Ⅴ-Ⅱ 大崎五樹



 *一二月一九日 火曜日 自室



 カーテンの隙間から張り込んだ光が、室内を照らしている。

 俺は寝たまま手を伸ばし、そっとカーテンを開いた。

 やはり雪はまだ降っていないが、窓ガラスには薄っすらと霜が付着していた。

「時間は……」

 特に使っていない枕元の目覚まし時計は、ぴったり八時を指していた。

「ふむ……」

 昨日よりはまあ、早く起きられた……が。

 のんびりしている時間はない。

 おかしいな……昨日の夜ちゃんとアラーム設定しといたはずなんだけど……。

 充電器に繋がったまま床下に落ちている携帯電話を確認すると、何故かスヌーズ機能に移行していた。

 寝ぼけて押し間違えたな……。

「くそー……」

 クローゼットに入っている制服を取り出し、素早く着替える。

 リビングへの階段を降り、キッチンへと向かった。

「っと、弁当……!」

 用意してあったおかずと炊きたての白米を弁当に詰め込む。

「いや、待てよ……」

 白米は粗熱とった方がいいってネットに書いてあったな……。

 こんな真冬に食中毒など起きないとは思うが……念の為後でランチボックスに保冷剤を突っ込んでおこう。

 何もしないよりはマシだろ。

 冷蔵庫を開け、皿に取り分けておいたおかずをサッと並べる。

 早起きしてちゃんと作るなんてことはできなかったが、それでもなかなかサマになっている弁当が完成した。

 おかずの量も、弁当箱のサイズにぴったりだ。

 サンキュー、アイ……助かったぜ。

 カバンと弁当を持って玄関で靴に履き替え、家を出る。

 冷え切った空気が、無防備な顔に突き刺さる気がした。

 敷地から一歩踏み出すと、隣の家が視界に入った。

「……綾人」

 念の為、月島家のインターホンを押してみる。

 やはり、綾人の家からは誰の気配もしなかった。



 *一二月一九日 火曜日 教室



「おはよう、大崎」

 教室に入ると、委員長が話しかけてくれた。

 クラスメイトはほとんど来ているようで、来ていないのは神田を含めた数人だけのようだった。

「ああ、おはよう……」

「大丈夫か? 息が上がっているぞ。昨日ほどではないが」

「ああ……軽く走ってきたからな」

「まさか自主的にトレーニングでも始めたのか?」

「そう見えるか?」

「いや、まったく」

 委員長は笑って首を振った。

「夜更かしはほどほどにな」

 その言葉に素直に頷く。

 まさか、自力で起きることがこんなに大変とは……。

 あと食事の用意も。

 綾人に放っておかれて、たった一日でこれとは、あまりの生活力の無さに自分でも驚く。

 まるで綾人に甘えてばかりのダメ人間みたいだな……。

「神田は来てないのか?」

「アイツの行動など知らん」

 委員長の眉間に皺が寄る。

 やべ、一瞬にして機嫌を損ねてしまった。

「あと……渋谷も来ていないな」

「え……」

 視線を追ってアイの席を見る。

 委員長の言う通り、そこには誰も座っていなかった。

「鷲介はともかく、渋谷は何か訳ありのようだが……。ああ、そろそろホームルームが始まる。席に戻るぞ、大崎」

 委員長は俺を連れて自分の席に戻る。

 その途中、自然と綾人の席が視界に入った。

 昨日と同じく、綾人は先に学校へ来ていたのだが、俺が来たことにも気づかず窓から外をボーっと見ている。

 その姿はまるで、そのまま空に吸い込まれていまいそうなくらい儚く見えた。

「……よお」

「いっちゃん……」

 遠くなる存在を呼び戻すように、声をかけてみる。

「おはよ。今日はえっと、早かったね……」

「昨日は誰かさんを起こしに家まで行ったからな」

「そうだね、ごめん」

 嫌味を混ぜたつもりだったのだが……。

 何故か、綾人は嬉しそうに笑った。

 ホームルームの時刻を告げるチャイムが鳴る。

 それ以上は特に綾人と話すことはなく……俺は大人しく席に座った。



 *一二月一九日 火曜日 午前授業中



 授業中。

「…………」

 綾人はぐっすりと机に顔を伏せて眠っていた。

 珍しいな、コイツが授業中こんなに熟睡するなんて。

 昨日も帰りが遅かったみたいだし……。

 やっぱり……あの友達とかいうヤツと何かやっているんだろうか……。

 まさか……非行……!?

 ゲーセン……若者……夜の街……危ないクスリ……。

 様々な危険ワードが頭の中で飛び交う。

 い、いやいやまさか、綾人に限ってそんな……。

 いやでも……昨日コイツの一緒にいたヤツの風貌は、まともな生活を送っている人間には見えなかったよな。

 人の友達のことをこんな風に言うのはどうかと思うが……。

 そんなことを考えていると……。

「月島」

「!」

 綾人が教師から当てられていた。

 反射的に席から立ち上がる、が……。

「今、朝霞が読んだところの続きを訳して読んでみろ」

「え……あ……ええっと……」

 もちろん、今まで寝ていた綾人が、続きの部分を知るわけがない。

 顔がみるみる真っ赤になっていく。

「……はあ」

 ったく、仕方ねえ……教えてやるか。

「五四ペー……」

「『彼がそう思ったのも無理はない。何故ならそこにはもう、彼女がいたという痕跡がまるでなかったのだから』」

「え……」

 俺がその場所を教える前に、綾人は指定された部分を翻訳して読み始めた。

 まさに今、朝霞が読んでいた部分の続きだ。

 一行……いや、一文字も間違っちゃいない……多分。

 教師も苦虫を噛み潰したような表情をしている、が。

 不可解に思ったのは、俺も同じだ。

 だってコイツ、絶対寝てただろ……?

 なのになんで……。

「ふう……」

 ひと通り読み終えると、綾人は音も立てずに席に座った。

 そして再び机に突っ伏す。

 ……反省する気、まるでなしだ。

「オマエ、起きてたのかよ……」

 思い切って小さな声で、訪ねてみる。

「ごめんー……寝かせて」

 綾人から返ってきた言葉は、とても小さなものだった。



 *一二月一九日 火曜日 昼



 昼休みを告げるチャイムが鳴る。

「やっと、飯か……」

 今日も朝から何も食べてなかったからな。

 いい具合に腹の虫が暴れている。

「弁当は……っと」

 カバンから弁当の包みを取り出し、机に乗せる。

 早速食べようと思った瞬間、ポケットに入っていた電話が揺れた。

『やあ。ちゃんとお弁当は作れたかい?』

「アイ、か……」

 そういえば、と思い……教室を端から見回してみる。

 まだアイの姿はなかった。

 転校早々、全く授業出てないじゃないか……。

 まあ、そういう次元に生きている人間じゃないみたいだから、余計なお世話かもしれないけどさ……。

 アイツはアイツで、何かしら仕事があるみたいだし……。

 でも、学校に来るヒマがないくらい仕事に追われてるんなら、転校してきた意味……ないんじゃないのか?

「うーん……」

 とりあえず、返信しておこう。

『オマエのおかげで、今日はちゃんとした食事にありつけそうだ』

 さて、返信も終わったことだし、早速弁当を食べるとするか。

 弁当包みを開き、蓋を取る。

 自分の初作品ということで、写真に撮っておきたい気分だ。

「いただきま……」

「へー! いっちゃん、今日はお弁当なんだね」

「え、ああ……」

 いつのまにか、目の前で綾人が俺と弁当を見下ろしていた。

 さっきまでずっと寝ていたくせに、まだ眠そうな顔をしている。

「まさか、それ……自分で作ったの?」

「まあ、な……」

 半分はアイだけど。

「あ、でもこの肉野菜炒めはちゃんと自分で野菜を切って、炒めて、味付けまでしたんだぞ……ちょっと焦げたけどな」

「やればできるんじゃん。なるほどなー」

 それだけ言うと、綾人は再び自分の席に戻り……。

 そして、寝始めた。

 ……オマエは、まだ寝るか。

「おい、昼飯……」

「んー……あんま食欲ないんだよー」

 もしかして、風邪じゃないのか。

 そういや、教師に指されたとき……顔、赤かったしな……。

「ちょっと触るぞ」

 一言断って、綾人の額に手を当てる。

「……熱はないな」

「そーいうのじゃないんだよ、ただの寝不足ー…」

 そう言って薄目を開ける綾人の目の下には、薄っすらと隈ができていた。

 ……どうやら、本当にただの寝不足らしい。

「眠いのは結構だが、ちょっとでも食べないと体力回復しないぞ」

 俺の説教に煩わしそうな顔をして、すぐに目を閉じようとする。

 ったく……。

 俺は席に置いてあった弁当を持ってくる。

「……ほら」

 綾人の目が完全に閉じる前に、鼻先に野菜炒めを差し出してみた。

「俺が作ったヤツだから、あんま美味くないかもだけど……」

「ん……」

 ちょっと迷っていたようだが、観念したのか、箸を小さな口に入れた。

 まるで親から餌を与えられる雛鳥のようで、ちょっとおもしろい。

「……焦げてる」

「言っただろ、俺が作った……」

「でも、美味しい……」

 そう言って嬉しそうに微笑む。

「……もっといるか?」

「……えと。ううん……大丈夫」

 軽く首を振ると、綾人は今度こそ本格的に寝る姿勢になった。

「ありがと……いっちゃん」

 そう言って綾人は、すぐにすやすやと寝息を立て始めた。

 まあいいか……本当に眠いみたいだし、寝かせといてやろう。

 俺は仕方なしに自分の席に座り、広げた弁当を食べ始める。

 ……なんだ、結構美味いじゃないか。

 一晩経ったせいか、昨日よりも味が染み込んでいる気がする。

 なかなか奥が深いな、野菜炒め……。

 再び、携帯電話がメッセージの受信を知らせる。

『それは良かった。ところで、今日も夕方は時間があるんだ。もしキミが良かったら、夕飯を作りに行こうか? 一七時過ぎくらいになってしまうんだけど……』

 またしても神からありがたいお言葉が届いた。

 もちろん頼んでおこう。



 *一二月一九日 火曜日 放課後



「いっちゃん! 今日も僕、用があるから先に帰るね」

 綾人はそう言うと、昨日と同じくすぐに教室から出て行こうとする。

「おい」

「何?」

「オマエが何してるかは知らねえが、無理だけはするなよ。あと、メシはちゃんと食うこと!」

「うん! 分かったよー。色々終わったら、また構ってあげるね!」

「いや、構って欲しいわけじゃなくてだな……」

 綾人は軽く頷くと、小走りに廊下へと出る。

 ったく、一体何をしてるんだか。

 ……例の友達ってヤツのことは聞けなかったけど。

「月島は、この頃忙しいようだな。朝も別々に来ているじゃないか」

 すぐ横に立っていたのは委員長だった。

 手には重そうな部活バッグを持っている。

「そうみたいだな。つっても、どこで何してるんだか俺も知らないんだが」

「そうなのか」

 意外だ、と委員長は付け足す。

「オマエ達はいつも一緒にいるものだと思っていた」

「まあ、間違っちゃいないが……」

 つい前回のループまではまさにそんな感じだったし……。

 いや……ところどころ、綾人を放置していた場面もあったか。

「気にならないのか?」

「そりゃあ……」

 気になるさ……。

 でも、俺はアイツの保護者でもなんでもないわけで……。

「オマエ達でも、遠慮することがあるのだな」

 何故か委員長は安心したように微笑んだ。

「月島のことだ。非行に走っている……ということはないとは思うが、危険なことに巻き込まれている可能性はなきにしもあらず」

「…………」

「心配なら、素直に訊いてみた方がいい」

「お、俺は……」

「自分は……オマエ達が二人でいる時の空気が好きなんだ。自然体で一緒にいるオマエ達を見ていると、何故かとても安心する。上手く言えないが、ここ二日、何だか普段と違う感じがしたからな」

「……委員長の言うとおりだよ」

「今から走れば、まだ追いつくと思うぞ。そのために朝からトレーニングしていたんだろう?」

「はは……そうだな」

 委員長はそう言って笑い、俺のそっと背中を押す。

「サンキュ、委員長」

 俺は急いで綾人の後を追った。

 玄関先まで走り、靴箱を確認するがそこにもう靴は無かった。

 確か昨日は裏門から帰っていたはずだ。

 直感を信じ、真っ直ぐに裏門へ続く道を駆け抜ける。

 何をしていてもいいが、危ないことに首を突っ込んでいるようなら止めないと……!

 余計なお世話だと言われようが、俺は……幼馴染だからな!

「お」

 グラウンドへ出たとこで、学校の敷地内から出ようとする綾人の姿を見つけた。

 そしてその後ろには、例の怪しげな男。

 そいつは綾人の姿を見つけると、咥えていた煙草を下に落としグリッと踏みつける。

 二人は一言会話を交わすと、左手側へと歩いていく。

 俺もあまり距離を詰めないように、二人の後を追った。



 *一二月一九日 火曜日 教会



「え……教会?」

 綾人達を追って辿り着いたのは、商店街の先にある新しい教会だった。

 危険な場所ではないことに、ひとまず安心する。

 しかし学校から教会に着くまでの間、あの二人は一切会話したように見えなかった。

 並んで歩いてはいたが、本当に友達なのだろうか……?

 でも友達なんて嘘をつく理由なんて……。

「ん?」

 ふと、色とりどりの用紙が掲げられている木製の掲示板が目に入る。

 そしてそこには、どこか見覚えのあるポスターが……。

「クリスマス会のお知らせ……か」

 ああ、今週の日曜日のことか。

 もしかして綾人がここに通ってる理由って、劇の練習か?

 でも、わざわざそれを教会でやる意味はないよな。

 アイの簡単な手品を見て、次の日から手品を練習し始める単純なヤツではあるが。

「やべ……っ」

 しばらく入り口に立っていると、聖堂の扉から綾人と二人の男が出てきた。

 とりあえず錆びついた門に隠れ、壁の隙間から様子を伺う。

 一人は昨日の友達と言っていたヤバそうなヤツ。

 もう一人は、神父さんだ。

 あの神父さんがいるならひとまず安心か……。

 例の友達とかいうヤツは、綾人と神父さんが話しているのを、ただ見ているだけという感じだ。

 会話に混ざっている様子はない。

 本当、どういう関係なんだ……?

「…………」

 神父さんと楽しそうに話す綾人の横顔。

 俺がいない場所で……ああやって、人と普通に話せるんだな……。

 良かった……とりあえず妙なことはしていないようで一安心だ。

「……帰るか」

 今日もアイが来るんだ。

 それまでに準備をしておかないといけないからな……。



 *一二月一九日 火曜日 リビング



「お邪魔します」

 アイは予定通りの時間にやってきた。

 寒い中……わざわざこんなところまで来てくれるなんて、本当に頭が下がる。

 俺はリビングに来るように促し、ダイニングテーブルに備え付けられた椅子を音を立てないように引いた。

「アイ様、今日もよろしくお願いします」

「いいよ、そんな畏まらなくたって」

 アイは困ったように笑う。

 持っていた紙袋が、ガサリと音を立てた。

「はい、お土産」

 アイは少し大きめの、駅前の本屋のロゴが入った紙袋を手渡してきた。

「何だ? 開けていいのか?」

「いいよ。キミのために持ってきたものだからね」

「うお……」

 袋の中から出てきたのは、大量の料理本だった。

 有名シェフが書いたものから、初心者向けのものまで色々だ。

 ざっと見ただけでも一〇冊近く入っている。

「とりあえず実用性のあるものにしてみた。この程度であれば、キミなら簡単にできると思うから。使い古しで申し訳ないけど、キミにあげるよ」

 アイはさらっと本の表紙を撫でる、が。

「え、こんなにもらっちゃっていいのか……?」

 こういうのって、結構高いんじゃないのか?

「気にしなくていいよ。もう私は使わないから」

「いやいや……」

「何の名目も無しに貰えねえって……」

「うーん」

 アイは悩むようなポーズの後、ピンと人差し指を立てた。

「それじゃあ、クリスマスプレゼントってことで」

「え……」

「ダメかい?この時期の名目としてはそれが適当だと思うけど」

「いや、でも……」

「まあまあ、気にしないで。時間が勿体無いから、とりあえず、夕食の準備を始めようか」

 アイは、まだ納得がいかない様子の俺のことなど気にせず、背中を押す。

「あ、ああ。それじゃあ、こっちに……」

 俺は流されるままに、キッチンへと移動した。

「……っ」

 その時、ズキリと頭に小さな痛みが走る。

 本……大量……。

 頭に浮かんだ、二つの単語……。

 気にするまでの痛みでは無かったのだが……。

「イツキ……?」

「いや、なんでもない」

 アイに心配かけないよう、平常を保つ。

 すぐに頭の痛みは無くなっていた。



 *



「美味い!」

 熱々の麻婆豆腐を口に入れて一言。

 少し辛めのとろりとした豆腐の食感に、ネギの辛味がちょうどよくアクセントになっていて、白米とよく合う。

 後は簡単なもやしのナムルと、ワカメスープだ。

 あっという間に立派な中華料理が完成していた。

「それは良かった」

 頬張る俺の横で、アイが両肘を机に付きながらニコニコしている。

「本当に食べなくていいのか?」

「すまないね、今日は知り合いとディナーの約束があるんだ」

 週の序盤にして、なんつースケジュールだ。

「毎日悪いな……忙しいのに……」

「いいんだよ、ちょうど隙間時間でやることもなかったし。それに……嬉しかったよ、私を頼ってくれて」

 そう言って、天使のような笑みを浮かべるアイ。

 俺には後光が差して見えるぜ。

「イツキは器用だからね。教えたことをきちんと吸収してくれると、教えがいがあるってものだよ。この調子なら、料理の腕はどんどん上がっていくね」

「そ、そうかな……」

 面と向かって言われると、なんだか恥ずかしい……。

 単純な話だが、やはり褒められると、やる気というものはどんどん出てくるもので。

 面と向かって褒められたことが、あまりないからだろうか。

「さて、それじゃあ私は帰ろうかな」

「え、もう……か?」

「うん、約束が二〇時からだから」

 見上げたリビングの時計は一九時半を指している。

 もうこんなに時間が経っていたのか。

「げ……あと三〇分しかないけど、間に合うのか?」

「車を呼んであるから大丈夫。約束の相手もそこに乗ってるんだ」

「なんか、本当に悪いな」

「気にしないで。今日も楽しかったよ、イツキ。ありがとう」

「いや、礼を言うのはこっちだよ。オマエのおかげで、やっとまともな一人暮らしを始められてるわけだし」

 今まで、自分で料理なんてしたことなかったしな……。

「……きっかけは私かもしれないけど、それではいけないと、やる気を出したのはキミの意志だよ。今までのキミなら、インスタントで済ませることができるしね」

「あ……」

 そう、だよな……。

 今までだって、腹が減ったらインスタントとかで済ませてきたじゃないか……。

「なんで俺……料理なんか……」

「手料理の方が美味しいって、知ってるからじゃないかな」

「でも、俺の母親……料理はあんまり……」

 今も昔も、作ってもらった記憶はあまりない……。

 そういえば、昔、家事全般は父さんがやっていたような気がする……。

 それでも、物心ついてから家族で食事をした記憶なんて……。

「……キミの目標とする料理は、どこにあるんだろうね」

「え……」

 アイは手早く支度を済ませ、玄関に向かう。

「それじゃあ、また明日」

「ちょっと待て、外まで送る……!」

 家の外から、エンジン音が聞こえた気がした。

 慌てて玄関の扉を開けると、家の前には昨日と同じく汚れ一つない黒光りする外国製のセダンが止まっていた。

 後方の窓はスモークフィルムが貼られていたため、そこから車内はよく見えなかった。

 しかし前方の窓から、運転手の後ろに座る人影が見えた。

 ダークグレーのスーツを着た、二〇代後半から三〇代前半くらいの中肉中背の男がシートに大きく寄りかかっていた。

 痛みのない黒髪を、少量のワックスで落ち着かせている。

 薄暗い室内灯でよく顔は見えなかったが、少しだけ口角を上げているのが分かった。

 それだけなら駅前にいる普通のサラリーマンのようだ。

 しかし何よりも目についたのが……。

「片眼鏡……?」

 まるで執事や怪盗がつけているような、銀縁の片眼鏡を着けていたのだ。

 一瞬だけ目が合うと、車内から軽く会釈される。

「あ……」

 俺も慌てて頭を下げる。

「……じゃあね、イツキ」

 アイはまるで俺の姿を隠すように、俺のその男の視線の間に立つと、サッと車に乗り込んだ。

 ドアが閉まる音が住宅街に反響する。

 そしてすぐに車は静かに発進し、夜の街へと消えていった。



 *一二月一九日 火曜日 自室



「ふう……」

 風呂から上がり、洗濯を終わらせ、リビングでテレビを見て……。

 そして自分の部屋に戻ってきた。

 なんとなくカーテンの隙間を覗く。

「今日も、まだ帰ってないのか……」

 真っ暗なままの幼馴染の部屋。

 こんな時間まで教会にいるわけない……よな?

 一日だけならまだしも、アイツはどこで何をしているんだ。

 綾人に直接訊けばいいなんて……そんなことは分かっているのだけれど……。

「……寝よう」

 自分の掛け声と共に電気を消す。

 布団に入るのはいつもより早めだ。

 明日こそ、寝坊しないようにしないといけないからな。

「はあ……」

 ……一人で起きるって、大変なんだな。

 今更になってようやく、一人暮らしの大変さを身を持って実感した。

 明日こそちゃんと起きないとな。

 しかし携帯のアラームだけでは不安なんだよなあ……。

「あ」

 そうだ、本物の目覚まし時計でもセットしてみるか。

 ベッドの空きスペースにある、今は時間を確認するためにしか使っていない目覚まし時計を手に取る。

 こっちの方が音がデカいし、中学の時、朝練のために使っていたヤツだから、その音を身体が覚えていれば反射的に起きられる気がする。

「これでよし」

 指定の時間にセットした目覚まし時計に満足し、電気を消して布団に潜り込んだ。

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