Ⅴ-Ⅲ 大崎五樹



 *一二月二〇日 水曜日 自室



 耳障りな目覚まし時計の音が頭の上で鳴り響く。

 昨日セットしておいたヤツだ。

 しばらく使ってなかった割には、耳をつんざくようないい音がしやがる。

 やっぱりこっちの音の方がちゃんと起きれる気がする。

 俺はベッドの上部へ這いずりながら手を伸ばし、小物置きになっている部分に置いてあるそれの、スイッチを思い切り叩いた。

 静かになる室内。

 思い切り寝返りをうったところでぼんやりと目を開き、背伸びをする。

 少しだけ布団から出た足先が冷たい。

「あ……」

 って、のびのびしてる場合じゃねえ。

 顔を上げ、さっき勢いよく止めたせいで位置が大きく傾いてしまった目覚まし時計を見上げる。

 時刻は七時半。

 よし、これなら昨日より余裕をもって家を出られる。

「あー、寒い……」

 俺はとっとと着替えを済ませ、駆け足で一階へ降りる。

「さてさて、弁当の用意でもしようかね」

 まずは昨晩炊いておいた白米を弁当に詰める。

 昨日の通り、本来はちゃんと冷まさないといけないらしいが、冬真っ只中なので悪くなる心配はないだろう……多分。

 しかし念の為、昨日と同じく保冷剤を突っ込んでおこう。

 次に冷蔵庫から分けておいたおかずを取り出し、菜箸で詰めていく。

 なんとなく形になるもんだな。

 アイにも言われたが、俺ってもしかしたら器用な方なのかもしれない。

 あと、料理するのも意外と楽しかったんだよな。

 自分の好きな味付けにできるというのが特に良い。

 もちろんアイの教え方のおかげもあるけど。

「……さて」

 支度も整ったし、学校へ行くとしますか。

 玄関先にかけてあるコートを羽織り、カバンを持ち家を出る。

 昨日よりも爽やかな空気を感じた。

「念の為……」

 隣の家の敷地に入り、インターホンを押す。

 しばらく待ってみるが、家の中から反応が返ってくることはなかった。



 *一二月二〇日 水曜日 登校



「あー、寒い」

 両手を顔の前で擦りながら、通学路をひたすら歩く。

 時間的に余裕はあるのだが、少し早足だ。

 もう少しすれば、身体が暖まってくるんだけどな……。

 一人で歩く通学路は何となく長い道のりに感じた。

「五樹先輩!」

「っ!?」

 その聞き覚えのある声に、心臓が飛び跳ねた。

 なんというか……トラウマを発症しそうな声。

 もしかしなくても、この声の主には心当たりがある。

 どうしよう……このまま逃げてしまおうか……。

 いや待て、ヤツの足の早さから逃げられるわけがない。

 先週の出来事を思い出し、覚悟を決めるしかないことを悟った。

 ギギギ……と音が鳴るくらい重く、首を声の方に向ける。

「おはようございます、先輩」

 モデルスマイルを引き連れた悠希の、華麗なる登場だった。

 そして前髪を揺らす風……の、魔法。

「よ、よお……」

 しまった、声が裏返ってしまった……。

 それでも悠希は何も言わず、ただ……ニコニコしている。

 これ、逃げた方がいいのか……?

 でも、コイツは前の世界の記憶、受け継いでないはずだよな?

 もしかして、もうすでに何か起こっていて、俺が狙われてる状態か?

 この笑顔の裏には何か隠されているのか?

 頭の中で、様々な憶測が飛び交う。

「先輩、今日はいつもより早いんですね。あれ、綾人先輩がいないなんて珍しい」

 ……普通だ。

 穏やかな雰囲気を醸し出しながらも、あざとい口調。

 前回の……あの、精神状態を疑いたくなるような部分は微塵も感じない。

 俺の知る、駒込悠希そのものだ。

 どうやら、アイの言ったとおり……今回は特に心配する必要はないらしい。

「お、オマエこそ……今日は、遅いんだな。朝練ないのか?」

 当たり障りのない返事をしてみる。

「あるっちゃあるんですけど、ほら僕、助っ人なので。気が向いた時に行けばいいかなって」

 どうやら今日は気が向かなかったらしい。

 しかしこの悠希は、二面性を知らなかった時よりも更に上機嫌に見える。

「あのさ……なんか、いいことでもあったのか?」

「ええー。分かります?」

 声がワントーン高くなった。

 普段は穏やかな表情の仮面の下に、冷淡な本音を隠しているヤツだ。

 しかし今日は、まるで隠している様子はない……というか、隠す気もなさそうだ。

 つまり……訊いて欲しいんだろうな。

「先輩は、憧れの人っていますか?」

 こっちが質問する前に、質問で返されてしまった。

「え、憧れの人……? そりゃあいるよ」

 俺のアイドル、田端さんとか……。

 ……叶わぬ恋だったがな。

「僕も……いるんです、憧れの人。雲の上のような存在の人で……声をかけることすらできなくて……」

 悠希は遠くを見るように、顔を上げる。

 その瞳はまるで曇りがなくて……。

 ただまっすぐに、俺には見えない美しいものを見ているようだった。

 つーか、このコミュ力しかない後輩が声をかけることができないって、一体どんなヤツなんだ。

「でも僕は、その人の存在にどうしても近づきたくて……。声なんか、とてもじゃないけどかけられなくて……遠い存在の人だったのに……。その人に、頑張り過ぎないでいいって言われたんです。あとは自分がフォローするから……って。声をかけてもらって、すごく嬉しくて……」

 ああ……。

 そういや、神田を連れてきたら褒めてもらえるとかなんとか言っていたっけ。

 もしかしてその人のことなのだろうか。

 今回の悠希は確かに、俺の知っている悠希とは違うものの……。

 前回の世界のように、危なげなものには見えなかった。

 どうやら今回の悠希の精神状態は、前回より安定しているようだ。

 いや、ある意味ちょっと躁状態だけれど。

「なんか、恋する乙女みたいだな」

「! や、やっだなー! からかわないでくださいよ先輩!」

 そう言って俺の背中を叩く。

 これならきっと……あの事件を起こさなそうだな。

 間違いなくアイか神田が、裏から手を回したものだろうが。

 ……それにしても。

 悠希の心理状態にそれほどの影響を与える『あの人』とは、一体何者なんだろうか?

「あ、それじゃ、僕はこっちなんで」

「え……? あ、ああ……」

 いつの間にか、もう学校の前でやってきていた。

 サッカー部に顔を出すのか、グラウンドにいる集団の中に入っていく。

 ……悠希のヤツ、完全に幸せモードに入ってるな。

 まあ、いいけどな。

 それで委員長が何事も無く過ごせるのならば。



 *一二月二〇日 水曜日 教室



 思わぬ伏兵に足止めはされたが……。

 チャイムより前に教室に入ることができた。

「おはよう、大崎」

 まだ教室のあちこちで話をしているクラスメイトの間を通り、委員長がやってくる。

「おはよ、委員長」

「昨日は無事に、月島と話せたのか?」

「あーまあ……。話してはいないんだが、特に危険なことをしている様子はなかったよ」

「そうか。それなら良かった」

 委員長はチラリ、と綾人の席を見る。

 そこには気だるげに空を見ている幼馴染が座っていた。

「今朝もあんな様子だ。少し話しかけてはみたのだが、完全に上の空だな」

「そっか……悪いな、気を使わせて」

「気にするな、オマエが謝ることじゃない。人間誰しも気分が落ちたり、辛くなったりすることがあるのだから」

「聖人君子……!」

「何を大袈裟な」

 少し照れたように、苦笑を浮かべる。

「だからこそ大崎。月島に必要なのはオマエだと思っている。きっとオマエが一番に月島のことを理解しているからな。だからオマエが思う、最善のことをすればいいさ」

「最善の事……」

「それじゃあ、席に戻る」

 委員長は伸びた姿勢のまま踵を返すと、自分の席へと歩いていった。

 最善のこと、か。

 言葉を噛み締めるように何度も反芻する。

 綾人は俺に、何をして欲しいのだろう……。

「……よお」

「はよ……」

 俺が話しかけると、綾人はボーっとした目を空からこちらへ移す。

「相変わらず、眠そうだな」

「……まあね」

 疲れた顔を隠せないまま、笑顔を貼り付ける。

「一体、どんな悪巧みしてるんだか……」

「……シューカツ」

「え……?」

 綾人はそれ以上何も言わなかった。

 そして限界がきたのか、小さく『おやすみ』と言って机に頭を乗せた。

 シューカツ……就活……。

 確かに来年、卒業年度ではあるが。

 この高校の生徒は進学するのがほとんどだった気がするが。

 まさか、教会にか……?

「一体どういう……」

 質問しようと綾人を見ると、いつの間にかすっかりと背中が寝息を立てていた。

「ったく、コイツは……」

 俺は諦めて自分の席に座り、ほとんど空っぽのカバンを机の横に掛ける。

 なんとなく教室を見渡せば、相変わらず神田もアイもまだ来ていないようだった。



 *一二月二〇日 水曜日 午前授業中



 午前中最後の授業が始まって三〇分。

 隣の席の幼馴染はようやく気だるげに頭を上げ起きてはいるが……ずっと空を眺めている。

 なんだか知らないが、だいぶ疲れが溜まっているっぽいな。

「いっちゃんさぁ……」

「!」

 突然話しかけられ、思わず辺りを見回してしまう。

 練習問題を解く時間のため、教師は椅子に座り目を瞑っていた。

「まだ、田端さんのこと好きなの?」

「な……っ」

 突然何言い出すんだ、コイツは……っ!

 ガタリと椅子が音を立てたせいで、教師が座ったままジロリとこちらを睨む。

 思わず首をすくめて萎縮するが……。

 それでも俺は教科書で口元を隠しながら、綾人に反論した。

「俺の田端さんへの思いは好きとかそういうんじゃなくてだな……っ。あれだよ、あの……ミーハー心っていうか……」

 そう……例えば、心がほっこりする感じだよ。

 田端さんのことを考えるだけで、幸せになれるというか。

「そっか」

 気だるそうに……または呆れたように、綾人は机に突っ伏した。

 もう会話するつもりはないらしい。

 なんだよ、興味ないなら訊くなよな!

 こっちが恥ずかしいじゃねえかっ!



 *一二月二〇日 水曜日 昼



 昼休みのチャイムが鳴ると、綾人は自分の椅子を引き連れ、俺の席にやって来た。

 たっぷり寝たことで満足したのか、久しぶりに機嫌がいいようだ。

「さーて、ご飯ご飯」

「今日は、食欲あるんだな」

「いっちゃんと約束したからね、ちゃんと食べるって。コンビニだけど!」

 綾人はビニール袋から甘い菓子パンを取り出し、それにかぶりつく。

 よくこんな空きっ腹に甘いものを……と思ったところでデジャヴを感じる。

 食の好みが神田と同じなんだよな。

 そういやコイツと向かい合って食べるのは、久しぶりな気がする。

「いっちゃんはまたお弁当? すごいねー!」

「まあな」

 綾人は人の弁当をキラキラした目で覗き込んできた。

 そういうコイツは、弁当じゃないんだな。

 てっきり俺の分を作ることをおばさんに伝えていないだけかと思ったのだが。

「なんかさー、思ってたより早く上達してる気がする」

「何が?」

「いっちゃんの料理の腕」

「ま、俺は器用らしいから」

「確かに昔からそんな感じだったけどー」

 何故か綾人は嬉しそうに笑った。

 昼休みの教室はあちこちから話し声が聞こえ、騒がしい。

 この喧騒に紛れてしまうなら、それはそれでいい……そんな気持ちで、俺は綾人に話しかけた。

「綾人」

「んー?」

「あの、裏門にいたヤツが……友達か?」

「…………」

 もう一口、パンを頬張ろうとしていた動きが止まった。

 パンと俺を交互に見て、次に出す言葉を考えているようだった。

「……見てたの?」

 訝しげに目を細める。

「た、たまたまだよ……ここから裏門見えるから……」

 嘘は言っていない。

 月曜日の放課後、グラウンドを見下ろしていたら偶然、綾人を見つけたのだ。

 俺はそれを目で追っただけにすぎない。

 ……昨日は尾行したけど。

「なるほど、後ついて来てたんだ……」

「へ!?」

「まったくもーいっちゃんは、しょうがないなぁ……」

 綾人はわざとらしく大きなため息をつき、自席からカバンを持ってきた。

 その中から何か封筒のようなものを取り出す。

 水色のそれは雪の結晶と雪だるまが描かれていて、いかにも綾人が好きそうな、可愛らしいデザインだった。

「本当はもっと後で渡そうと思ってたんだけど、今あげるよ」

「何だこれ」

「招待状。劇の」

「え……」

「いっちゃんへ、特別なヤツ」

「俺……!?」

 思わぬ内容に、今度は俺が驚く番だった。

 だって、今まで観にくるなって言ってたじゃないか……。

 身内に見られるの恥ずかしいからって……。

 今までといっても……今までの世界の話だが。

 一体どうしたっていうんだ。

 それでも、綾人の心境がここまで変わることなんて無かったぞ。

「頑張るからさ、日曜日観に来てよ。昨日ね、神父さんに場所取りお願いしたの。本当はあんまこういうの前例はないんだけど、主演の特権ってことで」

 なるほど、だから昨日は教会にいたのか。

 神父さんにそれを頼むために。

「すっごく特等席だから、穴開けないでね」

「あ、ああ……」

「いっちゃん……どしたの?」

「いや、なんでもねーよ……」

 何だか気恥ずかしくなって、残りの弁当をかき込む。

 意味の分からない幼馴染の行動に、振り回されてばかりな気がした。

 でも、綾人の行動の謎が一つ解けて安心している自分もいる。

 そんな時の表情を見られたくなくて……。

 俺は空になった弁当をカバンにしまい、立ち上がった。

「……トイレ、行ってくる」

「変ないっちゃん。ま、ごゆっくり」

 綾人は笑って手を振った。



 *



 トイレは同じ階の隅にあった。

 俺のクラスは一番離れているため、使い勝手は悪い。

 意外にも昼休みのトイレには誰もおらず、たまに聞こえる廊下からの笑い声が室内に反響する。

 最奥にあるすりガラスの窓から日光がよく入るわりには、何だか寂しい空間だった。

 ここに来る用事は特になかったので、備え付けの手洗い場で意味もなく手を洗ってみる。

 縁周りが曇った鏡に、複雑な顔をしている自分が映っていた。

 悠希の件が解決したと思ったら、今週は今週でいつもと違うことばっかり起きる。

 これでループの世界は終わりらしいが……。

 アイはもう俺を関わらせる気はないため、どうなってしまうのか結局分からず終いなのだ。

「おいおい、呼び出すんならキレイなとこにしろよな。さっき昼メシ、食ったばっかなんだよ」

「!」

 入り口の扉の向こうから聞いたことのある声がして、俺はパッと顔を上げる。

 慌てて水道の水を止め、何故か反射的にすぐ横の個室に入ってしまった。

 入っただけで、個室の扉は閉めていないのだが。

 タッチの差で入口のドアが開く。

 俺は壁に寄りかかり、ぐっと息を殺した。

「すまないね、手っ取り早く二人きりで話がしたかったんだ」

 入ってきたのは神田とアイ、という組み合わせだった。

 今朝は二人とも教室に姿が無かったのだが、いつの間に来ていたのだろう。

「だったら屋上でも――――」

「そこは……もしかしたらカレが来てしまうかもしれないから」

 カレ……って、もしかしなくても……俺のこと、だよな?

「いや、ここだって使うかもしれないだろ」

「でも見て。今は誰もいないよ」

 二人は、入り口の扉の前で話を始める。

 俺は個室の扉を閉めていなかったため、入り口側から見たら誰もいない状態に見えるだろう。

 あとは誰かが入ってこないことと、二人が奥に進んでこないことを祈るばかりだ。

 この状態で鉢合わせしてしまったら、何も言い訳ができない。

「だったら話してくれるんだろうな? オレが疑問に思っていたこと全て」

「それは無理。キミが不満に思うことも分かるよ。でも、こればっかりはもう変えられないんだ」

「俺だって前回のループ前に、多少協力してやった貸しがあるんだが?」

「イツキの足止めのことかい? もちろん、それは感謝しているよ」

 突然出てきた自分の名前に、心臓が跳ね上がる。

 足止め……?

 一体何のことだ……?

 俺は足止めなんて、されたこと……。


『ええと……今日、泊まっていかないか?』

『いや……ええと、泊まっていかなくてもいいんだが……このまま、オールでカラオケ……とか?』

『ダメだ、四位……オレには大役過ぎる……!』


 まさか……神田の家に泊まったヤツか……?

 そういえば、あの時の神田の言い方……確かに不自然だった。

 今更になって、背中に冷たい汗が流れて落ちるのを感じた。

「あの絵が原因だってのは分かってんだよ。でもオレが知りたいのはそこじゃない。誰が絵を使ったか、だ」

「それは……機密事項。キミにも話しちゃダメだって言われてる」

「……なるほど。そうやってひた隠しにしてるってことは、オレが知るとマズイことがあるからなんだな」

「…………」

「オマエがゴルゴン……片眼鏡と一緒に車から降りて来たのも関係してるんだろ? 一体どうなってんだ、アイツらどんどん日本に集まって来てるじゃねーか」

「本当に、キミは……中途半端に何でも知っていて困るね……」

 アイの声はなんだか疲れているようだった。

 片眼鏡って、昨日アイと一緒に車に乗ってた人のことだよな……?

 神田もその人物を知っているのだろうか。

「ま、いいけどな。オマエが言いたくないのなら、オレは勝手に調べるだけだ」

「それ」

 牽制するようにアイは言葉を強くした。

「は?」

「今回呼び出したのは、それに対する警告。昨日上から正式に言われたんだ、今後キミを一切関わらせないようにって。月曜日にもちゃんと忠告したよね?」

「…………」

「キミはお気に入りだから、危険な目には遭わないと思うけど、あんまり目立って反抗するのはダメだよ」

「……何がお気に入りだよ。序列六位が復活したら、オレなんて用済みだろ」

 まるで吐き捨てるような声だった。

「キミがなんと言おうと、もう止めることはできないんだ。世界の歪みは、正さなければならない。でないと……本当に壊れてしまうよ」

「…………」

「私も、キミ達に私の手を触れさせるのは禁止だと言われたよ」

「それってつまり、オレや大崎を完全に部外者扱いするって事だな」

「そうなるね……」

 声が小さくなる。

 アイに触れることが出来ない……という事は、つまりもう記憶を引き継げないということだ。

「……私だって、思うことはあるさ」

 フォローするように、アイが言葉を続けた。

「こんな魔法、早く消えてしまえばいいのに……。魔法というより、呪いだよ……。血の契約、なんて……」

 アイが絞り出すように出した声は、昼休み終了五分前を告げる予鈴によって上書きされた。

「……教室、戻る」

 入り口の扉が開く音がする。

「おや、ちゃんと授業受けるのかい? 珍しいね」

「あんまサボるとうるせーのがいるんだよ」

 誰もいなくなり、静かになった室内。

 アイも神田の後に続いて出ていったらしい。

 俺はようやく深く息を吐き出す。

 予鈴の残響が頭に鳴り響いていて、頭の中が整理できない……。

 一体、何が起ころうとしているんだ……?

 呪いだとか、血の契約だとか……。

 また意味の分からない単語がたくさん出てきたぞ。

 アイ達は、一体何と戦って……。

「おーい、いっちゃん……いるの?」

「!」

 その時廊下から、綾人の声が聞こえた。

 俺は急いで個室から出て、入り口のドアを開く。

「わ。びっくりした」

 ドアを開こうと手を伸ばした綾人と、鉢合わせしてしまった。

「大丈夫? いっちゃん、具合悪いの?」

 心配そうに覗きこんでくる。

「いや……なんでもねえよ」

 何も知らない綾人に対して、そう答えるのが精一杯だった。

「…………」

 綾人は丸い目をパチパチさせてこちらを見ている。

 何か言いたそうではあったが、顔色の良くない俺に遠慮してか、深く訊くことはなかった。

 こんなことに、綾人を巻き込むわけにはいかないからな。

「ねえ……いっちゃん」

「なんだ?」

「ちょっと、午後の授業サボらない?」

「は……?」

 それは、思ってもいない提案だった。

「なんかさ、毎日毎日同じことするのも飽きて来たんだよね。たまにはさ……パーッと、非日常を楽しもうよ!」

「…………」

「ね?」

「ふ……オマエにしてはいい考えだな」

 幼馴染の大胆な提案に、思わず笑ってしまう。

 さっきのアイ達のことといい、なんだか疲れた。

 整理するためにも、気分転換は必要だよな。

 昼休みが終わるまであと三分。

 持ち物を回収して、学校を出るだけの時間は十分にあった。

 


 *一二月二〇日 水曜日 商店街



「サボっちゃいましたな」

 商店街を歩きながら、共犯の幼馴染は悪びれた様子もなく笑う。

 普段とは違う日常に、今更ながらワクワクしてきた。

 制服姿なのは目立つと思ったが、道行く人はこちらには興味ないようだ。

 アイと歩いていた時と違って、商店街ですれ違う人と誰とも目が合わない。

 アイツが目立っていただけで、きっとありふれた光景なんだろう。

「こんな時間に制服来て歩いてたら補導されちゃうかな?」

 綾人も同じようなことを考えていたようだ。

「警察もそんなにヒマじゃないだろうよ」

「そっか」

 嬉しそうに再び前を向いて歩き出す。

「何して遊ぼうか。映画もカラオケも……できることは無限にあるよ」

「無限はねーよ」

 けれど、綾人の言う通り……せっかく学校を抜けて来たんだ。

 普段はしないような何か特別なことをやりたい気分だった。

「あ! そうだ!」

 すぐ横で幼馴染の大きな声が上がる。

「海行こうよ、海!」

「はぁ?」

 綾人から出されたのは、まるでバカみたいな提案だった。

 いや……いつかの世界でも、何度か誘われたことがあったな。

「こんな時期にか?」

「こんな時期だからいいんだよ。絶対に人いないし」

 綾人は俺の答えを聞く前に、どんどんと駅の方へ歩いていく。

 この街は内陸部にあるため、海に出るには電車を乗り継いでいかないといけない。

 多分、片道二時間くらいか。

 小学校の頃、遠足で行った記憶がふと蘇ってきた。

 そういえば……。

「オマエ、熱出して行けなかったんだっけ」

「小学校の頃の話でしょ。よく覚えてたね」

 何が何でも行こうとして、パジャマ姿で、頭に冷却シートを貼りながら家から出てきた光景を今でも覚えている。

 まあ結局行けなかったわけだが。

「ボク、あの機会を逃しちゃったから、今でも海に行ったことないんだよ。家族旅行なんてしないし」

「オマエの両親も、忙しいもんな」

「まあ……そだね」

 ということは、俺も海に行くのは小学校以来ということになる。

 水着姿の女子がいないのは残念だが、今日はそれが目的じゃないからな。

 ああそうだ。

 せっかくなら、小学校の時に行った場所にでも行ってみるか。

 小学校の遠足リベンジだ。

 曖昧な記憶だったが、携帯に複数ワードを検索欄に打ち込むと、すんなりとその場所が姿を表した。

「電車賃、結構掛かるぞ」

「お金あることは知ってるんだぞー」

 じーっと綾人に睨まれる。

「う……」

「ほんとさー、仕送りが月に二〇万円とかあり得ないよね」

 突然うちの金銭事情を暴露された。

「まあ……うちの母さん変わってるからな……」

 母さんは、昔からあまり家に寄り付かない人だった。

 海外出張だって、別に特別なことではないのだ。

 俺の学年が上がるにつれてそれは顕著に現れるようになり、高校生になった今では週に二、三日しか姿を表さない。

 そして母さんが家に帰って来る頻度が下がるたびに、どんどん仕送り金額が上がっていき、結果こうなったのだ。

 放任することを含めてのこの金額なんだろう。

 好きに使っていいとは言われているが……。

 もちろん毎月全額使うなんてこともなく、割としっかり貯金ができている。

「変わってるっていうか、すごく頭のいい人だよね」

「それは俺に遺伝しなかったみたいだけどな。頭の中身は父さん似だって、テストの結果を見せるたびにそう言われる」

「ボクはいいと思うよ。いっちゃん、話しやすいじゃない?」

 スクランブルになっている交差点を渡り、駅前までやってきた。

 平日の昼間ということもあり、せかせかと歩く営業マンや、ベビーカーを押して散歩を楽しむ母親、ランチ帰りのマダムくらいしかいない。

「さ。駅に着きましたよー」

 構内へ入るエスカレーターに乗り、駅ビルに直結しているレストラン街やお土産売り場などを通り抜ける。

 販売機前で、少し戸惑いながらも二人分の切符を購入。

 そういえば電車に乗ること自体が久しぶりだった。

 大体のやりたいことは駅前で済んでしまうからな。

 改札口を通り過ぎ、複数ある路線の乗り場で迷いながらようやく目的のホームへ辿り着く。

「電車来てるよ」

 綾人は大げさに指差すと、まだ出発時間になる前の電車に乗り込んだ。

 車内は暖房が効いていて、冷え切った身体にはちょうど良かった。

 昼間の電車の中にはほとんど人が乗っていない。

 ちょうど入ってすぐ右のボックスシートが空いていたので、向かい合って座った。

 乗り慣れない少しくすんだ青い座席は、なんだか少し硬い。

 しばらく窓の外を見ていると、ゆっくりと電車が動き出した。

 携帯を確認すると、時刻は一四時を指していた。

 これから二時間、この電車に揺られるわけだ。

 ただ、海に行く。

 なんてシンプルな目標なんだろう。

 目的の少ない旅なのに、こんなにワクワクするとは思わなかった。

 ああ、そうだ。

 携帯を見たついでに、委員長にメッセージを送っておくことにする。

『最善のこと、してくる』

 委員長のことだ、きっとこれだけで分かってくれるだろう。

「ん」

 綾人はカバンから四角い箱を取り出し、俺に差し出した。

 それは棒の中にチョコが入ったお菓子だった。

「オヤツ」

「用意がいいな」

「でしょ」

 嬉しそうに笑う。

 甘い物は好きじゃないが、もらっておこう。

 長旅にはオヤツはつきものだからな。

 窓の外に見える風景から、すっかりビル群はなくなっていて、背の低い住宅街がたくさん並んでいた。

「実はさー。この二日間……ずっと一人で遊んでたんだよねー」

 窓の外を見つめたまま、綾人はぽつりと呟いた。

 口から飛び出しているチョコのお菓子が、喋るたびに上下に揺れる。

「例の友達は?」

「あれは……まあ、ちょっとした知り合いみたいなもん。少し一緒に行動してただけだから」

 相変わらず、例の友達の話になると言葉を濁す。

 確かに見てる限り会話している様子はなかったが……。

 どういうことかと尋ねようかとも思ったが、この会話の流れでは無粋だと思ったので、ひとまず黙って聞いていることにする。

「でも気付いちゃった。いろんなとこ見てまわってみたんだけどさ、やっぱ一人じゃつまらなかったよ。ボクにはソロ活の才能は無かったね」

「いろんなとこ?」

「買い物とか、映画とか、夜中のイルミネーションとか……行ってみたかったトコ、テキトーに」

「だから深夜まで返ってこなかったのか、この不良め」

「えへへー」

 まるで反省した様子もなく、笑う。

「なんでそんなことしようと思ったんだよ」

「んー……自由に好き勝手やるのって、楽しいかなって」

 なんて曖昧な理由だ。

 そんなことのために俺はめちゃくちゃ心配したわけか。

「やっぱさ、いっちゃんとこうやって遊ぶのが一番楽しいって答えに辿り着いちゃった」

 窓から入る光が、その笑顔を優しく照らしていた。



 *



「いっちゃん、もうすぐ着くよ」

「!」

 綾人に肩を譲られ目を開くと、ちょうど電車が減速を始めたところだった。

 慌てて支度を済ませ、下車の準備をする。

「寝ちまったのか」

「仕方ないよ。日差しもぽかぽかで気持ち良かったから」

 電車が停車し、ドアが開いた。

 俺達は立ち上がりホームへと降りる。

 車内とは違い、しっとりと水分を含んだ冷たい海風が肌に突き刺さる。

「いっちゃん、見て見て!」

 電車が過ぎ去ったその先に、もう海が見えた。

 きっと駅が少しだけ高台になっているのだろう。

 真夏ほどではないが、海面が太陽に照らされてキラキラと輝いていた。

 早速、もっと海に近いところへ向かう。

 ホームから跨線橋に続く階段を登れば、さらに視界いっぱいに海が広がっていた。

 内陸側にへこんでいる地形のためか、その先にも街がぼんやりと見える。

 階段を降りた先にある駅舎は、ガラス面に囲まれた無人駅だった。

 小学生の頃の記憶と、建屋がなんとなく違う気もするが建て直されたのだろうか。

 改札を通り、二人で新天地に一歩降り立つ。

 駅の目の前にはぽつんぽつんと店があるだけで、都市の駅前のような賑やかさとは真逆だった。

「海岸に行ってみるか?」

 ボーッとホームの方を向いている綾人に話しかける。

「え……うん! 行こう行こう!」

 何か気になるものでもあったのか、まだ少し後ろを気にする綾人だったが、しばらくすると素直について来た。

「なんかもう日が傾いてない?」

「冬だからな、あと一時間しないうちに日没だ」

「ええー暗くなったらどうしよう。この辺、お店何もなさそうだよー」

「そしたら電車に乗って、もっと栄えてる場所に行けばいいんじゃないか?」

「なるほど、いっちゃん頭いい!」

 駅を背に、センターラインの引かれていない細道を真っ直ぐに進む。

 ところどころ道路の色が違っていて、少し歩きにくい。

 左右には、だいぶ年季の入った電柱が立っていた。

 中には強風で倒れてしまうんじゃないかと心配になるような木製の物もある。

 そんな道をひたすらに歩いて行くと、段々と視界が開けてきた。

 さっき跨線橋の上から見た景色だ。

 信号を渡り、突き当たりにあった車道からガードレールで分断された歩道へ入る。

 すぐ下に漁港があった。

「右と左、どっちに行く?」

「んー……じゃあ右!」

 綾人が示す方へ舵を切る。

「間違ってたら、夕飯奢れよ」

「ええー……」

 ガックリと肩を落とす綾人だが、顔は笑っていた。

 しばらく海側を左手に見ながら歩き続ける。

 隣の車道はかなり広い道だったが、ほとんど車は通っておらず静かだった。

 時刻は一六時をまわっていて、太陽の光の色がオレンジ色に変わり始めていた。

「これはこれで綺麗だねえ」

 綾人は疲れた様子もなく、途中すれ違った猫を触ったり、あちこちをキョロキョロ見ながら歩いている。

「コンビニ、一軒もないな」

 コートを着ていても海風で寒いのだが、やはり身体を動かすと段々喉が渇いてくる。

「ボクもココア飲みたくなってきた」

「余計喉渇くだろ」

「そしたらお茶飲めばいいじゃん」

「だったら最近からお茶飲め」

 幼馴染のアホな発言にツッコミを入れていると、すぐ先にバス停と自販機が見えた。

「お先に!」

 俺はスタートダッシュを決める。

「わ! ズルい!」

 綾人を後ろに残し、自販機まで走り出す。

 カバンから財布を取り出し、悴む指で投入口に五〇〇円玉を突っ込んだ。

 迷わず温かいお茶のボタンを押す。

「ボクはココア!」

 やっと追いついた綾人が、お釣りが出てくる前に横からボタンを押した。

「おい」

「あったかーい!」

 取り出したココアの缶を自分の頬に当てる。

「このやろう……」

 俺は釣り銭の取り出し口に手を突っ込むと、それをポケットに突っ込んだ。

「あー、おいし」

 口から白い息を吐きながら、早速ココアを飲み始める。

 俺もガードパイプに寄りかかりながら、ペットボトルの蓋を開けて湯気の出るお茶を半分ほど飲み終える。

 喉を流れる温かい液体が、冷え切った身体に染み渡った。

「ん……?」

 綾人が飲み終わるのを待っている間、辺りを見回していると、数メートル先の足元に小さな花束と様々な種類のお菓子が置いてあるのが見えた。

 たまに道端で見る光景だが……ここで事故でもあったのだろうか。

「美味しかったー!」

 すぐ隣で声が上がる。

「ねえねえ」

「なんだよ」

「やっぱり喉乾いた」

「は?」

 まだ半分残っていたお茶を取られた。

「だから言っただろ」

 文句を言うももう遅い。

 まだ温かいお茶を綾人はゴクゴクと飲み干した。

 暖を取れるものが無くなってしまった。

「しゅっぱーつ!」

 充電を終えた綾人は右手を掲げて歩き出した。

 文句を言うのも面倒だったため、仕方なく綾人の後に続く。

「本当にこっちであっているんだろうな……」

 もう歩いて二〇分は経っている。

 延々と海岸線が続いているだけだ。

「見て見て! こっちに海水浴場があるみたいだよ」

 潮風で錆びついた看板に、ようやく海水浴場の文字が見えた。

 俺達はその示す方向を信じ、横道に入る。

 その通りに道を進めば、まるで木のトンネルのような道が続いていた。

 まるで獣道だ。

 この狭さでは車は入れないだろう。

 視界が悪く、先の道がよく見えないことから、さらに疑心暗鬼になる。

 本当にこの先に海岸なんてあるのだろうか。

 そんな不安が胸をよぎった刹那、それは杞憂だったことを思い知らされた。

「出たー!」

 視界の邪魔をしていた木々が無くなり、その先にあったのはまさに目指していた海岸だった。

 あまりの嬉しさに綾人は両足の靴と靴下を脱ぎ捨てると、波打ち際に向かって走り出す。

「マジかよ……」

 昼間の眠そうなアイツは一体どこへ行ったんだ。

「めっちゃ冷たい!」

 足を海に突っ込んだ幼馴染の叫び声が聞こえてきた。

「だろうな!」

 こちらも負けじと大声で返す。

「いっちゃんもおいでよー!」

「ぜってーヤダ! 近く行ったら、水かけるだろ!」

「バレたかー!」

 誰もいない海岸で二人、年甲斐も無くはしゃぐ。

 夕日はほとんど海に隠れてしまい、いつの間にか空には月が顔を見せていた。

 あと三〇分もしないうちに、辺りは真っ暗になるだろう。

 振り返れば、道路の街灯がすでに点き始めていた。

 委員長にメッセージを送ったことを思い出し、携帯を確認してみる。

『頼んだぞ』

 一〇分ほど前に送られてきていた返信は、実に委員長らしいシンプルなものだった。

 その文面から、サボったことも全く怒っていないようだ。

 さすが委員長、懐が広いな。

 俺はあまり汚れていない岩に腰掛ける。

 少し尻が冷たかったが、まあ仕方ない。

 綾人は未だに飽きることなく、波に遊んでもらっていた。

 映画館でもカラオケでもない、何の変哲もないただの寂しい海なのに。

 それなのに何故こんなにも胸が踊るのか、今の俺には分からなかった。

 多分俺は……ここで見た景色を一生忘れないだろう。



 *



「ご馳走様でした!」

 綾人はどんぶりに向かって両手を合わせ、頭を下げる。

 夕飯にやってきたのは、個人経営のうどん屋だった。

 駅からまっすぐに進んだ道の突き当り、綾人が右を選んだ道を今度は左へ行ってみたのだ。

 どこに辿り着くかとドキドキしていたが、歩いて一〇〇メートルもしないうちにその店は現れた。

 車に乗っていたら絶対に見逃してしまうような小さな看板に、掠れた文字で『高山うどん』と書いてあった。

 店の外から、電気が点いていることは確認できたのだが……。

 民家のような見た目ということ、入り口には謎の壊れた自転車が置いてあることもあり……入っても大丈夫なのか分からない店構えだった。

 しかし換気扇から流れてくる、出汁のいい匂いに腹の虫が負け、意を決してくたびれた暖簾をくぐったのだ。

 意外にも扉の先は、小綺麗な居酒屋のような店と「いらっしゃい」の声が待っていた。

 内装だけリフォームしたばかりなのか、真新しいレトロな小花柄の壁紙がなんだか今風に見えた。

 店全体を包む暖色の電気と、無垢材のテーブルが『昔ながら』を演出していた。

 客は俺達以外にはおらず、店の中はゆったりとした時間が流れていた。

 誰も見ていないのについている小さなテレビの音が心地よい。

「美味しそうに食べてくれてありがとうね」

 厨房の奥から、さっき注文した食事を運んできてくれた女の人がやってきた。

 薄紫色の三角巾、それと同じ色のエプロンを付けている。

 さっきはちゃんと顔を見ていなかったのだが、年齢はうちの母よりも少し年上だろうか。

 染めてなそうな髪に、まとまった白髪が目立っている。

 ふく良かな体型と目尻の笑い皺から、優しそうな印象を受けた。

「おばちゃん、すごく美味しかったよ!」

 綾人はパッと顔を上げ、笑顔で答える。

 俺は天ぷらうどん、綾人はきつねうどんを頼んだが、普段食が細い綾人のどんぶりは空っぽだった。

 相当気に入ったんだろうな。

 そういう俺のどんぶりも綾人と同じ状態だ。

 すっかり冷たくなっていた手足が今ではすっかり温まり、お陰で風邪をひかずにすみそうだ。

「さっき海で遊んでて、すごく寒かったんだけど……ここのうどんのおかげですっかりあったまったよ」

「おやまあ、こんな時期に海に?」

 店員のおばさんは、心底驚いたようだった。

 特に地元の人は真冬に海なんか行かないよな。

「時期はまあ、置いといて。ボク、海来るの初めてだったんだ」

「ええ……っ!?」

 更に驚いて目を丸くする。

 そして俺達の服装を見て、なるほど……という顔をした。

「キミ達この辺の学校の子じゃないのね」

「うん。ボク達、神薙市から電車で来たんだ」

「まあ、そんな遠くからわざわさ」

「冒険みたいで楽しかったよ。あ、もうそろそろ帰るんだけど」

「いい思い出になったのね。……ああ、少し待っていて」

 店員のおばさんは俺達がここに来た理由を深掘りする気はないようだった。

 目を細めて上品に笑うと、店の奥へ戻っていく。

 そしてすぐに何かを持って戻ってきた。

「これ、お土産。帰りの電車の中ででも食べて」

 それはビニール袋に入ったたくさんのお菓子だった。

 甘いものからしょっぱいものまで、様々な種類が詰め込まれている。

「こんなに、もらっちゃっていいの?」

「いいのよ、どうせ私は食べないから」

「……ありがとう」

 綾人は嬉しそうに頭を下げた。

「さあさあ、そろそろ電車が来るわよ。この時間、逃しちゃったらあと一時間は待たないといけなくなるの。終電も早いから、早く帰った方がいいわ」

 時計を見上げると、この辺の交通情報を教えてくれる。

 そういえば、帰りの電車の時間のことなんて全然調べていなかったな。

 おばさんに促され、俺達は急いでコートを着る。

「趣味でやっているような店だけど、良かったらまたいらっしゃいね」

「うん、また来るよ! お土産ありがとう!」

「この辺りは暗いし事故もあったから、車に気をつけてね」

「はーい」

 綾人は大きく手を振ると俺の後に続いて店を出る。

 おばさんの言う通り外はすっかり真っ暗で、街灯はあまり機能していないようだった。

 反射シートでも付けていないと、車から見えなそうだ。

 よく確認しながら道を渡り、センターラインのない細道を駅方面へ戻っていく。

 左右にあった電柱に、気持ちばかりのライト点灯していて、自身を不気味に照らしていた。

「オマエ、ちゃんと喋れるじゃん。人見知り設定どこいった?」

 俺は気を紛らわすように綾人に話しかける。

「ボク、人見知りなんて言ったっけ?」

「え……」

 そういえば、コイツ本人の口からは聞いていないな。

 でも、あんだけ俺の後ろに隠れていれば、どう考えても……。

「……人見知りじゃないよ。話したくない人と話さないだけ」

 ぽつりと呟いた綾人の声は、遠くから聞こえてきた警報音によって掻き消された。

「あ、いっちゃん! 早く行かないと電車来ちゃうよ!」

「やべ」

 一時間ここで待つのはさすがに嫌だ。

 慌てて切符を買い、走って跨線橋を渡る。

 少し振り返ったが、月明かりだけでは海はもうよく見えなかった。

 転ばないように階段を降り、ホームへ向かう。

 一分も経たないうちに、電車はやってきた。

 俺達はこの寒さから逃れるため、急いで電車に乗り込む。

 上り線のためか、あまり車内は混んでいなかった。

 しかし行きとは違って、ボックス席が埋まってしまっていたため、ロングシートの端に隣同士で座る。

 どうせ綾人は寝てしまうだろうから、頭を預けられるよう隅を譲ってやった。

 ガタンと音がして、電車が静かに発車する。

「楽しかったねえ……」

 ぽつりと呟いた綾人の目は、案の定すでに眠そうだった。

「今度はもっとゆっくり行きたい」

「それは言えてるー」

 隣で綾人が笑う。

 足元から出てくる暖房で、身体中が暖まっていく。

 反対側の窓から流れる景色を見ていると、ゆっくりと意識が遠くなっていった。



 *



「…………」

 ガタンと電車が揺れ、俺は目を覚ました。

 ポケットから電話を取り出し時間を確認すると、到着時間まであと一五分程だった。

 車内は人が増え、あちこちで席に座れない人々が手すりを掴んでいた。

「起きたの?」

 意外にも綾人は目が覚めているようで、身体を捻って窓の外を見ていた。

 まだこの辺りにはあまり大きな建物は無く、真っ暗な街並みは何が面白いのかは分からなかった。

「もうすぐだな」

「そうだね」

「もらったオヤツ、食べていいぞ」

「まだ、お腹空いてないから」

 綾人は静かに首を振った。

 そして再び視線を車窓の外に移す。

「……ボク達が自動販売機でお茶とココア飲んだ場所」

「ああ、砂浜に行く前の……」

「そこで事故があったみたいだよ」

「そういえば、ガードレールの下に花とかお菓子とか置いてあったな」

 ざっくりとさっきの記憶を辿ってみる。

「自転車に乗った高校生が車にはねられたんだって」

「高校生……」

 綾人のヤツ、やたら詳しく知っているな。

 俺が寝ている間に、携帯で調べたのだろうか。

「おばちゃん……元気出してくれるといいな」

「え……」

 おばちゃんって……。

「さっきのうどん屋のか……?」

 まさかその店の子供だったとでもいうのだろうか。

 確かに店の前には壊れた自転車が置いてあったし、食べもしないお菓子を買い込んでいたようだが……。

「……そんなの、偶然かもしれないだろ? ちゃんと調べたのか?」

「ま、調べてはない……んだけどね」

 静かに首を振る。

 そういえばコイツ、昔から少し勘の鋭い部分があったよな。

 今回もそれでピンときたのだろうか。

 たまに不思議なこと言うんだよな……。

「あのさ……」

 綾人は窓ガラスにハーッと息を吐いた。

 そして曇ったガラスに指でくるくると何か意味のないものを書き始める。

 それはすぐに下方へ、まるで涙のように流れ落ちていった。

「……ボクね、実はおじさんやおばさんとあんまり仲良くないんだ」

「……え?」

「いっちゃんちと同じ。定期的にお金が振り込まれてくるの」

 さすがにいっちゃんほど貰ってないけどね、と付け足す。

「いや、ちょっと待て……」

 突然の告白に、俺の頭は真っ白になる。

 綾人は何を言っているんだ……?

 今までの世界では、ちゃんとご飯が出てきたし、弁当だってあったぞ?

 劇だって観に来ていたって言っていたじゃないか。

 そうだ、ディナーチケットだって渡したって……。

 まさか、この世界だけ仲が悪いってことか……?

 少しの……明るい可能性を探して、俺は必死に考えを巡らせる。

 でも、今、綾人はずっと仲が悪いって……。

 それじゃあ……『ずっと』って、いつからだ?

「おばさん達、家にいないこと知ってた? 最後に見たのっていつか覚えてる?」

 矢継ぎ早に質問されるが、俺はそれに答えることができなかった。

 確かに最近、家には綾人を起こしに行った時以外入っていないため、おばさん達の姿は見ていない。

 朝、車はないけど、それは仕事に出ているからで……。

「弁当は……」

 言いかけて、止める。

 弁当のことをこの綾人に行っても意味がないことに気付いたからだ。

 今週は作ってもらってないが、先週もこの前の週だって確かに用意されていたのに……。

 弁当だけじゃない。

 夕飯や朝食だって用意されていて……。

 それじゃあ俺は……一体誰が用意したものを食べていたっていうんだ……?

「……ボク、実は料理できるって言ったら驚く?」

「あ……」

 ああ、なるほど……。

 綾人のその言葉が、胸にストンと落ちた気がした。

「オマエが料理失敗してたの、小学生くらいの頃だったっけ……」

「そだね。自分で言うのも何だけど、その頃よりはだいぶ上達したと思うんだ」

「ああ……」

 だから食事を褒めると、コイツが照れていたんだな。

「どうして……おばさん達と離れて暮らすようになったんだよ……?」

「ボクが、あんまり懐かなかったからかなぁ」

 まるで他人事のように言う。

「本当の親子じゃないからね、仕方ないんだけど……。さっきも言ったでしょ。ボク、話したくない人と話さないって」

「好きじゃなかったのか? おばさん達のこと……」

「簡単に言うと、そうだね」

「そんなこと……知らなかった……」

「そりゃあ、言ってないからね」

 困ったように綾人は笑った。

 それじゃあ……今までずっと、おばさん達と普通に生活しているように見せていたってことか……?

 何も言わないで、一人で抱え込んだまま……。

 ずっと、嘘を突き通していたってことか……。

「どうしてそんな嘘……」

「だって、いっちゃん心配するじゃない」

「そんなの――――」

 俺が口を開くと同時に、電車が駅に到着した。

 いつの間にかいくつかの駅を通っていたのだろう。

 電車内にいた殆どの人が俺達と同じ駅で降りようと、下車の準備を始める。

 すぐに電車が停車する。

 遅れないよう、俺達も人の流れに乗りホームへと降りる。

 慣れない人混みで綾人がいなくなってしまう気がして……。

 俺は綾人の袖をしっかりと掴んで引っ張っていた。



 *



 帰り道は、すっかり雪が降っていた。

 傘もないままに歩く俺達だったが、二人とも口を開くことはなかった。

 こんなに無言が続いたのは、中学の時の大喧嘩以来だろうか。

 たぶん二人とも、何を言えばいいか分からなかったんだと思う。

 当たり前に過ごしていた生活が全部偽物だったなんて、こんな短時間ではとてもじゃないが、整理できなかった。

 そして俺達は家に到着する。

 いつも学校から帰るより遠い道のりなのに、到着はずっと早く感じた。

「それじゃあ……また明日ね」

 先に口を開いたのは綾人だった。

 俺の返事も聞かず、人の気配のない真っ暗な自宅に入ろうとする。

「……待てよ」

 出てきたのは渇いた声だった。

「家、帰るのか? 誰もいないんだろ?」

「そうなんだけどね。もう慣れてるから」

 綾人は眉毛をハの字にして笑う。

 このまま綾人を放って置いたら、どこかに行ってしまうんじゃないか……そんなあり得ない不安が胸から消えない。

 綾人のこと、神田のこと、アイのこと……いろんなことが立て続けに起こった上に、想像以上の真実を突然並べられて頭がパンクしそうだ。

 昔から、考えることは得意じゃないというのに。

 くそ、なんなんだよ……。

 みんな、なんだかんだで関わっておきながら重要なことを隠して――――。

「あ」

 ……ああ、そうか。

 ようやくこの胸にある、わだかまりの原因が分かった気がした。

「……なるほどな」

「え?」

 ぽかんと口を開く綾人の両頬を、俺は思い切り引っ張った。

「!?」

「なんかモヤモヤしてたんだよ! ようやくその正体が分かったんだ」

「い、痛いよいっちゃん!?」

「別にオマエが、おばさん達と仲良くても仲良くなくてもどっちでもいいんだよ!」

「へ!?」

「俺がムカついてんのは、オマエが全部隠してたことだ!」

「!」

「俺んちの家庭事情全部知ってるくせに、オマエは全部隠してたってことだろ? そんなのアンフェアじゃねーか!」

「ほ、ほれは……」

「しかも俺が心配するからなんて尤もらしい理由つけやがって! 心配するに決まってるだろ! オマエだって俺のこと心配して色々やってたんだろ!?」

「…………」

「勝手に判断して勝手に落ち込むな! とりあえず言えよ! 力になれるか分かんねーけど、一人で悲劇のヒロインぶるな!」

「ほ、ほんなの……」

 綾人の頬が赤くなってきたので、手を離してやる。

 ようやく開放された綾人は、捨てられた子犬のようにしょんぼりとした顔で俯く。

「いっちゃんが離れてくんじゃないかって思って、怖かったから……」

「なんでそうなるんだよ。誰がいなくなるか、バーカ」

 俺は有無を言わさず、綾人の腕を引き自宅に入る。

 玄関の電気を点け、自身の頭に積もった雪を払い落とす。

 すっかり身体は冷え切ってしまっていた。

「ボクの家あっち……」

「オマエさ、俺の考えてること分かるとか言う割には、全然分かってないんだな」

「……嫌われてるって分かったら、悲しいじゃん」

「昔から近くに居過ぎて、好きとか嫌いとかの次元じゃねーんだよ」

 ついでに、綾人の頭の雪も払ってやった。

 髪の毛に張り付いた雪が、外の気温の低さによって凍り始めている。

「風邪ひくだろ、早く風呂入ってこいよ」

「いっちゃんちの?」

「そんなに離れていくのが怖いなら、ずっと見張ってればいいだろ」

「それは……そうだね」

 その言葉に、ようやく綾人の表情が緩んだ。

「着替えないから取ってくるね。ついでに泊まる準備もしてくる。……見張ってないといけないから」

「そうしろそうしろ」

 右手をヒラヒラと振り、荷物を取りに行かせる。

 俺は靴を脱ぎ、コートをラックに掛ける。

 玄関にあった荷物を持ち、すぐ左側にあるリビングへ入った。

 綾人が置いていったカバンと、ビニール袋に入ったお菓子をダイニングテーブルにどさりと乗せる。

 ビニール袋の中は、チョコや煎餅、クッキーなど色々な商品が入っていた。

「…………」

 そういえば綾人、事故があったとか言ってたな……。

 不思議とそれが気になり、携帯で検索サイトを開き、ワードを適当に打ち込んでみる。

 一番初めに出てきたニュースサイトに、高校生轢き逃げ死亡事故の文字があった。

 被害者は高山聡、当時高校一年生。

 去年二月一日、一八時頃。

 自転車に乗って帰宅途中、トラックに轢かれて即死。

 トラックの運転手は何もせずそのまま逃げ去ったが、すぐに特定されドライブレコーダーの映像から逮捕に至る。

「まあ……この程度の情報なら簡単に手に入る、よな」

 綾人が知っていても何も不審な点はない。

 いやいや……俺は何を確認しようとしているんだ。

 何もおかしい点なんて何もないだろ……。

「…………」

 目に入ったのは、ダイニングテーブルに置いた綾人のカバン。

 そのサイドのポケットから、携帯電話が顔を見せていた。

 ダメなのは分かっていたが……震える指でサイドのボタンを押してみる。

「あ……」

 画面が何もつかなかった。

 ということは、電池が切れているのだろう。

 いつから……?

 疑問が頭をよぎる。

 もしかしたら、今さっき充電が切れたのかもしれない。

 そう……だから綾人は、携帯で事故を知ったんだ。

 だから、あんな話をしたんだ。

 別に、おかしなことはない。

 そう、何もないんだ。

 俺はまるで呪文のように、頭の中で何度もその言葉を繰り返した。



 *



「こんなもんか」

 風呂から上がったところで、収納スペースに置いてあった布団と毛布を持ってきて、ベッドの下に敷く。

 突然泊まることになった幼馴染の寝床を作ってやったのだ。

 こんな風に泊まる準備をするなんて、まるで子供の頃に戻ったみたいだ。

 それにしても……まさかおばさん達がずっといなかったなんて、まるで気付かなかった。

 綾人の演技力もあったが、それを疑問に思わなかった俺も相当なもんだな……。

 自分の勘の悪さに呆れてしまう。

「なんだか懐かしいね」

 綾人がいつものパジャマ姿でゴロンと布団に倒れ込んだ。

 やっていることが小学生の時と同じままだ。

 俺より先に風呂に入ったため、とっくに乾いた髪の毛なのだが、何故かまだアホ毛がぴょこんと立っていた。

 どういう髪質なんだ。

「ご飯、作ってあげられなくってごめんね。明日からはサボらないよ」

 そう言って枕を抱きしめながら、顔を埋める。

「……別にいいよ、だいぶ俺だってできるようになったし」

「それじゃあ、これからはいっちゃんに作ってもらおうかな」

「いいぞ」

「え……」

 綾人の動きがピタリと止まる。

「なんだよ」

「いや、まさか承諾してくれるとは思わなかったから」

「今までオマエが色々やってくれたからな、そのくらい返してやるよ」

 このループの世界じゃなくても、色々おすそ分けとかもらっていたわけだし。

 アイが買ってきてくれた食材もいくつか余っている。

 二人分作るなんて造作もないさ……たぶん。

「さて、寝るか」

 時計を確認すれば、時刻はもう深夜〇時を過ぎていた。

 明日も学校だから、そろそろ寝ておかないといけない。

 委員長にも、見逃してくれたお礼を言わないといけないからな。

「じゃあ、電気消すぞ」

「うん」

 電気が消えると、無音になる室内。

 カーテンの隙間から、街灯に照らされた雪が降り続いているのが見えた。

 明日からずっと雪なんだよな、少しだけ気が重い。

 そんなことを考えていると、下からシーツのこすれる音が聞こえた。

 綾人が寝返りをうった音だろうか。

「……訊かないんだね、おばさん達とのこと」

 それは小さな声だったが、ハッキリと聞こえた。

「言ったろ、興味ないって。オマエの置かれてる状況とか、気持ちだけ教えろよ。理由はまあ……色々あるだろうから、深堀りはしねーよ」

「……ありがとう」

 その声は、聞かなかったことにしておいた。

「今日は疲れたね。おやすみ、いっちゃん」

「ああ……」

 その言葉に安心したのか、綾人はそれ以上口を開くことはなかった。

 それにしても今日は色々あって疲れた。

 一日を振り返る余裕もなく、俺の意識はいつの間にか無くなっていた。

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