Ⅴ-Ⅴ 大崎五樹



 *一二月二二日 金曜日 自室



「いっちゃーん、起きてー」

 綾人の声で、脳がゆっくりと覚醒していく。

「今日、卵焼きの特訓するんでしょー?」

 ああ……そういえばそんなこと言ってたな……。

 すげーな、コイツちゃんと起きれたのか。

 薄らと目を開けば、そこには俺を覗き込む綾人の顔があった。

 布団から身体を起こし、上半身だけベッドの上に乗せている。

 人のことを起こした割には、コイツもまだ眠そうな顔をしていた。

「おはよ」

「ああ……」

 それにしても瞼が重い。

 部屋の中もまだ暗い気がするのだが。

「綾人……今、何時だ?」

「五時」

「五時……」

 なるほど……卵焼き修行の朝は早い。



 *



「うわ、焦げた!」

「このくらいなら問題なく食べれるよ。でもちょっと火力強過ぎかもね」

 朝からキッチンで綾人による料理教室が開かれていた。

 学校から帰ってきてからやろうかとも考えたのだが……。

 コンロのすぐ横には大量に積まれた卵焼き。

 これを見越して、学校へ持って行って委員長達に食べてもらうことにしたのだ。

 今日が球技大会で良かった。

 何、少し焦げただけなので食べるのに何も問題はない。

「お! 今度は焦げてない!」

「早く巻いて巻いて!」

 横から綾人に急かされながら、最後の卵焼きを焼き上げる。

「できたぞ!」

 ようやくコツを掴み、綺麗な黄色い卵焼きが完成した。

「やったー!」

 パチパチと拍手を鳴らす。

 大袈裟な褒め方がなんだかむず痒かった。

 早速箸を伸ばし、切れ端を口に入れる。

「美味い!」

 甘い中にも少し塩味が入っていて、箸が止まらなくなる。

 これぞまさに綾人の卵焼きの味だった。

「ボクにもちょうだい」

「ほらよ」

 持っていた箸で餌付けのように食べさせてやる。

「うん、おいし」

 綾人は右手の親指を立てる。

 どうやらレシピ発案者も大満足のようだった。

「……これなら、もう大丈夫だよね」

「は? 何が?」 

「なんでもないよ! この調子で、球技大会も頑張ろうね」

 綾人が指さした時計の先は、普段家を出る時間を指していた。



*一二月二二日 金曜日 朝教室



「遅いぞ、大崎、月島!」

 教室に入ると、神田の大声が飛んできた。

 クラスメイト達の視線が一気に俺と綾人に集中する。

 神田は不良のイメージを一新するほど、球技大会に気合が入っているようだ。

「ほら、オマエらさっさと着替えろ! 打倒、駒込だ!」

 コイツ、こんな熱血キャラだったっけ。

 カバンを机の横にかけながら、すでにジャージに着替えている神田に視線を移す。

 先週負けたこと、相当悔しかったらしいな。

 悠希達のクラスと当たるには決勝戦まで勝ち進まないといけない。

 前回は俺無しでもなんとかなったから、勝ち進むには問題ないと思うけど……。

「イツキ、アヤト、おはようー……」

 ちゃんと起きたらしいアイも、その中に混じっていた。

 少し掠れた声を出しながら、目を擦っている。

「ふあ……」

「こら、四位……じゃなくて、転校生! あくびなんかしている場合じゃないぞ!」

「ああ、すまない。昨日は少し夜更かしてしまって」

 冷戦状態とか言っていたわりには普通に話しているが、仲直りしたのだろうか。

 アイは誤魔化すように、首を左右に振った。

 コイツ、目を閉じてると……本当に人形みたいだな。

 まつ毛バサバサだし……。

 転校して来て間もないというのに、いつの間にか仲良くなっている俺達を、クラスメイト達は遠巻きに不思議そうな顔で見ていた。

「ああそうだ。出場メンバーだが、昨日言った通り、オレ達五人になったぞ」

 神田が胸を張って自慢してくる。

「ああ……」

 また恫喝したのか。

「安心しろ、話し合いでなんとかなった」

 横から委員長が現れ、神田の肩をスパンと叩いた。

 なんだ、神田が押し通したわけじゃないのか。

 確かに委員長からの提案の方がすんなり話が進みそうだ。

「明日は優勝パーティーだからな」

「オマエ本当にそういうの好きな」

 委員長が協力してくれた動機はそれらしい。

 神田は呆れたように言うが、まず優勝前提で話を進めていることにツッコミを入れるべきだと思うが……。

 まあ、このチームに好き好んで入りたいヤツはいないだろうから、問題ないだろう。

「初戦の相手はどこなんだい?」

 ようやく覚醒してきたアイが、委員長に尋ねる。

「二年B組だ。確か、田端桃香のクラスだったか」

 そう、いつもの流れだ。

 神田と委員長がいれば余裕で突破できる相手だったな。

「いっちゃん、オウンゴールなんてしないでね」

「だ、誰がするかよ」

 まあ、他のクラスに出場を果たすという似たような前科はあるが。

 前の世界のことなんて覚えてないくせに、痛いとこついてきやがる……。

「とにかく! 相手が誰であろうと、全力で倒すぞ!」

 神田の声が教室中に響き渡る。

「おー!」

 それに次いで、綾人も右拳を高く掲げた。

 楽しそうだな、綾人……。

 嫌いな人とは話さないとか自説を主張していた幼馴染だが、すっかりこのメンバーに馴染んでいた。



 *一二月二二日 金曜日 球技大会



 体育館は様々な学年が入り乱れ、各地で応援合戦が繰り広げられていた。

 こういう時に、クラスのまとまりの格差が出るよなー。

 ジャージに着替えて体育館にやって来たのはいいが……。

「アイツ、バスケの推薦で入ってきたんだろ?」

「えー、卑怯じゃんそれ」

 内緒話にしては大き過ぎる声が聞こえてきた。

 また現れやがったか。

 いつかの世界でも、俺が助っ人として入ろうとしたらいろいろ言われたよな。

 あの時は無視していたが……。

「いーのか? 好き勝手言ってるぞ?」

 トラブルの臭いを感じ取った神田が、楽しそうに肩に肘をおいてくる。

「別に、本当のことだしな……」

 少しイラッとするけど……。

「オマエ達」

 この声は……。

「確かに部活動に入っている者は、所属している部活と同じ種目には参加できない」

 委員長が毅然とした態度で、敵チームに向かって歩いていく。

「が。大崎は今、なんの部活にも所属していない。故に何の問題もない」

「ほーんと黙ってられねーヤツだな、アイツ……」

 神田は俺から離れ、助太刀するように委員長の後ろに立った。

「そーだな、こっちはルールにちゃんと則ってやってるんだ。経験者が試合に出ちゃいけないなんてどこにも書いてない。小さいことでごちゃごちゃ言ってるんじゃねえよ」

 二人が俺をかばうように立ちはだかる。

 色んな意味で名を馳せる二人の登場に、相手は何も反論できなくなっていた。

「気にすることはないぞ、大崎。あとは実力で黙らせる!」

「お、おお……」

 委員長から出る、スポーツマンらしいお言葉……。

「それでは……二年A組と二年B組の選手は、整列してください」

 実行委員の生徒が呼びかける。

 俺達はその声に従い、体育館の中央へと向かった。

「が、頑張ろうね……いっちゃん!」

「このメンバーなら、負ける気がしないね」

 綾人とアイもさっきのアクシデントに焚き付けられたのか、士気が上がったようだ。

 試合開始のブザーが、体育館中に木霊した。



 *



「ふう……」

 第一試合が終わり、整列場所に戻る。

 三八対二〇。

 とりあえず、勝てた。

 まあ、こんなもんだろ。

 相手チームは、まだズルいだのなんだの文句を言っているが……。

 勝てば官軍なので気にしない。

「やったね、いっちゃん」

 綾人がハイタッチを求めてくる。

 オマエはほとんど突っ立ってただけだろ、とは思ったが……。

 ……まあいいか、邪魔してないだけ。

 綾人の身長に合わせながら、それに応える。

「一応、元バスケ部だからな」

「カッコ良かったよ!」

 言うだけ言ってて、飲み物を取りに戻っていく。

「パーティー楽しみだね」

 隣から聞こえる呑気な声。

 アイに至っては、もう優勝気分らしい。

 だけど、このメンバーならそれをいとも簡単にやってのけそうで……。

 なんだか久しぶりに胸が躍る気がした。



 *



「さて。あれから連続で勝ち抜いたわけだが……」

 俺達は体育館の隅に集まり、軽く休憩をしていた。

 あちこちで聞こえる応援や歓声が、心地いい背景音楽に聞こえる。

 田端さんのクラスとの試合から、あっという間の連続勝利。

 このメンバー……すげーな。

 俺も割と頑張ってはいるのだが、綾人を除いた個々のポテンシャルが高過ぎて、何も不安がない。

「次がもう決勝戦か」

 神田は例の如く、甘いカフェオレで糖分摂取している。

「案外、あっけないもんだね」

 本当にそうだ。

 コイツらがいなかった時は、一回戦突破するのだってあんなに大変だったのに。

「決勝の相手はまだ決まってないのか?」

 神田は委員長のもっている対戦表を覗き込む。

「まだだな。現状だと、一年か三年どちらかに当たる。まあ、三年の可能性が高いと思うが」

「なるほどな……」

 神田が不敵に笑う。

 まあきっとコイツの予想通り、勝ち上がってくるのは三年生じゃない。

 間違いなく悠希達のクラスだろう。

「それじゃあ、決勝戦までまだ時間があるの?」

 尋ねるのと同時に、ぐう、と綾人の腹が鳴った。

「そうだな。時間も時間だ、先に昼食をとった方がいいかもしれない」

 委員長はそれに笑うと、移動を促すように立ち上がった。

「私もお腹ペコペコだよ」

「仕方ねえな……んじゃ、昼飯にするか」

 委員長に続き、各々立ち上がる。

 俺達は少し早めの昼食をとることにした。



 *



「さむー!」

 屋上に通じるドアを開けると、気持ちばかりの太陽光と、ちらほら降っている雪が建物に入り込んできた。

「こら、入り口で止まるな」

 扉を閉めようとする綾人の背を押し、塔屋の外へと連れ出す。

「屋上ってこんな風になってるんだ!」

 綾人は初めて来る場所を、珍しそうに見回している。

 目ざとく元喫煙室も見つけたようで、一人で探検に行った。

「ここ、誰もいなくていいよね」

「オレが見つけた場所だからな!」

 ガキ大将のように、謎の主張をする神田。

 確かに住んでいるのかと思うくらい、ここでの遭遇率は高かったな。

「でもまさか、委員長が屋上行くの許可してくれるとはなぁ」

 一応、立ち入り禁止の張り紙が貼られている場所だ。

 ここで昼食を食べようという提案が出た時は、すぐに却下されるものだと思っていたが。

「オマエ達は買い被りすぎだ。自分だって、そこまで融通の利かない人間じゃないぞ。見えないところで上手くやっている」

 委員長はそう言って笑う。

 そういや、今までの世界では神田とよくここで昼食をとっていたんだっけ。

「レジャーシートとか、持ってくれば良かったね」

 探検が終わった綾人は、金網の下のコンクリートブロックにちょこんと座った。

 各々、その付近に腰を下ろす。

 神田だけは立って金網に寄りかかったままだが。

「いっただきまーす」

 綾人は膝の上に弁当を置き、包みを開く。

 俺も綾人の隣に座り、弁当とは別に用意しておいた大きなタッパーを取り出した。

 それをみんなの手の届きやすい位置にどかんと置く。

「大崎、なんだその大量の卵焼きは」

 驚いた委員長が思わず口を開く。

「いや……今朝調子に乗って作りすぎちまって。いいだろ、ピクニックみたいでさ」

「この寒空の下でピクニックかよ」

「言っとくが、屋上を選んだのはオマエだからな」

「き、気に入ってるって言ったろ」

 神田はそう言って菓子パンをかじる。

 今日の気分はコンビニのチョココロネらしい。

 似合わないが、もうツッコミを入れるのも面倒になるくらい日常の光景だった。

「私も食べていいかい?」

 アイは興味津々に卵焼きを覗き込む。

「たくさんあるから、好きなだけ食べていいぞ」

「ありがとう」

 そう言うと、用意しておいた割り箸をパチンと割ると、一片を口に入れる。

「美味しい」

 ニコニコの笑顔で言われると、何だか恥ずかしい。

「卵焼きねえ」

 興味はあるようだが、いまいち踏ん切りがつかない様子で神田はタッパーを覗き込む。

「まあまあ、試しにシュースケも食べてみなよ。とっても美味しいんだよ」

 アイは箸で卵焼きを掴み、神田の口元に運んでいく。

「…………」

 心底嫌そうに眉をひそめるが……。

 根負けしたのか、そのまま卵焼きを口に入れた。

「え……普通にウマい……」

「なんだその感想」

 褒めるならもっと素直に褒めろ。

「というかこの味……」

 何か気付いたらしい神田は、俺をみてニヤリと笑う。

 俺はそれには反応しないよう、視線を逸らした。

「それじゃあ自分もいただこう」

 委員長もそれに倣い、ひょいと一切れ持っていく。

「これは……本当だ、美味いな」

「もう一つよこせ」

 今度は神田自ら箸を持つ手を伸ばす。

「いいぜ、見たとおり山ほどあるからな」

 神田がこれほど気に入るとは驚きだったな。

 ……あ、分かった、コイツ甘党だからだ。

 この卵焼きは甘めだからな。

 あまりにも周りが美味そうに食べるので、耐えかねて俺も一つ口に入れる。

 控えめな甘さが口いっぱいに広がる。

 間違いなく、俺の中の最高傑作だな。

「イツキって料理のセンスがあるんだよ」

「意外とね」

 綾人が笑う。

「『意外』は余計だ」

「へえ、誰にでも取り柄はあるもんだな」

「オマエにだけは言われたくない」

「やっぱり、いっちゃんはすごいや……」

 小さな声で綾人が呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。

「……俺には母親の味なんてものないからな。オマエんちの味が、俺のおふくろの味なんだ。いつまでもオマエんちに甘えてる訳にはいかないし……好きなモノは自分で作らないとな。ということで、レシピ盗ませてもらったぜ」

「門外不出、秘伝のレシピだったんだけどなーっ」

 綾人はそう言って笑う。

「砂糖だけじゃなくて、塩を一つまみ入れるのがコツだ」

「うわ……秘伝だって言ってるのに即バラしてる……」

 みるみるうちに減っていく卵焼き。

 褒めてもらえるのは嬉しいが……それが、なんだかとてもむず痒かった。



 *



 昼食の時間も終わり、俺達は体育館に戻ってきた。

 ほとんどのクラスの試合が終わり、且つ決勝戦ということもあって、体育館にはたくさんの生徒達が集まっている。

「うっし! 腹もいっぱいになったことだし……最後の戦いに向かうぞ!」

「うむ」

「うん」

「おー!」

 各々、好き勝手に返事をする。

 面白いほどまとまりがないチームだった。

 ……ま、それがいいところなんだけどな。

 さて、俺達の次の対戦相手は――――。

「ああ……決勝戦の相手は、五樹先輩のクラスでしたか」

 ……出た。

 相手側のコートに立っていたのは、悠希率いる後輩チームだった。

 やはり、ここは前の週と変わらないわけか。

 俺は悠希を見上げる。

 身長では圧倒的に負けてるな……。

 ひとまず脅威になりそうな他のメンバーを確認してみる。

 すぐ横で委員長は、悠希のクラスのメンバーの一人と楽しそうに話していた。

 それも前回と同じで、そいつと悠希の身長が飛び抜けてデカい。

 それ以外は特に心配なさそうだが……。

 あと気がかりなのは、前回の敗因の一つ。

 悠希が魔法を使ってくるかだ。

「はい、これでいいかな」

 背後で声が聞こえ、振り返る。

 アイが神田にボール渡しているところだった。

 その手は……。

「あ……手袋、取ってある……」

「ご明察。これで、このボールが魔法をかけられることはないよ」

 にっこりと満足そうに笑い、再び手袋を着けた。

「ボールの魔法対策も完璧だ。これで本気の真剣勝負ができるな」

 神田が白い歯を見せる。

 勝負時にコイツがいると、本当に頼もしいな。

 なんて言うんだろ……精神的に安心させてくれるっていうか……。

「二年A組と、一年C組の選手は整列してください」

 実行委員の腕章をした生徒がやってくる。

 辺りを見回せば、見物客がさっきよりも増えている気がした。

 さすが決勝戦、盛り上がってきたな。

 女生徒の大半が悠希のチーム側の応援席にいるのは、見なかったことにしよう。

「絶対勝つぞ! 優勝パーティーのために」

「ふふ。それじゃあ、負けたら残念パーティーだね」

「もう……好きにしてくれ」

「制限時間は前半一〇分、後半一〇分です。前半終了後二分の休憩が入り、コートチェンジして後半を開始します」

 実行委員の生徒は淡々とルールを読み上げていく。

 何度も聞いた説明だ、再確認する必要はない。

「それでは、これから決勝戦を開始します」

 互いにスポーツマンっぽく頭を下げ、各自のポジションにつく。

 つっても、俺が即席で考えたものだけれど。

「……よしっ」

 審判によって頭上に投げられたボールが、再び降りてくる。

「……っと」

 ジャンプボールは神田だ。

 元の身長の高さと、帰宅部とは思えないジャンプ力を駆使して、こちらに上手くボールを届けてくれる。

 あとは、俺がそれを確実にゴールに置いてくるだけだ。

 ドリブルの手を緩ませることなく、敵陣のゴールへと走る。

 一人……二人……。

 目の前を妨げようとする手をかわしていく。

 よし、これなら今までどおり……。

「すみません、先輩」

「え……」

 気付かなかった。

 まるで風のように俺の横をすり抜けていく悠希。

 そして、急に軽くなる右手。

「しま……っ」

 慌てて取り返そうと振り返るが……。

「!?」

 速い……!

 なんつー足の速さだよ……。

 悠希はすでに味方の陣地に入り込んでいた。

「……っ」

 そうか……。

 無意識でも魔法は使えると、神田は言っていたっけ。

 意識してボールに魔法をかけなくても……。

 無意識に自分の足に魔法をかけられるんだ。

 きっとそれは、勝ちたいという意志……純粋な、勝利を求める心。

 それをコントロールするのは簡単にできることじゃない。

 得点板の数字が変わる。

 〇対二。

 いとも簡単に点数が入ってしまった……。

「おい。何ボーっとしてやがる」

 背後から、神田の声。

「まだ、これからだろうが!」

「そうだな……」

 背中に流れる冷や汗が気持ち悪い。

 ただ、ここで負ける訳にはいかない。

 せっかくこの決勝戦という舞台に登りつめることができたんだ。

 それなら……やっぱり、勝ちたいじゃないか……!

 俺は今までのネガティブなイメージを振り払うように、再びボールの元へ走った。



 *



 前半戦終了のブザーが体育館に鳴り響く。

 得点は――――。

 八点差で、悠希のチームがリードしている……。

 ひとまずこの点差で抑えられて良かった。

 一年だと思って油断をしていたわけじゃない。

 むしろ悠希がいるということで、一層警戒をしていた。

 それなのに……いとも簡単に裏をかかれてしまっている。

 たぶん、個々の運動能力が平均よりもずっと高いんだろう。

 相手は悠希を司令塔として、一つのチームとしてまとまっていた。

 それが……悠希の持つ、また別の能力なのかもしれない。

「はあ……ッ」

 それにしても、辛い。

 口から心臓が飛び出そうだ……。

 高校に入ってから、まともに運動なんかしてなかったからな……。

 意地だけでなんとかつないでいる状況だ。

「辛いね、イツキ」

 水を飲みながら、アイが隣に立つ。

「そ……だな……」

「でも、楽しいね。すごくドキドキしてる」

 こんな時でも、マイペースなヤツだ。

 普段から運動をしているようには見えないのだが、あまり疲れてはいないようだ。

「いっちゃん、足は大丈夫?」

 首にタオルをかけた綾人が駆け寄ってくる。

「ああ、特に何もないな」

「そか、良かった」

 安心したように笑う。

 コイツはあまり動いていないせいか、しっかりと体力を温存できているようだ。

「月島」

「ん?」

 水分補給をしながら、神田が近付いてきた。

 委員長はその後ろで、また別の後輩と楽しそうに話しているのが見えた。

 恐るべし、運動部の体力……。

「オマエ、さっき一回駒込を止めたよな?」

「え、ええー……? そうだった、かなぁ……?」

 わざとらしく、明後日の方向を見ながら答える。

 確かにそんな場面あった気がするが、そんなに気に留めることか?

 完全に偶然じゃないのだろうか。

 それでも神田は真剣に綾人を見ている。

「何か駒込対策でもあるのか?」

「え、ええっとぉ……」

 綾人の声がどんどん小さくなっていく。

「直感」

「おい」

 それは直感というよりも、ただの偶然だろ……。

 勘、コツ、経験ってのは、体験を繰り返すうちに自然と身につくもので……。

 まったくの素人が発動するのは、ビギナーズラックってヤツだ。

「そうか」

 隣でこちらの様子を見ていたアイが、何か思いついたように、ポンと手を叩く。

 今の会話、何かヒントになるようなことがあったか?

「アヤト。それじゃあユーキの相手は、キミに任せたよ」

「え……ええっ!?」

「ちょ……アイ!?」

 アイは言うだけ言うと、軽い足取りでコートへと戻っていく。

「何言ってんだ、アイツ……まさか、本気じゃないよな?」

 思わず隣の神田を見る。

「……やってみるしかねーな。月島、駒込からボールを奪ったら、すぐに煉か四位……じゃなくて、転校に渡せ」

「マジで……」

 すっかり綾人を悠希にぶつける作戦になっていた。

「はっきり言って、脅威は駒込だけだからな。あと一人、デカいヤツがいるが、たぶんそんなに球技が得意じゃないんだろうな。あっちのチームだって攻撃は駒込に頼りきっている。駒込を止めさえできれば、あとはなんとかなる」

「うーん……分かった。やっては……みる」

 了承する綾人に、俺の心は不安だらけだ。

 途方もない作戦にしか聞こえない。

「なあ、綾人」

「何?」

「料理と同じで、実は運動も得意でしたーってことあるのか?」

「それはないない。ボクの趣味はインドア限定」

 綾人は最速で首を振った。

 そうだよなー……かといってその作戦を否定するほどの代替案は持っていないわけだが。

「綾人に賭けるしかないってことか……」

 後半戦開始のブザーが鳴る。

 俺はタオルを観客席の床に置き、コート内に戻った。

 体育館は更に全クラスが集まっているんじゃないかってくらい、人が増えていて……。

「!」

 女生徒がたくさんいる応援席に、いつの間にか田端さんの姿が増えていた。

 キラキラした目で、試合の行き先を見守っている。

 ああ……可愛い……。

「よそ見しない」

「うお……っ」

 後ろから来た綾人が、俺の背中を押していく。

「……綾人、無理はするなよ」

「いっちゃんもね」

 意外にも綾人の目は先ほどまでとは違い、真剣だった。

 再び、神田がジャンプボールの位置へ向かう。

「よ……っと」

 パシッと、手がボールに触れる音。

 弾かれたボールは、俺の元へとやってきた。

「……っ」

 手を伸ばす敵をすり抜け、相手チームのゴールへ向かう。

 しかし。

「させません」

 サイドから悠希が現れる。

 慌てて振り返るが、やはりもう遅い。

 あっという間にボールを奪われる。

 くそ……推薦で入ってきたのに、情けない……っ。

「行ったぞ、月島ッ!」

 そこには悠希と対峙する綾人の姿があった。

 綾人は重心を落とし、悠希を待ち構える。

「え……」

 綾人はまるで悠希の動きを把握しているかのように、あっさりとボールを手中に収めた。

 あまりにも的確なその動きに、こちらの方が見入ってしまう。

「煉くん!」

「ああ!」

 ボールをパスされた委員長は、まるで教科書のお手本のようなフォームのドリブルで相手の陣地へと入っていく。

 そして、綺麗にシュートを決めた。

「いっちゃん!」

「おう!」

 綾人が再びボールを奪う。

 こうなった俺達を止められる相手はいなかった。

 次々と捲られていく点数。

 悠希達のチームは、俺達の作戦に対応できていない。

「っし!」

 ついに同点に追いついた!

 残り時間もあと僅かだ。

 重い足で床を蹴る。

 日頃からなんのトレーニングもしてないせいで、とっくにスタミナは切れていた。

 それでも意地で足を動かす。

 この試合……絶対に負けたくない……!

「あ……」

 それなのに。

 思い切り床を蹴った足の力が……突然、抜けた。

 身体の軸がズレる感覚……。

 これは……この感じは……。

 強烈な恐怖が、脳内を一瞬にして支配した。

 二度と思い出したくない、嫌な映像が頭のなかで鮮明に蘇る。

 妙な方向に曲がる右足……。

 何かが切れる、嫌な音……。

 違う、これは過去の映像だ。

 今じゃない……!

「いっちゃん!?」

 慌てて綾人が駆け寄り、その場に立ち膝をついていた俺を起こしてくれる。

「わり……綾人、大丈夫だ」

「いっちゃん……」

 くそ……こんな時に……。

 こんな時に思い出すんじゃねえよ……!

 足が出した悲鳴。

 自分の足が、自分の足でなくなっていく恐怖。

 好きだったものが、一瞬の油断で奪われていく残酷な結末。

「大崎……ケガしたのか?」

 綾人の声に、チームメンバーが駆け寄ってくる。

「いや、違う……。ちょっと腰が抜けただけた。余計な心配させて悪かったな」

 俺は集まってくるメンバーを解散させる。

 そう……まだ試合は終わっていないんだ……。

 ……といっても、あと一分か。

 思っていたよりも、残り時間が少ない。

 逆転、できるのか……?

 恐怖を思い出してしまったこの状況で……。

 足は、もう完治している。

 医者からも、そう断言されていた。

 だけど俺は……逃げたんだ。

 あのとき感じた恐怖から。

 そして俺は……好きなことを諦めた。

「っ」

 再開する試合。

「……っ」

 神田から、パスがまわってくる。

 瞬時に身体の向きを変え、ドリブルを始めるが……。

「悠希……!」

 いつの間に戻って来たんだ……。

 本当に、風のようなヤツだな。

 必死の攻防も虚しく、容易くボールを奪われる。

「…………っ」

 酸欠のせいだろうか?

 次第に視界がぼやけていく。

 全てのものがスローモーションのようだ。

 思考も、動いていない。

 心臓の音がうるさい……。

 そもそも……なんでバスケだったんだっけ。

 ああそうだ……。

 森の中……旧教会の裏に、小さなバスケットリングがあったんだ。

 リングにボールが入ると嬉しくて……。

 綾人と二人……日が暮れるまで夢中になって遊んでいたんだ。

 その気持ちは中学でバスケ部に入っても消えることなく。

 毎日の練習は大変だったけど。

 響き渡るドリブルと、シューズが床と擦れる音……。

 この音が、とても好きだった。

 ゴールを決めた時。

 応援席で大声で喜んでくれる、綾人がいて……。

「ちくしょ……」

 なんだ、また綾人かよ……。

 本当……俺の人生、寂しいもんだな。

 いつもいつも隣にいるのは綾人じゃねえか……。

「いっちゃん!」

「!」

 俺を無理矢理呼び戻す声。

 目の前に飛んでくるボールを、しっかりと受け取った。

 ここは……スリーポイントラインの手前。

 ああ……なんつー……用意された舞台なんだ……。

 制限時間、残り三秒……!

 今の得点は――――。

 三〇対三二。

 まさに、逆転の舞台だ。

「なるほどな……っ」

 まるで主役級の待遇じゃないか。

 これが……ラストチャンス……。

 足は壊れてなんかいない。

 俺が、怖がっていただけなんだ。

 踏み出すことを……。

 ここで決めなきゃ……。

 きっと、ここで気持ちで負ける方が……ずっと辛い!

 渾身の力を両足に込め、ボールを投げた。

 添える左手から離れているボール。

 それは放物線を描き――――。

 朱色のリングの中に、吸い込まれていった。

 そして、試合終了の合図。

 誰もが呼吸を忘れ、静まり返る体育館。

 聞こえるのは……ボールが落ち、床を跳ねる音だけだった。

 得点板の表示が変わる。

 三三対三二。

「うわー……」

 なんつー……。

 劇的な試合展開だよ……。

 いつかブザービーターで負けた試合を思い出す。

 やり返してやったぜ……!

 思わずその場にだらしなく座り込む。

 集中力が切れた途端、立っていることさえ辛くなっていた。

 まるで糸を切られた操り人形のようだ。

「いっちゃん……っ!」

 すぐ耳元で聞こえる綾人の声。

 なんだよ……泣きそうな声出してんじゃねえよ……。

「いっちゃん! 勝ったよ!」

 ああ……分かってるって……。

 しゃがんで抱きついてくる綾人の頭に手を乗せて、左右に動かす。

 汗とシャンプーの匂いがした。

 と。

 右足が少し痙攣してることに気づく。

 まるで鉛でも入っているかのように重い。

 ……仕方ないよな、結構無理したし。

 まあ、そうだな……この笑顔が見れただけでも、よしとするか。

 口から漏れるのは、安堵の溜息。

 良かったな、綾人……やっと、勝てたぞ。



 *



「三三対三二で、二年A組の勝ちです」

 実行委員のかけ声と共に、全員が頭を下げる。

 そして。

「ナイスだったぜ、大崎!」

 神田があのデカい図体で抱きついてきた。

「おっも!」

 弱った足にとどめを刺される。

「最後の最後で本当によくやってくれた! ありがとう、大崎!」

「格好良かったよ、イツキ」

 アイと委員長も、まるで子供のように飛び跳ねしている。

「いや……俺は、最後にいいとこ取りしただけだよ」

 本当に讃えられるべきは……。

「綾人。オマエのおかげだ。オマエが何度も悠希からボールを奪ってくれたから、逆転できたんだ」

 まさか、この場面で綾人に助けられるとはな。

 綾人の秘めたる才能ってヤツか……。

「そ、そんなこと……」

「遠慮すんな、月島! もちろんオマエのスーパープレイは忘れないぜ」

 綾人はチームメイトからの慣れない賞賛に、まるで茹でダコのように真っ赤になっている。

 あと少しで湯気まで出てきそうだ。

「先輩」

 年間の優勝に盛り上がっている中、少しだけかすれた声が後ろから聞こえた。

 群がる女生徒達を引き連れながら、タオルで汗を拭う悠希がすぐそこに立っていた。

「楽しい試合、ありがとうございました」

 爽やかなセリフと共に携えているのは、全てをやりきった満足げな笑顔だった。

 いつもの営業スマイルとは違う気がした。

「こちらこそ」

 昨日……じゃなくて、先週の敵は今日の友ってわけで、スッと右手を差し出す。

 なんの迷いもなく、悠希は手を握り返してくれた。

「綾人先輩も」

 次は綾人に握手を求める。

「完敗でした」

「そんなこと、ないよ……」

 綾人も素直に手を伸ばす。

 こんなこと、今までの世界じゃ考えられなかったよな……。

「先輩……」

 悠希がグッと顔を上げた。

「次は絶対負けません……っ!」

 そう叫んで悠希は名残惜しそうに、クラスメイトのところへ戻って行く。

 それは初めて見る、悠希のあどけない……年相応の表情だった。

「よし、オレ達も教室戻るか」

 神田が強く声をかける。

「うむ、明日の計画を練らねばな」

「優勝パーティーかぁ」

「いっちゃんも、行こう」

 綾人が両手で背中を押してくる。

「こら、綾人……あんま押すな――――」

 歩こうと足を一歩踏み出した時だった。

「っ!」

 身体がカクリと地べたに吸い込まれる。

「いっちゃん……っ!?」

 綾人の叫び声に、アイ達が集まってくる。

「ちょいと足、使い過ぎたみたいだ」

 なんてことない、一時的な痙攣だな。

「よしきた、保健室だ」

 何故か委員長の声が弾んでいる。

「……言うと思った」

 神田が肩を支えてくれた。

 やっぱり今回もお世話になるんだな……。



 *一二月二二日 金曜日 保健室



 消毒液と薬品が混ざった、独特な臭い。

 放課後の保健室はなんだか淋しい雰囲気だ。

「さあ、大崎! 足を出すんだ」

 そして俺を丸椅子に座らせ、向かい合わせに座る委員長。

 その表情は実に楽しそうだ。

 いや待て。

 というか、なんでここの保健室は毎回誰もいないんだ?

 保健教諭はどこに身を隠してやがる。

 職務怠慢だ。

「煉の手によって、またミイラ男が錬成されるのか……」

 神田がぼそりと呟く。

「またとはなんだ。大崎にそんなことしたことないぞ」

「まあ……」

 この世界ではな……。

「さて、包帯は……っと」

 鼻歌交じりに、委員長は包帯探索し始める。

 絶対楽しんでるよな、これ。

「ま、普通に考えたらその前に湿布だろうな……」

 そう言うと神田は、すぐ近くの引き出しから、銀色の袋に入った湿布を取り出し患部に貼り付けた。

 このスースーする感じが、気持ちいい。

「あったぞ、大崎。すぐに、ラクにしてやるからな」

「お手柔らかに……」

 委員長の純粋な厚意に、俺は諦めて足を差し出した。


 *


「何故こうなるのか」

 委員長は真剣な表情で俺の足を見下ろしている。

「委員長……悪いが、それはこっちのセリフだ」

 足が……まるで複雑骨折でもしているかのように包帯によってグルグル巻きになってしまった。

「ここまでくると、もはや巧の技だな」

「う、うううるさい! 意外と難しいんだ、こういうのは!」

「ったく、しょうがねぇな。月島、やってやれ」

「え、ええ……っ!? ボク!?」

 前回のことを覚えていてか、神田は綾人へと選手交代を命じた。

「……別にいいけど」

 綾人は渋々、俺の足から包帯をほどき始めた。

 手先を見つめる真剣な表情。

 やはり綾人らしからぬ、機敏な動きだった。

「そ、そういや明日はどうするんだ?」

 高鳴る心音を誤魔化すように、俺は委員長に視線を移した。

「明日はもちろんパーティーを開催するぞ」

「……オマエ、明日大会だろ?」

「夜の予定はフリーだ」

 そういや前の世界でも、委員長の優勝パーティーは夜だったっけな。

 そしてあのレストランに行って、事件が起きたんだ。

 あれからもう一週間も経つんだな……実際には経っていないが。

「……分かった分かった。大会中に、会場の準備しときゃいいんだろ」

「なるほど、それなら効率的だね」

 アイが大きく頷く。

「ここは私達に任せて、レンは大会に集中して。キミなら、間違いなく優勝できるよ」

「ああ。ありがとう」

 委員長は嬉しそうに笑った。

「そうだな……お詫びと言ってはなんだが。ケーキ代は鷲介が持とう」

「なんでだよ!」

「冗談だ。自分が特別なケーキを頼んでおく。姉がパティシエをしているんだ」

 ああ……『パティスリーウエノ』か。

 なんだかんだ、かなりの頻度でお世話になっているよな。

「神田が常連の……」

 一瞬にして背後から口を塞がれた。

「突然どうした鷲介」

「いや、何も」

 コイツ、店に通ってることも隠しているのか?

 絶対にバレていると思うが。

「ケーキ……!」

 綾人がさっそく話題に食いつく。

 いつの間にか、足には綺麗に包帯が巻かれていた。

「食べ物は、まあなんとかするがパーティー会場はどうすんだ? いつもの店でもいいけど……狭いよな。オレんち来るか?」

「私の家も、問題ないよ」

 アイと神田……二人とも一人暮らしだもんな。

 アイは仕事仲間と一緒に暮らしているらしいが。

「いや、うちでいいぜ。一軒家だから、多少騒いだって問題ないし」

 せっかくなので、俺も名乗り出ることにした。

「でも、家族に迷惑がかかるぞ」

 委員長が心配してくれるが、俺は首を左右に振った。

「家には俺一人しかいないからな」

「なんだ、大崎も一人暮らしなのか?」

「まあ、似たようなもんだ。表向きは母親と二人暮らし……ってことになっているが。実際は、その母親もほとんど家に帰って来ないしな」

 仕事なんだか、男と会っているんだかは知らないが……。

 本当に家に寄り付かない人だからな。

「ふむ、それなら……お言葉に甘えようか」

「オレ、場所知らねーから、あとで住所教えろ」

「私は場所を知っているから、駅前で待ち合わせて一緒に行こうか」

「じゃ、煉は大会が終わったら合流な。迎え行く」

「分かった」

 みんなの集合場所も決まったようだ。

「それじゃあ午前中には部屋の掃除を終わらせとくから、午後イチでうちに集まってくれ。集まったら設営班と買い出し班に別れて準備すればいいな」

「了解。サンキュ、大崎」

「助かる、大会が終わったらすぐに向かう」

「楽しみにしているよ」

 よし、とりあえず話がまとまったな。

「綾人も来るよな?」

 念の為、声をかけてみる。

 日曜日だったとはいえ、前回は断られたからな。

「うん、もちろん」

 綾人は少し照れたように笑った。

「さて、自分はそろそろ部活の準備をせねば」

 時計を確認し、委員長は当たりに散らばった包帯やらを片付け始める。

「んじゃ、俺達も帰るか」

 椅子から立ち上がり、委員長のあとに続こうとする……が。

「……っ」

 足に、ズキリと痛みが走った。

 さっきよりは収まってはいるが……。

 どうも歩きづらい。

 とてもじゃないが普段と同じスピードで歩くのは無理そうだ。

 この前と同じで、休めばすぐに元に戻るとは思うが。

「背負ってやろうか?」

 神田がニヤニヤしながら近付いてくる。

「それは遠慮する」

 神田に背負われながら帰るなど、失態もいいとこだ。

 ふと横を見ると、アイがポケットから電話を取り出していた。

 何度かボタンを操作して、再びポケットにしまう。

「今、迎えを頼んだから」

「へ?」

「私と一緒に、車で帰るといい」

「い、いや……悪いだろそれは……」

「気にすることないよ。英雄の凱旋だからね」

 なんだ、その大げさな言い方……。

 だが、歩けない俺にとってはすごく助かる。

 その好意、ありがたく受け取っておこう。

「悪いな……頼む」

「気にしないで。アヤトも乗っていくといい」

「ボ、ボクも……?」

「隣同士だろう? 遠慮することはないさ」

 アイは綾人を見て何故か少しだけ悲しそうに笑った。



 *一二月二二日 金曜日 自宅



「ただいま……っと」

 玄関扉を開き、家の中に入る。

 靴を脱いで、ラックにコートを掛けた。

 ちなみに綾人は少し家のことをしてから来るそうだ。

 俺は直接リビングに入り、ソファに腰を下ろす。

 チラリと時計に目を運べば、時刻は一五時半を少しまわったところだった。

 車で時間をショートカットしたおかけで、いつもよりも早く家についたな。

「とりあえず……」

 少し腹が減ったから、何か食べよう。

 そういや、金曜日は冷蔵庫にリンゴがあったりなかったりしたんだよな。

「あれ……?」

 今更だが、この部屋に対して違和感を感じた。

 いつもの金曜日と同じく、ダイニングテーブルに荷物が山盛りになっているのだけれど……。

 この部屋……なんか、全体的に……。

「温かい……?」

「あら、五樹……帰ってたの?」

「!」

 その声に慌てて振り返る。

 そこにはバスタオル一枚で身を包んだ、ショートヘアの女性が……って!

「か、母さん……!」

「何よ、そんなに驚くことないじゃない」

 突然の母親登場に、思わず後ずさる。

 俺の態度に、母さんは不服そうだ。

 しかし、それもつかの間。

 ふいと目線を逸らされる。

 バスタオルを椅子の背もたれにかけ、息子の前で恥ずかしげも無く用意してあった服に着替えを始めた。

 下着を着け、クリーニングから返ってきた真っ白なシャツを羽織りボタンを閉める。

「……っ」

 そうか……今日は帰ってくるのが早かったから、母さんと鉢合わせしてしまったのか。

 いざその場になると、普段、溜めに溜めていた言いたいことも言えず。

 悔しいやら、もどかしいやら……。

 なんとも言えない複雑な心境に、俺はただそこに立っていることしかできなかった。

 いや、別に母さんのこと嫌いなわけじゃないんだけど……。

 ……苦手なんだよ、この人。

「……帰ってたのか」

「またすぐ出かけるけどね」

 こちらを見ようともせず、口先だけで淡々と応える。

「何? 何か用事でもあるの?」

「いや……」

「そう」

 母さんはパンツスーツに着替えを終えると、ダイニングテーブルの上ですぐに化粧に取りかかる。

 洗面台まで行かないのが、母さんらしい。

「ちゃんと、ご飯は食べてそうね」

「え……ああ、まあ」

「自炊してるの?」

「……最近は」

「へえ、どういう風の吹き回しかしら」

「いや、別に……何となく……やってみたら、楽しくなったから……」

「あらそう、意外な才能じゃない。インスタントばかり食べている私より、ずっと健康的よ」

 母さんはそう言って口元だけで笑う。

 俺はこれ以上、この部屋に居たくなかった。

 母さんと話してても気が滅入るだけだということを知っていたからだ。

 とっとと自分の部屋に戻ろう。

「そういえば、お隣の……綾人クンだっけ。元気にしてるの?」

「……え?」 

 なんで綾人?

 普段他人に興味を示さない母さんから、綾人のことを訊かれるのは意外だった。

「アイツは基本的にいつも元気だよ」

「基本的に、ねえ……。人間は多面的なのよ。みんながみんな、アンタみたいに単純じゃないわ」

 単純……。

 自分の思っていることを答えただけなのに、どうしてこうも一言二言余計に返してくるのか。

「ったく、我が息子ながら、鈍感にも程があるわ」

 まつ毛に何か塗りながら、鼻で笑う。

「それとも、本能的に気づかないようにしていただけかしら? それならば、大した自己防衛力だわ」

「?」

 いつも母さんとはあまり会話にならないのだが、今日は特に言っている意味が分からない。

 母さんは、一体何を言おうとしているんだ?

 パチンとポーチの蓋を閉める音がした。

「ま、せいぜい頑張ることね」

「何を……」

「真実はいつも残酷なものって決まってるの。自分で考えた最悪のシナリオ……でも、神様は簡単に書き換えるわ。さらに最悪なものにね。そいつは、待ってなんかくれない。目をそらしたら負けなのよ」

 そう言って立ち上がると、今度は化粧道具の入ったポーチをカバンに詰め込む。

 昔からそうだ。

 自分の言いたいことだけ言って、そしていなくなる。

「もしもし?」

 母さんはすでに俺に興味を無くしたようで、誰かと電話をしていた。

「あらそう。それじゃあ向かうわ」

 そのあと何度か携帯を操作すると、スーツの後ろポケットにそれを入れた。

 荷物が詰め込んであるカバンを肩にかけると、急足でリビングから玄関に向かう。

「それじゃあ、私はそろそろ仕事に戻るから。じゃあね」

 右手をヒラヒラと振り、そして玄関から外へ出ていく。

 外から聞こえる車の音。

 母さんは、車の運転ができない。

 タクシーを呼んだか……もしくは……。

 窓から覗いてみれば、外国製の真っ赤なスポーツカーが止まっていた。

 この前、テレビで芸能人が自慢の愛車だと紹介していた物と、色は違うがよく似ている気がした。

 運転手は見えない……いや、見えなくて良かったのかもしれないが。

「…………」

 お互いの生活には不干渉なのが、うちの暗黙の了解なんだ。

 父親と離婚してからの、無言の決め事……。

 それ以外は何もない。

 何も……。

 移した視線。

 その先には、積み重なった本が置いてあった。



 *



「ん……」

 いつの間に眠っていたのか……。

 リビングのソファから身体をゆっくりと起こす。

 窓の外は薄暗く、青みを帯び始めていた。

 ハラハラと、雪も降り続けている。

 固まった身体を伸ばす。

 今日はたくさん動いて疲れたからな。

 少しだけだが体力が回復した気がした。

「ああ……腹減った……」

 時間は一六時半をまわったところだった。

 思ったよりは寝ていなかったな。

「あれ、いっちゃん。起きたの?」

 キッチンから聞こえる声。

 そこにはリンゴの皮を剥く綾人の姿があった。

 ああ……毎回リンゴを用意していたのは……。

「オマエ、だったんだな」

「へ? あ、うるさかった? ごめん」

 俺はキッチンの方へふらふらと歩き、勝手に勘違いする綾人の頭に手を置いてから目の前にあるリンゴに手を伸ばした。

 リンゴはあまり冷えていなかったが、甘くて美味しかった。



 *一二月二二日 金曜日 就寝前



「ふう……」

 風呂から上がり、洗濯を終わらせて自室に戻ってきた。

 綾人はいつも通りパジャマ姿で、布団の上でのんびりと無防備にくつろいでいる。

「おかえりー。今日は疲れたねえ、もう足は大丈夫?」

「ああ、もう普通に歩ける」

 俺はベッドに腰を下ろすと、もうすっかり痛みの取れた足を上げた。

「良かった。それじゃあちょっと無理し過ぎただけだったんだね。今日、いっちゃん大活躍だったもん」

「オマエこそ」

「ボクのはたまたまだよ。ボク相手に、悠希くんが油断してただけ」

「そんなの……」

 何度も通用することじゃないと思うが……。

 しかもあの悠希相手に、だ。

 アイツは俺の知り合いの中でもかなり頭が回るヤツだと認識している。

 つまり悠希は対策を打たなかった……というよりは、対策を打つことができなかった……?

「ねえ、いっちゃん」

「なんだよ」

「……ううん、なんでもない」

 そう言うと、突然綾人はリモコンで電気を消す。

「え」

 突然真っ暗になる部屋。

 明るい場所に慣れていた目では、何も見ることができない。

「眠くなっちゃった」

 下から布団の擦れる音が聞こえた。

 きっと綾人が毛布に包まった音だろう。

「……それじゃ、とっとと寝ろ」

 俺も音を立てないようにベッドに横になる。

 すぐ下から、小さなあくびが聞こえた。

 今日はたくさん動いて疲れたんだろう。

 今朝だって、卵焼き作るために早起きしたしな……。

「明日もみんなと会うの、楽しみ……」

 それは、人と関わることを嫌がっていた綾人からは考えられない言葉だった。

 なんとなく目線を、すぐ横にあるカーテンの隙間から窓の外を見る。

 街灯に照らされた雪がキラキラと輝いていた。

「少しだけ、寂しいけどな……」

 息だけで呟いた声は、音になることなく……誰にも気づかれずに消えていった。

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