Ⅰ-Ⅲ 日常



 *一二月二〇日 水曜日 自室



「おーい、いっちゃん!」

 真っ暗な世界で、綾人の声が聞こえる。

 ああ、もう朝か……まだ瞼が重い。

 俺は寝ている時間が何よりの至福なんだ。

 まだこの温もりの中に包まってい――――。

「ぐふっ」

 ズンとした重みで、眠気は強制的にリセットされる。

「綾人……」

「ん?」

「重いんだっつーの!」

「わ……っ!」

 叫び声と共にその重石はなくなり、そして床に落ちる音。

 フローリングに薄手の絨毯が敷いてあるだけなので、たぶん痛い。

「ひっどいよ、もうー……」

「こっちは重いんだが?」

 ぶつけた尻をさする綾人を放置し、クローゼットから制服を取り出す。

 あまり中に物が入っていないため、迷うことなくすぐに取り出せる。

 整理されているといったら聞こえはいいが、中身が少ないだけだ。

 昔からあまり服に興味がないため、必要最低限のものしか持ってないのだ。

「だからって、ふっ飛ばすことないじゃんかー」

「だったら乗っかるな!」

「はーい! 明日からしないよー」

 いい返事だ。

 だが嘘だな、俺には分かるぞ。

「ほらほら、いつまでも怒ってないでご飯食べに行こうよ」

 俺の睨みなど全く気にせず、マイペースにぐいぐい腕を引っ張る。

「あーもう! 着替えるから先行ってろ!」

 綾人を部屋から追い出し、俺は後ろ髪を引かれる思いで冬物の寝巻きを脱いだ。



 *一二月二〇日 水曜日 登校



「あー……さみい」

 白く染まる息を見ながら、我慢できずに呟く。

 なんだか今日は風が強いな……。

「いっちゃん、そればっかだよね」

「寒いのだけは我慢できねえんだよ……」

 俺はコートの襟に顔を埋める。

 生徒手帳に記載してある、黒、茶、または紺色で華美でないものという、意味がよく分からない注記をちゃんと守ったデザインだ。

 そこまで決めるなら指定にしてくれた方がラクだと思うのだが、他の生徒達はその決められた中で個性を出すのが楽しいらしい。

「あ、それじゃあ、あったかいココア飲む?」

 綾人の目線の先には自販機があった。

「いらねえ。そんな甘いの」

「そう?」

 そう言って、不思議そうに首を傾げる。

「糖分は体にいいんだよ。頭もスッキリするし」

 スッキリさせたいと思うほど、複雑なこと考えていないだろうが。

 綾人はゴソゴソと、制服のポケットから何かを取り出す。

 それはキラキラと黄金色に輝く飴の包みだった。

 そういや子供の頃から、食べ物を持ち歩いていたな。

「あげようか?」

「いらねーよ」

「ええ!?」

 驚愕した顔を返される。

 コロコロと、よくもまあ簡単に表情が変わるもんだ。

 コイツは俺をなんだと思ってるんだ。

「ねえねえ、いっちゃん……見て!」

 続いてバンバンと俺の肩を叩く。

「今度はなんだ。次から次へと……」

「いっちゃん、あそこにいるのって、転校生の……」

「え?」

 転校生というワードに、俺は反応を返していた。

 綾人が指さした先。

 そこには黒光りしている、いかにも高級そうな外国製のセダンが一台、校門の横に停車していた。

 登校中の生徒達が物珍しそうに、チラチラと横目で見ている。

 その車から降りてくる転校生の姿。

 冬なのに、コート類は着用していない。

 防寒品といったら両手につけた真っ白な手袋くらいか。

 運転手に何かをひとこと伝えると、よくあるタイプのスクールバックを肩にかけ、無表情のまま横の校舎へと歩き出す。

 その運転手も父親には見えないほど若く、真っ暗なサングラスをかけていた。

 まさかお抱えの運転手ってヤツか?

「おいおい、すげえな車登校かよ……」

「すごく高そうな車だねぇ。お金持ちなのかなぁ……?」

「金持ちではありそうだが……そこまで金持ちだったら、もっと行くべき学校があるだろ」

「西口にある、私立のお金持ち学校とか?」

「ああ。うちの学校、公立な上に偏差値もそんな高くないぞ? わざわざ転校してくる理由がないだろ。ましてや、こんな変な時期に」

 高校二年の……もう一二月も終わりに差し掛かってる。

「でもよくあるじゃん、親の都合とか」

「高校生にもなって? それはないだろ」

 ましてやあんな金持ちなら、一人暮らしぐらいさせてもらえそうなもんだが。

 俺だってほぼそうだし。

「あ! それじゃあ、部活関係とか!」

「でも委員長、転校の話知らなかったみたいだぞ」

 昨日の委員長の話から、この転校のことを知っていたのは校長のみだったという噂らしいし。

「委員長のおかげで、弓道部は全国区だが……それ以外の運動部はそんなにパッとしないだろ。スポーツ推薦のヤツは少しいるけど……」

「でも煉くんって、一般入試でしょ? それなのに弓道部のエースってすごいよね!」

 珍しく綾人が委員長を褒める。

 他人に興味ないわけじゃないんだよな。

 ただ一線を引いているというか、壁を作ってしまうというか。

「ほら、俺達も行くぞ。遅くなると、その委員長に怒られる」

 ここで転校生のことを話していても埒があかない。

「そうだね……!」

「またコケんなよ」

「大丈夫だもん!」

 綾人も駆け足で俺に続いた。



 *一二月二〇日 水曜日 教室



「おはよう、二人とも」

「よ」

「お、おはよう……」

 教室へ入ると、尻尾のように結んだ髪を揺らしながら委員長が出迎えてくれた。

 少しつり気味の目が、まるで猫のようだ。

 後ろに隠れる綾人を気にした様子もなく、笑顔を返してくれる。

「今日は早めに来てくれたんだな」

「まあ、毎日委員長に注意させるのも悪いからな」

「そうか。その心遣い、感謝する」

 武士のように礼を言われた。

「ところで委員長」

「なんだ?」

「転校生の話なんだけど」

 俺はすでに自分の席に座っている転校生をチラリと見て、少し声を顰める。

 この距離からなら聞こえないと思うが、一応。

「ああ……どうかしたのか?」

 委員長も少し声のトーンを落として答えてくれる。

「もしかして、ものすごく金持ちだったりするか? 今日すげー高級そうな車で学校来てたぜ?」

「そうなのか」

「だから昨日言っていた賄賂の話もあながち間違ってないんじゃ……」

「金持ちかどうかは分からないが……。もしそうだとしても、賄賂を渡してまで入るような学校でもないと思うが……」

「それは俺もそう思った」

「それに転入は、完全に個人的な理由のようだ。直接本人から聞いた」

「マジか」

 さすが委員長、仕事が早い。

「目立つ存在だから、変な噂が流れ始めている。早めに対処すればクラスにも馴染みやすいと思ってな」

「委員長……オマエ、聖人だったのか」

「それは言い過ぎだ」

 冗談とでも思ったのか、委員長は苦笑する。

 委員長の言う通り、昨日からクラスの話題の中心はあの転校生だからな。

 きっと今頃は隣のクラスまであることないこと、噂が一人歩きしている頃だろう。

 部活をやっている委員長の耳には嫌でも入ってくるんだな。

「本人曰く、どうしてもこの学校に来なきゃいけない理由があったらしい。さすがにそれ以上はプライベートなので聞くことは阻まれたが……というか、濁されたが。その部分は他の者に伝えても問題ないと言われたのでな」

 律儀に本人の了解をとったのか。

 さすが委員長だ。

「まさに聖人君子」

「言い過ぎだと言っているだろう」

 困ったように笑う。

 それにしても、どうしてもこの学校に来なきゃいけない理由ってなんなんだ。

 こちらとしてはその理由が知りたいんだが。

「それじゃあ、ホームルームがはじまるから席に戻る」

「おう。ありがとな、委員長」

 委員長は頷いて微笑むと、自分の席に戻って行った。

 俺はもう一度転校生を見る。

 昨日と全く同じ様子で自分の席に座り、携帯電話をいじっている。

 誰とも会話することなく、ただ一人きりで。

 まるで置き物のように座っているように見えるのは、きっと整いすぎている顔の造形のせいだろう。

「…………」

 なんだろう……。

 なんか、ひっかかるんだよな……。

「うーん……」

「いっちゃん、どうしたの? お腹痛いの?」

 人が考えている時に、綾人が邪魔をしてくる。

 とりあえず軽く叩いておく。

「いったーい!なんなんだよもー!」

 プリプリ怒って、自分の席に行ってしまった。

 俺もその後を追おうとした瞬間、胸ポケットに入れていた電話が数秒だけ震えた。

「メッセージか……悠希から?」

 画面に表示された後輩の名前。

 あ。

 まさか、もう合コンの話が決まったのか!?

「俺の周りのヤツらは仕事が早いな」

 何故か俺の方が得意げになってくる。

 逸る気持ちを抑えられず、すぐにメッセージ画面を開く。

 さてさて、一体どんなメンツに――――。

『今日の放課後、良かったら一緒に買い物に行きませんか?』



 *一二月二〇日 水曜日 昼



「え!? それじゃあ今日の帰りは悠希くんと買い物なの!?」

 片側の頬をミートボールによって膨らませながら、綾人が抗議の声を上げた。

 オマエはリスか。

 昼休みという騒がしい中でも、悠希という単語を聞いたクラスの女子が数人こちらを見た。

 すげえな、アイツのネームバリュー……。

「ああ。特に用はないしな」

「むー」

「なんだよ、オマエも来るか?」

「……行かない」

 子供の様に頬を膨らませ、プイと横を向く。

 綾人特有の、怒った時のコンボだ。

「相手は悠希だぞ。別に緊張することないだろ?」

「行かないもーん」

 今度は炊き込ご飯を頬張る。

 一口が小さいのか、箸が動く回数が多い。

 こうなってしまった綾人の気持ちを変えるのは不可能だった。

 人がせっかく誘ってやってるっていうのに……。

「お。うまいなこの卵焼き」

 何か気の利いた言葉でもかけてやろうと思ったが、それよりも弁当に入った卵焼きの方が気になってしまった。

 柔らかな食感もさることながら、出汁の効いた甘めの味……その上更に味がしまっているというか……。

「でしょでしょー。ふんわりと甘めに作ってあるんだ」

 そして綾人も今までの態度はなんだったのかとツッコミを入れたくなるほどに、会話に乗ってくる。

 機嫌取りなんかしなくても、いつの間にか元に戻るのが俺達のパターンだった。

「なんでオマエが自慢げなんだよ。俺が褒めたのはおばさんだ」

「それは分かってるけどぉ」

 綾人の口から文句が出るのと、机の上の携帯が揺れたのは同時だった。

「メッセージ?」

「ああ、悠希から」

 さっきのメッセージの続きだ。

 放課後、待ち合わせ場所は昇降口の下駄箱付近に決まった。

 最後の授業が終わったらすぐに向かおう。

「悠希くん売れっ子なんだから、友達は選んだ方がいいよねー」

「おい、今すぐ殴ってやるから返信するまでちょっと待ってろよ」

「げ。聞こえてた……」

 慌てて逃げようとする綾人の後ろに、教室から出ていく委員長の姿が見えた。

 今日もどこか行くんだな……。



 *一二月二〇日 水曜日 午後授業中



「次は、教科書の――――」

 今日も天気がいいため、柔らかな日光が窓から差し込んでくる。

 腹がいっぱいになり、ちょうど眠気がピークに達する時間。

 それを後押しするように、教師が一定のリズムで教科書の解説をする。

「いっちゃん……うさぎって、寂しいと死んじゃうんだって」

 さっきから左隣からの、構ってほしいアピールがウザい。

「だから、オマエも来るかって誘っただろうが」

 前を向き、真面目に授業を受けているという体裁で綾人に声を返す。

 この教師は授業を聞いてないヤツを当てることが多いからな。

 フリだけでもちゃんとしておかねば。

「それは、やだ。知らない人、怖い……」

「あのなぁ……」

 綾人の答えに呆れつつ、それでも俺は頑張って前を見ながら会話を続ける。

「悠希のどこが怖いのか、詳細を説明してほしいくらいだ」

 そもそも顔見知りではあるだろうが。

 あの爽やかな風と共に現れ、風と共に去っていく後輩のどこに怖い要素があるのか。

 ああ、このむくれている幼馴染が女の子だったら……。

 やきもちで怒っているんだとしたら……。

 幸せだったんだろうなぁ……。

 なんて、ありもしない妄想を膨らませる。

「大体、いっちゃんはボクに冷たすぎるよ……」

「俺がいつオマエに冷たくしたんだよ」

「いつも」

 綾人が口を尖らす。

「あのなぁ――――」

 俺が本腰を上げて反論しようとした時だった。

「それじゃあ、次の問題を――――月島、解いてみろ」

「ふえ……っ!?」

 突然教師に指名された綾人が、慌てて顔を上げる。

 ほら、俺の予想通りだ。

 ざまあみろ。

「えっとぉ……」

 指された勢いで立ったものの、答える当てが全くないため、オロオロしているといった感じだ。

 ちょっと可哀想だな……。

 いやいや、甘やかしちゃいかん。

 こういうのは自分で乗り越えてからこそだからな。

 そもそも俺もその問題の答えが分からないわけだが。

「……分かりません」

「授業はちゃんと聞くように」

「はい……」

 今にも泣き出しそうな表情で、席に座る。

「なんで教えてくれなかったのさぁ……」

 そしてこちらに抗議する。

「オマエと話してた俺に問題が分かると思うのか?」

「うう……」

 観念したのか、しょぼくれた幼馴染は、今度こそちゃんと授業を受ける体勢になる。

 アーモンドの形をした大きな目が、真剣に黒板を見つめていた。

 まったく……夜に慰めの言葉でもかけてやるか。



 *一二月二〇日 水曜日 放課後



「五樹先輩!」

 玄関に到着すると、悠希の方から駆け寄ってきてくれた。

 その姿はまるで人懐っこい大型犬だ。

 どこからか風が吹き、その前髪を揺らす。

 右耳に付けた赤いピアスがチラリと見えた。

 自然までイケメンの味方をしているのか。

 悠希は暖かそうな厚手の茶色いダッフルコートに、縞模様の鳥のようなマークのついたマフラーを巻いていた。

 どこかのブランドだろうか。

 そういうのに疎いため、全然分からない。

「ほんと何着ても似合うな。くそ、このイケメンめ……っ」

「悪口になってませんよ、五樹先輩」

 悠希が笑顔で俺の肩を軽く叩く。

 それだけで周囲の女子から歓声が上がった。

 なんでだ……。

「なんでだ……!」

「ほらほら。五樹先輩、行きましょう」

 慣れた光景なのか後輩は女生徒達に見向きもしない。

 悠希に背中を押されながら、二人で靴を履き替える。

 その革靴も、俺のものとは格が違う感じがする。

「もしかして、全身ブランドで固めてるのか?」

「僕、夢を与える仕事してますので」

 そう言って片目を瞑る。

 どんなことを言ってもサマになるヤツだ。

 俺は素直に負けを認めるしかなかった。





「今更ですけど、綾人先輩は一緒じゃないんですね」

 悠希の買い物も終わり……。

 俺達はファストフード店で、カラカラに乾いた喉を潤していた。

 冬とはいえ、建物の中は暑い。

 しっかり着込んでいるため、じんわりと身体中が汗ばんでいた。

「今日は用事があるんですか?」

 買った帽子を弄りながら、悠希が首を傾げる。

 ちなみに、たかが毛糸の帽子のくせに三万円。

 最初値札を見た時は、桁を数え間違えたのかと思った。

 きっと今、椅子の背もかかっているコートも、とんでもない金額に違いない。

 帽子が欲しいとか言うので、テキトーな駅ビルにでも入って探すのかと思いきや。

 コイツが向かった店は駅前の一等地に店舗を構える海外のブランド店だった。

 慣れているのか、店員にも気さくに挨拶をしていた。

 そして試着するものが全て似合うという、試着の意味がない顔とスタイル。

 完全に一人ファッションショーだった。

「ああ。アイツは放っておいてくれ」

「ケンカでもしたんですか?」

「まあ……売り言葉に買い言葉。いつものことなんだがな」

「二人とも、仲良しですもんね」

「幼馴染、だからな」

 悠希の言葉を即座に訂正しておく。

「一緒にいればいるほど、遠慮がなくなってくる」

 だから、ケンカするんだよな……。

「綾人先輩は、五樹先輩には心を許してますもんね。僕、苦手に思われてそうですし」

「安心してくれ。アイツは大体の人間を苦手に思ってるから」

「人見知り、なんですか?」

「…………」

 悠希に問われ、思い切り息を吸い……。

 そして吐き出した。

「……わりと、深刻に」





「先輩、今日はありがとうございました。とってもいい帽子を買えました」

 店を出てすぐに、深々と頭を下げられる。

 今回の買い物、特に俺は必要なかったと思うが、きっと昨日のことが気になって気を使ってくれたのだろう。

 本当、礼儀正しいヤツだ。

「いやいや、いいってことよ。そんなことより合コン、頼んだぜ」

「任せてください」

 悠希はどんと自分の胸を叩く。

 こんなにも頼もしい後輩をもって、俺は幸せだぜ。

 俺には先輩のプライドなんてものはないからな。

「オマエはこれから仕事か?」

 日はとっくに暮れ、空が紫色に変わり始めていた。

 あちこちで街灯が点き始め、街路樹には小さな電飾がいくつも飾られていた。

 まさにもうすぐクリスマスといった感じだ。

「いえ、今日はこのまま家に帰ります」

「そっか」

 俺も特に用はないし……。

 綾人に土産でも買って帰るとするか。

「あの……っ! 迷惑なんで、やめてください……!」

「?」

 トラブルを抱えていそうな声に、思わず振り返る。

 それは街の喧騒に紛れてしまうような、どこにでもある光景。

 いかにもチャラチャラした男にしつこく声をかけられている、女の子の後ろ姿。

「ナンパか……?」

 ……ったく、嫌がってるじゃねえか。

 ダメだなぁ、声かけるんなら……俺みたいにもっとスマートにやらないと。

 とまあ、ナンパなんかしたことないし、更には昨日フラれたわけだが。


 ここ、神薙かんなぎ市は大都会ではないものの、生活するには困らない程度に、主要駅もショッピングモールも揃っている。

 所謂、地方都市というヤツだ。

 駅前は学校から歩いて二〇分くらいのため、学生達にとっては放課後のいい遊び場にもなっている。

 高校だけでも、確か四校あった。

 しかし近くに繁華街もあるため、夜になると治安はいいとはいえないらしい。

 夜に出歩く習慣がないため、詳しいことは知らないのだが。

 日も落ちてきているし、これが良くない治安の一例なのだろうか。

「んん……?」

 まだ続いているトラブル。

 何故かそれが気になり、もう一度、その女の子をよく確認する。

 黒色の短めのコートの下から、見たことのある柄のスカートが裾を覗かせていた。

 あれ、うちの学校の制服……だよな?

 そして、よく考えるとどこかで聞いたことのある声と、腰まで伸びたふわっとした髪――――。

「!」

 そこまでしてようやく気がつく。

 絡まれてるの……田端さんじゃねーか!

「ねえねえ、いいじゃん。一緒にご飯でもさー」

「こ、困ります……それに、急いでて……」

「少しだけだか――」

「おい」

 気付けば身体が、勝手に動いていた。

 俺はぐい、と、田端さんとナンパ男の間に入り込む。

「彼女困ってるだろ、離してやれよ」

 俺はアイドルの笑顔が好きなんだ。

 こんな悲しそうな顔、見たくない。

「なんだオマエ……」

 第三者の登場にムッとした男が、タバコの臭いを撒き散らしながらこちらに向かってくる。

 こちらが学生だと分かったのか、怯む様子はない。

 って、相手も学生じゃね―か。

 学ランと言われて真っ先に思いつくタイプの、オーソドックスな黒い制服を着ている。

 そういえば、この辺りでは荒れている……評判の良くない高校が一つあった気がする。

 自分はヤンキーですと顔に書いてあった。

 この時代にまだいるのかと、少し感心してしまった。

「お、大崎く……」

「先輩ー! なんで急に走って……ってあれ? 桃香ちゃん?」

 きょとんとした顔をする悠希だったが、一瞬にして状況を把握したようだ。

「ああ……なるほどですね」

 悠希が俺よりも更に一歩前へ出る。

「すみません、彼女、嫌がってるんで離れてもらえません?」

 優しい声色で、男を制止する。

 それでも目は笑っていない。

 普段からはまるで想像がつかない冷たい目で、その男を睨みつけていた。

 コイツ身長高いから、威圧感あるな……。

 やはり見下ろされるというのは、いい気がしない。

 整った顔からの睨みっていうのも、迫力がある。

 ナンパ男はすっかり悠希の方を警戒していた。

「悠希くん……!」

 田端さんが悠希の方へ駆け寄り、その横に立つ。

 ……あれ? 俺、いる意味なくね?

「くそ……っ」

 バツが悪そうに、男は小走りに去って行った。

「スマートじゃないですねー」

 間抜けな姿を見ながら、悠希はニッコリと笑う。

「この辺は夜になると治安があまり良くないから、ああいうのが出てきて困りますよねー」

「オマエ、いいのかよ、モデルだろ? もし、ケガでもしたら……」

「え? ああ、いいんです。女の子が困ってるのに、それを見ているだけしかできないなら……それこそ、モデルなんかやめますから」

 くっそ、なんだよこのイケメン!

 悔しいけど……すげえカッコイイな……。

 アイドルがいる手前、口には出さなかったが。

 ああ、器の小さい俺……。

「ありがとう、大崎くん、悠希くん……」

 田端さんは心の底から安堵したように微笑む。

「有名人も大変なん……ですね」

 やはりアイドルと話す時は緊張してしまう。

「そんなことないよ。怖かったけど、平気、だって大崎くんみたいな人が助けてくれるから」

「!」

 ヤバい……嬉しすぎる……。

 その笑顔と言葉は反則だ……。

「さすが五樹先輩ですね。困ってる桃香ちゃんにいち早く気付いて駆けつけるんですもん。イケメンのやることは違いますねっ!」

 田端さんの前だからか、空気の読める後輩は、やたらと俺を褒めちぎってくれる。

 多少わざとらしいが、それでも悪い気はしない。

 俺との器の大きさの違いを思い知らされた……。

「モ、モデルのオマエに言われても嬉しくないがな」

「ええ~……」

 形のいいタレ目が困ったようにふにゃりと笑う。

 俺はさっきの男を睨みつける悠希の顔をもう一度思い出す。

 こんなにニコニコしているのに、あんな顔もできるんだな。

 後輩の意外なギャップを知った一日だった。

 ま、誰にでも、そんくらいの一面はあるか。

 ふと、綾人が言っていた『怖い』という言葉が、頭の中をよぎった。



 *一二月二〇日 水曜日 就寝前



「へえ、そんなことがあったんだ」

 まん丸な目を更に丸くして、綾人は大袈裟に驚く。

 もう日課のようになってしまっている、綾人との窓越しの会話。

 暑い日も寒い日も、よく飽きずにやるもんだな。

 こんなことほぼ毎日やってるんじゃ、話題だって尽きてくるのに。

「そんなイケメンがいつも近くにいるんじゃ、いっちゃんの告白も断るわけだよね。いっちゃん、人相悪いし」

「綾人、ちょっと待ってろよ。今すぐそっちに飛び移ってやる」

「いやー! 暴力反対ーっ!」

「てめえ!」

「…………」

「な、なんだよ……」

 突如として、不気味なほどに突然静かになる幼馴染。

 どうした、突然。

「んー……いっちゃんには悪いけど……良かったなって」

「は? 何が……」

「いっちゃんが田端さんと付き合ったりしたらさ、一緒に帰ったり、遊びに行ったりするわけで……。そしたらボク、一人ぼっちになっちゃうでしょ。それは……寂しいなって」

「オマエ、友達いないもんな……」

「……あはは」

 肯定も否定もしない。

 コイツの人見知りは昔から全く変わらない。

 成長と共に治っていくだろうと思ってはいたが……基本的にあの頃と同じ。

 俺の後ろにいつもくっついている。

 委員長とか……多少慣れてくれば会話くらいはできるが……。

 それ以上は、距離を縮めようとしない。

 まるで、綾人の周りに茨が張り巡らされているように、綾人自身がそれを拒否してしまうのだ。

 俺はそれ以上考えたくなくて、窓枠に手をかける。

「……寝る」

「ええ!? 何それ唐突に――――」

 閉めたドアが、派手な音を立てる。

 なんでこんなに複雑な気持ちになるのか……。

 今の俺には分からなかった。

 横向きのままベッドに倒れ込むと、スプリングが揺れる。

 ……今日は眠ろう。

 これ以上、余計なことを考えないように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る