Ⅴ-Ⅵ 大崎五樹



 *一二月二三日 土曜日 自室



 冬の朝特有の寒さに、思わず薄っすらと目を開く。

 温まった毛布から顔を出し目線だけで窓の外を見れば、毎度の予定通り雪が降り続いていた。

 隣の家の屋根も真っ白になっている。

「ふぁ……」

 まだ寝ていろとでも言いたいのか、大きなあくびが出る。

 まあ、今日の予定は午後からだしな。

 昼前に起きて、少し掃除をすればいいだけだ。

 首を傾け、土日は鳴らない設定をしてある目覚まし時計を見れば、時刻は八時を過ぎたところだった。

 決めた、二度寝しよう。

 仰向けの体勢から、寝返りを打とうと身体を捻る。

「……ん?」

 身体の向きを変えた途端、すぐに何かに当たる。

 おかしいな……ベッドってこんなに狭かったっけ。

 また寝ぼけている頭で、考えを巡らせるが……。

「!」

 温かく、柔らかい何か触れた瞬間……俺の意識は覚醒した。

 それはまるで人の頭のようで……。

「くー……」

 いや違う。

 幽霊でも妖怪で死体でもない。

 そこには、あどけない顔で俺に引っ付き、幸せそうに眠る綾人の姿があった。

 さては、寒くなって入り込んできやがったか。

「んー……?」

 綾人がもぞもぞと動き出し、そして呑気に大あくびをかます。

「起きろバカ」

「へ?」

 半開きの目を擦りながら、首を上に向ける。

 二人は思ったより近い距離で見つめ合った。

「……てめえ、何勝手に人のベッドに忍び込んでんだよ。ビックリしたじゃねえか」

「あー……ごめんごめん。完全に無意識。きっと寒かったんだね……」

 そう言って再び猫のように丸くなる。

 どうやら起きる気はないらしい。

 俯いた綾人の頭が胸元に当たった。

 サラサラした髪から、同じシャンプーの匂いがする。

 相変わらずちっさいなー……。

 子供の頃からずっと視点が変わらない気がする。

 それどころか、身長はどんどん離れていくし。

「……なぁ、綾人」

「んー?」

「両親居なくて、寂しくなかったのか?」

 さりげなく、訊いてみる。

「……そもそもそれは、自業自得だからなあ。……分かってたのに、反抗しちゃったわけだし」

 綾人の声色は、ひどく落ち着いたものだった。

「家事とかさ、意外となんとかなっちゃうんだよね。いくら才能なんかなくってもさ、何度も繰り返してるうちに、できるようになるもんだよ」

「それはそうだな……」

 俺だって、今回そうだったし……。

「そういういっちゃんだって、お母さん、仕事で忙しくてあんまり家にいなかったじゃない? 寂しくなかったの?」

「俺は……」

 確かに、綾人の言うとおり……。

 俺の生活の条件は、綾人とほとんど変わらない。

 でも……寂しくは、なかった気がする……。

 母さんのこと、苦手だったし……。

 何より、隣にはいつも……。

「…………」

 ……言わないけどな。

「たぶん、ボクも一緒。だって、一人ぼっちじゃなかったから」

 それは、はっきりとした口調で……強がりから来るものではない気がした。

 横になったまま、綾人の頭に顎を乗せた。

 綾人はくすぐったそうに目を細めるが、すぐに大人しくなり、こちらに身を委ねる。

「いっちゃん……お母さんみたいだね……」

「うちの母親はこんなことしないぞ」

「……うちも」

 目を合わせ、笑う。

 いつしか太陽は、空の真上にまで登っていた。



 *一二月二三日 土曜日 リビング



 昼食を食べ終わり、時計が一三時をまわった頃。

 家のインターホンが鳴った。

「あ、来た」

 綾人はぴょこんとリビングの椅子から立ち上がり、玄関に仲間を迎えに行く。

「よお、大崎。邪魔するぜ」

「こんにちは」

 神田とアイが同時にリビングに顔を出した。

 アイは薄手のカーディガン姿だが、神田はしっかりと綿の入った海外製のジャケットを羽織っている。

 完全に冬仕様な神田と、春を先取りしすぎているアイ。

 対照的な服装だった。

「へえ、なかなかいい家に住んでるじゃねえか」

「うん、すごく素敵だ」

 オマエらには言われたくない。

「アイ、そんなんで寒くないのか?」

「私は特にそういうの、感じないから」

 そう言って白いカーディガンを脱いで、シャツとジーパンという更に薄着姿になる。

「つっても限度があるだろ。駅前でボーっと雪だるまみたいになってたコイツを見た時はビビったぜ」

「雪だるま?」

「少し早く着き過ぎてしまったんだ。だからその場で待っていた」

「だったら、どこか店にでも入っていたら良かっただろ」

 呆れたように神田がアイを見る。

「うーん……でも、雪が降っていたから」

「……雪?」

 アイから返って来たのは、謎の答えだった。

「そう。それを見ていたんだ」

「……楽しいのか、それ」

「わりと」

 そう言ってニッコリと笑う。

 久しぶりに不思議ちゃんを発揮したな。

「よし、そんじゃとっとと始めようぜ」

 神田が話を切り出した。

「昨日言ったとおり、買い出し班と家での設営班に別れるわけだが……オレはコイツとは行きたくないので、大崎か月島、どっちかと組む」

 なんだそれ、自己中か。

「オマエらまだ冷戦継続中なのか?」

 昨日、普通に話していたじゃねーか。

「さっき改めて話したが、やっぱりコイツとは分かり合えないな。……結局何も教えねーし」

「…………」

 神田の言葉に、アイは困ったように微笑むだけだった。

「ええと……それじゃあどうする?」

 綾人はおずおずと全員の顔を見回す。

「俺はどっちでもいいけど……」

「じゃあ三人で行くぞ」

「は?」

 神田は返事を聞く前に、俺と綾人の肩を掴んだ。

 そしてそのまま俺達を連れ、今入ってきたばかりの玄関に再び向かう。

「三人で行ってくる。いいな、四位……じゃなくて、転校生」

 有無を言わせない神田の言葉に、アイは小さくため息をついた。

「私も嫌われたものだね。それじゃあ……」

 アイは持ってきた紙袋の中から自前のエプロンを取り出す。

 そしてそれを手際よく身に付けた。

「簡単な食事の用意をしておこう」

「それいいな!」

 アイの考えに賛同する。

 料理ならアイに任せておけば問題ないからな。

「ほら、行くぞ」

「おー!」

 マフラーを巻き、出かける準備を終えた綾人は元気よく返事をする。

 俺も玄関先でコートを羽織り、綾人と神田の三人で寒空の下へと繰り出した。



 *一二月二三日 土曜日 商店街



「ありがとうございましたー」

 商店街にある『パティスリーウエノ』店員のお姉さんは、切れ長の目を細め軽く会釈する。

 委員長はちゃんと伝えておいてくれたらしく、巨大なケーキの入った箱を渡された。

「いつも煉と仲良くしてくれてありがとうね」

「は、はい……」

 やっぱり笑った目元が委員長によく似ていて……美人だった。

 緊張のせいで一言しか返事を返すことしかできない。

「じゃあね、シュウちゃん」

 やはり神田とは顔見知りのようで……あだ名で呼ばれている。

 こりゃ間違いなく委員長にも通ってることバレてるな。

 お姉さんが胸元で小さく手を振れば、神田は照れたように片手を上げた。

「じゃあ、また……」

 二人とも妙に恥ずかしくなって、そそくさと店を出る。

 ケーキの箱を見てニコニコしているのは綾人だけだった。

 真冬であるにも関わらず、少しだけ顔が汗ばんでいた。

 俺達は店先に集まると、その場で少し立ち止まる。

「買い物は、こんなもんか」

 両手に抱えた大量の袋を見て、綾人に確認する。

「うん! 最後にケーキも買ったし、大丈夫だと思うよ!」

「結構買ったな……」

 両手に荷物を持たされた神田が、それを持ち上げる。

 コイツは無駄に筋力があるから、荷物持ちとしてはかなり優秀だな。

「ん?」

 そのタイミングで、神田の携帯が鳴る。

「この時間に電話が来るってことは……煉からだな」

 電話に出たそうだったので、右手の荷物を受け取ってやる。

 神田はポケットから取り出した携帯を耳に当てた。

「ああ……お疲れ。んじゃ、迎え行く」

 穏やかに微笑みながら、一言会話を交わすとすぐに携帯をポケットに戻す。

「つーことで、ちょっと駅前まで迎えに行ってくる」

「分かった。それじゃあ俺達は荷物持って先に帰ってるか」

「ああ、頼む」

 持っていた荷物を渡し、神田はそのまままっすぐに委員長の待つ、駅の方面へ向かって行った。

 ビニール袋や紙袋に入ったそれは、今日使用するパーティー用のクラッカーやお菓子、飲み物類がこれでもかというほどに詰め込まれていた。

 一つ一つは軽いのだが、量があるだけに重いしかさばる。

 寒いし、すぐにでも早く帰りたいと思ったのだが……。

「まだ少し予算が余ってるな」

 このまま戻ってみんなで分けてもいいのだが……。

「それじゃあ、何かみんなで楽しめるものでも、追加で買ってく?」

「オマエにしてはいい考えだな」

「でしょでしょ」

 褒められたことが嬉しかったのか、幼馴染は得意げな顔を返してきた。

「なんかみんなで遊べそうなものあるか?」

「んー……そうだなぁ……」

 綾人は少し考え込んで……。

「あ、それじゃあ花火!」

 ポンと、両手を叩いた。

「花火、か……」

 いつか綾人と二人で遊んだあの夜を思い出した。

 確かあれは神父さんにもらったと言っていたっけ。

 冬の澄んだ空気の中での花火はすげー綺麗だったな。

 綾人にしてはいい考えだ。

「それじゃあ、買いに行くか」

 雪の舞い散る道を、一歩踏み出そうとしたのだが……そこで足が止まる。

 この真冬に花火なんて売っているところはあるのだろうか。

 コンビニにはきっとないだろうし……そうなるとホームセンターとかか?

 それでもこんな時期にわざわざ取り扱っている場所なんてなかなか稀だ。

 店舗に直接電話で確認した方が早い気もするが……。

 一店舗ずつそれを確認していくのは、なかなか骨が折れる作業だな。

「早くも手詰まりか……ん?」

 何かないかと周囲を見回していると、商店街を抜けた先の大通りにできている小さな集まりが目に入った。

「なんだろうね?」

 綾人もそれに気付いたようで、一生懸命背伸びしている。

「あれ、撮影じゃない?」

 綾人はその人だかりの正体に気づいたようだ。

 大通り……撮影……なんか記憶の中にその単語で引っかかるものが……。

「あ」

 その場所に到着し、中心人物達と目があったところでようやく思い出す。

「五樹先輩!」

 ちょうど休憩中だったのか、悠希はペットボトルに入ったお茶をその場に置くと、嬉しそうに駆け寄ってきた。

 風がふわりと吹く。

 いつものサラサラの髪とは違い、前髪はワックスによって後ろに固められ、大人っぽくなっていた。

 周りのヤツらは有名人と親しげな一般人の登場に、不思議そうにこちらを見ている。

 なんだか視線を独占しているようで居心地が良くない。

「どうしたんですか、こんなところで。しかもその大荷物」

 状況をまるで気にした様子もなく、悠希は俺が両手に持っている荷物を興味津々に覗き込んだ。

「あ、ああ……今日ちょっとしたパーティーやるんだ」

「パーティー……クリスマスパーティーですか?」

「いや、お疲れパーティーだ。昨日の球技大会の」

「そっか。昨日、優勝してたもんね」

「!」

 背後から聞こえる可愛らしい声に振り返れば、そこには撮影用の衣装を来た田端さんが微笑みながら歩いてくるところだった。

 春服の撮影なのか、少し薄手のグレーのニットワンピースを着ている。

 どうやら田端さんも休憩の合間に来てくれたらしい。

 風で乱れる髪を直しながら、自然と悠希の隣に立った。

「ああ、あれは悔しかったなあ……」

 そう言って、穏やかに笑う後輩。

 その表情から、悠希の毒気はすっかりなくなっている気がした。

「大崎くんの、最後のスリーポイントシュート格好良かったよ」

「!」

 田端さんに褒められ、俺の思考はフリーズする。

 『格好良かったよ』の部分が、頭の中で延々とリピートし続けている。

「みんなで集まって優勝パーティーなんて、なんだか可愛いね」

「まあ……みんな、ヒマ人で」

 ようやく我を取り戻し、田端さんになんとか返事をすることができた。

「でも、そうやって集まれる友達がいるのって、すごく素敵なことだと思うよ」

 田端さんはそう言って、髪を耳にかけた。

 ……断言しよう。

 裏の顔があろうとなかろうと……。

 田端さんは可愛い!

 それだけは揺るぎない事実だ。

「それじゃあ、私達はそろそろ撮影に戻ろっか」

 現場の雰囲気を察したのか、田端さんは悠希の袖を軽く引っ張った。

「ああ、撮影頑張れよ……あ、悠希」

「はい?」

 俺は情報通の後輩に、探し物の売っている場所を訊いてみることにした。

「この辺りで……花火売ってるところなんて……知らないよな?」

「花火、ですか?」

 悠希は困ったように唸る。

 さすがのコイツも突然そんなこと訊かれても、思い浮かばないよなあ。

「あ……」

 意外にも隣の田端さんが小さく声を出した。

「そこの細い道を入ったところに、小さな雑貨屋さんがあるんだけど……そこにあるかも」

 まさかの情報だった。

「取り扱ってる物が可愛いから、友達の誕生日プレゼントとか、よくそこで買うんだけど……。夏でもクリスマスツリーとか、冬でも風鈴とか売ってるんだ。去年の冬、そこで花火を売っていた記憶があるの。もしかしたら今年もあるかもしれない」

 さすが田端さん!

 男友達からは絶対に出てこない情報だ。

「あ、ありがとう……田端さん!」

「うん、見つかるといいね」

「それじゃあ先輩、また」

 二人は頷きあうと、仲むつまじく撮影場所に戻っていった。

 端から見たら、本当にお似合いのカップルだよなぁ。

 神田はこの二人はくっつかないみたいなこと言ってたけど……何か理由でも知っているのだろうか。

「いいこと聞いたね」

 綾人が隣で嬉しそうに見上げてくる。

「ああ。早速行ってみるか」

「おー!」

 今度は商店街を学校側に向かって歩いていく。

 猫だけが知っていそうな細い裏道を少し進んだところに、小さな雑貨屋が姿を現した。

 コンクリートのビルに挟まれた木造の建物は、外壁を青緑……あの海外の高級ブランドによく似た色で塗られていた。

 外観の大きさから、店内は五人入れるか入れないかくらいの小さな店だ。

 ショーウィンドウには、今の時期にぴったりなスノードームやクリスマスツリーが仄かな明かりの照明に照らされながらディスプレイされている。

 その奥に見える店の中も所狭しとアンティークグッズや食器、アクセサリーなどが並べられていた。

 まさに店主の趣味の店という感じだ。

 看板には丸文字で『マグ・メル』と書かれている。

 この店の名前だろうか。

「んじゃ、さっさと買って……あ」

 入ろうと手を伸ばした木製の扉には『CLOSE』の看板がかかっていた。

「マジかー」

 こんなときに、ツイていない。

 さすがの田端さんも、土曜日に休みになっているなんて想定外だっただろうし。

 こういう個人の店って、店主の気分とかで営業したりしなかったりするんだろうな。

「仕方ない、大人しく帰るか」

「そうだね……」

 まだ諦めきれないのか、綾人は何度かその中を覗く。

 もちろんその店が開くことはない。

 綾人は名残惜しそうにその場を離れた。

 俺達は細道を戻り、商店街のメイン通りに戻ってきた。

 するとすぐに、カランカランと手振りベルの音が聞こえてきた。

 そういや、今日はクリスマス抽選会やってるんだっけ。

「あ。ボク、券持ってる」

「まあ、結構買ったしな。とりあえず引くだけ引くか」

「そうしよ」

 帰る途中の道にある広場に、小さなテントと長机が並んでいる。

 そこでは数人が順番待ちをしていて、残りの景品を覗き込んでいた。

「今回は二回引けるよ」

「え……?」

「何? どうかした?」

「あ……いや……結構、買ったんだな」

「うん、大荷物だしね。いっちゃんとボク、一回ずつ引こっか」

 綾人から券を一枚受け取ると、最後尾に並んだ。

 夕方のせいか、上位の賞はほとんど無くなっているようだ。

 すぐに順番がやってきた。

「それじゃ、ボクから引くよー」

 綾人が気合を入れてガラガラに手をかける。

 出てきたのは白色の玉だった。

「はい、参加賞のボックスティッシュですねー」

「うう……」

 何回目かのループで引いた三等賞は奇跡だったってことだな。

 綾人に続き、俺も手を伸ばす。

 ま、俺もボックスティッシュの流れかな。

 コロンと飛び出たのは黄色い玉。

 ……なんだこの色。

「おめでとうございまーす、六等です!」

 係員のお兄さんが高らかにベルを振ってくれる。

 いや、六等って……。

 喜んでいいのかめちゃくちゃ微妙なんだが。

「この中から好きな景品をお選びください」

 お兄さんは裏からダンボール箱を持ってきて、机の上にドンと置いた。

 その中には年代物の陶器や色褪せたパッケージのプラモデル、型落ちしたドライヤーなど、バラエティに富んだ物が詰め込まれている。

 なるほど、各店舗から集めた余り物箱ってところか。

 こんなの渡されてもなあ……。

 とりあえずガサゴソと中を漁ってみるが……。

「お……?」

 そのガラクタ箱の中から、まさかのお宝を発掘した。



 *一二月二三日 土曜日 夕方



「それじゃ、我らチームの優勝を祝しまして……」

「乾杯っ!」

「乾杯ーっ」

 グラスが当たる音が軽快に響く。

 色とりどりのの飲み物が、ライトに反射してキラキラと光っていた。

 ま、ジュースだけどな。

「さて、ケーキケーキ」

 早速神田が、ケーキの箱を開けようとする。

「馬鹿者、ケーキはデザートだ」

 大会から直接やってきた委員長が、神田を静止する。

 前もそんなこと言われてたな。

 ちなみに委員長は今回も個人戦、団体戦共に優勝したらしい。

 それでもテンションがいつもと変わらないのは、さすが委員長だよな。

「はい、いっちゃんお菓子」

 綾人はどこからかビニール袋に入った、大量のお菓子を持ってきた。

「これ、あの時の……」

「そ。おばちゃんからもらったヤツ。せっかくだから、食べようよ」

「そうだな……」

 事故のことを思い出して、少し複雑な気持ちになる。

 まだ、そのおばちゃんの子供の事故だと確定したわけではないんだけどな……。

 それでも……。

「何ボーッとしてんだよ、主役!」

「いてっ!」

 委員長に怒られた神田が絡んできた。

 何故か俺の横にどかっと座る。

 勢い余って、ガタッと机が揺れた。

「なんでそんなにテンション高いんだよ」

「そりゃあ、ようやく駒込のクラスを倒したからな」

 当然だろ、という顔をされた。

 まあ、そうなんだけど……。

「大崎」

 ぐいと方を引かれたかと思えば、神田の声が耳元で真剣な声に変わる。

 どうやら他のメンバーにはあまり聞かれたくない話があったようだ。

「今週は特に何の変わりもないか?」

 俺も声のトーンを少し抑えて答える。

「うーん……正直分からない。いつもの週と全然違うし……正直、アイの言ういつも通りには過ごせてもいないし……」

「だよなぁ。オレだって駒込を止めたり、大会優勝したりしてるけど、それがいつも通りかっていったら分からねーもん。まあ派手なことしたら、四位が止めてくるだろうから、その辺りは勝手に許容の範囲内だと思っているが……。アイツ、何も教えねーからなぁ」

 神田はアイを見て、わざとらしくため息を吐いた。

「オマエ達って仲間なんじゃないのか? 同じ組織なんだろ? でも同じだけ情報持ってるわけじゃないみたいだし……」

「仲間というよりは……敵じゃないって言った方が正しいな。会社みたいなもんだよ。アイツは今重要プロジェクトに関わってるけど、オレはそれに何も関わってない。だからその件に関わる情報はオレには開示されない。だから、コソコソ調べるしかないわけだ」

「ああ……」

 何となく分かった。

 同じ会社でも、部署ごとにやってる仕事は違うもんな。

 その部署ごとに管理してる情報も違うだろうし。

「組織の重要プロジェクトだから、オレが邪魔したらそれなりの処分を受けないといけなくなるしなぁ……」

「処分?」

 なんだか物騒な響きだな。

「オレのこの生活は『許されている』ものなんだ。本部の決定一つで、すぐに連れ戻される」

「え……?」

 神田の言葉に、思わず顔を上げる。

 そういえば、アイと神田が初めて会った時そんなこと言っていたっけ。

 オレを連れ戻しに来たんじゃないのか、とかなんとか……。

「この生活って……」

「うーん……普通に、学校通ったり、こういうことしたり」

「何で、それがいつまでできるか分からないんだよ……」

 真剣に見つめる俺を安心させるように、神田は優しく笑った。

「……わり。場合によってはって話だ。そんな顔すんな。それに、後一日でループは終わる。まさかここからどんでん返しなんて起きないだろ」

 そう言って目の前にあった軽食に手を伸ばす。

「美味いな、この……爪楊枝刺さってるヤツ」

「ピンチョスだよ。爪楊枝じゃなくて揚げたパスタだから、全部食べれるよ」

 アイから訂正が入った。

「じゃあ、こっちのパンは?」

「ブルスケッタ。上に乗ってるのは、パンチェッタとクリームチーズ。軽く摘んで食べれるようなものばかり作ったつもり」

「さっきから何言ってんだ? 呪文か?」

「…………」

 アイは笑顔のままだったが、もう説明はやめたとの意思が感じ取れた。

「こんな材料、よくあったな」

 うちには無かったはずだが、アイがわざわざ買い出しに出た形跡はない。

「キミ達が出かけている間に、家から持ってきてもらったんだ。ちょうどパンチェッタも食べ頃だったし」

「よく分かんねーけどすごいな」

 食べ頃ってことは、この肉みたいなヤツは自分で作ったってことか?

 どういう原理でこれができ上がったのかさっぱり分からないが……俺に教えてくれた料理は初歩の初歩だったんだな。

「渋谷は色々な料理を知っているのだな」

 委員長が関心しながら、なんとかチョスを口に入れる。

「知識だけだよ。料理をしている時は無心になれるし。何故この国でこの料理が生まれたのか……そんなことを考えることが好きなんだ」

「それは……素敵な趣味だな」

「ありがとう。私はまだまだ未熟だから……もっといろいろなことを知りたいんだ」

「ふーん」

 神田はつまらなそうに、ジュースを一口飲んだ。

 今のアイの言葉に、何か思うことでもあるのだろうか。

「おい、大崎。なんか盛り上がる話ないのかよ」

 そして突然無茶振りしてきた。

「盛り上がる話?」

 なんだよ、そのざっくりとした話題は。

 そんなこと言われてもな……。

 うーん、盛り上がる話か。

「あ」

 一つ思い出した。

 あったあった。

 いつかネタにしてやろうと思っていたこと。

「お、見つかったか?」

 神田は興味津々に食いついてくる。

「『金髪巨乳美女、乱れて……』」

「ブッ!」

「わ! なんだ鷲介!? いきなり吹き出したりして!?」

 突如ジュースを吹き出した神田に、委員長が素早くツッコミを入れる。

 やべ……思った以上に、効果覿面だった。

「お、おおお大崎てめえ……それをどこで……」

 顔を真っ赤にした上、動揺して噛みまくっている。

「どこって……いやあ……さすがに、ベッドの下はベタ過ぎると思うぜ」

「……っ! あの時か……っ」

 どうやら思い当たったらしい。

「なになにー? 金髪美女?」

「一体何の話だ?」

「うわああ、なんでもない!」

 綾人と委員長、純真無垢二人に迫られ、声が裏返る神田。

「金髪美女って、例の彼女のことかい?」

「転校生! 余計なこと喋るなッ!」

 よしよし、なかなか盛り上がったな。

 しかしまだ、パーティーは始まったばかりなのだ。

 俺はアイの作った料理をゆっくりと楽しむことにした。



 *



「ふう……」

 パーティーも終盤に差し掛かり、少し疲れた俺は、一息付くためにトイレに来ていた。

 用を済ませ洗面所で手を洗い、ホッと一息つく。

 鏡に写った自分の顔は、少し疲れているようだった。

 こんなに大勢で騒いだのはいつぶりだろう。

 今回のループは明日で終わりらしいが……。

 この世界が終わってしまうなんて、すごく名残惜しい。

 いつかまた、こんな日を過ごすことができるのだろうか。

 この世界が意味のないものになってしまう気がして、気分が重くなる。

「あれ……」

 リビングに戻る途中、玄関の鍵が開いていることに気づいた。

 ……おかしいな、閉めたのを確認したはずだったが。

 勘違いだったのだろうか。

 気になって、ドアを開けてみる。

「あ……」

 すると。

 玄関を出てすぐそこには、見たことのあるシルエット。

 それは……雪の降る中、夜風にあたる委員長の姿だった。

 長い髪が風に揺れていて、その姿がとても儚く見える。

「なんだ、オマエものぼせたのか?」

 こちらを見て、柔らかく微笑んだ。

 少し赤くなっている頬。

 どうやら委員長は、気分転換に外に出ていたようだ。

「俺も気分転換。あの部屋に男五人は暑苦しいよな」

「ふふ……そうだな」

「でも、スゲー楽しかったよ。なんていうか、その……委員長のおかげだ」

「自分の? 特に何かした記憶はないのだが」

「そんなことないって。委員長が声かけてくれたから、こうやって集まっているわけだし」

 今回だけじゃない。

 いつも俺や綾人に話しかけてくれるし、こうやってパーティーの声かけだってしてくれる。

 委員長がいなければ、たぶんこのメンツがこんなにまとまることはなかったよな。

「大崎」

「ん?」

「聞き流してくれて構わないのだが……」

 委員長は大きく息を吐いた。

 白い息が、雪と混じり合う。

「たまに、すごく不安になるんだ……この世界が消えてしまうような気がして……」

「!」

 ドキリと。

 心臓がはねた気がした。

「……なんで、そんなこと思うんだ?」

「ふむ……何故だろうな。しいて名前をつけるとしたら、第六感というヤツだ」

 ……すごいな、委員長のカンってヤツは。

 まさに今のこの世界の状態じゃないか。

 明日にはこの世界は消えてしまう。

 そうだ……どうせこの世界は消えてしまうんだ。

「なあ……委員長」

 それなら、委員長に話しても……いいんじゃないのか?

「なんだ?」

「あ……ええと……」

 だって……次の世界では、この世界の記憶がなくなるんだから……。

 それなら……。

「もしも、明日で……自分の記憶の全てが消えてしまうとしたら……。委員長なら、どうする……?」

「いきなりどうした」

 ちょっと真実とは違うけど、似たようなものだよな。

 委員長は一瞬、面を食らった顔をしたが……。

「……そうだな」

 すぐに真剣な表情になる。

 こんな突拍子もない話を真面目に考えてくれるのは、とても委員長らしい。

「明日とは、また急だが。日付が分かっているのならば好都合。それこそ、自分なら変わらない日を望む。きっと今日と同じく、こんなパーティーを開くだろうな」

「え……」

 それは、俺が予想していたもののどれとも違っていた。

「意味のないものになるのに、か?」

「意味のないもの……か」

 委員長はどう言うべきか悩んでいるようだった。

「それは、本当にそうなのだろうか」

「え?」

「考えてもみろ。自分達がすることに、初めから意味などないじゃないか」

 返ってきた答えは、なんだか哲学的だった。

「自分達は、いつか必ず死ぬ。死因がなんであれ、必ず死ぬんだ。しかもそれは、いつになるのか誰にも分からない」

「…………」

「さて、先ほどの話に戻ろう。消えるのは、自分の記憶だけなんだろう?」

「あ、ああ……」

「それなら、自分が忘れても、他の者が覚えているじゃないか。自分は……自分が覚えていることよりも、他の人が覚えていてくれる方が重要だと思う」

「他の人が……?」

「自分で覚えていることよりも、他人の記憶に残りたい。それが思い出にしろ、技術にしろ、残した物にしろ……。自分が何かと関われば関わるほど、自分が……確かにここにいたんだという痕跡が残る。記憶の中で生き続ける……ということだな。それならば、その思い出も……意味のあるものになるだろう。よって、さっきのオマエの質問に対する答えは……パーティーを開く、だ。自分が忘れてしまっても、オマエ達が覚えていてくれるように」

 委員長はそう言って、雪の中で優しく笑う。

 その笑顔は街灯に照らされて、すごく綺麗だった。

「何やってんだオマエら」

「!」

 後ろを振り返れば、いつの間にか玄関先に全員が集合していた。

「もー、いきなりいなくなるからビックリしたよー」

 一番最後に、綾人もやって来る。

「雪、止む気配ねーなあ……」

 空を見上げながら、神田が眉を顰める。

「でも、夜の雪って綺麗だよね」

「二人とも、ずっと外にいたの? 風邪ひいちゃうよ?」

 綾人が駆け寄ってきて、俺の首にマフラーを巻いた。

「そうだな……」

 そう言われれば、だいぶ身体が冷えている。

 思ったよりも長い間、委員長と話してたみたいだ。

「ねえねえ、イツキ。玄関でコレを見つけたんだけど」

 アイが巾着型のビニールバッグに入ったものを見せてくる。

「お! 花火じゃん」

 この時期には滅多にお目にかからない代物に、神田が目を輝かせる。

「ああ……買い出し行った時に、クリスマス抽選会で当たったんだ。冬の花火って、結構綺麗なんだぜ」

 まさかあんな残り物の箱の中に入っているとはな。

 派手な打ち上げ花火こそないものの、手持ち花火は一通り揃っているし、数は少ないが噴出花火もある。

 うちの庭で楽しむには十分な量だ。

 そういや神父さんもあの抽選会で当てたって言ってたっけ。

 今回はそっちに行かずに俺の手のもとにやってきたってことだな。

「ナイスだ大崎! 早速やろうぜ!」

「うむ、冬に花火というのも贅沢でいいものだな」

「私もやりたい……!」

 意外にもアイまで笑顔になっていた。

「よし、それじゃあシメにパーッと花火でもやるか!」

 俺はビニール袋に入ったそれを、高らかに掲げた。



 *



「おお! 色が変わった!」

「変色花火か……綺麗だな」

 神田と委員長は二人で、いろいろな手持ち花火を試している。

 やはり冬の澄んだ空気では、花火がより綺麗に見える気がした。

「いっちゃん見て見てっ! 二刀流っ!」

 と言って走りまわっているのは、綾人。

 手持ち花火を両手に持って、遊んでいる。

 オマエは小学生か。

 まあ……確かにやってみたい気持ちは分かるが。

「ったく……」

 本当しょうがないな、コイツは。

 無邪気に笑う幼馴染を見て、思わず苦笑する。

「……ん?」

 庭の端っこで……。

 しゃがみながら、何かを不思議そうに見ているアイが目に入る。

「アイ、何やってんだ?」

「あ、イツキ。これは、なんだい?」

 アイが持っていたのは、細い花火の束だ。

「ああ、線香花火か」

 絢爛さで人を魅了する花火が多い中、なんとも言えない哀愁を感じられる花火ナンバーワンだ。

「そう、これが……」

「?」

 アイはそう言って目を細める。

 線香花火に、何か思うことがあるのだろうか。

「ねえ、イツキ……火をつけてくれるかい?」

「あ、ああ……」

 俺は手にしていたライターで、先端部に火を灯してやった。

「わ……」

 パチパチと、静かに光を放ち始める。

 少しだけ火薬の匂いがした。

「綺麗だね……とても」

「そうだな……」

 俺も思わず、その小さな光の玉に魅入ってしまう。

 不思議な魅力を持った花火だよな……。

「あ……」

 冷たい風で揺れる小さな炎。

 それは耐えられず、ぽたりと地面に落ちてしまった。

「残念」

「ほら、まだたくさん残ってるぞ」

 俺は再びアイに線香花火を渡す。

「もう一度、お願いできるかい?」

「ああ」

 俺はそれに静かに火をつける。

 アイは嬉しそうに花火に魅入っていた。

 本当、何でも珍しいんだな。

「線香花火って、人間の一生を表してるっていうよね」

「あー……何となく聞いたことあるような」

「一番美しい時に死ぬのと、枯れ果てて死ぬの……どっちがいいんだろう」

 また難しいことを……。

 やっぱりコイツとは考えていることがまるで違うな。

「そういうオマエはどう思うんだ?」

「私は……」

 アイはパチパチと音を鳴らす線香花火をじっと見ている。

 しかしその火の玉は、再び風によって最後まで燃え尽きることなく地面に落ちる。

 雪の上に落ちたため、ジュッという音がした。

「自分が死にたいと思った時に死にたい。不慮で死ぬのは……後悔が残るから」

「そりゃ……みんなそうだろうよ」

「…………」

 アイはその落ちた残骸を真っ直ぐな瞳で見つめる。

 雪の上に落ちた火の玉は黒くなり、グズグズと燻っていた。

 まるで最期の抵抗をしているかのように。

「せめて、最期は幸せな思い出を……」

 アイの声が風によってかき消される。

 花火の残りは、もう数本だけになっていた。



 *



「すっかり遅くなってしまったな」

 帰り支度を終えた委員長が、玄関先で両手を暖める。

 すっかり夜は更け、今日の終わりに近づいていた。

「いいんだよ、たまには」

 神田が委員長の肩に手を置く。

 コイツは夜遊びとか、慣れてそうだもんな。

「楽しい時間というのは、あっという間に過ぎてしまうからね……」

「そうなんだよな……」

 そればかりは、子供の頃から変わらない。

 夢中になればなるほど、時間は早く経ってしまう。

「それじゃあ、我々は帰ろう」

「楽しかったぞ」

「今日はありがとうな、大崎」

「おう、気をつけてな」

 神田達は並んで俺と綾人に手を振った。

 アイも一礼して背を向けた。

「転ぶなよー!」

 三人の背中に向かって叫ぶが……。

 降り続く雪が、すぐに視界を隠してしまった。

「…………」

 白銀の世界に残される俺と綾人。

 そこにあったのは、不思議な空気だった。

「楽しかったねえ……」

 綾人がしみじみと呟く。

 ちらりと綾人を見れば、優しく微笑む横顔。

 まさか、コイツからそんな言葉が聞ける日が来るとは、思わなかったな。

 今までの世界では、俺の背中に隠れていたばかりで誰とも関わろうとしなかったのに。

 この世界の綾人は、本当に積極的だった。

 友達もいて、神田達とも仲良くできて。

 だけどそれも、この世界が終わったらなかったことになっちまうんだよな……。

 ループからは脱出するらしいが……一体どうなるんだろう。

 ……まあ、いいか。

 後はアイに任せておけば何も問題はないよな。

 コイツにも、みんなと楽しむことができるっていうことが分かったんだ。

 それなら、新しい世界でそれを引き出してやろう。

 また、みんなと仲良くなれる世界にしよう。

 また……パーティーを開こう。

 楽しい思い出を、たくさん作るために……。

「それじゃ、ボクも帰ろうかな。片付けは明日するね」

 ステップを踏むように、くるりと自分の家に身体を向ける。

「今日は、泊まっていかないのか?」

「…………」

 綾人はまるで、言葉を探すように俺の目をまっすぐに見た。

「……ありがとう。でも、もう大丈夫。今日は最後の練習しなくちゃいけないから」

「ああ、そうか……」

 明日は主演の劇がある日だもんな。

 今日は最後の練習ができる時間なんだ。

 綾人なりの調整もあるんだろうし……。

「いっちゃん……ボク、頑張るから。だから、明日、絶対に見に来てね」

「ああ」

 俺は綾人の不安を取り除くように、強く頷いた。

 綾人の頭に積もる雪をはらう。

「……あんま、無理すんなよ」

「うん、ありがとう」

 綾人は俺を真っ直ぐに見上げ、そして眩しそうに目を細めた。

「じゃあ、また明日な」

「うん……」

 綾人は少しだけ疲れた表情で笑うと、自分の家に戻っていった。

 俺も家への扉を開く。

「あー……寒かった」

 風が遮断され、次第に熱が戻ってくる身体。

 それでも玄関はまだまだ寒い。

 俺はさらなる暖を求め、リビングに戻った。

 先ほどまでの喧騒が幻だったかのように、リビングは今ではすっかり静寂に包まれていた。

 なんだか、部屋が急に広くなったような気がする。

「シャワーでも浴びて、寝るか……」

 寂しさを紛らわすように、呟く。

 もちろん、それに対する返事はない。

「ん?」

 と。

 ダイニングテーブルの上に、起きっぱなしになった携帯電話を見つけた。

 ポツンと……寂しそうにそこに置かれている。

 ったく、誰の忘れ物だ?

「いや、待てよ……」

 この携帯……。

「これ綾人のじゃねえか……」

 こんなに堂々と忘れていくなんて……。

 アイツ、やっぱりどこか抜けてやがるな……。

「はあ……」

 仕方ねえな……。

 これから外に出るのは億劫だから、二階の窓から投げ入れてやるか。

 リビングのカーテンの隙間からちらりと覗けば、綾人の部屋は電気が点いていた。

 俺は机へ移動し携帯に手を伸ばす。

「あれ……?」

 画面は真っ暗になっておらず、メッセージの作成画面が表示されていた。

 宛先は……。

「俺……?」

 なんで……。

 さっきまで目の前にいたのに、どうして……。

 送りかけの文章に目線を移す。

 そこに書いてあったのは、たった一言――――。

『ずっと嘘ついてて、ごめん』

「え……」

 ぞくり、と。

 尖った氷が背中をなぞっていく感覚……。

 そしてそれは、真ん中辺りで動きを止め……。

 そのまま、柔らかな皮膚に……ゆっくりと食い込んでいくようだった。

「なんだよ……この感じ……」

 落ち着け……。

 俺は……。

 俺は、大事なことを見落としていないか?

 見落とす……その言葉に感じたのは違和感だった。


『それとも、本能的に気づかないようにしていただけかしら? それならば、大した自己防衛力だわ


 昨日の母親の言葉が蘇る。

 そう。

 ……あったんだ。

 気付かないふりをしていたことが。

「っ」

 俺はその考えを否定するように激しく首を振る。

 綾人は……関係ないんだ……!

 綾人は、このことを何も知らないんだよな……!

 心当たりのある『嘘』。

 この世界の、嘘。

 落ち着け。

 綾人は、平気で嘘をつけるほど器用じゃない……。

 ましてや、ボロがでないように演じ続けることなんて……。

「演技……?」

 俺に気づかせないための、演技……?

 それは、引っかかる言葉だった。

 違う……っ。

 俺は、浮かんだ全て考えをかき消す。

 だって、全ての元凶は世界が狂っているせいであって……。

 おかしいのは、この世界の方なんだ……。

 アイツは何もおかしくない。

 何も変わらない。

 今までと、何も……。

 それでも、否定せずにはいられない。

「綾人……っ」

 そうだ……綾人に会えばいい。

 本人に確かめれば、すぐに分かることじゃないか。

 俺は震える足を支えながら立ち上がった。

 そして、リビングの扉へと手を伸ばす――――。

「どこへ行くんだい?」

「!」

 俺が開けるよりも先に、リビングの扉が開いた。

 部屋の明かりが、そいつの顔を不気味に照らしていた。

「アイ……」

「玄関のカギ、ちゃんと締めないと危ないよ」

「オマエ、なんで戻って……」

「キミを、見張るため」

「は?」

「……このまま何事も無く終わってくれれば良かったんだけど、やはりそう上手くはいかないんだね……」

 アイはまるで遠くを見るように、視線を逸らす。

「キミは、たまにすごく確信をついてくる。初めて私のこの手に触れたときも本当に驚いたよ」

 その瞬間、これ以上ここにいちゃダメだと……頭の中で警鐘が鳴った気がした。

「っ」

 俺は玄関へ向かって走る。

 目の前にはアイの姿。

 悪いが、力ずくでどいてもらうしかない。

 俺は右手に力を込める。

「ストップ」

「え……」

 アイではない、第三者の声と共に、真横からの衝撃を感じた。

 右手が思いきり引っ張られたのだ。

 そしてそのまま、右手を軸に力任せに床に叩きつけられる。

「……ッ!?」

 後頭部に走る激痛と、軋む背中。

 視界が、揺らぐ。

 床に仰向けで倒れされたことと、両手が何者かの力によって、頭上で拘束されているのだけはなんとか理解できた。

「あまり、手荒なことはしないで欲しいな……」

「手荒? 突き飛ばそうとしてくる相手に対して、めちゃくちゃ紳士的な対応だと思うぜ?」

「!?」

 俺を床に貼り付けるように馬乗りになっていたのはアイでは無く、アシンメトリーの髪を無造作にワックスで固めた男だった。

 片側だけ長い前髪の下から、鋭い三白眼がニヤニヤと笑っている。

 歳は二〇代前半くらいだろうか。

 伸縮素材の黒いロングティーシャツに、同じ色のミリタリーパンツ姿だ。

 服の上からでも鍛えられた筋肉がしっかりとついているのが分かった。

 動くたびにタバコの臭いがする。

 コイツ……どこかで見たことが……。

 あ……!

 コイツは、綾人が友達だと言っていたヤツだ……!

 どうして、こんなところに……!?

「荷物届けに来ただけのつもりだったんだが、まさかこんな余計な仕事振られるとはねえ。隠れてる間、ヒマだったぜ」

 そいつは軽口で文句を垂れる。

「あ。そういえば話すのは初めてだったねえ。アイちゃんの仕事仲間でーす。長い付き合いにはならないと思うけど、ヨロシク」

 人の上に乗っかりながら、そいつは飄々と自己紹介を始めた。

 仕事仲間ってことは……コイツが、アイと同居しているヤツか。

「話すのはって……会ったことはあるのかい?」

 アイの眉間に皺が寄る。

「いやいや。今週の月曜日の夕方に、校舎からコソコソ覗いてたのを見つけただけよ」

「!」

 あの時、目が合った気がしたのは気のせいじゃなかったのか……。

 となると、どう考えても普通の人間じゃない。

「どけよ……」

「そりゃあ無理ってもんよ」

 余計に強く両手を押さえつけられ、全く身動きがとれない。

 くそ……っ。

 何者なんだコイツ……!?

「ごめんね。キミと、アヤトを会わせるわけにはいかないんだよ」

 アイは扉の横から、俺のすぐ近くまで歩いてくる。

 まるで人形のように無表情のまま、床に押し付けられている俺を見下ろした。

「どうして……」

「世界を元に戻すため」

 その言葉にもまるで感情がない。

 ただ淡々と、俺が理解できる言葉を読み上げている。

「それが、その魔法を解く唯一の方法だから」

 腕を組み、アイは言い放つ。

「何なんだよ……その魔法っていうのは……!」

「天使の絵にかかった呪い――――世界を、壊す魔法だよ……」

「……はあ?」

 言っている意味が理解できず、俺はただ口を開くことしかできない。

「神様は七日で世界を創造した。あの絵にはね、世界を歪める魔法が封印されているんだ。絵は全部で七つ……それは、さっき話した七日間と連動している。そして、すべての絵が血を吸うことで……世界は形を変えてしまう」

「なんだよ……それ……」

 急に、そんなわけの分からないこと……。

 アイはそのまま言葉を続ける。

「今回はその一つが解かれてしまった……一人の少年の手によって」

「一人の、少年……?」

 俺の問いに、アイは答えなかった。

「あまりにも大きすぎる魔法は、発動しても殆どの人に気づかれない。人間は……自分の視界に入るものしか認識できないから」

 アイはすぐ横に置いてあった袋から、縄跳びのようなビニール製の紐を取り出した。

 確か、エプロンが入っていた紙袋だ。

「拘束しておいて。邪魔されたら困る」

「いーけどさ。今からじゃ、何しても結果は変わらないんじゃねーの?」

「……それでも、願いを叶えてあげたいから」

「あー、確かにここでコイツが出てきたら、舞台が台無しになるか」

 アイの命令通り、そいつは人の手を慣れた手つきでさっさと頭の上で縛り上げる。

「い……っ」

 思わず声を上げるが……。

「こんなもんかな」

 まるで、コーヒーでも飲んだあとように、そいつは一息ついた。

 それでもまだ人の上から退こうとしなかった。

 どんなに力を込めても、ぴくりとも動かない。

「外せよ!」

「そういうわけにはいかない。キミを、この部屋から出すわけにはいかないんだよ」

 アイは無機質に言い放つ。

 すると今度は、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出した。

 そして、小さなプラスチック製のケースも。

「……あまり、この手は使いたくなかったんだけど」

 アイはそのケースとミネラルウォーターを机の上に並べる。

 ケースから何かを取り出し、何らかの準備をしているようだ。

 なんだ……?

 くそ、ちょうど死角になっててよく見えないな……。

「気管に入ったら困るから、身体をちょっと起こしてくれるかい?」

「へいへい」

 ようやくそいつは俺の上から退き、今度は座った状態で俺を雑に抱き起こした。

「いててて……っ!」

「ほらー。騒がないのー、男の子でしょー」

 横からふざけた口調で口を出してくる。

 なんなんだコイツ……めちゃくちゃ力が強いっていうか……。

 常に関節技をきめられている様に、全く動くことができない。

 すごい筋肉だし、何か訓練でもされているヤツなのか……!?

 それとも、魔法……。

「っ」

 そんな余計なことを考えていると、アイの手が俺の顔の方に伸びてくることに気づいた。

 何をされるか分からない恐怖に、思わず顔を背ける。

 くそ……今度は暴力に訴える気かよ……っ。

「悪いが、いくら殴られても……」

 強がりを吐く俺を気にした様子もなく、アイの手は俺の両頬をがっちりと掴んだ。

 そしてアイの無機質な顔がどんどんと近づいてくる。

「ちょ……」

 さすがに近すぎるだろうと、文句を言おうとした瞬間。

「……っ!?」

 ぬるり、と。

 口の間から何か入って……。

 というか……え!?

「んん……っ!?」

 ごくんと、喉が鳴る。

 口の端から飲みきれなかったミネラルウォーターがたらりと漏れた。

「キャー! アイちゃん、口移しだなんて、ダ・イ・タ・ン」

 隣で低い声で騒ぐ男のことなど、すっかり気にならなくなっていた。

「な……何飲ませ……」

「水と睡眠薬だよ」

 アイは俺の傍からソファに座った。

「魔法が使えないっていうのは本当に不便だね……。こういうときって、シュースケの魔法が便利なんだけど……カレは協力してくれないだろうし」

 アイは真っ白な手袋をはめた手をヒラヒラと動かす。

「だからって睡眠薬ってなんだよ……!? そ、それに……っ。なんつー飲ませ方して……」

 両手を縛られているため、垂れた水を拭うことができない。

「だって普通に渡しても、飲んでくれないだろう?」

「あ、当たり前だろうが……っ」

「それじゃあ、仕方ないじゃないか」

 当然のことをしたまで、とでも言いたげな態度。

 アイからは動揺などまるで感じなかった。

「アイちゃん、オレもう離れていい?」

「ああ。ありがとう、もう大丈夫だよ」

「オッケー。報酬、弾んどいてね」

 そう言うとその男は、俺をリビングに雑に転がした。

「足止めして悪かったね。何か予定でもあったのかい?」

「いやいや。完全に私用。日本の……ええと、お風呂屋さんに行こうと思ってただけ」

「この時間、もうやってないよ思うよ」

「shit! 日本ってそうなんだっけ!?」

 慌てた様子で携帯で何かを調べ始める。

 そしてすぐに。

「……帰る」

 わざとらしく肩を落とす。

 風呂に入れないくらいで大袈裟なヤツだな……?

 座っている俺の前を、黒いゴツいブーツで通り過ぎていく。

 って、おいおい、土足じゃねーか!

 そんなこと全く気にした様子もなく、そいつはリビングのドアから玄関へ向かう。

「じゃ、とりあえずまた明日」

 扉の向こうから手だけ振ると、静かに閉じられる。

 アイはその姿を見送ると、俺を放置したままリビングにあるソファに腰掛けた。

「……それじゃあ薬が効いてくるまでの間……少しお話しでもしていようか」

 ソファから聞こえる、まるで小さい子をあやすような声。

 ここからでは、背もたれとアイの後頭部しか見えなかった。

「ふざけんな……! こんなときに、呑気に話なんかしてられるか! さっさと綾人と会わせろ! この縄をほどけ!」

「……じゃあ訊くけど、キミはアヤトと接触することで何かできるのかい?」

「はあ?」

「バタフライエフェクト……キミは分かっているはずだよ、シュースケとも話をしたんだろう?」

 アイはこちらを見ようともせず、話を続ける。

「キミがこの状況を壊すことで、予想だにしなかった影響を与えてしまうかもしれない」

「それは……っ」

「明確な解決策がないのなら、これまでのように大人しくしていて欲しいな。決められたシナリオの邪魔になる」

「何がシナリオだ! 何も説明されずに、納得できるかよ!」

「納得? 今までは、大した説明をしなくても従ってくれたじゃないか」

「……っ」

 振り向いて、ニコリと笑うアイが、初めて怖くなった。

 全て手のひらの上で転がされているようで……。

「それは、俺には関係のないことだと思ってたからだ! 綾人が関わっているとなれば、話は別だ!」

「……せっかく、あと一日だっていうのに」

 アイの声は、少しイライラしているようだった。

「残念だけど、もうどうにもならないよ。時間は、逆行しない。過去は変えられないんだ」

「なんだよ、それ……」

 そんなの、まるで……諦めの言葉じゃないか……。

 アイ……オマエは……。

 一体、何を諦めるっていうんだ……?

「頼むよ……綾人に……酷いことしないでくれ」

 アイツは、とても弱いんだ……。

 もう、アイツの泣き顔……見たくないんだ……。

「…………」

 どんなに必死に訴えても、アイはもう何も言わなかった。

 ただ、黙ってこちらを見ているだけ。

 まるで壊れてしまった人形のように、そのガラスのような瞳には何も映っていなかった。

「……っ」

 突然、瞼が重くなってきた。

 蛍光灯が……光が……眩しい。

 くそ……。

 薬って……こんなに強力なのかよ……。

 眠い。

 眠ってはダメだと……。

 分かっているのに……。

 遠くなっていく意識……。

 綾人……。

 なあ……オマエは……。

 どんな嘘をついていたっていうんだ……?

 まだ、俺に何か隠しているのか……?

 一体いつから……?

 俺は……。

 どうしたらいいんだよ……。

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