Ⅱ-Ⅳ 月島綾人



 *一二月二一日 木曜日 自室



「いっちゃん、起きてー」

 いつもの声と共に、ズシリと重いものが乗っかってきた。

「朝ですよーっと」

「ぐふ……っ」

 声が漏れる。

 昨日は乗らずに起こせたというのに、また戻ってやがる。

「おい、綾人……手品の練習は?」

「もう飽きたー」

 だろうな。

 コイツの興味がそんなに長く続くはずがないんだ。

 俺以上に三日坊主だからな。

「起きたねー? ボクは先に下に行くからねー!」

「へいへい」

 部屋から出て行く幼馴染の背中を確認し、俺はベッドから起き上がる。

「うう……さむ」

 窓から見えるのはすっかり太陽が隠れた曇り空。

 携帯電話を開くと、一二月二一日の表示が現れた。

 時間は何事もなかったかの様に、同じ時間を繰り返している。



 *一二月二一日 木曜日 登校



 家の外に出ると、白い雪がちらついていた。

 そういや、今日からずっと天気が雪だったな。

 それでも通学路はいつもと変わらず、近所の人達が散歩したり、ゴミ捨て場で井戸端会議をしたりしている。

 平和な光景だ。

「憂鬱だ……」

「急にどうした。この平和な光景に水を差すなよ」

「明日の球技大会……」

 幼馴染は雪には目もくれず俯く。

 こっちは心中穏やかじゃないみたいだな。

「いいじゃねえか、テキトーに過ごしてれば終わるんだから」

 まさに前回のことだ。

「そうなんだけどー……」

 綾人は不服そうに口を尖らす。

「いっそのこと、パーっと海にでも……」

「行かねーよ……」

 どうしてこんな時期に。

「えー……」

「オマエは負けるのが嫌なのか? それとも、球技大会自体が嫌なのか?」

「んー……もちろんどっちもだけどー。あえて言うなら、負けることかな」

 運動嫌いの綾人から返ってきたのは意外な答えだった。

「まあ、ボクがチームにいても活躍できないのは分かってるんだけど……」

 えへへ、と自嘲する。

「それでも、何回も負けるのは嫌だよー」

「まあ、それについては、今回はそう悲観することもないかもしれないぞ」

 負けるのが嫌ならば、要は委員長と神田がいるチームに紛れ込めばいいんだからな。

 問題は、どうやるかだが。

「どういうこと? もしかして、いっちゃん。バスケ……やる気になった?」

「あ……」

 そうだ……。

 競技はすっかりバスケな気でいたが、選択制だったんだっけか……。

「ま、まあ……俺がやるならバスケだろうな」

「だ、だよね……! だっていっちゃん……バスケめちゃくちゃ上手――――」

「綾人」

 何か言いたげな綾人を、静かに制した。

 綾人はしゅんと頭を下げる。

「悪い。昔の話は、あんまり思い出したくねえんだ……」

「……うん、ごめん」

 綾人は悲しそうに、髪を耳にかける。

 コイツはどうも、困ったときに手が耳に行くらしいな。

「…………」

 会話が止まる。

 まあすぐに元に戻るんだけどな。

 そんなこんなで、もう学校の正門が見えてきた。

「五樹先輩ーっ!」

「……悠希」

 後ろから声が聞こえ振り返ると、爽やかな風で髪の毛を揺らしながら後輩が登場した。

 右耳に付けた赤いピアスがキラッと光る。

 なんか久しぶりにこのイケメンを見た気がする。

 そういや今週はほとんど会ってなかったな……。

「おはようございます、先輩方」

「お、おはよう……」

 綾人はすでに委縮していて、俺の背中に隠れていた。

「先輩、聞きました? 桃香ちゃんの話。神田……先輩に告白って……僕、めちゃくちゃビックリしましたよ」

「誰から聞いたんだ、それ?」

「放課後の中庭だったんで、結構目撃者がいたみたいですね」

 居合わせたの、綾人だけじゃなかったのか。

 悠希は俺に携帯電話の画面を見せてくる。

 そこには、アイドルと神田が二人で話す動画が映っていた。

「盗撮じゃねえか」

「ですねー。何言ってんのかはさっぱり聞こえないですけど」

 まるで悪びれた様子はない。

 現代っ子め。

「っていうか桃香ちゃんって、神田先輩のこと好きだったんですね。びっくりしちゃいました」

 悠希はいつもの変わらない笑みで言葉を続ける。

 そこからショックさは微塵も感じられない。

 悠希は田端さんのこと、本当に特別に意識はしてないんだな。

 あんなに可愛いのに。

「だけど、桃香ちゃんが神田先輩のこと好きな理由も分かりますけどね。神田先輩、カッコイイじゃないですか」

「みんなしてそう言いやがるな……」

 俺は認めねーけど。

「悠希……オマエもしかして告白の結果、知ってるのか?」

「え、知らないですけど。興味ないですもん」

 後輩から返ってきたのは、完全に冷めたものだった。

「俺はめちゃくちゃ気になるんだが……!?」

「あー、ですよね。でも、先輩がショックを受ける結果にはならないんじゃないかなぁ……」

 悠希は長い指を、自分の顎に当てる。

 委員長にもそんなようなこと言われたな。

「俺は本人達から直接聞くまで信じないぞ」

「あ、それじゃあ今、桃香ちゃんに電話してみます?」

「え……」

 ポケットから携帯電話を取り出そうとする。

「や、やめてくれ……せっかく気持ちが浮上しかけてるのに、もし二人が付き合ってるなんて言われたら、俺はこのまま消えるしかなくなる……!」

「わ。それは大変ですね……」

 悠希は再びそれをポケットにしまった。

「先輩が消えないように祈ってますよ」

「ああ……ありがとな……」

 結果がどうであれ、アイドルが神田のことを好きだという事実だけで消えてしまいそうだが。

「ん?」

 ふと、疑問がよぎる。

 委員長は神田と仲が良さげだから、アイツが告白を断るだろうと予想するのは理解できる。

 でも、悠希と近しいのは田端さんだけのはずだ。

 何故、神田が断るって分かるんだ?

 そういや、なんとなく神田のこと……知っている風ではあるんだよな。

 名前呼ぶ時に、変な間があったりするし。

「なあ悠希。オマエと神田って、どういう関係……」

 なんだ、と聞こうとした時。

 目前の学校から、チャイムの音が聞こえてきた。

「げ!」

 話し込んだせいで、すっかり時間が経っていたようだ。

「悪い! 続きはまた!」

「分かりましたー」

 俺達の慌てた様子など気にする様子もなく、後輩は呑気に手を振っている。

 さてはサボる気だな、素行不良め。

 ああ、そういや先週、朝から球技大会の練習とか言ってやがったな。

 そんなにしっかりと点呼取られないのか。

「綾人急げ! 早くしないと委員長に怒られるぞっ」

「わ、分かってるよ」

 綾人が後ろから走って追いかけてくる。

「あ! 転ばないようにしろよ!」

「分かってるって!」

 正門を閉めようとする教師の横を駆け足で通り過ぎる。

 俺と綾人は二人で校舎に滑り込んだ。

 

 

 *一二月二一日 木曜日 教室

 

 

「あぶねえ、遅刻ギリギリ」

「疲れた……もう帰りたい……」

 隣で幼馴染は泣き言を漏らしている。

 ホームルームが始まる本鈴までに、なんとか教室に入り込むことができた。

 また委員長に怒られるトコだったぜ。

「でも煉君いないよ?」

「へ? ……あ」

 そういや、今日は委員長が朝練と球技大会の練習で遅れてくる日か!

「ちくしょう……走り損だった……」

 今更になって、ドッと疲れが出てきた。

 身体が汗ばんできたので、その場でコートを脱ぐ。

「間に合った……」

 そのすぐ後ろから、委員長が息を切らせて登場した。

 長い髪が尻尾のように揺れている。

「おお、お疲れ」

「まったくだ」

 下を向いたまま、拳を握りしめる。

「鷲介のヤツ、勝手な言い分を一方的にして……」

 鷲介……ああ、神田か。

 そういや、いつの間にか俺達の前でも鷲介呼びになってるな。

「球技大会の練習で遅くなったんじゃないのか?」

「……他の者達はな。自分は鷲介と少し話があったから、練習に参加できなかったんだ」

 委員長は心底残念そうだ。

 前回は朝練のあとに予定がなかったから、球技大会の練習をしてたのか。

「さて、ホームルームの時間だぞ」

「それじゃあ俺達も席に戻るよ」

「ああ」

「またね」

 俺は綾人を連れ、席に着いた。

「…………」

 そこから、委員長の右手をチラリと見る。

 手のひらから前腕部にかけて、包帯が巻かれていた。

「先週もあったな、あれ……」



 *一二月二一日 木曜日 午前授業中



「ねえねえ、いっちゃん」

「……授業中」

「そんな固いこと言いなさんなって~」

 手をヒラヒラと動かす。

「…………」

「ほら、もうすぐクリスマスでしょ?」

「そうだな。教会でイベントがあるんだろ?」

「そうそう。二四日なんだけどね、クリスマスの讃美歌歌うんだよ」

「へえ、劇やったり歌ったりご苦労なこった」

 人見知りなくせに、こういうイベントにちゃんと出られるの、コイツの七不思議の一つだな。

「……昔、森の教会で二人きりでクリスマスを過ごしたことあったよね」

「そうだったか?」

「そうだよー」

「二人で……教会のステンドグラス見て、綺麗だねーって」

 あれ、つい最近も似たような話をしたような……。

「で。その日も帰るのが遅くなって、二人とも大人の人達にすっごく怒られました」

「ああ……」

 思い出した。

 確か、このあと綾人が俺の父親の話を出して、暗い雰囲気になるんだっけな……。

「綾人」

「ん?」

「顔の真ん中に鼻がついてるぞ」

「ウソっ!? え!? どこ!?」

 アホな幼馴染はペタペタと自分の顔を触りまくる。

「って、なんだよ! そんなの当たり前じゃないかっ!」

「そこの二人、静かに……」

 もちろん、後ろの席の委員長からしっかりと注意を受けた。



 *一二月二一日 木曜日 昼



 昼休みになり、綾人はいつも通り俺の席までやってきた。

「はい、いっちゃん!」

「おう、サンキュ」

 俺は綾人から弁当の包みを受け取る。

 なんか今日はずっしりとしてるな。

「お。肉巻きおにぎり」

「美味しそうでしょ」

 何故か鼻高らかにする綾人はいつものことなので、放っておく。

 いつもより小さめの弁当箱に、野菜中心としたおかずも入っていた。

 ここまで毎日ちゃんとした食事にありつけるなんて、もう月島家に足を向けて寝られないな。

「そんじゃ、いただきま――――」

「馬鹿者! いい加減にしないか……っ!」

 口を大きく開けたところで、後ろの席から委員長の怒声が聞こえた。

 どうやら電話をしているようだ。

 かなり声を抑えてはいるが……どう見ても怒っている。

 珍しい……あの委員長が。

 そう思ったのは俺以外も同じだったようで、クラス中が委員長に注目していた。

「オマエは……どうしていつも……っ」

 委員長はそんなことなど気にした様子もなく、電話を耳に当てながら教室を出て行ってしまった。

「な、なんか、トラブルかな……?」

 綾人が心配そうに覗きこむ。

 なんとなく、神田絡みのことだと思うが……。

 前回、こんなことは無かったよな?

 やはり、何かが少しずつズレているのだろうか……?



 *一二月二一日 木曜日 午後授業中



「今日の体育は、明日の球技大会の練習……という名の自習だってさ」

 先週と同じく、体育館の端っこでラジオ体操もどきをしながら綾人が言う。

 ジャージもきっと大きめを頼んだんだろうな。

 見事に服に着られている。

「煉くんいないと、クラスがなんとなくバラバラな感じだね」

 綾人の言う通り、クラスのヤツらは前回よりも圧倒的に体育への興味が薄れていた。

 前回は半分をバスケ、半分をバレーで使用していたが、今回はバレー陣営が二面使用しているようだ。

 委員長がいないため、運動部達が勝手に集まり、仲間内でまとまって試合をしている。

 残りのヤツらは床に座って話したり、携帯電話で何かを見合って笑ってる。

 委員長は、あれから帰ってこなかった。

 サボりってことはないと思うが……。

「…………」

 そういや、この時間に神田がフラっとやってきたんだっけ。

 んで、ずっと委員長を見てて……そこで睨まれたことを思い出した。

 マジでアイツにいい印象ないな!

 絶対仲良くなれる気がしねえ……。

「キミ達は練習しないのかい?」

「え」

 後ろからの声。

 そこにはぽつんと転校生が立っていた。

「…………」

「綾人?」

 何を考えているのか、綾人はボーッと転校生を見ている。

「私の顔に何かついているかい?」

「あ……な、なんでもない……っ!」

 案の定、慌てた綾人は俺の後ろに隠れる。

 何やってんだ、コイツは……。

「なんか用か?」

「一応、自習ってことになっているけれど……。クラス中がバラバラだから、どうしたらいいのか分からないんだ」

 渋谷は困ったように笑う。

 確かに、俺が転校生の立場だったら、この状況はどうしたからいいか分からないな。

 前回は、委員長が渋谷に声をかけたのかもしれない。

 さすが気遣いができる、我らが委員長だ。

「見ての通り、自習だ。自習なんだから、やることはもちろん各自の判断だ」

「そうか……それじゃあ、身体を休めるのも自習のうちに含まれるんだね」

「そういうことだな」

「いいの、そんなテキトーで……」

 後ろからツッコミが入るが。

「いいんだよ、現に誰も練習なんかしてないだろ。つまり、明日のための休息だ」

「何その理屈。もうなんでもいいや……」

「ふふ……」

 俺達を見て、渋谷が楽しそうに笑う。

 コントとでも思われているのだろうか。

 渋谷は少し長めの髪を、そっと耳にかけた。

 やはりその手には、いつもの真っ白な手袋がはめられている。

「……こんな時も手袋してるんだな」

「手袋……」

 呟いて、自分の右手を確認する。

「…………」

 渋谷は五秒ほど考えて、ゆっくりと自分の手を見つめる。

「実は、この中には呪われし禁断の魔法が封印されているんだ……」

 渋谷は右手を握りしめ、こちらをチラリと見る。

 そして。

「…………嘘だよ?」

「分かっとるわ」

 わけの分からないギャグを披露されてしまった。

 しかも全然面白くない。

「で、本当は何が封印されてんだ?」

 ついでに訊いてみる。

 確か前回は誤魔化されたんだよな。

 もしかしたら今回は答えてくれたりするかな。

「……難しい質問だね」

 っと。

 同じ答えか……。

 どんな時であっても、答えたくない質問なんだな……。

 仕方ない、今度は攻め方を変えて――――。

「ああ……ちなみに、潔癖症でもないよ」

「え……」

「綺麗好きかもしれないけどね」

 そう言って渋谷は、俺達に背を向けゆっくりと歩き出す。

 前にも思ったが、マジでマイペースだな。

「…………」

 それにしても、どうして俺が前回訊いたことを先回りして答えたんだ?

 まあ、よく言われるのかもしれないけれど。

 だって手袋なんかしてたら、誰だってそう言う風に思う……よな?

「いっちゃん! 後ろっ!」

「え?」

 綾人の声が聞こえたのと何かの影が当たったのは、同時だった……。

 すっかり忘れてた……これ、前回も……。



 *



「またかよ!」

「いっちゃん、大丈夫?」

 綾人が怒ったような、泣きそうな……変な顔をしながら覗き込んでくる。

 やはり保健室は消毒液の臭いが充満していて、そして保健の教師は不在だった。

 薄っぺらいベッドに横になり、頭を冷やす姿がなんだか情けない。

「まだ頭がガンガンする……」

 ちくしょう……。

 渋谷に気をとられて、このあとの展開をすっかり忘れてたぜ……。

「そりゃあそうだよ。バーンっていって、そのあとドーンだもん!」

「……そりゃあすげえな」

「でしょ!?」

 俺はピンボールか何かか?

 どんだけぶっ飛んでんだよ。

「当たったのは……バレーボールか?」

「あ、うん……そうだよ。よく分かったね」

 やっぱり、先週と同じか。

「くそ……一体誰が投げやがったボールなんだ?」

「それは……分かんないけど……」

 綾人はゴニョゴニョと口籠もる。

「なんか上の方から落ちてきたような……」

「上?」

 まさか、体育館の天井に無数に挟まってるボールが……?

「いや、そんなバカな」

 宝くじが当たるより低確率だぞそれ。

「……よっと」

 俺はベッドから身体を起こす。

 まだ痛みは完全に引かないが、氷嚢のおかげか腫れなどはない。

 この前も特に異常なかったし、大丈夫だろ。

 それにしても、投げたヤツ絶対許さねえ。

「帰ろうぜ? もう放課後なんだろ?」

「……うん」

 綾人は小さく頷く。

「それじゃあ、カバン取りに行ってくるー」

 そう言って綾人は立ちあがり、出しっぱなしにしてあった袋や氷を手早く片付け始める。

 すっかり夕焼け色に染まった部屋。

 今日はとっとと帰りたい。

「ごめんね……守ってあげられなくて……」

「え?」

 綾人が名残惜しそうに保健室を出ていく。

 何言ってんだ、コイツ……。

 たまに意味が分からない言動するよな……。

「んー……」

 座ったまま背伸びをすると、スプリングがギシリと鳴った。

 放課後の保健室はやたら静かで、なんだか不気味な感じだ。

 ああ、そういやこのあと悠希が来るんだっけ。

 先週の荒療治を思い出す。

 ……今日は普通に、綾人と帰ってやってもいいか。

「…………」

「いっちゃん! カバンと着替え持ってきたよー! 教室戻るの面倒だし、ここで着替えちゃお」

 ……来ねえじゃねえか!

「おかしいな……」

「どしたの?」

「いや、なんでもない」

 説明もできないので、話題を変える。

 ま、いいか。

 先週と違うことが多すぎて、どこがどう変わってんのか全然分からないからな。

 いつも通り、今回は綾人と帰るとしよう。



 *一二月二一日 木曜日 下校



「うわー……さみいなー」

 朝から雪が降り続く空を見上げ、思わず呟く。

 降雪量はそんなに多くないため、積もりはしないだろうが、水たまりは明日には凍ってそうだ。

「コケそう」

 コイツが。

「え、何が?」

 ポカンと口を開ける。

「大丈夫? まだ頭痛い? おんぶしてあげようか?」

「いや、無理だろ……」

 どんだけ体格差あると思ってんだ……。

「ムリじゃないよ。こう見えてボク、ムッキムキ」

「いやいやいや……オマエのそのほっそい身体のどこに筋肉が――――」

「あ、子猫だー!」

「……おい」

 次の瞬間には俺のことを見向きもせず、一直線に走って行く。

 なんだよ、子猫って。

「あ……」

 住宅街の奥に入り込んだ道の隅、ちょうど電柱の影に隠れた場所。

 そこに置かれたダンボールの中に一匹の子猫が入っていた。

 この前歩いていた丸めな猫とは全く違う、小さな黒い子猫だった。

 箱の中には毛布が丁寧に敷いてあるが、他には食べ物などは入っていない。

「捨て猫か?」

「そんな感じだね……生後二ヶ月くらいかなぁ……」

「え、見て分かんの?」

「いやぁ、まあ……なんとなくだけどね」

 いや、なんとなくでもすげーな。

「……いっちゃんさー。まだ小さかった頃、よくボクをおぶって帰ってくれたよねー」

 何を思ったのか。

 綾人はしゃがみ込み、昔話を始めた。

「それは……オマエがケガばっかするからだろ」

 その話に付き合ってやる。

 コイツの運動音痴は生まれつきだからな。

「しかもオマエ、いつもあの森の教会に隠れてただろ。それ知ってるの、俺しかいなかったからな」

「そうなんだけどさー。やっぱり嬉しかったよ。いっちゃん、いつでもボクを見つけてくれたから」

「…………」

「一人ぼっちじゃないって、思えたもん」

 綾人の指が、子猫の喉元に触れる。

 嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らした。

「オマエも捨てられちゃったんだね……」

 そう言った綾人の横顔は、悲しそうで……。

 気の利いた言葉をかけてやることが……俺にはできなかった。



 *一二月二一日 木曜日 就寝前



「やっほー、いっちゃん」

 夜の日課。

 窓越しに綾人が手を振ってくる。

「ねこちゃん、元気してるー?」

 こっちに向かって身を乗り出してきた。

「……落ちるぞ」

「にゃー」

 俺のベッドの上でのびのびとくつろぐ子猫は、自分が捨てられていたことなどさっぱり忘れているようだ。

 まるで長年暮らしている我が家のように過ごしている。

 コイツ、将来大物になるな。

「なんだかんだ連れて帰ってくれるから、いっちゃんって優しいよねえ」

「し、しょうがないだろ! 雪降ってたし、今夜は一段と冷え込むって……朝、お天気お姉さんのアイコちゃんが……」

 そもそも綾人が、あんな顔であんな話をするから、つい感化されちまったんだ。

「いっちゃんって、本当そういうの放っておけないタイプだよねえ」

「ほっとけ」

 あの後俺達はすぐに近所のドラッグストアで子猫用のミルクを買い、このちびすけを家に連れて帰ってきたのだった。

 ケージは綾人の家の倉庫にあったものを拝借した。

 新聞と毛布を敷き、簡易的だがいい家ができた気がする。

「で、名前は決めたの?」

「猫五郎」

「嘘っ!?」

「嘘だよ、決めねえよ。名前なんか決めたら情が移るだろ。明日、学校で飼い主捜すんだからな」

 うちで飼ってもいいんだが……母さんがなぁ……。

 動物とか子供とか嫌いなんだよな……。

「そっか、それじゃあボクも手伝うよ」

「当然だろ」

 明日も冷えるみたいだが、昼間もエアコンをつけときゃ寒くないだろ。

「にゃー」

 二人の会話に、子猫も入ってくる。

 いつもより、ちょっとだけ騒がしい夜になった。

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