Ⅴ-Ⅳ 大崎五樹



 *一二月二一日 木曜日 自室



「うるせえ……」

 ぼんやりと覚醒してくる頭で、これでもかというほど鳴り響く目覚まし時計に文句を言う。

 手を伸ばし、その元気な音を止めた。

「……あれ?」

 幼馴染が寝ていた下の布団は、綺麗に折り畳まれベッドの横にまとめてあった。

「綾人……!?」

「おはよーいっちゃん。今ちょうどご飯できたとこ」

 名前を呼んだタイミングで、綾人がひょっこりと顔を覗かせた。

 もうとっくに着替え終わり、制服に赤いチェックのエプロンを身に着けていた。

 あのエプロン、綾人のだったのか……。

「早く支度しておいでね」

「あ、ああ……」

 言うだけ言うと、綾人はさっさと階段を降りていってしまう。

「なんだ……」

 綾人がいなくなったわけではないことにホッとしている自分がいた。

 俺は起き上がり、クローゼットから制服を取り出す。

 やはり外は雪が降っていた。



 *



「すげー種類だな……」

 キッチンのカウンターには、弁当用のおかずが並んでいた。

「なんか早く目覚めちゃって。ヒマつぶしに色々作っちゃった」

 綾人は楽しそうにアルミカップにおかずを移していく。

 そこには俺のイメージする幼馴染の姿はどこにもなく、すべての作業を器用にこなしていた。

「悪いな、俺が作るって言ったのに」

「いいよ、料理は趣味みたいなものだから」

 まさか綾人からこんなセリフが出てくるなんて、先週の俺だったら夢にも思わないだろうな。

「お」

 カウンターの横に、綺麗に巻かれた卵焼きがあった。

 焼き立てなのか、ほやほやと湯気が出ている。

「美味そうな卵焼きだな」

「いっちゃん、卵料理好きだもんね」

 そこで気付く。

 弁当を毎日作っていたのはおばさんではなかったのだ。

 もしかして、これまでの弁当、卵焼きの出現率が異様に高かったのって……。

「ほ、ほらいっちゃん! さっさと朝ご飯食べちゃってよ」

「あ、ああ……」

 何故か慌てた綾人に促され、ダイニングテーブルに座った。

 テーブルの上にはすでに朝食が用意されていて、美味しそうな匂いと湯気が辺りに満ちている。

 少し離れた場所に、綾人の携帯がケーブルに繋がれたまま置いてあった。

「あ、充電器借りてるよ。昨日、いつの間にか充電切れちゃってたみたいでさ」

「ああ……」

 綾人の言葉をそれ以上考えないように、白米を口に入れる。

 久しぶりの朝ご飯に、俺の胃が嬉しそうに動き出すのを感じた。



 *一二月二一日 木曜日 登校



「あー寒い……」

 昨日の夜から降り出した雪が地面に落ちては消えていく。

 そんな中でも、近所の人達は犬の散歩や井戸端会議に勤しんでいる。

 何度も見るこの光景……。

 今ではすっかり珍しいものではなくなっていた。

「今日から雪が続くって、天気予報で言ってたねー」

「ホワイトクリスマスってか? 全然嬉しくねーけど」

「いっちゃんはロマンがないなあ」

 通学路を二人で歩きながら、他愛もない話を続ける。

 そういや今週は綾人と登校するの初めてなんだな。

 なんだかこの感じがすごく久しぶりに感じる。

「ふあ……」

「眠いのか?」

 まあ、昨日はたくさん歩いたし、帰ってくるのも遅かったからな。

 しかも今朝は早起きしてたし。

「眠いけど、へーき。何かしてないと、時間もったいないし」

 綾人のくせに、意外と意識の高いことを言う。

 確かに今週のコイツは、珍しく昼夜問わず活動している気がするな。

 途中で疲れて、体調を崩さないといいが……。

「あ」

 ふと、いつもの木曜日の朝の出来事を思い出す。

 今日は憂鬱じゃないんだな。

「月島くーん!」

「!」

 俺の耳が勝手に反応する。

 間違えるはずのない、その甘い声……!

「良かったぁ、見つけた」

 小走りで駆け寄ってきた田端さんは俺の目の前で立ち止まる。

 どうやら名前を呼ばれたのは勘違いじゃないらしい。

 田端さんは、手入れのされたふわふわの長い髪を自然に手櫛で整えた。

 そんな女の子っぽい動作も、何もかもが可愛い。

「ん……?」

 しかし待て。

 さっき月島って言わなかったか?

 月島って……え?

「月島くん、おはよ。月曜日はありがとう」

 そう言って田端さんは、極上の笑顔をこちら……ではなく、綾人に向ける。

 待て待て、どういうことだ……!?

 月曜って……何かあったっけ……?

 確か綾人は友達と帰るって言って、俺を放っておいて帰った日だよな?

 そうか、あの時は尾行していないから、綾人が何をやっていたか知らないんだ。

 一人……いや、正確には二人で、フラフラ遊んでいたとか言っていたが……。

 そこに田端さんが登場するとは聞いていないぞ!?

「ええと……一体どういうことで……」

 俺は混乱した頭で、田端さんと綾人を交互に見る。

「月曜日の放課後、しつこいナンパから助けてくれたんだよ」

 田端さんは優しく教えてくれる。

 そういえば神田も月曜にアイドルを助けたことあったよな……!?

 今度は綾人かよ!

 というか、この綾人が人助け……!?

「助けたなんて……。たまたま威圧感のある人と一緒にいたから、相手が勝手に逃げてっただけというか……」

 綾人は恥ずかしそうに視線を外す。

「その後も、色々と……嬉しかったから。はいこれ、良かったら使って」

 田端さんは、何か小さな白い封筒のようなものを取り出すと、綾人の手に握らせた。

 はあ!?

 アイドルからプレゼントだと!?

 一体何をもらったんだ?

 大きさは名刺くらいのサイズのものだが……。

「そんな、お礼言われるようなことなんて……」

 綾人は慌ててそれを拒否するが……。

「そんなことないよ」

「な……」

 今度は俺が驚く番だった。

 綾人はあの田端さんに、小さな声で何か耳打ちをされたのだ。

 もちろん何を言ったかは聞こえなかったが。

「……そっか、良かった」

 安心したように微笑む、綾人だったが。

 いや、よくねーよ!?

 なんか突然、距離近付き過ぎてないか!?

「それじゃあ私はそろそろ行こうかな」

 そう言って優雅に手を降る田端さん。

「本当にありが――――」

 の、動きがぴたりと静止した。

 どうやら俺達の背後にある何かを見てしまったらしい。

 一体どうしたのか、俺は恐る恐る後ろを振り返る。

「よっ」

 背後からした声に振り返れば、ここにも普段そこにいるはずのない人物が立っていた。

「ご、ごきげんよう……神田くん」

 田端さんの笑顔が、いつの間にか引きつったものになっていた。

 俺もまさか通学路で神田と会うなんて思ってもいなかった。

 朝から活動するなんて、コイツも一体どうしたんだ。

「大崎、月島、田端桃香……珍しい三人組だな」

「なんで私だけフルネームなのよ」

「素が出てるぞ」

 さっきまでの表情とはまるで違う田端さんは、心底嫌そうに顔を神田に向ける。

「あ……ちょうど良かった。神田くんにも、とりあえずお礼を言っておきますね……不本意だけど」

「礼? 何の話だ?」

「悠希くんのことよ。昨日、伝えておいたこと……何か裏で手を回してくれたんでしょう?」

「ああ……『ナルちゃん』ね」

 神田は納得したように頷いた。

 そういえば昨日って、田端さんが神田に告白……じゃなくて、お願いをした日だったっけ。

 午後丸々サボったから、その出来事に鉢合わせなかったが、やはり今回も起こっていたんだな。

「別にオマエに言われたからじゃないさ。こっちは週の頭から動いていたわけだし。で、ヤツは少しは大人しくなったか?」

「うん……だいぶ落ち着いたみたい」

 田端さんは心から安心したように、ようやく自然な顔で微笑んだ。

 悠希のこととなると、あの田端さんでも隠しきれずに表情に出てしまうんだな。

「そりゃ良かった。さっき異様に近い距離で話してたから、ついに駒込から月島に鞍替えしたのかと思ったぜ」

「はあ!? 何言ってんのっ!? 私は昔から悠希くんひとす……」

 そこではハッとした表情で口を手で抑える。

 俺と綾人を交互に見て、恥ずかしそうに目を伏せ、そして。

「ア……アイドルにスキャンダルはダメなのーっ!」

 と、叫びながら、真っ赤になって走っていってしまった。

 通学路に田端さんの声が木霊する。

「アイツ、いつからアイドルになったんだよ……」

 神田のツッコミは、冬の冷たい風に流されて消えてしまった。

「さてー、早く学校行かないとー」

 わざとらしく。

 この場所から一刻も早く立ち去ろうとする幼馴染。

 俺は瞬時にヤツの首根っこを掴み、逃げられないように力を込めた。

「さっきの話、詳しく聞かせてもらおうか」

 時間はたっぷりあるからな、できるだけ、穏便に訊いてやろう。

「そ、そんな大したことしてないよ!? 助けた後、ちょうど悠希くんが近くを通りかかったから……だから、ちょっとだけ悠希くんとの間を取り持ったというか……」

「はあ!?」

 なんて余計なことをしてくれたんだ……!

「だ、だっていっちゃん、田端さんに対する感情は憧れだって……」

 なるほど、このことがあったから昨日確認取ったわけか。

 そりゃあ憧れだけどさ!

 でもやっぱりお近づきになれたら嬉しいだろ!

「で、具体的に何したんだよ?」

「えっと……夜は危ないから、帰り送るように悠希くんに先輩命令した……くらい」

「なかなかのファインプレーだな」

 神田の口角が上がる。

「全然ファインじゃねえ……。つまりその後、悠希と田端さんはいい感じになったってことだろ?」

 勝手な妄想が頭の中を埋め尽くしていく。

 しかもこれからクリスマス。

 カップルに向けたイベント目白押しだ。

「あの二人じゃ、そんなことにならないと思うけどな」

 神田がぽつりと呟くが。

「まあ、オマエじゃ田端桃香は扱えないって。諦めてまた別の恋を探すんだな」

 別に俺をフォローしてくれたわけでは無さそうだ。

「ほら、とっとと学校行くぞ」

 何故か不良に登校を促される。

 俺と綾人は神田に続き、登校中の生徒に混ざって正面玄関から校内へ入った。



 *一二月二一日 木曜日 教室



「あれ。煉、どこ行った?」

 教室に入るなり、神田は委員長を探す。

 確か木曜日って、委員長が遅れてくる日だったよな。

 主にコイツ関係で。

 あとは、朝練終わりに球技大会の練習をしていたこともあった気がする。

 視線を横に移せば、アイの席もガランとしたままだ。

 誰にも座られることなく、寂しそうにぽつんと置かれている。

「なんだ、珍しい三人組だな」

 すぐに委員長が物珍しそうな顔をしながら、教室に姿を現した。

 神田にいたっては、朝の教室に入ってくること自体が奇跡みたいなもんだからな。

 クラスメイト達も、まるで珍獣でも見つけたようにこちらをチラ見している。

「おはよう、大崎、月島」

 委員長が爽やかにこちらへ挨拶してくれた。

「どうしたんだ、鷲介。朝から教室にいるなんて天変地異の前触れか?」

「そこまで珍しくはないだろ。てか、昨日家に送ってった帰りにちゃんと伝えたろ」

 神田は一応、昨日の帰りは委員長を送っていってくれたらしい。

 たぶん前のように部活終わりまで待っていたんだろう。

 袖口から見えた委員長の右手には、包帯は巻かれていなかった。

 やはり今回は事件、起きなかったんだな。

 アイや神田から言われてはいたけれど、何事もなくて本当に良かった。

「ああ、明日はちゃんと朝から行くというヤツか? まさか本当に来るとは」

「信用ねーな」

「そんなことはないぞ。オマエを信じて、今日は迎えに行かなかったじゃないか」

「…………」

 複雑な顔をする神田に、委員長は言葉を続ける。

「どちらかと言えば、オマエには明日に来て欲しかったがな」

「明日? 何かあったか?」

「明日は球技大会だろうが。朝練の後、後輩と球技大会の練習していたから、今日、自分も少し遅くなったんだ」

「すっかり忘れてた。さっさと前回のリベンジするぞ」

 神田はニヤリと笑うと、俺の背中を叩く。

 どうやら今の委員長の言葉で、スイッチが入ったらしい。

「なんだ、やる気じゃないか」

 それにはさすがの委員長も目を丸くして驚いている。

「一年のクラスとちょっと因縁があってな」

「何か良からぬことではないだろうな」

「完全に私怨だ」

 神田は不敵に腕を組む。

 今週の悠希には何の恨みもないのだが……まあ、積年の恨みということで八つ当たりの相手になってもらうしかないな。

「絶対勝つぞ、大崎」

「お、おお……」

「やる気のある所悪いが、希望人数が多ければくじ引きになる予定だぞ」

「はいはい、くじ引きね」

 神田は委員長の話を適当に流す。

 そういや前回コイツ、クラスメイトを恫喝して、好きに組めるようにしたんだっけ。

 ……今回もやるつもりだな。

「大崎は、四位……じゃなくて、えっと、あの転校生に連絡しといてくれ。明日ちゃんと来るように」

「なんで俺が」

「オレ、今アイツと冷戦状態だから」

 フンと、横を向く。

 もしかして、昨日のトイレでの話だろうか……。

「そんな状態でチームプレーできんのか?」

「これはこれ、それはそれ」

 神田節が出たところでチャイムが鳴る。

 やる気のない猫背の担任が教室に現れた。

 いつも教室にいるはずのない神田を見て、一瞬驚いた表情を見せるが、特に小言は言わなかった。



 *一二月二一日 木曜日 午前授業中



「思い出した」

 午前の授業真っ只中。

 俺は超重要事項に気付いてしまった。

「どしたの?」

 綾人が不思議そうに顔を向ける。

「オマエ、俺のアイドルに何貰ったんだよ」

 一応小さい声で綾人に訊いてみる。

「あ、そういえば……なんだろ?」

 綾人もすっかり忘れていたらしい。

 制服のサイドについているポケットから、ゴソゴソとそれを取り出す。

 綾人のヤツ、田端さんから貰ったものを雑に扱いやがって……。

「あ……ストバのドリンクチケットだ。しかも二枚」

 小さな封筒型の袋に入っていたそれは、カードのようだった。

 ストバって、あのオシャレなコーヒーの店か。

 さすが田端さん、くれるものが上品だぜ。

「今日の放課後、行く場所が決まったね」

 綾人は嬉しそうにチケットを見せつけてきた。

「つ、使うのか……!?」

 せっかく田端さんに貰ったものだというのに……!

「あ、期間限定のクリスマスホットチョコがある」

 人の思いなど全く気にせず、さっそく携帯でメニューを調べていた。

 綾人がもらったものだから、文句は言えないが……。

 くそ、俺だったらずっと自室の机の上に飾っておくというのに……!



 *一二月二一日 木曜日 昼



「いっちゃん、お昼にしよー」

 綾人は弁当と椅子を持ってくると、俺の席の真ん中にどかんと置いた。

「ああ……」

「うわ、まだ落ち込んでる」

 人の心境など全く気にせず、綾人はさっさと弁当を包みを開け始める。

「いいじゃない、田端さんが幸せになるならそれで」

 綾人の言葉にハッとする。

「オマエ、いいこと言うな……!」

「あ、ボクちょっとトイレ」

 立ち上がり、目の前からいなくなった。

 コイツの言葉に感動した俺がアホみたいじゃないか。

 慌ただしいヤツ……。

「月島、どこ行ったんだ?」

 入れ替わりに、まだ学校にいた神田がやって来た。

 相変わらず甘そうなカフェオレ手に持っている。

「トイレ。そういう委員長は?」

「煉は購買。ついでにオレのパンも買って来てもらってる」

「委員長をパシリに使うとは」

「別にいいだろ、ジャンケンで勝ったんだ」

 なんて平和な争いなんだ……。

「この時間に行ったら買えないんじゃないか?」

 月曜日の購買戦争を思い出す。

「そこは弓道部パワーでなんとかしてもらうさ」

 なんて身勝手な。

「委員長、ケガしてなかったな。何事も無く、木曜日を迎えられて良かったよ」

「一応、昨日煉を家まで送り届けたが、まあ何も無かったよ。駒込の大好きな『ナルちゃん』から忠告してもらったから、そこまで心配はしてなかったけどな」

「ナルちゃん……?」

 そういえば、前回の世界でも今朝も言っていたな……。

 それを聞いて、悠希がムッとしてたっけ。

「オマエも見ただろ? あの黒髪長髪のヤツ」

 倒れた悠希を連れに来た二人組のうちの一人か。

 暗がりでよく見えなかったが、なかなか端正な顔立ちをしていた気がする。

 小さい方は帽子をかぶっていたことくらいしか覚えてないが。

「アイツの言うことなら基本なんでも聞くからな、駒込は」

 扱い方が分かれば可愛いもんだ、と神田が続ける。

「何者なんだ?」

「悠希の入ってるチームのヤツ。悪いヤツらじゃないんだけどな。なんせオレ、嫌われてるから」

 そういえば前回の世界では悠希を止めるように頼んだけど、信用してもらえなかったって言ってたっけ。

 今回はどんな手を使ったのかは不明だが、無事に済んだようで良かった。

「始めっからそうしてれば良かったぜ。ま、それを経験したから言える話だけどな」

 神田は空いている綾人の椅子に座った。

「そういやオマエ、あれから何か……この世界について調べてたりするのか?」

 少し声を顰めて尋ねてみる。

 昨日、トイレでアイに忠告されていたことを思い出す。

 コイツらの組織のことは分からないが、あまり首を突っ込むのは危険みたいなこと、言われてたよな……。

「もちろん、調べてる」

 さも当然といった表情で答えられた。

 どうやらアイの忠告は意味が無かったらしい。

 お気に入りだからとかなんとか言われてたけど、本当に大丈夫なんだろうな……?

「つっても特に新しい情報はないけどな。本部の関係者達が続々と日本に集まって来てるくらいか」

 関係者……その言葉に思い当たる人物がいた。

「関係者って……あの片眼鏡のヤツとか?」

「!」

 神田は突然立ち上がり、俺の両肩を掴んだ。

 椅子がガタンと大きな音を立てる。

 突然のことに、教室全体が静かになったのが分かった。

「オマエ、そいつとどこで会った……!? 何もされてないよな……!?」

「どこって……アイの車に同乗してたのを見たくらいで……」

 思わぬ神田の反応に、俺も言葉に詰まる。

 そんなに驚くことなのか……?

「やめないか!」

 いつの間に帰ってきたのか、委員長が俺達の間に割り込んで来た。

 その細身の体躯からは想像できない力で、俺達を引き離す。

 どうやらケンカか何かだと思っているらしい。

「何をやっているんだ。皆、驚いているだろう」

「なになにっ!? どうしたの!?」

 いつの間にか綾人も戻って来ていた。

 目をまんまるにして、近くを右往左往している。

「いや、あの……別にケンカしてたわけじゃ……」

 慌てて否定するが……。

 クラス中の注目を浴びていたことに今になって気付く。

「まったく……。とりあえず、これでも食べて落ち着け」

 委員長は紙袋に手を突っ込み、ビニール袋に入ったメロンパンを一つ取り出す。

 袋を開き、取り出したパンを半分……いや。

 ……三分の一と三分の二に分けた。

「……半分だ」

「嘘つけよ」

 神田から辛辣なツッコミが入る。

「う、うううるさい! ちょっと中心線が曲がっただけだろう!」

 委員長、残念だがそれを世間では半分とは言わない……。

「文句が多いオマエはこっちだ」

 と、三分の一の方を神田の口に突っ込む。

「ごふ……っ」

「オマエには、でかい方をやろう」

「あ、ああ……」

 外はサクサク、中はふんわりのパンを受け取る。

 あまり甘いパンは好きではないのだが……。

 せっかくの委員長の好意を無下にするわけにはいかない。

「でかいって認めてるじゃねえかっ!」

「それがどうした! 悪いか!」

「逆切れしてんじゃねーよっ!」

 唐突に始まる、神田と委員長の夫婦漫才。

「ケンカじゃなかったんだねー、良かったー」

 綾人はホッとしたように胸を撫で下ろす。

 神田は戻って来た綾人を見て、席を譲った。

 そして委員長から紙袋に入ったパンを受け取る。

「なんだよ、煉。パン、たくさんあるじゃねーか」

「後輩がついでに買って来てくれたんだ」

 やはり弓道部パワーは存在したのか。

 委員長は自分の机を持ってきて、俺のにくっつけた。

 どうやら今日は四人での昼食になりそうだ。

「甘いパンばっかだな」

 神田はそう言うと嬉しそうに紙袋からパンを取り出し並べ始めた。

 見てるだけで胸焼けしそうだ。

「その後輩、オマエと同じで甘党だからな」

「オ、オレは別に甘党では……」

 クリームパンを手に持ちながら、それでも隠し続ける予定らしい。

 そのタイミングで、机に置いてあった委員長の電話が揺れる。

「噂をすれば、その後輩からだ」

 委員長は電話を耳にあてた。

「もしもし。さっきは助かった。ああ……問題ない、ありがとう。ではまた放課後に」

「もしかして、真紘ってヤツか?」

 神田が呆れたように目を細めた。

「よく知っているな。オマエに真紘のこと話したか?」

「まあ、なんとなく……な」

 神田は誤魔化すように、パンを一口かじった。

 真紘……って、クリスマスパーティーの時にも電話をかけてきた後輩だっけ。

「懐かれてるんだな」

「煉くん、人望あるもんね」

 綾人も便乗してくる。

「褒めても何も出ないぞ」

 そう言って顔を背ける委員長だったが、少し照れているように見えた。

「ほら、早く食べないと昼休みが終わるぞ。次は体育だから、着替える時間もあるんだからな」

「やべ、そうだった」

 俺と綾人は慌てて弁当の蓋を開く。

 箸を取り出し、卵焼きを一番に頬張った。

「あれ、オマエらの弁当……」

 俺達の弁当を見て、神田が目ざとく何かに気付いたらしい。

 ……大体想像はつくが。

「……なんだよ」

「いや、何も」

 これ以上話を広げると面倒なことになりそうだったので、ニヤニヤ笑う神田は無視して、弁当をかきこんだ。



 *一二月二一日 木曜日 午後授業中



「今日の体育は自習ー! 何するー?」

 綾人は毎週のごとく、オリジナルの体操をしながら俺に報告を済ませた。

 体育館はいつもと同じく半分をバスケ、半分をバレーで使用している。

 今回はボールが飛んでくることもないから、のびのびできるな。

「とりあえず明日の練習するか」

「二人で?」

「オマエはあの中に入れないだろ?」

 バスケのコートで、委員長が体力の有り余った運動部達を引き連れて歩いている。

 これから練習試合をやるつもりらしい。

「ですね」

 本番でもないのに気合い入りまくりの連中を一見して、早々に諦めた。

「大人しく、ドリブルの練習でもしてるよ」

「そうだな」

 俺も綾人に付き合って練習してやるか。

「じゃあいっちゃん、ボク、ボール取りに行って――――」

「危ないっ!」

「!」

 その声に反射的に顔を上げる。

 しまった……!

 俺は毎回、ここでケガを――――。

「いや、するわけないだろ!」

 悠希はもう大人しくしているんだから!

「いやー、悪い悪い」

 声の方へ振り返ると、神田がゆっくりとドリブルしながら近づいて来た。

 どうやら今の叫び声は、コイツのイタズラだったようだ。

「神田、てめえ……」

「まあ、そう怒るなって」

 そんな笑いながら言われても、許す気になるか!

「悪い悪い、相当トラウマになってんだな」

「おかげさまで」

 未だに笑い続ける神田を睨みつける。

 何がそんなにおかしかったって言うんだ。

「てか、オマエどこ行ってたんだ?」

 食べ終わると同時に俺や委員長をおいてどっか行ったと思ったらジャージに着替えて戻ってきたんだよな。

「……機密事項」

「うわ」

 アイのこと散々文句言っておいて自分で使ってやがる。

「そんなことより人数が足りないんだ、あっちの試合出てくれよ」

 神田の目線の先には、先ほどの屈強な運動部軍団がいた。

 まさかあの中に入れと……。

「……いや、でも」

「月島もな」

「え、ボク!?」

 自分に火の粉が降りかかるとは思っていなかったのか、綾人はぎょっとした顔を返す。

「ボク、運動はちょっと……」

「何言ってんだ、明日の球技大会は出るんだろ? アイツらで準備運動しとけよ」

 どんな準備運動だ。

 レベル一で四天王戦行くようなもんだぞ。

「ボク、小さいので! 無理です!」

 胸を張って謎の主張をするが。

「問答無用」

「いーやーっ!」

 幼馴染は首元を猫のように掴まれて、誘拐されて行った。

 しょうがないので、引きずられる綾人の後ろについて行った。



 *



「あー、疲れた……」

 教室に戻るなり、机に身体を預ける。

 サッカー、バレー、野球などの連合軍対、俺達四人プラス、もう一人の帰宅部というチグハグ軍団だった。

 しかしこれがなかなかいい試合で、最後にはなんとか勝利を収めることができたのだ。

 こんなに本気で運動したの、久しぶりだ。

「情けないぞ、帰宅部」

 帰宅部代表の神田が笑っている。

 その手には体育館からの帰り際に買ったらしきいちごオレを持っていた。

 チャイムが鳴るなり、忍者のようにいなくなっていたと思ったら、フラッと買いに行っていたらしい。

 そして教室に戻ってきた時にはすでに制服に着替え終わっていたのだ。

「もうダメ動けない……」

 綾人も俺と同じように机に倒れ込んでいた。

 そのままピクリとも動かない。

 明日大丈夫か心配になるレベルだ。

「オマエら、なかなかのコンビネーションだったな」

 そう言って神田はすぐ横の机に寄りかかりながら、綾人の頭に手を置く。

 コンビネーションというか、ボールが手元に来るたびに俺にパスしていただけというか。

「オマエも帰宅部のくせになんでそんなに体力あんだよ」

 頭を机から離し、神田を見上げる。

 ヤツは涼しい顔でストローを咥えている。

「オレは普段から筋トレしてるからな」

 部屋に置いてあった筋トレグッズを思い出す。

 この脳筋魔法使いめ……。

「弱気なこと言いながら、身体は鈍っていないじゃないか大崎。明日の球技大会が楽しみだな」

 丁寧に折りたたまれたタオルで汗を拭う委員長。

 髪を解いているせいか、その姿は艶やかだった。

「だな。明日のチームメンバーは、オレ、煉、オマエ、月島、転校生の五人に決まってんだ」

「また勝手に……」

 ……まあ、アイも人並み以上に運動神経はいいからな。

 しかし問題は、俺の幼馴染の方だ。

「綾人、運痴だぞ……」

「……それ、本人目の前にして言う?」

 ようやく反応が返ってきた。

「いいんだよ、月島は。とりあえず大崎にパスしとけ」

「はーい……」

 机に頭を乗っけたまま、手だけ上げる。

「さて、自分はそろそろ部活に行く」

 委員長はジャージ姿のままカバンを肩にかけ、もう一つ、部活の道具が入っているカバンを手に持った。

 体育館の後に部活だなんて、体力どうなってんだ……と思ったが、中学の時は俺もそうだったんだよな。

「んじゃ、オレも帰るかな」

 神田は飲み終わったいちごオレをゴミ箱に投げ入れ、委員長の部活カバンを奪う。

「なんだ、持ってくれるのか?」

「途中まで方向一緒だからな」

 昨日委員長の身に何も起こらなかったためか、神田の表情は前回とは違い晴れ晴れとしていた。

「じゃあ、また明日」

 委員長の言葉に、神田も合わせて手を上げる。

「ああ」

「またねー」

「ほら綾人、早く着替えるぞ。女子が戻ってくる」

「おっけー……」

 声をかけられた幼馴染は、机を支えにようやく立ち上がった。



 *一二月二一日 木曜日 駅前



「いっちゃん、何頼むか決めた?」

 ストバまであと少しというところで、綾人が訊いてくる。

 放課後の駅前は様々な制服姿の生徒達があちこちを歩いていた。

 雪の降る中でも、元気に買い物を楽しんでいる。

「俺は……いいや」

「え、なんで?」

「オマエが田端さんに貰ったものだろ」

 それを俺が使うのは何だか納得できない。

「ええー、ボク二杯も飲めないよー」

「なんで一気に使おうとするんだ」

 アホな幼馴染を置いて、俺はさっさとストバの店内に入る。

 扉を開くと同時に、コーヒーの匂いに体中が包みこまれた。

 店の中はほとんどがオフィスカジュアル服の女の人だった。

 ぽつんぽつんと、私立校の服を来た生徒と、私服姿の人がパソコンのキーボードを忙しなく叩いている姿があるくらいか。

 俺が敷居が高いと感じていたのは間違いではなかったらしい。

 注文待ちをしているのは俺達を含め四、五人だった。

 この時間のマスドよりは混んでいないが、年齢層が高めだ。

 俺達の前にいたのは、高そうなスーツに身を包んだサラリーマン風の男だった。

 後ろ姿のため年齢は不明だが、中肉中背で身長がやたら高い。

 慣れた様子でホットコーヒーを注文していた。

 ストバで普通のコーヒーを頼むなんて、カッコイイな……。

「あ……」

 綾人から声が漏れる。

 前に並んでいた人のポケットからハンカチが落ちたのだ。

 支払いをするために、後ろのポケットから取り出した携帯電話に引っかかったみたいだ。

「あの、落としましたよ」

 俺はそれを拾い、その人の隣に立つ。

 そのハンカチからは、柔軟剤とは違うような……不思議な匂いが漂ってきた。

「ああ、ありがとうございます」

 振り向いた顔に、既視感を感じた。

 年齢は二〇代後半くらいで、短めの黒髪をワックスで自然に整えている。

 鼻が高く、目に少し緑色が入っているせいか、どこか日本人離れした顔立ちに感じた。

 その人は長い指でハンカチを受け取ると、再び後ろのポケットへと入れる。

 どこで見たっけな……。

「あ……」

 そうだ、アイを迎えに来た車に乗っていた人だ。

 片眼鏡をしてないからすぐに気付かなかった。

 あの時は座っていたし、暗がりだったからよく見えなかったが一九〇センチくらいあるんじゃないか?

 びっくりするほど足が長い。

「それでは、失礼」

 丁寧に一礼すると、そのサラリーマン風の男はコーヒーを受け取り、店を出ていった。

 そういや詳しく訊くの忘れていたが、神田がその男の話を聞いて焦っていたことを思い出す。

 今見た感じでは、そんな危険な人には見えなかったけどな……。

 そして、ついに俺達の順場がまわってきた。



 *一二月二一日 木曜日 商店街



「おいしーい!」

「そりゃ良かったよ」

 商店街を歩きながら、綾人は持ち帰りにした期間限定ホットチョコを飲みながら何度も歓声を上げている。

 相当気に入ったらしく、さっきまで明日の帰りも行きたいと騒いでいた。

 商店街はあちこちで夕食用の惣菜の匂いが漂っていて、正直俺はストバよりもこっちの方が興味を唆られた。

「いっちゃんも飲む?」

「そんな甘いだけの飲み物飲めるか」

 綾人の言葉を即拒否する。

 結局今日使ったチケットは一枚で、また後日新作が出たら出向くことにしたのだ。

「これ、最後の晩餐にも飲みたいなあ……」

「そんな大げさな……ん?」

 商店街も終盤に差し掛かったところで、足が止まる。

 ちょうど神田と委員長と行ったレストランに入る道の前から、楽器の演奏の音が聞こえたのだ。

「あ」

 そういえば、たまにこの奥でライブをやってるってマスターが言ってたっけ。

「何? 路上ライブ?」

 綾人も興味を持ったようで、しきりに姿の見えない音の主を探している。

「たぶん、この奥だ」

 俺は路地裏を覗き込んでみる。

 やはり音はこの奥から聞こえてきていた。

「行ってみるか」

 この道はもう慣れたもので、初めて通った時の恐怖心は一切無かった。

 綾人も後ろからついてくる。

 普通に歩いていたら見逃してしまうであろう、レストランへ続く階段を通り過ぎ、最奥にある広間に辿り着いた。

 先週、悠希と対峙した場所だ。

 人が集まる中心に、その音楽を奏でるバンドの姿があった。

 あちこちに散らばった廃材を集め、少し高くしてステージにしているようだ。

 その雑に作られたステージが、ミュージックビデオのセットの様で、なかなかサマになっている。

 思ったよりも多くの人が集まっており、各自身体を揺らしたり、手拍子を入れながら音楽を楽しんでいた。

 ざっと見た感じで三〇人くらいだろうか。

 男女比は同じくらいだが、ほとんどが制服姿の学生だった。

 この辺りの高校生が勢揃いしているようで、四種類の学生服がカラフルな客席を作り上げていた。

「あ……」

 その中には悠希の後ろ姿もあった。

 やはりあの容姿は人混みでも目立つ。

 逆に悠希の方は、こちらに気付いてはいないようだったが、楽しそうに曲に聞き入っている。

 俺はあまり音楽に詳しくないため、激しめの曲調ということくらいしか分からなかったが。

 演奏をしているのは三人。

 スリーピースバンドというヤツだろうか。

 そのうち二人の顔を、俺は知っていた。

 一人は孔洋と呼ばれていたメッシュ頭の店員で、ベース担当らしい。

 この前の店員姿とは違い、今は臙脂色が目立つ私立椿乃学園の制服を着ていた。

 本当にあの金持ち学校の生徒なんだな。

 神田に突っかかり、マスターに顔を引っ張られていた記憶しかないが、こうやって楽器を扱っているところを見るとやたらと格好良く見えた。

 ボーカル兼ギターは、先週俺達に力を貸してくれた店員だ。

 この前と同じく、レストランの制服を着ていた。

 肩にかかるくらいの無造作ヘアの下に汗をかきながら、その高身長とガッシリとした体躯でギターかき鳴らしながら歌っている姿は、すごく目を惹かれるものだった。

 ピアノだけじゃなくて、ギターもできるんだな。

 この人が辿る未来を思い出し、少し切ない気持ちになる。

 ここに例の彼女も来ているのだろうか。

 今回の世界では彼女と上手くいくように祈っておこう。

 ドラム担当の一人は初めて見る顔だった。

 肩まである明るい茶髪を、下の方で一つに縛っている。

 あの黒い学ランはたぶん、榎田えのだ高校だろう。

 例の不良のたまり場と言われる高校だが、こうやって趣味に打ち込んでいるヤツもいるんだな。

 三人とも各々の楽器で演奏を楽しんでいるように見えた。

 「みんな、ボク達と同じくらいの年齢なのにすごいね」

 綾人が素直な感想をもらす。

 運動でも音楽でも、自分の好きなことを貫いている姿は、今の俺にはすごく眩しく見えた。

 一曲演奏が終わったが、すぐに次の演奏が始まる。

 ノンストップで続くライブに、観客の盛り上がりも最高潮に達しているようだった。

 すると綾人が少し離れた場所に置いてあった、いくらか投げ銭の入ったギターケースにストバのギフト券をそっと入れた。

「いいのか?」

「いっちゃん、いらないんでしょ?」

 そう言って微笑む。

 まあ、いいか。

 前回は会えなくて、直接お礼言えなかったし……。

 前の世界のお礼を、今回するっていうのもなんだか不思議な話だが。

 俺達はしばらくその場にいて、曲を楽しむことにした。



 *一二月二一日 木曜日 リビング



 いつもよりも少し遅い帰宅になった。

 リビングの電気をつけ、カバンをソファの上に置く。

 綾人は今日も泊まる気らしく、家に戻って荷物を取ってくるらしい。

「ああ……」

 さっき、神田に言われたことを思い出した。

 アイに、明日はちゃんと学校へ来るように頼んどけって言われたんだっけ。

 ポケットに突っ込んでおいた携帯を開くが、メッセージは何も来ていなかった。

 出るかは分からなかったが、アイに電話をかけてみる。

「もしもし、イツキかい?」

 意外にもアイは、三コール目ですんなりと出てくれた。

「ああ、今日はサボりか?」

「うん、ごめんね。心配したかい?」

「心配はしてねーけど……委員長、今回はケガしなかったよ。あと、俺もな」

「それは良かった。シュースケも動いてくれていたから、あまり心配はしていなかったけれど報告ありがとう。安心したよ」

 電話口でも、アイが笑ったのが分かった。

「それで、また別の話なんだが、明日は球技大会出れそうか?」

「それは大丈夫。そのために色々と終わらせたんだ、明日は頑張ろうね」

 意外なことに、神田と同じくアイもやる気があったらしい。

 魔法使いなのに、運動が好きってやっぱり俺のイメージとは違っているな。

「あ」

 あと一つ。

 今日あのスーツ姿の男と会ったことを思い出した。

 神田にはすげー驚かれたが、アイはどうだろうか。

 同じ車に乗っていたということは知り合いだろうし……。

 まあとりあえず報告だけしてみるか。

「イツキ、どうしたの?」

「そういや今日、駅前のストバでオマエの知り合いを見たんだ」

「ストバって……コーヒーショップだっけ。私の知り合いって?」

「ええと、この前オマエと同じ車に乗ってたスーツの……」

「な……大丈夫!? 何もされてない……!?」

 言いかけて、それはアイの声に上書きされてしまった。

 まさか神田と同じ反応をされるとは……。

 コイツとは仲いいんじゃないのか……?

「何もっていうか……あっちが落としたハンカチ拾っただけというか……」

 その勢いに押され、別に悪いことをしたわけではないはずなのだが、口籠ってしまう。

「そう……」

 アイは落ち着いたようで、すでに声のトーンは戻っていた。

「そいつに、何かあるのか?」

「……あまり詳しくは話せないけれど、危険だから近づかないで欲しいということだけは伝えておくよ」

 含みのある言い方だったが、アイのことだ……きっとそれ以上訊いても教えてくれないだろう。

 電話の奥で、小さなため息が聞こえた気がした。

「オマエこそ大丈夫か? なんだか声が疲れてる気がする……」

「私? 私は大丈夫だよ。あまり学校に行けなくてごめんね」

 それは嘘を覆い隠すような、優しい声だった。

 アイはアイで、忙しいんだろうな。

「まあ……転校してくるって約束は守ってくれたし……。俺のことはいいから、疲れてるならちゃんと休めよ?」

「もちろん。明日は頑張らないといけないからね。楽しみにしているよ」

「ああ、それじゃあまた明日な」

 俺はアイとの通話を終える。

 それが少しだけ名残惜しく感じた。

「誰と電話してたの?」

「!」

 いつの間にか、背後に大荷物を持った幼馴染が立っていた。

 コイツ、ここに何泊するつもりなんだ。

「ビ、ビビった……」

「そんなに驚くことないじゃない」

 綾人は不思議そうに俺を見上げる。

「お腹空いたから、ちゃっちゃとご飯作っちゃお」

「あ、ああ……」

 エプロンを着用しつつ笑顔でキッチンに立つ綾人の後に続き、俺も邪魔しないよう手伝うことにした。



 *一二月二一日 木曜日 就寝前



「いっちゃん、ほんとに料理上手くなったよねー!」

 布団でゴロゴロしながら、綾人が褒めてきた。

 風呂から上がって二時間は経っているのだが、顔が赤いままだ。

 いつもの如く、どんなにセットしても負けないアホ毛がぴょんと主張していた。

「褒め過ぎだ。まだ数回しかやってないんだぞ」

 そもそもそんなに難しい料理を作っていないしな。

 簡単にできるレシピを選んでいるだけだ。

「いいんだよ。普段なんて、そんなに手の込んだ料理作らないんだから」

「そりゃそうだが……」

「それとも、何か作りたい物でもあるの?」

「あ……」

 チャンスだと思った。

 俺には、どうしても教えてもらいたいことがあったんだ。

 それはどんなレシピ本にも載っていない、綾人だけが知っている料理だ。

「……なあ、綾人」

「ん?」

「明日、卵焼きの作り方教えてくれないか?」

「卵焼き……でいいの? そんなのネットとかで作り方見れば……」

 俺からそのセリフが出たことが意外だったようで、綾人は目を大きく開く。

「えっと……だな……」

 俺はその後の言葉を続けるかどうか迷う。

 でも、ここは素直に言わないと……たぶん恥ずかしくて一生言えなくなる気がしたんだ。

「す、好きなんだよ……オマエが作った卵焼き……」

 真っ直ぐに綾人の顔が見れなかった。

 なんでこんなに緊張するんだ、俺は。

「そっか。卵焼きって家庭によって味、違うもんね」

 納得したように、綾人は頷く。

「いいよ。明日の朝、一緒に作ろうか」

 すんなりと承諾してくれた。

 そして幼馴染は枕に顔を埋めながら笑う。

「さて、そろそろ寝よっか。明日は目指せ優勝だよ」

「ま、程々に頑張ってやるよ」

「うん。また明日ね、おやすみ」

 俺は綾人が布団に潜るのを確認すると、リモコンで電気を消した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る