帯電話で調べたわけではなくて……。

 あの店員のおばさんの心を読んだからだったんだな。

 その時点で俺は、なんとなく違和感を感じてはいたんだ。

 でも……それを肯定するのが怖かったんだ。

「口に出していようが、なかろうが……アヤトにはすべて届いてしまうんだよ」

 ここで初めて、アイは俺達の会話に口を挟んだ。

「現代では特に辛い魔法の一つかもしれない。人の心が分かる魔法……使用時のリスクもほとんどないため、容易に使えてしまう。あと、カレの性格と生い立ちも……その魔法とは相性が悪かったね」

「…………」

「彼の唯一の救いは、その魔法とキミの相性が良かったこと。あんなにも人の心が読めるのに、綾人の心が壊れなかったのは、イツキ……きっとキミのおかげだよ」

「そんなの……」

 施設の人間、新しい両親、綾人に関係する人々……そいつらが全員悪人だったとは言わない。

 だけど……綾人に対して、一切負の感情を持たなかったのか。

 そんなことはありえない。

 さっき……アイと会話した内容そのものだ。

 例え家族や恋人であっても……一切の迷いなく大切に思えることなんてあるはずがない。

 時にはケンカしたり、嫌いになったり、距離を置きたいと思うことだってある。

「俺だって、綾人に何度もキツク当たったことだってあった……」

「いっちゃん……」

 綾人は不安そうな顔で、こちらに近寄ってきた。

「……悪い」

「あはは。うん、結構な頻度でウザいって思われてたよね」

「……だと思う」

 綾人の苦笑に、俺は素直に言葉を返す他ない。

「でもいっちゃん、それを口に出してたじゃん。口に出してる言葉と、心で思っている言葉……いつも、おんなじだったもん……」

「なんだよ……それって、俺が単純ってことか?」

「正解」

「…………」

「でも、いっちゃんがいなかったらさ、耐えられなかったこと……たくさんあったんだよ」

 綾人は俺の服の端をギュッと握った。

「こんな変な力持って生まれちゃって……辛かったけどさ。いっちゃんと……心の声が聞こえても平気な人と一緒にいれて、たぶん幸せだったよ」

「何辛気臭い顔してんだよ。オマエがそんな魔法の力持ってたってのは驚きだけど……。だからって、これから何か変わるわけじゃねえし……。オマエがどんな力持っていようと、俺はどこへも行ったりなんか――――」

「ごめんね……いっちゃん」

 なんだよ……。

 コイツ何に対して謝っているんだ?

「本当……これが本物の世界なら良かったのに……」

「え……」

「そしたら……ハッピーエンドを迎えられたかもしれないのに」

 綾人の顔は、今にも泣き出しそうだった。

「な、何言ってるんだよ……? 俺の心が読めるから……なんとなく分かるだけだろ?」

 この世界の秘密。

 繰り返す……ループの元凶……。

「だ、だって、オマエ……言ってたじゃないか……! 天使の絵なんか、見てないって……!」

「天使の、絵……」

 綾人の唇がゆっくりと動く。

「うん。それが……いっちゃんにしていた隠し事の、最後の一つ」

 綾人が指差したその先に、その絵はひっそりと飾られていた。

 金色に輝く額縁の中に納められた、油絵。

 俺はまるで操られているかのように、その絵に向かって歩きだしていた。

 その絵の目の前に立ち、下からゆっくりと見上げていく。

「天使……?」

 これは天使……なのか……?

 天使というよりは、羽根が茶色くて……。

「鳥……」

 これは、鳥の翼が生えた人間だ……。

 そして、それを見上げる……魚……いや、人魚か。

 お互いが見つめ合い、それでも何もすることができない……。

 鳥の羽根は雪の重みで飛べず、寒さによって魚の水は凍っていく。

 雪の中で、お互いが滅びる……?

 なんなんだ……この絵……。

 目を奪われるというのは、こういうことを言うのだろうか……。

「イツキ……!」

 俺がその絵に手を伸ばした瞬間、アイが即座にそれを阻止した。

 手袋をした手で、俺の手首を強く握る。

「ダメだよ……魅入られたら」

「あ、ああ……」

 俺はアイの声で正気を取り戻した気がした。

「…………」

 絵の下の方にタイトルと思わしき文字が描いてあった。

 『降り積もる雪の中で』

 ……日本語?

 そして、そのすぐ横にはLMの文字。

 アイに探せと言われていたものと、特徴と同じものだった。

 ああ……こんなところにあったのか。

 あんなにここで遊んでいたのに、建物の中には入れなかったもんな……記憶にないわけだ。

「……五日目」

 アイはその絵を見上げ、呟く。

「え……?」

 綾人も、俺のすぐ隣にやってきた。

「不思議な……絵だよね。ボクも、すごく引きこまれる感じがするんだ……」

「この絵……いつ見つけたんだ?」

「この絵を見つけたのは、一二月二四日の夜」

「え……?」

 どういうことだ……?

 一二月二四日の夜って……まさに今日じゃないか。

「ボク……劇に失敗して、ここに逃げ込んだんだ」

「劇に……失敗……?」

「それが、分岐点。ボクが変えたかった世界――――絵への願い事」

「願い……そうか……」

 絵に願えば、その願いが叶う……。

 ああ……ついに原因が分かった。

 この狂った世界の元凶――――綾人が世界のループを起こしていた張本人。

「オマエだったんだな……」

「うん……ずっと黙ってて、ごめん」

「そんなの……」

 言えるわけない、よな……。

 俺は身体中の力が抜けていくのを感じた。

「自分で決めたことだったのにね……。その日は、いっちゃんの他にも……おじさんとおばさんも呼んでいたんだ。ボクはずっとダメな子供だったから……だから、頑張っているところを観てもらって、認めてもらおうって思ったんだ。その前の日にね、商店街の抽選会でディナーチケットも当ててた。だから劇を成功させて、チケットも渡して、それで今までのこと謝ろうって……そう思っていた」

「綾人……」

「それなのに……途中で頭が真っ白になって、その場に座り込んでしまった。そこから、おじさんとおばさんが席を立って帰っていくのが見えた。ああ……やっぱりもう、やり直せないんだなって確信したんだ」

「…………」

「三周くらい前の世界かな……その世界でチケット当てたことあったよね? おばさん達に渡すって言ってたその時も、結局渡せなかったんだ……ううん、渡す気もなかった。あの時も……嘘ついてごめんね」

 もう綾人とあの二人の間には、修復できない溝があることを嫌というほどに感じた。

「良かったのか……それで」

「ボクは、吹っ切れたけどね……今となってはもう、変えようのない過去だから」

「…………」

「それで……そのままボクは、舞台から逃げ出したんだ。走って、走って……。気がついたら、ここに来ていた。好きだったんだ、この場所。いっちゃんとの、大切な思い出の場所だから。辛いこととかあると、よくここに来てた……すごく落ち着く場所だったんだ」

 そう言って綾人は俯く。

 髪が、顔に影を落とした。

「きっとこれは、いっちゃんとの約束を破った、罰なんだろうね……。きっといっちゃんは、あの夜もずっとボクを探してくれてたのに……まさかこんなところにいるなんて思わないもん……」

「そうか……」

 俺は、何度も見た夢を思い出した。

 走って……ただひたすらに走って、それでも、見つからなくて……。

 それは、綾人を探していたんだな……。

 夢なんかじゃなくて、現実に起こったことだったのか。

「ちょっと泣いたら、すぐに帰るつもりだったんだ。でもその日、入口の鍵が壊れていたことに初めて気が付いた。だから……ちょっと探検してみようと思って中に入ってみたんだ。天井も壁も穴が開いていて全然寒さよけにならなかったけど……。でも、なんとなく落ち着く場所だったんだよね。それからどのくらい経ったんだろう、ようやく帰ろうかなって思い始めた頃――――教会全体が、変な音を立てはじめた」

「変な音……?」

「この教会、長い間ずっと放っておかれたでしょ? だから、雪の重みに耐えられなくなったんだと思う」

「まさか……」

「そのまさか。建物が崩れたんだ」

「!」

 確かに立派な造りではあるが、手入れもされていないまま長年放置されていたんだ。

 木が腐食していてもおかしくはないが……。

「何本もの柱が倒れてきて、びっくりしたよ。でも、なんとか隙間に入れたみたいで……気がついたら、倒れたまま雪と空を見上げていた。寒いし、動けないし……もうダメかなーなんて思ったんだけど。ちょっと視線をずらしたらね……この絵がすぐ隣にあったんだ。その時、ふと思い出したんだよ。昔、施設で流れていた……ちょっとした噂。なんでも願いが叶うっていう、天使の絵……それが、森の教会にあるんだって。そういうの、あんまり信じてなかったんだけど……なんでかな。ちょっとしたでき心で、その絵に願ってしまった。劇をもう一度やりたいって。完璧なものを、いっちゃんに見せたいって。そしたらね……誰かが足元に立っていたんだ。視界がぼやけてたから、ハッキリは見えなかったんだけど……でも、その人は『分かった』って、確かにそう言ったんだ。それ聞いたら、すごい安心しちゃってさ。だんだん眠くもなってきて……たぶん、そのまま眠ってしまったんだと思う。それでね、その後気が付くと――――一二月一八日の朝になってた」

「っ」

「過去に……戻っていたんだ。それが、ループの始まりだった。いっちゃんも、途中から気づいてたよね?」

「オマエは……それにも、気づいてたんだな……」

「うん……」

 小さな声で返事をする。

 綾人は、俺がアイと接触する前から、ずっと……世界のループを知っていたんだ。

「俺が繰り返しに気づいていたことを……黙って見てたってことかよ……」

「そうだよ……全部、演技。言ったでしょ? ボク、実は演技……すごいうまいんだって。初めはわけ分かんなくて、いっちゃんみたいに色々やったんだよ。でも結果は変わらなかった。だから思ったんだ。そういうもんなんだって。ボクが願いを叶えなければ、この世界は永遠に続くんだって」

「オマエは……こんな狂った世界、平気だったのか?」

「初めは怖かったけど……このままいっちゃんと一緒にいられるのなら、それでいいって思ったんだ。劇を成功させてしまえば……願いが叶ってしまうから。だったら、この閉ざされた世界にずっといてもいいかなって。いっちゃんも、最後の方……なんとなく分かってたんだよね……?」

「……ああ」

 心に蓋をして……気付かないようにしてたのは、俺の方だ。

 綾人を疑わしく思っても、そんなことありえないって……考えることを拒否したんだ。

「いつも同じ毎日を過ごしてたのに、急に転校生なんか来たからさ……あの時は本当に驚いたよ」

 そう言って笑う綾人の表情を、俺は見たことがなかった。

 俺は綾人の言葉を遮るように、細い両肩を掴む。

「でも、もういいんだろ……!? 俺は……ここに辿りついた。劇だって成功した……それなら、オマエはもう時間を繰り返す理由はない!」

「うん……そうだね」

 その言葉に、心から安堵する。

 良かった……これで終わりなんだ。

 この狂った世界から……みんな、解放されるんだ。

「願いは、叶った……いっちゃんも……来てくれた。失敗しない、完璧な劇を見てくれた」

 本当に嬉しそうに、綾人は笑う。

「……本当……今まで、ありがとね」

「何言ってんだよ。もうこれからは、いつも通りなんだろ? だってオマエの願いは、もう叶っ――――」

 願いが、叶った……?


『それは、自分の命と引き換えに手に入れたチャンスだから』


 アイの言葉が呼び起こされる。


『それは、絵を描いた人物との契約。願いが叶った瞬間、その人物を――――絵に閉じ込めてしまう』


 ダメだ……これ以上……。

「もう……時間、なんだね……」

「!」

 綾人のその言葉と共に、建物が軋み出す音が聞こえた。

 これは……マズイ。

 さっきの綾人の言葉が正しければ、今日、この建物は壊れるはずだ。

「何してるんだ、綾人!」

 俺は慌てて綾人の元へ走る。

 早く逃げなければ……ここは崩れてしまう……!

「この週は、後悔しないように過ごしてきたつもりだったんだけど、それでもまだ……心残りってあるんだね。あんなに時間あったのに……悔しいなぁ」

「何言って……」

 伸ばした俺の手を、綾人はさっとかわした。

 行場のない手が空を切る。

 綾人は、俺に背を向け、一歩ずつ奥に向かって進んでいく。

「『二四日、劇が成功しますように』」

 綾人の透き通った声が、教会内に響く。

「いっちゃんが言ったとおり、ボクの願いは叶った。だからもう、世界は繰り返さないよ」

「綾……っ」

「だけど……ごめんね……ボクはもう、いっちゃんとは一緒にいられないんだ」

「なんで……」

「あの日……ボクが絵に願いをかけたあの日、この教会が崩れた時に――――死んでいるから」

「な……っ!?」

 何を言っているんだ……。

 綾人が……死んでる!?

 そんなわけないだろ!?

 だって、綾人は現に今ここに……!

「ギリギリのところで、絵に願いを言えて……本当に良かった。いっちゃんには、辛い思いをさせてしまったけれど……。だけど……この繰り返した世界は、神様がボクにくれた、特別な時間。この世界は――――本当に、幸せだった。最後に劇は大成功したし、友達だってたくさんできた。いっちゃんと、いっぱい一緒にいられた。ボクの人生の中で、一番楽しい一週間だった」

「っ」

「もういっちゃんと一緒に居られないのは、ちょっとさみしいけど……でも、もういっちゃんは一人でも大丈夫だから」

「大丈夫なわけあるかよ……! 俺はもっとオマエと……っ」

 オマエと一緒にいたいのに……!

 いつまでも隣で、オマエとバカやっていたいのに……!

「大丈夫だよ。だって、いっちゃんはもう……ちゃんと朝起きられるし、ご飯だって作れる。ボクがいなくても、ちゃんと一人で生活することができるから」

「オマエ、まさか……」

 そのために……今回の世界では、俺に手を貸さなかったのか……?

 俺が一人でも、ちゃんと生活を送れるようにするために……。

 わざと突き放したっていうのか……?

 綾人が急にいなくなっても、困らないように……。

 すべては、俺のために……。

「そんなの……っ」

 俺の方なんだ……。

 オマエに甘えていたのは……。

 オマエに居場所を求めていたのは……。

 オマエと、一緒に歩きたかったのは……。

 全部俺の方だったんだよ……っ!

「ありがとう……いっちゃん」

 そう言って綾人は――――そっと、右手を差し出す。

 何もないはずのそこから、小さな赤い花が出てきた。

 それは、いつかの小さな魔法。

 人を幸せにする、優しい魔法。

 そうか、ずっと練習してたのか……。

「ボク達は、これでもう会えなくなってしまうけれど……ボクのこと、たまにでいいから……思い出してね」

「!」

 辺りに鐘の音が鳴り響く。

「イツキ……」

 アイは呆然と立ち尽くす俺のすぐ横に立っていた。

 真っ白になっていく視界。

 世界が終わる合図だった。

「綾、人……」

 呟いた声は、ノイズに掻き消され……。

 それはもう綾人に届くことはなかった。

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