Ⅰ-Ⅱ 日常



 *一二月一九日 火曜日 自室



「おーい、いっちゃん!」

 耳元で声がする。

「朝だよー」

 声と同時にずしりと感じる重み。

「ぐ……」

 柄にも無く感傷に浸っていた俺に、容赦なく繰り出される攻撃。

 布団の上から押しつぶされる圧迫感に、うめき声が漏れる。

「いっちゃんー! 聞いてるー? 朝ですよー!」

「う、うるせえ……」

 ようやく声が出た。

「だから……重いんだよっ!」

「わっ!」

 勢いをつけて、上に乗っているヤツを思い切り持ち上げる。

 いつも通りそいつは、軽々と飛んでいき、ドサリという音と共に床に落ちた。

「いったーい……」

「だったら上に乗っかってくるな! なんなんだよ、毎日毎日」

 寝癖を整えながら、綾人を睨みつける。

「じゃあどうやって起こせばいいのさー」

 しかし綾人は全く怯む様子もなく、眉毛をキリッと上げ反論してくる。

「普通に起こせ!」

「普通って?」

「普通は普通だろ! そりゃオマエ、優しく――――」

 言いかけて、止める。

 優しく……揺り起こしてもらう……?

 ……コイツに?

「気持ちわる……」

 想像しかけて、すぐにそれをハンマーで粉々に打ち壊す。

 危ない、危ない。

 夢見が悪い上に、現実でも気分が悪くなるところだった。

「え、何それ」

「……いや、なんでもない」

 怪訝な顔で首を傾げる綾人に、俺はこれ以上続けるつもりはないと話題を変えた。

「さっさとメシにしてくれ……」

 なんだか、朝からどっと疲れた気がする。

 騒いだせいか、額が軽く汗ばんできた。

 俺は制服に着替えるため、部屋に備え付けてあるクローゼットの取っ手に手をかけた。



 *一二月一九日 火曜日 登校



「はぁ……」

「人の顔見てため息つくな」

 通学路を鬱々とした顔で歩く綾人の頭を軽く叩く。

 この寒い中、張り切ってジョギングをしている近所の人がこちらを見てクスリと笑った。

 まだ雪は降らないとはいえ、季節はとっくに冬だ。

 それなのに住宅街では犬の散歩、公園ではラジオ体操等、この街の住民達は活発に活動している。

「いったーい! 違うよぉ……。いっちゃんの顔見てたわけじゃない……」

「だったらなんなんだ、鬱陶しい」

「……金曜日」

「は?」

「金曜日の、球技大会」

「あー、そういやそんなイベントあったな」

「ヤダなぁって思っただけ」

 綾人は再び深いため息をつく。

 ああ……そうだった。

「オマエ……運動音痴だもんな」

「はい……」

 素直に首を縦に振る。

 ぴょんぴょん跳ねている謎の毛も一緒に揺れた。

「……運動だけじゃなくて、勉強も料理もダメだもんな」

「はい」

 しゅんと項垂れる幼馴染が、なんだか可哀想になってきた。

「まあ、あれだ……オマエにもいいとこあるさ」

「ほんと? 例えば?」

「…………」

 しばし考える。

「……ほ、ほら! オマエといるとラクだしな!」

「それはいっちゃんにとって、都合のいいことでしょっ」

 その通りなので、何も言い返せない。

 そんなすぐに幼馴染のいいとこなんて出てくるわけないだろ。

 例え出てきたとしても、面と向かって言うなんて……。

「できるか!」

「何それー!?」

「五樹先輩、綾人先輩!」

 綾人とのコントがひと段落したところで。

 俺達を呼ぶ声が、後ろから聞こえた。

「お。悠希」

「おはようございます」

 朝の爽やかな風と共に、後輩は姿を表した。

 悠希はこちらを見ると、ペコリと頭を下げる。

 こういう礼儀正しいとこを見ると、やっぱり芸能活動的なことをしているヤツは違うなと思う。

 太陽の光に、金髪がキラキラと輝いていた。

 染めたてなのだろうか、根本に黒い部分が見えない。

 学校の入り口は目の前のため、あちこちで登校中の生徒達がいたが、全員の目線の先は長身の後輩だった。

 どんな時も注目の的だな、コイツは。

「先輩、それでですね。昨日の、桃香ちゃんの件なんですが」

 今まですっかり忘れていた昨日の話を思い出して、パッと顔を上げる。

「え……オマエ、アイドルに訊いてくれたのか!?」

「もちろんですよ。他ならぬ、先輩の頼みですもん」

 眩し過ぎる極上スマイルを返された。

「桃香ちゃん、今日の放課後なら時間あるみたいなんです。なので、桃香ちゃんに伝えたいことがあるならその時間に……」

「!?」

 な……なな……っ。

「俺が、た……田端さんと話ができる……!?」

「え? あ、はい。先輩の話は今までなんとなくしてたんですけど、それなら直接お話ししてみたいって言ってましたよ?」

「悠希!」

 俺は悠希の手をガシっと握る。

「恩に着る!」

「え、ええっ!? 僕、何もしてないですけど……」

「何言ってんだ! アイドルにアポとってくれるなんて十分な成果じゃないか!」

「せ、先輩……」

 ここまで感謝されると思っていなかったのか、悠希の顔は真っ赤になる。

「よし……今日の放課後だな……」

 いささか急ではあるが、善は急げって言うしな!

 もしかしたら、連絡先とか交換できるかもしれない……!

 久しぶりにドキドキしてきたぜ……!

「えっと……分かりました。それじゃあ、放課後大丈夫ってことで、桃香ちゃんにもそう伝えておきます」

「ああ、よろしく頼む!」

 俺は勢いよく頭を下げる。

「はい! それじゃあ僕はこれで失礼しますね」

 笑顔で答えると、悠希は先に行ってしまった。

「よっしゃあっ!」

「……るさい」

「綾人、ちゃんと聞いてたか!? 今日の放課後……ついに、アイドルとデートだっ!」

「嘘つけっ! そんな話になってなかったでしょっ」

「まあ、似たようなもんだろ」

「いろいろ順序飛び越えちゃってるよ……もはや完全に妄想だよ……」

「なんだ綾人、羨ましくないのか?」

「べっつにー」

 そう言って口を尖らせる。

「どうせ、うまくいかないと思うけどね」

「ふん」

 ったく、コイツには幼馴染と喜びを分かち合おうって気持ちはないのか。

 もういい、コイツの言うことは無視!

 さっさと学校へ行こう。

 せっかく早く来たのに、遅刻しちまう。

 俺は踊る胸のまま、早足で歩いていく。

「あ。待ってよ、いっちゃん!」

 昇降口へ入る階段を、パタパタと小走りで付いてくる綾人の足音。

 なんか、カルガモの親子みたいだな。

「おい、綾人。あんまり走ると転ぶ――――」

「え……?」

 慌てて振り向いたが……遅かった。

 階段を駆け上っていた綾人の足は、見事に一段踏み外し――――。



 *一二月一九日 火曜日 教室



「おはよう、二人とも」

 教室の喧騒の中、俺達を見つけた委員長はすぐにこちらへと来てくれた。

 朝練後だというのに、眠そうな気配など一切ない。

 さすが委員長だ。

「よお、委員長」

「あ……おはよー、煉くん……」

「どうしたんだ月島、頭なんかおさえて」

 不思議そうに首を傾げる。

「えー、いやぁ……あはは」

 綾人はなんとかそれを誤魔化そうとするが……。

「ついさっき、階段踏み外してコケたんだよ」

 すぐにネタバラシ。

「あー! なんで言うのさっ!」

 怒った綾人がポカポカと叩いてくる。

「月島、ケガはないのか?」

「え!? う、うん……平気……」

 委員長の言葉に、綾人はコクンと頷いた。

「間一髪、俺が支えてやったからな」

 綾人がチビで、その上体重が軽くて良かった。

「そうか。それならいいんだが……」

 どうやら委員長は、頭をさすっている綾人の行動が気になるらしい。

 今の話から、どう考えても頭はケガしないもんな。

「そのあと、俺が支えて助かったことに安心して頭を上げた瞬間……手すりに頭をぶつけたわけだ」

「……ふふ」

「ああ~……やっぱり笑われたぁ……」

 ガックリと肩を落とす。

「つーかオマエ、いっつも何もないとこでコケるよな」

「わ、わざとじゃないもんっ!」

「あったりまえだ! いい加減、気をつけろって言ってるんだよ」

「気をつけてるよ! 気をつけても転んじゃうの!」

「そこは反論するとこじゃない!」

「……オマエ達、朝から楽しそうだな」

「誰がっ」

「楽しくないよっ」

 二人からツッコミを入れられた委員長は一瞬目を見開いたが、すぐに穏やかに微笑む。

「……そうか。だが、貴重なことだ。そういう……なんていうんだろうな。対等な相手がいる、ということは……。うん。いいこと、だな」

 なにやらうんうん、と一人納得している。

「委員長?」

「なに、大した話じゃないさ。さて、ホームルームがはじまるからな、自分は席に戻るとする」

 委員長の席は、俺のすぐ後ろだった。

 委員長に倣い、俺達も自分達の席へ向かう。

 少しだけ委員長の背中が寂しそうだったのは、気のせいだろうか……。

「お」

 チャイムが鳴ると同時に、転校生も教室へ入ってきた。

 転校二日目に遅刻寸前とは、昨日の態度といい、かなりの大物だな。

 転校生が入って来たのを確認したのは俺だけではなかった。

 クラス中が行動を逐一伺っているようだった。

 あの目立つ容姿と服装だ、気にするなという方が無理がある。

「…………」

 しかし転校生は誰に挨拶をするでもなく、スッと自分の席に座って携帯電話を見始めた。

 見事な無愛想だ。

 つーか、手袋つけたままよく器用に弄れるな。

「いっちゃん、どうしたの? 渋谷くんが気になるの?」

「いや……なんでもねえよ」

 教室に入ってくる担任の姿が目に入り、急いで自分の席へ向かった。



 *一二月一九日 火曜日 午前授業中



「ねえねえ、いっちゃん」

「オマエな……今、授業中だぞ」

「知ってるよぉ」

 何故か綾人とはムッとした表情になる。

 そっくりそのままその表情を返してやりたい。

 確かに俺も真面目に授業を受けているわけではないが。

「問三って、どうやって解くの?」

「ち、ちゃんとした質問じゃねえか……!」

「でしょ?」

 何故か得意げに鼻を鳴らす。

「それで、どうやって解くの?」

 綾人は身を乗り出して訊いてくるが……。

 オマエに答えてやる義理はない。

「ぐー……」

 とりあえず寝たふりをすることにした。

「おおいっ」

「……そこの二人、静かに」

 すぐ後ろから、委員長の呆れた声が聞こえた。



 *一二月一九日 火曜日 昼



「待ってました、ご飯の時間!」

 チャイムが鳴ると同時に、綾人は満面の笑みを浮かべて弁当の包みを二つ持ってきた。

 俺は広がっていた教科書やノートを急いで机の中に突っ込み、場所を開ける。

「綾人……俺には、オマエが天使に見えるよ……!」

「さっきまでの態度はなんだったのさ……」

「おばさんには本当に感謝だな」

「ん。伝えとくよ」

 授業中の退屈そうな顔とは打って変わって、綾人は鼻歌を歌いながらその包みを開け始める。

 俺も負けじとそれに続いた。

 インゲンの胡麻和えに、パプリカとシーチキンの炒め物等。

 今日の弁当も、色とりどりのおかずが入っていた。

 そして変わらぬ卵焼き。

 俺は月島家の卵焼きが特に好きだった。

「いっただきまーす!」

 デカい口で卵焼きを頬張る綾人。

 教室では、クラス内外の生徒達が好き勝手に昼食をとっている。

 ふと気になって、委員長の席を横目で見てみる。

 やはり委員長は、自席にいなかった。

 一体どこへ行っているのだろう。

 委員長のことだから、部活の仲間とでも一緒に食べているのだろうか。

 昼休みは学校内であれば、どこで食べていても基本的に注意されることはない。

 顔の広い委員長のことだから、きっとクラス外にもたくさん友達がいるんだろうな。



 *一二月一九日 火曜日 午後授業中



「ふああ~」

 午後の授業開始早々、隣の席で綾人が大きなあくびをする。

 冬とはいえ、柔らかな太陽の光が教室全体に入り込み、眠気を誘発させるのだ。

「眠いねえ……何度もおんなじ話聞いてるみたいだよぉ」

 目を細めながら、机にべたっと張り付く。

「ま、気持ちは分かる」

「だよねぇ……」

 普段はまん丸としている綾人の目は細くなり、今にも眠ってしまいそうだ。

 黒板には謎の数字の羅列が端までびっしりと書かれている。

 腹一杯になったあと、この呪文のような数式を解読しろというのは無理難題だ。

「ふあ……」

 綾人のあくびがうつった。

「いっちゃんも眠そうだねー」

「この時間割を考えたヤツが悪い」

「分かるー……」

 しかし、このまったりとした時間が終わるのは一瞬だった。

 教師の声が俺達の会話を中断させたのだ。

「それじゃあ問五を――――」

「げ!」

 落ちそうになっていた瞼をカッと見開き、慌てて教科書で該当箇所を探す綾人。

 最初から聞いていなかったのか、どのページかすらも分からないらしい。

「当たりませんように、当たりませんように……!」

 油断してたくせに、往生際が悪いな。

 ちなみに俺は、分からないと答える準備はできている。

「渋谷。前に出て書いてみろ」

 当てられたのは、現在話題沸騰中の転校生だった。

 綾人は大げさに胸を撫で下ろす。

「セ、セーフ……」

「良かったな」

 とかいう俺も、内心ホッとしたけど。

「…………」

 転校生は何も言わず、すっと立ち上がり黒板の前に立った。

 一瞬だけその問題を見ると、すぐに目の前にあるチョークに手を伸ばす。

 クラス中からヒソヒソ話が聞こえるが、まるで気にする様子もない。

 カツカツという、黒板に書き込む音だけが教室に響く。

 そのスッとした立ち姿に目を奪われ、まるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。

 いつの間にか、教室では誰も会話をしていなかった。

「……できました」

「あ、ああ……」

 ひとこと告げると、パンパンと手袋に付いた粉を払い、音も立てずに自分の席に戻る。

 そして、再びつまらなそうな表情でどこかをボーっと見つめていた。

「わぁ、渋谷くん……すごいねー! ボク、全然分かんなかったよー」

「だろうな」

 まあ俺も人のことは言えないが。

 先生はなんだって転校生を指名したんだ?

 ただでさえ目立ってるんだから、そっとしておいてやってもいいだろうに。

「先生も、意地の悪いことをするな……」

 後ろから、委員長の独り言が聞こえてしまった。

「どういう意味だ?」

 俺は軽く後ろを振り返り、委員長に目線を送る。

 話しても問題ないと思ったのか、委員長は口を開いた。

「……今出題された問題は、まだ習っていないところだ」

「へえ」

「どーりで分からないと思った!」

 綾人が横から口を挟む。

 もし習ってあった場所だったとしても、オマエは分からないだろうが。

「元いた学校で、どこまで習っていたか知りたかったとかか?」

「それならいいのだが……」

 委員長は更に声を顰める。

「さっき、職員室で耳にしてしまった話がある。あの転校生の編入を知っていたのは、校長先生だけだったらしい」

「は? どういうことだ?」

「自分も少し聞いただけだから、詳しくは分からない。朝方、突然校長先生から話があったんだと」

「それじゃあ、校長の知り合いとか?」

「それも分からない。校長先生も詳細を教えてくれなかったらしいからな。賄賂でも渡されたんじゃないかと。ここの部分は先生方の噂の尾鰭だが」

「なんだそりゃ。つーか、そこまでして入るような学校でもねえだろ」

「ああ……自分も、そう思う」

 委員長の眉間の皺が深くなる。

 ここは、よくある公立校なんだ。

 委員長を筆頭としたいくつかの運動部のおかげで、一部のスポーツは強豪ではあるが。

 しかしあの転校生はパッと見、スポーツをやるタイプには見えない。

 図書館の片隅で本でも読んでいるのが似合いそうだ。

「……やはり、いいものではないな噂話というものは。調子に乗りすぎた。気を悪くしたのなら謝る」

「いや、別にいいって」

 本当、委員長はいつでも真っ直ぐだな。

「賄賂、ねえ……」

 謎の転校生の、謎がまた一つ増えちまったな。



 *一二月一九日 火曜日 放課後



 放課後の教室は部活組達がいなくなり、急いで帰宅する必要のない生徒達がまったりと過ごしていた。

「ふふふ……ついにこの時間がやってきた」

 高鳴る胸を押さえながら、俺は深く息を吸う。

 まさかこの二日でここまで色々と話が進むとは思っていなかった。

 髪や制服に乱れがないか、綾人から奪い取った鏡で隅々まで目を光らせる。

「話すだけで、まるで一大イベントみたいだね」

「みたいじゃなくて、一大イベントなんだよ」

「そう言えば、一年生のころから田端さんの話してたもんね」

「ああ……一目惚れだった」

 遠い目をして雲を見上げてみる。

 俺の記憶にあるアイドル……田端さんはいつでも天使のような笑みを浮かべていた。

 腰まで伸びた柔らかそうなふわふわの髪の毛に、ぱっちりとした目。

 制服から伸びるスラリとした四肢は、とてもか弱く、思わず守ってあげたくなる。

 誰に対しても穏やかに話すその姿に、一瞬にして目を奪われていたんだ。

「モデルさんだもんねー。雲の上の人だよ」

「そんなことは分かってる」

 二年に進級して、クラスが離れた時のショックは今でも覚えている。

 その時もクラスの男共に代わる代わる告白されていたな。

 俺はそれを見ていることしかできなかったわけだが。

「え。いっちゃん、まさか告白する気?」

「綾人」

「何?」

「男には、決めなきゃいけない時があるんだよ」

「あ。フラれるヤツだ」

 喧嘩を売ってくる幼馴染の頭を小突こうとした時だった。

「五樹せんぱーい! 来ましたよーっ」

 俺の優秀な後輩は、上級生の教室へなんのためらいもなく顔を出す。

 逆にクラスの女子が、思わぬ来客に黄色い歓声を上げていた。

「いっちゃん、ボク、教室で待ってるから早めにねー」

 綾人はそう言うと携帯電話を取り出し、いじりはじめた。

 幼馴染の正念場だというのに、薄情なヤツめ。

 俺はもう一度深呼吸をすると、笑顔で手招きする悠希の方へ向かう。

 少しずつ野次馬が集まり始めていた。

「こんにちは」

「……っ!」

 教室から夕暮れの廊下に出ると、俺の憧れのアイドルが微笑みを携えて待っていてくれた。

 その笑顔からさえも、フローラルな香りが漂ってきそうだ。

 その姿を見た途端、頭の中が真っ白になったことだけは分かった。

「あ……えっと、大崎です」

 あまりにも普通の自己紹介が口から飛び出してくる。

 たぶん、顔が引き攣っている。

 一年の時同じクラスだったから、はじめまして――ではないんだよな。

 アイドルはいつもいろんな人に囲まれていたから、こちらから話しかけに行くなんて無謀なことはできなかった。

 休み時間になるたび、他のクラスや上級生のイケメンが我先にとアピールしにくるんだもんな……。

 まあ進級して、それもだんだん少なくなっては来たんだが……。

 こんな一般人な俺が、アイドルに近づく機会などは全く訪れず。

 結局、一言も会話することもなく一年が経過してしまってしまい、現在二年の後半を迎えてしまったというわけだ。

 ……そして、最後に後輩にタカる俺。

 すごいな、人脈。

「知ってるよ、大崎五樹くん。一年生の時同じクラスだったよね」

「え」

 さらりと出てくる記憶に、思わず目を見開く。

 名前……覚えていてくれたのか。

「悠希くん、大崎くんのこととても楽しそうに話すんだよ。頼りになる先輩って大崎くんのことだったんだね。委員会でもすごく助けられたって喜んでた」

 悠希……ありがとう……!

 オマエは本当にできた後輩だ……!

「いや、なんていうか……モデルの仕事で忙しいのに邪魔してすみません」

「大丈夫だよ、今日は撮影ないんだ。それに、実は私……イトコのオマケでスカウトされただけだから。イトコの方は、断っちゃったんだけど……。だから、今のところはお仕事もそんなに忙しくないんだよ」

 照れたようにアイドルは笑う。

 イトコのオマケって……。

 どんだけ美人なイトコなんだよ……!

 それにしても、遠慮深いところも、大和撫子っぽくてぐっとくるよな……!

「それで……話って何かな?」

 慣れた様子で、俺からの言葉を引き出していく。

 きっと何度もこんな経験があるんだろうな。

「え……えっとですね……」

 せっかくアイドルが会話を振ってくれているのに、緊張して、再び何も考えられなくなっていく。

「っ」

 頑張れ五樹、ここで立ち止まってどうする!

 男にはひいてはいけない時があるんだ!

 俺は覚悟を決めて、アイドルと向かい合った。



 *一二月一九日 火曜日 下校



 「あー……さみい……」

 帰宅のピーク時間がとっくに過ぎた帰り道には、生徒はほとんどいなかった。

 帰宅部はもう家だろうし、部活をやっているヤツらは活動に勤しんでいることだろう。

 白くなる息を見ると、心まで寒くなってくる。

「心が凍っちまいそうだ……」

「いっちゃん、そればっかだね」

「俺は夏の男なんだよ……」

「夏かー。行きたいな、海……」

「そういうのは、まずは彼女をつくってからだろ……」

 男二人で行ってどうする。

「アイドル……田端さんが一緒に来てくれたら最高なんだけどな」

「あのねえ、理想のレベル高すぎ。そもそも、あんな美人がいっちゃんを相手にするわけないじゃん」

「言うなよぉ……」

 これでも、思い出さないようにしてんだ。

「フラれたの、そんなにショックだったの?」

「ああ……ん? いや、待て。誰がフラれたって?」

「ん」

 人差し指を鼻に突き刺してくる。

「バカ言ってんじゃねえよ! 連絡先交換断れただけだろうが!」

「似たようなもんじゃん」

「ぜ、全然違……!」

 ……くないか。

 再度突きつけられる現実。

 俺の心はぽっかり穴が開いているようだぜ……。

「てっきり、ただのミーハー心からだと思ってたんだけど……本気だったの?」

 綾人がドン引きした顔で見上げてくる。

「……ったりまえだろ」

 こんなにもアイドルを見るとドキドキして胸が苦しくなるのに……これが恋じゃないならなんなんだ。

「…………」

 何故か綾人の方が黙ってしまった。

 いつも元気のアホ毛まで下を向いている。

 まるで、捨てられた子犬のようだ。

 なんでコイツは、たまにこんなにも寂しそうな目をするんだろうな。

「いっちゃん……」

 しかしすぐに意を決したように、綾人はこちらを見上げた。

「な、なんだよ」

「そういうの、身の程知らずって言うんだよ」

「…………」

「いったーい!」

 気がついたら手が出ていた。

「オマエは! ひとこと! 多いんだよ!」

「だって、ホントのことだもんー!」

「なんだとー!」

 くそっ!

 ちょっとでも綾人のこと気遣った俺がバカだったぜ!

 すれ違った、犬の散歩をしている近所のマダムにまた笑われた。



 *一二月一九日 火曜日 就寝前



「ふう」

 風呂にも入り終わり、自分の部屋で一息つく。

 何も考えずにベッドでゴロゴロできるこの時間が最高に落ち着くな。

 なんだか、どっと疲れた一日だった。

「……ま、いろいろあったからな」

 田端さんの姿が走馬灯のように現れては消える。

 断られた時の笑顔でさえも、思い出すと胸が高鳴るぜ。

「…………」

 忘れろ五樹!

 この悲しみを次に繋げるんだ!

「頑張れ、俺……っ!」

 ギュッと目を瞑り、天井に向かって叫ぶ。

 ……言ってて空しくなってきた。

「うお」

 突然携帯電話から鳴るメッセージ音に、ビクッと肩が揺れた。

「誰からだ? こんな時間に」

『遅い時間にすみません。今日は色々とお疲れ様でした。今度合コンやる予定なので先輩も一緒にどうですか? 先輩の好みそうな子に、声かけときますよー!』

「悠希……!」

 気の使える後輩からのメッセージに、感嘆の声が漏れる。

 アイツは本当になんて素晴らしい後輩なんだ……!

 心も顔もイケメンなんだな……!

『気にしないでくれ。合コンの話、よろしく頼む!』

 すぐに返信する。

 がっついていると思われるかもしれないが、細かいことは気にしない。

 新しい出会いによって、古い傷もいつかは癒えるさ。


 コンコン。


 ひと段落ついたところで、窓ガラスを軽く叩く音がした。

「……またか」

 面倒くさいとは思ったが、渋々窓を開けてやる。

 冷たい空気が部屋に入り込み、カーテンを揺らした。

「ごきげんよう、いっちゃん」

 窓越しに手を振ってくる。

 コイツも毎晩こうやって話しかけてくる当たり律儀だよな。

「全然ごきげんじゃねえよ。もう寝るところだから、閉めるぞ」

「あーもー、待ってよー。せっかく落ち込んでるいっちゃんを慰めてあげようと思ったのにさ」

「残念だったな綾人。もう間に合ってる」

「え? どういう意味?」

「ついさっき、悠希から合コンの誘いのメッセージが来たのだ!」

 自慢したくて、メッセージ画面を見せる。

 しかし綾人は全く興味無さそうに、目を細めた。

「……現金だなぁ」

「何か言ったか?」

「べっつにー」

「ということで、今日はぐっすり眠れる。それじゃあな」

「あ……ちょっと……っ」

 慌てる幼馴染を遮り、俺は窓とカーテンをスマートに閉めた。

「さて、寝るとするか」

 俺は、まだ少し残っている傷を癒すようにベッドに横になった。

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