Ⅳ-Ⅱ 神田鷲介



 *一二月一九日 火曜日 自室



「おーい、いっちゃん! 朝だよー」

「ふああ……」

 目を開けば、俺の上に乗りながら綾人はニコリと笑う。

 陽の光に照らされる綾人が、今日はなんだか眩しく見えた。

「おはよ、いっちゃん」

 そういやコイツ、前回の火曜日は寝坊したんだっけ。

 それで、慌てて綾人を探して……二人して二度寝して……。

 あの時は心配したなぁ……。

「今回は、ちゃんと起きられたんだな……」

 口にして気付く。

 あ……やべ。

 また変なこと言っちまった……。

「うん。ちゃんと起きたよ」

 しかし綾人は再び笑って、俺の上から降りる。

 どうやら何かと勘違いしているようで、悠希や委員長のように不思議そうな顔をすることはなかった。

「下で待ってるからね、いっちゃん」

 階段を降りていく音。

 俺もその後を追うように、ベッドから起き上がった。



 *一二月一九日 火曜日 登校



「はぁ……」

 綾人から深いため息が漏れる。

「球技大会は避けられないぞ」

「げ……なんで分かったのさ」

「オマエが悩んでることくらい、なんとなく分かる」

 そのため息は、毎回聞かされるからな。

 いい加減覚悟を決めてほしいところだが、コイツにとっては今年初めての球技大会だ。

 まあ、このやりとりも仕方ないか。

「だって、何度やっても勝てないんだもん……」

 再び大きなため息。

 全学年含めたクラス対抗というルールのせいで、ボロ負け続けてるからな。

 前回なんてブザービーターでまさかの逆転負けだし。

「頑張ろうぜ。もしかしたら勝てるかもしれないだろ」

 と、言ってはみたが。

 何度か同じ世界を繰り返しているが、球技大会で一勝すらしたことないんだよな。

 まさかこれは、球技大会と同じで絶対に変わらないことなのか?

 どんだけ勝利の女神に見放されてんだ俺。

「無理だよ……僕じゃ試合に出ても役立たずだし」

「オマエ……運動音痴だもんな」

「はい」

 ガックリと肩を落とす。

「運動だけじゃなくて、勉強も料理もダメだもんな」

「はい」

「そのうえめちゃくちゃ人見知りだし」

「はい」

「ホント、オマエには俺がいないとダメだな……」

「……へ?」

「……は?」

 何言ってんだ……俺……。

「い、いや……これは……」

 慌ててなんとか誤魔化そうとするが、いい言い訳が何も思い浮かばない。

 こうなったら伝家の宝刀……!

「いったーっ!」

 とりあえず、叩いとこう。

「はぁ……」

 びっくりした。

「びっくりしたのはこっちだよもー!」

 綾人が人の背中をポンポン叩いて反撃してくる。

 確かに今のは俺が悪かった……気がする。

「ところでいっちゃんは、バスケに出るの?」

 ようやく手を止めて隣にやってきた。

「あ、ああ……そうだな」

 というか、それしかルール詳しくないし。

「それじゃあ、ボクもバスケにしよう」

 綾人は楽しそうに笑う……が。

 ケガしたり、メンバー足りなかったり……。

 何かと不幸が襲ってくる、呪いの球技大会だ。

 今回も何が起こるか分からない。

 ……でも。

「勝ちたい、よな」

「うん」

 世界が繰り返して、すべて『無かったこと』になってしまうとしても……。

 ムダだからって、何も努力しないのは……後悔する。

 ま、これはアイの受け売りだけどな。



 *一二月一九日 火曜日 屋上



「ということで、球技大会出てくれ」

「なんだよ……藪から棒に……」

 俺は学校に来てすぐ屋上にやってきた。

 目的はもちろん、神田に会うためだ。

 元喫煙室のベンチの上で横になっていた神田は、眠そうな目をこすりながら起き上がる。

 屋上の端にぽつんとあるそれは、もう使われていない閉鎖型の屋外喫煙所だ。

 以前までここで使われていたのか、使われなくなったからここに持ってきたのかは分からないが、かなり年季が入っている。

 物置を改造したような造りで、雨対策なのか、コンクリートブロックで床が底上げされている。

 屋上へは何度か来ているが、ここに入るのは初めてだった。

 簡素な待合室のような造りだが、冬の冷たい風を凌ぐにはちょうど良かった。

 さすがに電気設備はないが、全面に換気用の窓が付いているため室内は明るい。

 タバコの残り香だろうか、独特の臭いが壁に染み込んでいた。

 どうやら、朝からここで寝ていたらしい。

 ……まさかコイツ、ここで暮らしてるわけじゃないだろうな。

「ちゃんと登校してるんなら、教室に来りゃいいのに」

「……煉が朝起こしに来るんだよ」

 ふん、と鼻を鳴らす。

 朝クラスメイトに起こされるなんてどんな状況だ、と思ったが。

 いや待て、俺と同じじゃねえか……。

「アイツ、自分の朝練が始まる時間に合わせて起こしに来るんだぜ? 俺は朝七時から学校で何してたらいいんだよ」

「それは……確かにお疲れ様だな」

 その点に至っては同情する。

「つーか、四位はいいのか? 球技大会に熱血してる場合じゃねえだろ」

 確かに、神田の言うとおりなんだが……。

「せっかくだしさ……勝ってみたいじゃん。オマエ前回サボったから知らないと思うけど、うちのクラス全然勝てないんだぜ? 前にオマエが出てた試合で一勝か二勝したくらい。あんまりにも負け続けるからさ、逆に大会で勝つことで何か起こる可能性があるかもしれないぞ」

「んなわけ……」

 口にしたところで神田は一度口を閉じ、再び開く。

「風が吹けばなんとやら……か」

「なんだそれ」

「めんどくせーから自分で調べろ」

 雑に手を降る。

「ま、明日の夜……何事も無く、無事だったら協力してやるよ」

 明日の夜……。

「委員長が襲われる話か?」

「ああ」

 神田は、悔しそうに目を細める。

 それは、当然だ。

 どうして何もしていない委員長が、あんな目に合わないといけないのか……。

 俺だって許せない。

「ま、オマエはそんな気にしないでいい。この問題は、オレは片付ける」

「でも……俺だって……」

「足手まといだ」

「っ」

 神田は今までの関係を突き放すように、強い言葉で言い切った。

 真剣な目で俺を見る。

「確かに……邪魔かもしれないが……」

「……邪魔じゃない。足手まといっつったんだ。オレは、二人同時に守れるほど器用じゃないからな」

「お、俺だって自分の身くらい……」

「相手が、魔法使いだったとしても?」

「え……」

「前回のループでの煉の話……。どう考えても人間業じゃないんだよ。だから今回は、オレ一人で解決する。オマエは手出しするな」

 そう言うと神田は床に雑に置かれていた通学カバンの中から、真新しいノートを取り出す。

 サッと何かを書くと、その部分を破り俺に差し出した。

「ほら」

「なんだこれ」

「オレの連絡先。知ってて損はないだろ。何かあったらすぐに連絡しろ」

 そう言うと神田は、再び昼寝の体勢に入る。

 なんでこんなに自由なんだコイツは。

 まあ、一週間でまた世界が戻るのだから、真面目に授業を受けていても仕方ないとは思うが。

 神田の場合は通常の世界でも変わらないんだろうな。

「…………」

 俺は来ていたコートを脱ぎ、神田の上にかけておいた。

 何もないよりはマシだろ。

 ……さて、俺は教室に戻るか。

 少しサボってしまったが、今すぐ戻れば二時限目には間に合うだろう。



 *一二月一九日 火曜日 昼



 何度も受けた授業を適当に終えると、昼食の時間になった。

「いっただきまーす」

 綾人が机の上に弁当を広げ始める。

 相変わらずうまそうだな……。

 俺も弁当を受け取り、早速包みを開いた。

「そういえば、いっちゃん……朝からどこに行ってたの? 教室に入る直前にいなくなるんだもん、びっくりしたよぉ」

「ああ……ちょっと屋上に。そこの住人に野暮用があってな」

「え……住人……って。屋上に人住んでるの?」

「ああ。丁寧に鍵までかけてるし」

「それって犯罪じゃ……」

 まあ、鍵というか結界ってヤツだが。

「だから気をつけろよ綾人……」

 雰囲気が出るように、少し声をひそめてみる。

「な、何を……?」

「ヤツは血に飢えている……だから、屋上へは一人で行かない方がいい。さもないと屋上の住人に――――な、なんだ!?」

 バサっという音と共に、突然真っ暗になる視界。

 何か布のようなものが頭に降りかかってきた。

「誰が屋上の住人だって?」

「げ。神田……」

 慌ててその布を剥ぎ取れば、目の前には噂の張本人。

 上からかけられた布は、俺のコートだった。

「わ……本人登場」

 綾人も珍しい人物の登場に驚いている。

「オマエ、余計なこと言ってんじゃねえよ」

 今度は手に持った携帯の角をコツンと落とされた。

「ってー……何の用だよ」

「コート返しに来たのと、煉を探しに」

「委員長?」

 神田の視線に誘われ、席の後ろを振り返る。

 そこには誰も座っていなかった。

「煉くんなら、いつもみたいに屋上に行ったよ?」

「……しまった、すれ違ったか」

 神田が小さく舌打ちする。

「電話してみたのか?」

「アイツ、電話に気づかないタイプなんだよ」

「ああ、なんとなく分かる気がする……」

 今まで、携帯触ってるのあんまり見たことないしな。

「しかも、超絶機械オンチ」

「それは……期待を裏切らないオプションだな……」

 テレビとか叩いて直そうとするタイプか。

「見てて飽きないんだ、これが」

 うんうんと何かに納得しながら、神田は机の上に並ぶ弁当に手を伸ばす。

 一口で口に入れ、指先をぺろりとなめとる。

「お、うまいな。この卵焼き」

「俺の弁当……」

「ケチケチすんなって。寝過ごしちまって、購買のパン買いそびれちまったんだよ」

「そうかい……」

 それにしても、美味しそうに食べるな。

「よし、これであとちょっと頑張れる」

「卵焼き一つでか」

「低燃費だろ?」

 何故か得意顔をされる。

「よ、良かったら……こっちもどうぞ」

 おずおずと。

 綾人も自分の弁当を両手で差し出した。

「マジで!? サンキューな!」

 神田はまったく遠慮無くそれに手を伸ばした。

「うん、うまい!」

「えへへ……」

「だから、なんでオマエが照れるんだ……」

 まあ、自分の母親の料理を褒められたら、嬉しいとは思うが……。

「んじゃ、オレはそろそろ煉を捜しに行くぜ」

 ガス欠から回復した神田は、満足そうな表情で俺達に背を向ける。

「神田」

「ん?」

「委員長のこと、頼んだぞ」

「言われるまでもねえよ」

 振り向かず、右手を高く上げる。

 ……キザなことやっても、なんとなくサマになっちまうんだよな。

 う、羨ましくなんかないんだからな!

「…………」

 ふと綾人を見ると、さっきまでの笑顔が消えていた。

 俯き、悲しそうな顔で箸を止めている。

「どした?」

「……なんでもないよ」

 目を伏せながら、首を振るが……。

「…………」

 辺りを見回して、何となく綾人の言わんとしていることを察した。

 クラスの大半が、俺達……いや、というよりは神田について話しているようだ。

 確かに、どういう関係か気になるよな……。

 何故か神田は悪名高いから……。

 って、そういう俺も根も葉もない噂を信じていた方だから、クラスメイト達を批判できる立場にないが……。

「気にするな、綾人。そんなことより、早く弁当食っちまおうぜ」

「そだね……」

 綾人はそっと自分の耳元から手を離した。



 *一二月一九日 火曜日 午後授業中



「ねえねえ、いっちゃん」

 授業中、綾人が話しかけてくる。

 あー……このパターンは……。

「このページのさ……」

「先に言っておく。問三も問四も分からん」

「ええっ!? どうして分かったの!?」

 ふふん。

 オマエの行動はお見通しなんだよ。

「うーん……それじゃあ、問五のね……」

 なるほど、そうくるか……。

 じゃ、仕方ないな。

「ぐー……」

 おやすみ。

「ちょっとっ!」

 綾人のツッコミは気にせず、俺は深い眠りについた。

 毎度毎度のこの流れ……必要なのか?



 *一二月一九日 火曜日 放課後



「ん……」

 聞き慣れたチャイムの音で目を覚ます。

「おはよう、いっちゃん」

 目を開けてすぐに視界に入ってきたのは、文句をたっぷり言いたげな綾人の笑顔だった。

 そんな顔されても、もう何度も聞いてる授業だしなぁ……。

「よ、よう」

「そういえば、いっちゃん、補習組なんだってね?」

「げ……」

 何で知ってるんだコイツ。

「せっかくの冬休みなのに、可哀想になー」

 全く感情のこもっていない声で言われる。

「てか、なんでオマエは補習にならなかったんだよ」

 綾人との学力は同レベルのはずだ。

「そんなの簡単だよ。ボクは全教科、赤点よりも少し点数が上だったから! そしていっちゃんは、一教科だけ赤点よりも下だったから!」

 堂々と胸を張られる。

「そんなんで威張るな!」

 この補習は今月頭の期末テストの結果だから、ループが終わったら絶対にやってくる運命じゃないか。

「へへーん、いっちゃんよりは威張れるもーん」

 めっちゃ煽ってくるな、この幼馴染。

 俺が戦闘態勢に入ろうとしたその時だった。

「まあ二人とも、落ち着け」

 後ろからの声の方へ振り返ると、委員長が席に座りながら部活に行く用意をしているところだった。

「大崎の補習は英語一教科だけだ。前回のテストは単語の問題が多めだったから、それを復習しておけばなんとかなると思うぞ」

「マジで? さすが委員長!」

 ただ煽ってくる幼馴染と違い、有益な情報を入れてくれる。

 そういうとこ好きだぜ。

「神田も補習なんだろ?」

「鷲介か? ああ、アイツは数学だったな」

「なるほど……ヤツは数字が苦手なわけか」

「いや。全教科、テストの点数は悪くないぞ」

「え」

 全教科、点数が悪くない……?

 授業出てないのに?

「アイツは授業態度による補習だ。二学期になって、サボりが多くなったから、数学教師の目についたらしいな」

 数学教師というと……あ。

 アイに習っていない問題を出してたヤツか。

 なるほど、確かに目をつけられたら面倒くさそうだ。

「全く、真面目に授業を受ければもっと上が狙えるだろうに。勿体ないヤツだ」

 委員長は呆れた声で小言を言う。

「さて、自分は部活に行く」

 そう言って通学カバンから何かを取り出し、俺の机の上においた。

 それは、金色の包みの……飴?

 しかも二つ。

 前も委員長にもらったよな、これ。

 綾人も持っていたし……やっぱり流行ってんのか?

「これで仲直りでもしておけ」

 まるで自愛に満ちた聖母のように微笑む。

 って、俺達は子供か。

「うん、する!」

 横にいる子供がありがたく飴を受け取っていた。

「上野、まだ残ってるか?」

 教室の扉から、担任がのっそりと顔を出した。

 珍しいな、放課後に教室に来るなんて。

 相変わらず猫背で、覇気がないが。

 上野……って、委員長を捜してるのか……。

「え……? はい」

 委員長は立ち上がり、自分の存在を知らせる。

「すまないが、ちょっと職員室まで来てくれ。そんなに時間は取らせない」

「ええ……分かりました」

 委員長は俺達に向かって目配せすると、カバンを肩にかけ……教師の後について教室を出て行く。

 この展開は初めてだよな……?

 それとも俺達が帰った後に起こることもあったのだろうか。

「煉くんが先生に呼ばれるなんて、珍しいね……」

 綾人は不安そうにその様子を見守る。

「どうせ大会で賞取ったとかで、職員室で表彰でもされるんだろ」

「そうかなぁ……。先生の顔、ちょっと怖いカンジだったけど」

 それは確かに。

 穏やかな表情ではなかったな……。

「でも、委員長自身には問題ないだろ?」

 と、すると……。

「やべ、原因が俺と神田くらいしか思い浮かばない……!」

「うん……十中八九当たりだと思うよ」

 綾人は呆れた顔で深くため息をついた。



 *一二月一九日 火曜日 下校



「寒いねー……」

 綾人は空に向かって呟く。

 これでもまだ暖かい方なんだけどな、木曜日からはずっと雪だし。

 傾いた夕日によって、建物が長い影がつくっていた。

「そうだな……」

 同意はするものの、頭の中はまるで上の空だった。

 補習の件と委員長の件をぐるぐると頭の中でまわっている。

 もしも委員長が自分のせいで注意されているとしたら、非常に申し訳ない。

「うう……手も冷たいし……」

「そうだな……」

「指先がかじかんできたよー……」

「そうだな……」

「こんなときは、あったかい飲み物……飲みたいよねえ」

「いや全然」

「話聞いてるじゃん!」

 綾人はぐるりとこっちを見た。

「いやー寒いなー」

「今度は話聞いてない!」

 飽きずに隣で騒ぐ綾人。

 ったく、いつもこんなことしてるな、俺達。

 いい加減ネタが尽きそうだ。

 手が冷たくなってきたため、コートのポケットに手を入れる。

「ん?」

 そこに何かガサガサとしたものが入っていた。

「これ……」

 思い出した。

 それは屋上で神田から貰った、ヤツの連絡先が書かれた紙だった。

「何それ?」

 綾人が興味津々に、俺からひょいとその紙を奪う。

「電話番号?」

「あー……これは――――」

「五樹先輩ーっ!」

 綾人から紙を奪い返そうとした途端、道端で俺を呼ぶ声がした。

 伸ばした手が空振りする。

「え……悠希……?」

「こんにちは、先輩!」

 後輩は手を振りながら駆け寄ってくる。

 相変わらずの人懐っこい笑顔で。

「なんでこんなとこ歩いてるんだ? 家、こっち方向だっけ?」

「違うんですけど、ちょっと寄るところがあって」

「デートか」

「違いますってー。ずっと狙ってたものがあったんですけど。ちょうど昨日お給料が出たので、これから買いに行くんです」

「ふうん……服でも買いに行くのか?」

「どちらかと、アクセサリーですね。特注で頼んでおいたものなんですけど」

 この辺りに穴場の店でもあるのだろうか。

 いいよな、なんでも似合うヤツは買い物も楽しそうだ。

「気をつけて行ってこいよ。あんまり遅くならないようにな」

「ありがとうございます。それじゃあ、僕はそろそろ……」

 悠希がこの場を立ち去ろうとした、その時……少し強めの風が吹いた。

「あ!」

 綾人が声を上げる。

「どうした?」

「紙!」

 綾人が持っていた紙を離してしまったらしい。

 ……って!

「やべ……っ!」

 神田の連絡先が!

 空に舞ったそれに向かって、俺も慌てて手を伸ばすが届かない……!

「よっと」

 しかしすぐに。

 悠希がひょいと背伸びして、いとも簡単に飛ばされていく紙を掴み取った。

 これが長身の余裕ってヤツか……。

「サンキュ、悠希。助かったぜ」

「いえ、気にしないでください。……なんですかこれ? 電話番号?」

「ああ、それ神田の……」

「え……神田さ――――先輩の?」

 何故か悠希は、紙を返そうとした手を止め……。

 その紙を凝視する。

「どうした?」

「あ……いえ、何にもありません。どうぞ、綾人先輩」

 特に何をするでも無く、あっさりと紙を返してくれた。

「ありがとう……」

「それじゃあ、僕はそろそろ行きますね」

「おう」

 ペコッと下げる頭に、ひらひらと手を振って返す。

「俺達も帰るぞ」

「うん。……はい、いっちゃん」

 綾人は、持っていた紙を俺に返す。

 俺は紙を受け取ると、携帯を取り出しアドレス帳を呼び出す。

 アイのこともあるからな、早く登録しておこう。



 *一二月一九日 火曜日 就寝前



「お腹いっぱいだねえ……」

 幼馴染は間の抜けた声を出す。

 すでに眠いのか、窓枠に頭を乗せていた。

「オマエ、食い過ぎ。まあ、今日のハンバーグは確かに美味かったけど」

「でしょでしょ?」

「なんか悪いよな、毎日用意させちまって」

 今週はまだ二日目とはいえ、トータルで俺はもう約四週分月島家に食事を作ってもらっている。

 さすがに罪悪感を感じるよな。

「……大丈夫だよ。そんなに大変じゃないって言ってたし」

「それならいいんだが……」

 やっぱり一人分の食事が増えるっていうのは手間だよな……。

「今度、お詫びにケーキでも買ってくよ」

「ホント!? やった!」

「オマエへじゃねえよ……」

 いつも美味しい食事を作ってくれるおばさんへだ。

「ええー、いいじゃんケチー」

「オマエな……」

 そのとき、横に置いておいた電話が揺れた。

「メッセージ来たよ?」

「分かってるよ」

 神田からだ。

 アドレス帳に登録してすぐ、俺の連絡先も送っといたんだっけ。

『オマエの番号、登録しといた。あとさっき言い忘れてた。コート、サンキュ』

 コート……。

 ああ、昼間かけといたヤツか。

「……了解っと」

 神田からのメッセージに一人頷くと、簡素な返事を打って携帯を閉じた。

「いっちゃんのお母さんから?」

「まさか」

 あの母親が、わざわざメッセージを送ってくるわけがない。

「母さんからメッセージが来ることがあったら、それこそ大災害の前触れだよ」

「そんなことはないでしょー。それだけ、いっちゃんのこと信頼してるんだよ」

「信頼ねえ……」

「ほんとの親子だもん。信頼し合って当然だよ。

 そういうもんなのかね……。

 俺も綾人も、普通の親子っていうものが分からないからな。

 確かに生活するのに何も困らない程度には生活費も小遣いも貰ってるけど……。

 俺の、母親に対する気持ちはどこか他人だ。

 性格が苦手だっていうのもあるけど……。

 昔から、俺に興味持ってないっていうのが伝わってくるんだよな……。

「それじゃ、そろそろ寝るね」

 綾人の声で我に帰る。

「あ、ああ」

「おやすみ」

 綾人は顔の横で静かに手を振る。

 それに片手で応えると、俺はカーテンと窓を閉めた。

 しばらくすると、綾人の部屋もすぐに電気が消える。

 それを確認して、俺は部屋の電気を消した。

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