Ⅲ-Ⅵ 渋谷藍



 *一二月二三日 土曜日 自室



「起きて」

「ん……」

 いつも通り、俺を起こす声。

 首を動かし、開いたカーテンの隙間から窓の外を見る。

 外は、昨日からの雪がまだ続いているんだっけな。

 部屋はまだ暗い。

「もう、朝だよ」

 すぐ耳元で聞こえる静かな声。

 綾人……ちょっと声低くなったか?

「起きて、もう一〇時になる」

 ゆさゆさと揺すられる身体。

 なんか、いつもよりも丁寧な起こし方だな……。

「困ったな、そろそろ出かけたいのだけれど……」

 ったく、せっかくの土曜日だってのに……。

「…………」

 ……土曜日?

 ちょっと待てよ……。

 土曜日なら、綾人は起こしに来ないだろ。

 待て待て待て。

 それじゃあ今、俺を起こしてるのは誰だ!?

「あ、起きた」

「!?」

 目の前にあったのは……季節外れの転校生の、いつもの笑顔だった。



 *一二月二三日 土曜日 車内



「…………」

 思ったよりも静かなエンジン音と共に景色が通り過ぎていく。

 朝一〇時半、クリスマスを直前に控えた商店街は、多くの人が集まりはじめていた。

「すまないね、突然押しかけたりして」

 アイの穏やかな声が、車中に響く。

 スピードが出ている割には、車内が静かなせいだ。

 たぶん、毎朝アイを送っている高級車なんだろう。

 車内を見回していると、運転手とバックミラー越しに目が合った気がして、慌てて視線を逸らした。

 スーツ姿にサングラスをかけていて、そのうえ体格ががっしりしているため威圧感がある。

 運転手というより、ボディガードと言った方がしっくり来る気がする。

 俺は後ろの座席にアイと一緒に座っていた。

 黒皮の座席は少し硬めで、乗り心地はいいが、慣れないためか居心地はあまり良くない。

「いや、いいんだけど……どうして俺の家の場所知ってたんだ?」

 どうも運転手の存在が気になってしまい、遠慮がちに声を出す。

「ええと……それは機密事項」

「なんだよそれ。まさか魔法か?」

「そうだね、似たようなものだよ」

 めちゃくちゃ犯罪の臭いがするんだが。

「それじゃ……どうやって家に入ってきたんだ? まさかそれも魔法とか言わないよな?」

 家を突き止められ、鍵も開けられ……なんてコンボをきめられたら、どう考えても犯罪者集団だぞ。

「ああ、それは鍵が開いていたからだよ」

「綾人のヤツ……閉め忘れやがったな」

 たまにやるんだよな、アイツ。

 ちゃんと説教しとかないと。

「あ、そうだ。見てくれないか?」

 そう言ってアイは広い車内で両手を広げる。

「ちゃんと私服で来たよ」

「あ、ああ……」

 確かに、アイ自体に違和感を感じていたのだが……このせいか。

 白いシャツとグレーの厚手のカーディガン。

 黒いデニムパンツといった平易なスタイルだったが、顔立ちが整っているせいでその着こなしがオシャレに見える。

 この前言ったこと、覚えていたんだな。

「で、俺はどこに連れて行かれるんだ?」

 アイのことだから、妙な所には行かないだろうけど……。

「さっき説明したじゃないか」

「頭がボーっとしたまま連れてこられたせいで、まったく覚えていない」

「イツキは朝弱いんだね」

「まあ、毎朝綾人に起こしてもらっているくらいだからな」

「ああ、なるほど。だから寝ぼけているときに……」

「なんだよ?」

「なんでもないよ」

「え、なんだよ……!?」

「なんでもないって」

 こりゃ言う気ないな。

 くそ、気になるじゃねーか。

「そうそう。行くのは、私の家だよ」

「……え?」

 なんだって?

「私の家。駅前にあるんだ。そんなに遠くないから、安心してほしい」

 心配しているのはそこじゃないんだが。

 それから一〇分くらい走ると車が止まる。

 この辺では一等地にある駅前の高層マンションの目の前だった。



 *一二月二三日 土曜日 アイの家



「…………」

 ええと……。

 現在置かれている状況を整理してみよう。

 アイに起こされ、アイに車に乗せられて、アイの家にやってきた。

 なんというか……。

 すげえ貴重な体験だよな、これ……。

 今までの世界なんてアイと全くと言っていいほど関わりなんてなかったのに。

 まさかこんなことになるなんて思ってもいなかった。


 今居るのは、駅前にある二〇階建ての高級マンションの一室。

 しかも最上階。

 間取りは二LDKらしい。

 広い玄関を抜け、リビングに入る前の長い廊下に、二つの部屋を通り過ぎた。

 一つは寝室、もう一つはゲストルームとのことだが。

 ゲストルームって……どんなゲストが来るんだ。

 今俺がいるのは対面式のキッチンがある広いリビング。

 白を基調とした壁とフローリングに、家具は全てモノトーンで統一されている。

 まるでモデルハウスのようにオシャレだ。

 二面に大きな窓があり、バルコニーに繋がる窓からは、この街では遮蔽物が何もない空が見える。

 こちらも色が同じ家電で一式揃っていた。

 キッチンに向かい合うように、カウンターテーブルがついていて、セットの椅子が二つ隣同士に並んでいる。

 テレビは無かったが、その分部屋の広さが強調されている。

 マンションの相場などは一切分からないが、一高校生が一人で住む場所ではないことは分かる。

 え……ほんと、この人何者……?

「イツキ、ソファに座ってていいよ」

 キッチンの奥からアイが声をかけてくる。

 どうやら飲み物を用意してくれているらしい。

 ソファは三人がけくらいのヤツで、窓に向かって景色が一望できるように設置されている。

 言われた通り、尻が沈み込むタイプのソファに腰掛け、遠慮なく辺りを見回す。

 アイはすぐにカップに入った紅茶を持ってきてくれた。

 紅茶の他に、レモン、ミルク、そして小さなクッキーなどが置かれたトレイを、ソファ横にあるサイドテーブルに置く。

 住んでるところと同じで、出てくるものもオシャレだな。

「朝食は食べる派かい?」

 あまりにも間の抜けた質問に、俺の思考は元に戻る。

「……とりあえず、いつもは食べてる」

 休みの日は抜くこともあるが。

「ああ、そうか。それはすまなかったね」

 アイは立ちあがると、キッチンへ再び戻る。

 多少使用感のあるキッチンだったが、油ハネなどの汚れは全く見当たらない。

 端から端まで掃除が行き届いているのが分かる。

 ちゃんと自分で掃除をしているのか、それとも掃除のために業者でも入れているのだろうか。

「和食と洋食、どちらが好みかな? 至急用意しよう」

 そう言って、壁にかけてあった布を広げ、身につけた。

 グレーのチェック柄のエプロンだ。

 そして、両手袋を脱ぎ、ラックの上に置く。

 つまり。

「……オマエが作るのか?」

「不満かい?」

「不満というか……」

 料理なんかできるのか……?

 見たところ、本当にただのお坊ちゃんっぽいし。

 しかも海外で暮らしていたとか言っていたな。

 緑のご飯とか、青い味噌汁とか出てくるんじゃないだろうな……。

 一抹の不安がよぎるが……。

「……和食で」

「お任せあれ」

 アイは満足したように返事をすると、早速調理に取り掛かった。



 *



「すみませんでした!」

 白いご飯、温かな味噌汁に、ふっくらとした卵焼き、焼き鮭などなど……。

 キッチンのすぐ横にあるカウンターテーブルに座りながら、バランスのとれた美味しい朝食を前に、俺は深々とアイに頭を下げた。

「なんで謝るんだい?」

「いやー……オマエのこと、ちょっと舐めてたというか。料理なんかできるのかなー……なんて思っていたというか……」

「それは心外だね。いくら少し変わってる私でも、人並みのものくらい作れるよ」

 変わってるっていう自覚はあったのか。

「いや、それにしても美味しいな……」

 卵焼きをもう一つもらおう。

 月島家とはまた違う、甘くない出汁巻き卵。

 ご飯の炊き具合も、味噌汁の味もすべてが完璧だ。

 俺の場合、作ってくれる人がいないと、面倒臭くてインスタントしか食べなくなるんだよな。

「オマエ、料理の才能あるよ」

「ありがとう。でも、レシピ通りに作っていれば失敗することはないと思うよ」

「それがいるんだよ、失敗するヤツが……」

 綾人とか、綾人とか綾人とかな!

 アイツの料理は人間が食べれるもんじゃねえ……。

 ……料理ができない俺が言えたことじゃないけど。

 もう一口、白米を口に入れようとしたところで、家のインターホンが鳴った。

「誰か来たぞ」

「ああ、そうだった。もう一人、呼んであったんだよ」

 にっこり笑って、アイがインターホンのボタンを押し、通話を始める。

「そのまま上がってきてくれたまえ。部屋番号は昨日教えた通り。分かるよね?」

 え、ここにくるのか。

「俺、まだ食べてるけどいいのか?」

「そんなの気にする人じゃないよ」

 ……俺は知り合いの家に行って、誰かが朝食をとっていたらめちゃくちゃ気になるが。

 しばらくすると玄関の扉が開く音がして、足音が近づいて来る。

「なんで飯食ってんだ、オマエ……」

「神田!? なんでオマエが!?」

 そこに現れたのはまさかの神田だった。

「コイツに呼ばれたからだよ。相変わらずすげー家に住んでんな。マンション間違えたかと思ったぜ」

「そうかい? 日本の家が狭すぎるんだと思うよ」

「家賃相場を考えろ。俺なんかワンルームだぞ」

「私は仕事で来ているので、全額経費なんだよ」

「マジかよ。え、オマエ優遇され過ぎじゃね……?」

「キミの方が大切にされてると思うけど」

「どこをどう見たらそうなんだよ」

 神田は文句を口にしながらも、手に持っていたブランドのロゴが入った紙袋からさらに小さな布袋を取り出した。

 袋を開き、そこから出したものを机の上に置く。

「ほら。これが、約束していた魔法道具だ。昨日、速攻で送ってもらった。これさえあればどんな対人魔法からも一度は守ってくれるって言ってたぜ」

 それは、窓の隙間から入り込んだ太陽の光にキラリと反射する。

「……ブレスレット?」

 まるで数珠のように、真っ黒な石が連なっている。

 この前屋上で粉々になったものに似ている気がするが……。

「これはモリオンだね。彼女から送られてきたものなら、確実に効果がありそうだ。ありがとう、シュースケ」

「ま、オマエに恩を売っておいても損はなさそうだからな」

「高くつきそうで怖いな」

「で。その制作者からちょっとした実験を頼まれたんだ」

「実験?」

 神田はポケットから五センチ角ほどの小箱を取り出し、中から小さくて透明な――――ほんの少しだけ青みがかった、米粒くらいの大きさの宝石……のようなものを取り出した。

 ビーズよりすこし大きいくらいのサイズなので、落としたら無くなってしまいそうだ。

「手、出してみ」

「はい」

 アイは素直に手袋のつけていない両手のひらを差し出す。

 神田はその上にコロンと、先ほどのキラキラした石を乗せた。

「あ」

 その瞬間。

 パキンという音と共に、アイの手のひらで石が真っ二つに割れる。

 手のひらの上に乗せただけなのに、だ。

「……綺麗に割れたな」

「なんだったんだい?」

「とある筋で手に入れた、曰く付きのブルーダイヤモンド。たぶん、フランスから持ってきたヤツ。どっかで割れたヤツの一部が手に入ったらしい」

「そんなもの、よく手に入れたね。現代においてはとても貴重なものじゃないか」

「眉唾物だと思ってたが、オマエの手で割れたってことはホンモノだな」

「まるで嘘発見器みたいな使われ方だね」

「そういうの視えるヤツもいるけど、アイツの望みはそこじゃないからな。いつかイギリスの例の椅子に座らせるって犯行予告してたぞ」

「私、何か恨まれるようなことしたのかな……?」

「きっと単なる好奇心だ。こっちのダイヤはまだ使えそうだから、アイツに返すか。粉々にならなくて良かったぜ」

 神田はアイから割れた宝石を受け取ると、再び箱にしまった。

 なんだかんだ、コイツら仲がいいよな。

 俺は蚊帳の外だ。

 いつのまにか朝食も食べ終わってしまった。

「はい」

「うお……」

 アイがポンと、手から小さな白い花を出した。

 突然目の前に現れた花に、思わず顔を後ろに下げる。

「ごめんね、つまらない話をしていて」

 これは確か……この前やった手品だな。

 あ、違う。

 アイ曰く、魔法だっけか。

 途中で誤魔化されたけど。

「オマエ、それ好きだな」

「私が一番得意な魔法だからね」

 満足げに、手の中の花を見つめるが……。

「いや、オマエ魔法使えないだろ……」

 神田から指摘が入った。

「コイツは身体に反魔法の素粒子が練りこんであるからな。魔法を打ち消すことはできるが、自ら魔法を使うことはできない」

 やっぱり前に俺が疑った通り、魔法使えないのか。

 神田のいう通り、魔法を打ち消す存在であるのなら、魔法を使えるのはおかしいよな。

「違うよ。このトリックが解けない限り、イツキにとってこれは魔法だ。手品師のやることだって、トリックが分からければ魔法。逆も然り。魔法使いが手品をしても、トリックに気づかなければ魔法になる」

「それ、屁理屈って言うんじゃ……」

 思わずツッコんでしまうが……。

「人間は、必死になってそのトリックを解こうとする。観客は手品師のトリックを見破ろうとするし、科学者は魔法使いのトリックを見破ろうとする。まあ、魔法にトリックなんてものは存在しないけど。魔法は、無から有を生み出せる特別なもの。そもそも手品師と魔法使いの違いは、魔法使いは、魔法の原理を全て理解していないことで……」

「なげーよ! もうオレは帰るぞ。これから用事があるんでな」

 饒舌に話すアイに痺れを切らした神田は、そのまま玄関へ向かおうとする。

「どこか出かけるのかい?」

「弓道の大会があるんだよ」

 ああ、そういえば委員長がそんなこと言っていたな。

「大丈夫なのか? 委員長、まだケガが治ってないだろ?」

「本人が出場するってきかないんだ。集中力が乱れるから来るなって言われてるから、煉には秘密で見に行く予定だ」

 神田はため息交じりに腕を組んだ。

 きっと委員長のことが心配だからという理由もあるんだろうな。

「それは、引きとめて悪かったね」

「いや、今から出ればちょうどいい」

「なら良かった」

 アイはキッチンへ行き、手袋を持ってくるとその場ですぐに身につける。

 その手で、ブレスレットを手に取った。

 手袋をしていれば触っても平気なんだな。

「これもありがとう。代金は指定の口座に振り込むと言っておいてくれ。……イツキ」

 アイは俺の名前を呼ぶと、ブレスレットを俺の右手につけた。

 とんでもなく強力なもの……みたいな話をしていたわりには俺の身体に異変が起こることはなかった。

 ひやりとした感覚以外には、特に何かを感じるといったこともない。

「大崎が使うのか」

「うん。調べたいんだけど、入れない場所があってね」

「それ、普通の人間が入れないってことだろ? 大丈夫なのか?」

「ダメそうならすぐに引き返してもらうよ。ね?」

 同意を求めるように、アイは俺を見た。

「ま、せいぜいケガしないようにな」

 背中を向けて片手を上げながら、神田は玄関へ向かう。

「ありがとう、シュースケ」

 アイは神田の後に付いて玄関に行った。

 俺はその間に食器をまとめると、シンクに重ねて置いておいた。

「おまたせ」

 見送りが終わったのか、アイはすぐに戻ってきた。

「えと、俺はこれから教会に行けばいいのか?」

「そのつもりだったけれど……」

 アイは通学カバンから、一枚の紙を取り出した。

 それは以前、アイが教会の前で風に飛ばしてしまったチラシだった。

「明日教会でイベントがあるんだってね。調べるとしたら、明日の方が人混みに紛れられるかもしれない」

 どうやらそれはイベントの案内チラシだったようだ。

「それは、確かに」

 倉庫に入れたとしても、絵を探さないといけないんだ。

 忍び込んだ状態で見つかったら厄介だよな。

 明日ならいろんなところに人がいるだろうし、倉庫の警備も手薄になる気がする。

「すまないね。明日は同じ時間に迎えに行こう」

「分かった。ちゃんと起きているようにするよ」

「ふふ。頼んだよ」

「さて、んじゃ俺も帰ろうかな」

「もうかい?」

「ちょっと土産を買わないといけなくてな」

「アヤトにかい?」

 ……なんでバレてんだ。

「まあ……」

 言葉を濁すが、今更意味は無かった。

「キミ達は本当に仲がいいね」

「別に……家が隣同士なだけだ」

「昔からトモダチということだろう? いいことじゃないか」

「オマエは一人暮らしなんだろ?」

「ううん、一緒に住んでる人がいるよ」

「へ? この家に?」

 意外な答えに、間の抜けた声が出てしまった。

「そう。今ちょうど寝てしまっているんだ。廊下に部屋があっただろう? その片方にいるよ」

 確かに部屋はあったが。

 まさか人がいたとは。

 確かに椅子が二脚あるが、他には特に生活感は感じられない。

 共通スペースに私物が一切ないのだ。

「まさか、彼女……」

「え? 違うよ。仕事仲間。でもこれ以降は機密事項」

 アイは自分の唇に人差し指を当てた。

 コイツと一緒に住んでるって……詳細がとても気になるんだが……。

「さて、私も外に出ようかな」

「出かける用事があるのか?」

「全然。ヒマだから、イツキについて行くよ。お供してもいいかい?」

「まあ……」

 そういう俺も、綾人が帰ってくるまで特にすることがないからな。

 アイの誘いを断る理由は特にない。

「それじゃあ、一緒にヒマつぶしに出かけようか」

 アイは部屋の奥から白いマフラーを取り出し、ふわりと首に巻く。

 その言葉に、特に断る理由は無かった。



 *一二月二三日 土曜日 駅前



 俺はアイに連れられ、駅前にある一番大きな書店に来ていた。

 駅ビルの隣にあって、一階から五階まで全部が書店という、本好きにはたまらない場所らしい。

 俺は初めて来た場所のため、その文言は全てアイからの受け売りだが。

 各階で本のジャンルが分けられているため、とりあえずアイの後ろについて一階からまわってみることにする。

 アイは辺りを見回して本を物色しているが、俺は本屋特有の紙の匂いでなんだか眠くなってきた。

 図書館とかもダメなんだよな、睡魔が襲ってきて。

「ちょっと読むね」

 そう言うと、話題の本のコーナーで足を止める。

 アイがどんな本を読むのか、少し興味が湧いた。

 手に取ったのは、ベストセラー一位の小説だった。

 ネットで話題の推理小説らしいが……意外なジャンルだな。

 アイはパラパラとものすごい速さで本を捲っていく。

 一〇秒後、その本を戻してその隣の二位の本。

 そしてその一〇秒後、隣の三位の本……。

「ちょっと待て」

「なんだい?」

「えっとさ……まさかとは思うが、それ頭に入ってんの?」

「入ってるよ」

 平然と言われた。

 速読というヤツだろうか?

 確かに目は微かに動いてはいたが。

「本、読むの好きなんだ」

 読むというのはしっくり来ない。

 なんだか、吸収しているという表現の方が正しい気がする。

 そういやコイツ、ボーッとしてはいるが頭良さそうだもんな。

 教師に当てられた時もスラスラ答えてたっけ。

「天才ってヤツか?」

「うーん。違うと思うけど……コンピュータで言うところの、スキャン……みたいな感じかなぁ……」

 やっぱり天才じゃねえか。

 なんだその例え、頭の構造が全く理解できない。

「イツキは本読まないのかい?」

「読んでもせいぜい漫画だな」

「漫画も面白いよね。私も日本の漫画好きだよ」

 どうやらジャンル問わず読むらしい。

 そういやコイツ、前に海外に居たとか言ってたよな。

「気になったんだが」

「なんだい?」

「オマエ、何ヶ国語分かるの?」

「えっと……今のところ英語、日本語、中国語、ドイツ語、イタリア語の五カ国かなぁ。でも読めるだけで、あまり上手く喋れないよ。所謂、話し言葉、若者言葉みたいなものはさっぱり。日本語は特に難しいよ……」

「それでも十分すごいと思うが……」

 俺なんか簡単な英語すら翻訳サイトに頼ってるからな。

「まさか、このコーナーの本、全部頭に入れに来たのか?」

「……ああ、そうだった。買いに来たのはこっちなんだ」

 アイは手に取った本を元の場所に戻し、慣れた足取りで本棚の隙間を歩いて行く。

 奥にエレベーターがあり、上の階のボタンを押した。

 降りてきたエレベーターに乗り込み、案内版も見ずに四階を押す。

「慣れてるんだな」

「よく来るんだ、ここ」

 指定の階で止まり、扉が開く。

 再びスタスタと目当ての場所へ歩いて行く。

 辿り着いたのは、風景や動物などの写真を扱うコーナーだった。

 先ほどとは変わって、あまり客はいない階だった。

「さて、これを買うとするよ」

 アイが手に取ったのは海の写真集だった。

 意外だ。

「難しい洋書でも買うのかと思った」

「ふふ。別に難しい本が好きなわけじゃないよ。本を読むのと同じくらい、綺麗な風景を見るのも好きなんだ」

 アイはその本の表紙を大事そうに撫でた。

「あとは……キミと来た記念に、かな」

「は……?」

「世界がループしてしまえば、手元からは消えてしまうんだけど……。でも、もしかしたらこの週でループが終わるかもしれない。だから私は、いつ魔法が終わっても後悔しないように生活したいんだ。キミとここに来た、という思い出を大切したい」

 そう言うと、アイは少し照れたように微笑んだ。

 アイの言っていることは理解できる。

 このループはいつ終わるか分からないんだ。

 だからいつ終わってもいいように日々を生きること。

 でもそれって……。

 ループが終わったら二度と会えないみたいな言い方じゃないか……。

「ちょっと買ってくるね」

 アイはレジへ向かう。

 なんだかその背中が、そのままどこか遠くへいってしまいそうな……。

 そんなありもしない予感に、胸を締め付けられた。



 *



「ありがとう、おかげでいい本が買えたよ」

「気に入ったんなら良かったよ」

 俺は何もしてないけどな。

 書店から出て、駅前の人混みの中をアイと二人、あてもなく歩く。

 雪はずっと降り続いているが、そこまで積もることはないだろう。

 アイは辺りをキョロキョロしながら、時折り何か気になるものを凝視している。

 好奇心が強いんだな。

 まるで目を離すとすぐにいなくなってしまう、幼い子供のようだ。

 独特な雰囲気のヤツだが、一緒にいても特に疲れを感じることはなかった。

 さて、これからどうしようか。

 駅前のため、遊ぶ場所の選択肢は無数にある。

「アイ……?」

 振り向くと、アイが立ち止まり、とあるビルを見上げていた。

 何か気になるものでもあったのだろうか。

「プラネタリウム……?」

 アイが見ていたのは商業ビルの一角に入っている、プラネタリウムの施設だった。

 五年くらい前だろうか……できたばかりの頃は、すごく話題になっていた記憶がある。

 もちろん俺は行く相手もいないし興味もないのでスルーしていたが。

 垂れ幕の広告には『期間限定ギリシャ神話の神々』と書いてある。

 日付は……明日までだ。

「見たいのか?」

「ううん……」

 興味はありそうなのだが、アイは首を横に振った。

「そんなことより、お腹が空いたな」

 指差したのは、プラネタリウムに併設されているレストランだった。

 時刻は二時近くになっていた。

 俺はしっかりアイの家で朝食を食べたからそんなに腹は減っていないが、まあヒマだし付き合ってやるか。

「じゃ、行ってみるか」

「うん、ありがとう」

 アイは俺の手を取ると、レストランに引っ張って行く。

 昼時を外したからか、店内はあまり混んでいなかった。



 *



「少々お待ちくださいませ」

 注文を受けた店員は、端末をポケットにしまうと店の奥へと戻る。

 プラネタリウムに併設されたレストランは、思ったよりも品のある場所で、男子高校生二人で来るにはなんだか場違いな気がした。

 アイは全く気にした様子はないみたいだが。

 すぐ横にオープンテラスもついていて、天気のいい日には座って食事をするのも気持ちよさそうだ。

「飲み物だけで良かったのかい?」

「ああ。朝飯が遅かったからな、そんなに腹減ってないんだ」

「それは、付き合わせてすまなかったね」

「どうせヒマなんだ、気にすんな」

 普段自分では行かないところに行けて楽しかったしな。

「お待たせ致しました」

 俺のアイスコーヒーが届いたと同時に、俺達の席の隣に男女の二人組が座った。

 見たところ、俺達と同じくらいの年齢だろう。

 なるほど、プラネタリウムでデートか。

 別に羨ましくなんかないけどな!

「ん?」

 その二人が着ていたのは、見覚えのある紺色の制服、そしてチェック柄のズボン。

「あれ、オマエと同じ制服だよな?」

 小さな声でアイに話す。

 偏差値はそこそこだが、スポーツの強豪である楸原高校だ。

「…………」

 アイは俺が指す方向をちらりと視界に入れる。

「そうみたいだね」

 少し見ただけで、特に興味はないようだ。

「もしかして、また機密事項か?」

「そう……なってしまうのかな。話せないことだらけで、気を悪くしたなら謝るよ」

 アイはシュンとした面持ちで、肩をすくめる。

「気にすんな。思ってる以上にワケありっぽいしな。そもそもそれが嫌だったら、一緒に出かけたりしてねーよ」

「……そっか。イツキは優しいね」

 アイは安心した表情に戻った。

 その時、電話の着信音が鳴った。

 俺はほとんどマナーモードにしているから……。

「もしもし」

 アイは電話を耳に当てる。

「ああ、おはよう。うん、夕食までには帰るよ」

 その口ぶりから、どうやら同居人からの電話らしい。

「キミも? 分かった、それじゃあ商店街で待ち合わせしようか。それじゃあまたあとで」

 アイの声から、親しみがこもっているのが分かった。

 仕事仲間というわりには、表面上だけの付き合いではないように感じた。

「呼び出しか?」

「うん。申し訳ないけど、食べ終わったら解散にしようか」

 ちょうどアイが頼んだカルボナーラが机の上に置かれた。

「今日は一日ありがとう。とても楽しかったよ」

「こちらこそ」

 アイスコーヒーのストローに口付ける。

 さて、綾人にココアを買うから、俺はこの後マスドに行かないとな。



 *



 アイと別れ、俺は目的の店に来ていた。

 夕方のマスドは、同じ年代くらいの客でいっぱいだった。

 しかしラッキーなことに、混んでいるのは店内だけで注文カウンターには誰もいない。

 これは並ばずに買えそうだ。

 いらっしゃいませ、と店員の笑顔が元気よく挨拶をしてくれる。

「えっと……ココア一つ、持ち帰りで」

「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」

 マニュアル通りの丁寧な受け答えで、商品の準備にとりかかる。

「えっと、四三〇円か……」

 財布を取りだし、小銭を確認する。

 お、ラッキー! ぴったりある。

 代金をカウンターに置き、店員が戻るのを待つ。

 さっき綾人にメッセージを送ったら、ちょうど家に帰ってきたばかりだと返信が来た。

 アイスココアになる前に渡せそうで良かった。

「あれ……?」

 ヒマつぶしに店内を見渡していると、窓際の席に見たことのある二人を見つけた。

 あれは……。

「悠希と……田端さん」

 そういえば、この日は大通りで撮影があったんだっけ。

 その帰りだろうか。

 あの容姿の二人が並んでいるため、とにかく目立つ。

 周りの客達も、少しずつその二人に気づき始めているようだった。

 けれど……。

 なんだか、二人の空気がいつもと違う気がした。

 ハッキリとは言えないが、すごく真剣な雰囲気というか……。

 遠目から見ているだけだからハッキリとは言えないが、田端さんは、悠希を必死に説得しているように見える。

 うーん……話しかけていいものか……。

「二人の時間を、邪魔しちゃ悪い気も……」

 特に、田端さんは悠希のことが……。

「!?」

 次の瞬間。

 耳をつんざくような、ガラスの割れる音が店全体に鳴り響いた。

 視線が、一斉に音の方へと集中する。

「お客様! 申し訳ございませんっ!」

 顔を真っ青にした店員が深々と頭を下げていた。

 どうやら飲み物の入ったグラスを、不注意で落としてしまったらしい。

 トレーごと手を滑らせたせいか、その足元には、オレンジ色の液体と、粉々になったガラス片が散乱している。

 ガラス片に至っては、反対側の席に座る客のところにまで飛び散り。

 その鋭く尖った欠片が、牙を向いていた。

「うわ……」

 その惨状に、思わず声が漏れる。

 大なり小なり、誰かしらケガをしていてもおかしくない。

「……あれ?」

 謝る店員の先に座っているのって……。

「悠希達じゃねえか……!」

 大丈夫なのか?

 あんなに近くにいたら、間違いなくガラス片が飛び散ってんじゃ……。

「お客様……おケガは……」

「してないですよ」

 悠希は笑顔で即答する。

 大して調べもせず、涼しい顔をしている。

「ですが……」

 店員の視点からすれば、間違いなくガラスの欠片は悠希達の方へ向かっていたのだろう。

 しかし悠希は全く気にした様子もなく、トレイに並べられたポテトを口に入れる。

「僕達よりも、あちらの方がガラス片、飛んでるみたいですよ」

「え……?」

「でも、そっちには……え……なんで……」

 反対側の座席の客は、確かにガラスで切ったようなケガをしていた。

 机の上も、ガラス片が散らばっている。

「げ……」

 あれじゃあ、机の上の食べ物……もうダメだな……。

 それにしても……。

 何度もお詫びを口にする店員に目もくれず、悠希は何事もなかったかのように田端さんとの会話を再開する。

 神経が図太いというか、なんというか……。

「お客様、大変お待たせいたしました」

 カウンターの奥から、先ほどの店員が商品を持って現れた。

「あ、はい」

 店員から持ち帰り用に用意された商品を受け取る。

「帰ろう……」

 今は話しかけていい状況じゃなさそうだし……。

 それに、二人の邪魔しちゃ悪いよな……。

「ありがとうございましたー!」

 店員の元気な声を背に、俺は店から静かに退散した。



 *一二月二三日 土曜日 自室



 これで家に帰ると連絡をすると、綾人は俺より先に俺の部屋で待っていた。

 なんでだ。

「本当に覚えててくれたんだ……!」

 ココアを手渡すなり、綾人はキラキラした視線でこちらを見た。

 ……コイツは本当に分かりやすいな。

「わざわざ帰りに寄ってやったんだ、感謝しろよ」

 素直に答えるのがなんだか恥ずかしくて、ちょっとだけ突っ放してみる。

「うん! いっちゃんありがとう!」

 勉強机の付属の椅子に座り、さっそく飲み始めた。

「そういえば……いっちゃん、今日どこに行ってたの?」

「え……」

 綾人の質問に、何故か口ごもってしまう。

 隠す必要なんかないはずなのに……。

「あ! 思い出したぞ!」

 それと同時に、俺の頭の中に今朝の出来事がよぎった。

「な、何さ……大きな声だして……」

「オマエ、朝、鍵開けっぱなしだっただろ!」

「え。ボク、朝はここに来てないよ」

「…………」

 とすると。

「あ……昨日の夜、かも」

 てへ、と自分の頭を小突く。

「全然可愛くないからな! このアホ綾人!」

 まさか一晩鍵が開けっぱなしだったとは。

 何も無かったから良かったものの。

「いっちゃん、ごめんー!」

「バツとして、合鍵没収な」

「ええー……」

 綾人はガックリと肩を落とし、ヤケ飲みだと言わん限りゴクゴクとココアを飲み干す。

 ココアなんて、余計喉が渇きそうだよな。

「そういうオマエは、今日は一日何してたんだ?」

「ボク? ボクは教会で演劇の練習してたよ」

「ああ、そうか……」

 そういえば昨日、そんなこと言ってたっけ。

 明日は発表の日だしな。

 だからこそ、明日は人に紛れてあの倉庫の探索に行くんだ。

 俺は服の下にあるブレスレットにそっと触れる。

 アイが転校してきた時は、こんなことになるなんて思ってもいなかったな。



 *一二月二三日 土曜日 就寝前



「ああー……緊張してきたー」

 寝る直前になり、情けない顔で弱音を吐く幼馴染。

「オマエなー今までずっと練習してきたんだろ? そんなに心配すんなって。失敗したとこで、何かあるわけじゃあるまいし」

「それは……そうなんだけどぉ……」

 返ってくるのは、どうも煮え切らない返事だった。

 本番を目の前にしてウダウダと、しょうがないヤツだな……。

 まあ、今更ではあるが。

 コイツ、参観日とか、運動会とか……たくさん人が集まるところは特に苦手だったからな。

 小学校の読書感想文の発表会では、その場でしゃがみ込んだ上に、泣きだしたこともこともあったっけ……。

 そのたびに、俺がフォローしていたわけだが。

 ……その時くらいからか。

 綾人の両親の仕事が忙しくなったとかで、公の場にあんまり姿を現さなくなったのは……。

 まあ、俺の母さんも、参観日なんか来たためしがなかったけど。

「オマエは人の目とか言葉とか、必要以上に気にしすぎなんだよ」

「き、気にしないようにはしてるんだよ……? でも……いざその時になると……頭が真っ白になっちゃうっていうか……余計なこと考えちゃうっていうか……すごい、周りの人の言葉が気になっちゃって……」

「だったら、なんで主役なんて引き受けたんだよ」

 そんな顔するくらいなら今まで通り、通行人Aとか木Bとかで良かっただろうに。

「……演劇っていうよりは、日常生活全般なんだよね」

「どういう意味だ?」

「少しは成長しないとダメだから。この劇だけは必ず成功させようって決めたんだ。今まで、いろんなことから逃げてきたから。いっちゃんみたいになんでも器用にこなせるようになりたいってずっと思ってた」

 俺、みたいに……?

 綾人の口から出てきたのは、意外なものだった。

「俺だって、別に……何でもできるわけじゃ……」

「いっちゃんはさー、自分が結構、器用だってことに気付いてないだけなんだよ。そういうの、センスっていうのかな。見よう見まねで、なんとかなっちゃうタイプなんだよ」

 そうなのか?

 自分では全く意識していないんだが……。

「でも、ボクは違うから。何回も何回も努力してそうしてやっと、人並に――――ううん、人並みにも、なれていないかもしれない。だからさ、無理矢理にでも……自分を変えたいって思ったんだ」

 そう言った幼馴染の顔は、少しだけ大人っぽく見えた。

「……なら、もうここでジタバタしたって仕方ないな」

「うん……そうだね。まあ、いざ舞台に立っちゃえばなるようになる気がするし」

 今までの弱気は何だったのか、綾人の表情はとても穏やかなものになっていた。

「なんだかんだ言って、自信有り気じゃねーか」

「自信っていうか……スイッチ? 演技っていうのは、ボクじゃない別の人になることだから」

「なんかプロっぽい……」

「えへん」

 綾人はそれっぽく鼻の下をかく。

 どうやら俺が心配する必要はなさそうだな。

「気合入れすぎて、無理するなよ」

「うん。空回りするほどの元気も、もう残ってないし」

 いいのか、それは。

「あと……あんまり遅くならないようにしろよ。オマエ、ボーッとしてるから、帰りが遅いと落ち着かない……っつーか……」

 やっぱり、寂しいんだ……。

 隣の家が真っ暗なのは……。

「……うん。できるだけ、早く帰るようにするよ。心配かけてごめんね」

「し、心配してるわけじゃなくてだな……!」

「あはは。分かった分かった。それじゃあボクはそろそろ寝るね」

 ひとしきり笑うと、綾人は向かい合う窓をそっと締める。

 こちらに向かって軽く手を振り、今度はカーテンに手をかけた。

「……俺も寝るか」

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