Ⅰ-Ⅰ 日常



 *一二月一八日 月曜日 自室



「おーい」

 ……耳元で、声がする。

 なんだ……?

 動けないことには変わりないが……。

 急に世界が変化したような、妙な感覚に包まれる。

 それに……。

 今度は身体全体が重いような……。

 まるで全身に何かがのしかかっているような、そんな重みを感じる。

「起きてよー、いっちゃーん。遅刻しちゃうよっ!」

 耳元でキンキン騒ぐ目覚まし時計のような声に、ようやく頭の覚醒が始まる。

 俺、大崎おおさき五樹いつきをいっちゃん呼びするのは一人しかいない。

「おい……綾人あやと

 俺はその声の主が、どうやって俺を起こそうとしているのかもよーく知っているのだ。

「てめえは、毎日、毎日……」

 寝起きの身体に渾身の力を込め、そして。

「……重いんだよっ!」

「わっ」

 思い切り上体を起こす。

 案の定、上に乗っていたヤツは、まるでぬいぐるみのように簡単に吹っ飛んだ。

 ドサッと何かが落ちる音がして、それと同時に床から抗議の声が聞こえてくる。

「いったー! ヒドイよ、いっちゃん!」

「ヒドイじゃねえよ! 人の上に乗るな!」

「だって、いっちゃん起きないんだもん!」

 情けない表情をしている幼なじみの月島つきしま綾人あやとを見て、俺は小さくため息をついた。

 床に落ちたときに頭をぶつけたのか、座り込み、額を撫でながら恨めしそうにこちらを見ている。

 窓から差し込む太陽の光が、綾人の赤みがかったボブ丈の髪を更に明るく照らしていた。

 高校二年生にしては、まだあどけなさが残る顔。

 寝癖なんだかアホ毛なんだかが、頭頂の髪がぴょこぴょこ揺れていた。

 コイツは本当に昔からやることが変わらない。

 つーか……高校生にもなって、毎日人の家に起こしに来るってどういうことだよ。

「……母さんは?」

 少し固めのベッドから起き上がり、伸びる。

 目に入ってきたのは、いつもと同じ。

 一軒家の中にある、余計なものは何一つ置いていない八畳のシンプルな洋室だ。

 変な夢を見たからか身体が固まっているようで、骨がパキパキと鳴った。

 どんな夢だったっけ……。

 誰かを探していたような気がするんだけどな……。

 あまり良く覚えていない。

「今日から金曜日まで、出張だって」

「あー……」

 そういや、そんなようなこと言ってたっけ。

 綾人の言葉で、最後に交わした母親との会話を思い出した。

 俺の母親はどっかの会社の研究者だかで、日本国内外問わずあちこち飛びまわっている……らしい。

 五年前くらいに父親と正式に別れてからは、それにさらに拍車がかかっているようで。

 ほとんどといっていいほど、何日も家に帰らない日が続いていた。

「他に男でもいるんかな」

「いっちゃん、やめなよー。いっちゃんのお母さん、そういうの全然興味ないと思うよ?」

 ぷーっと顔を膨らませて、綾人が反論した。

 よく伸びる頬だ。

「そうか? 別に、俺は再婚しても全然構わねえんだけど」

「そういうこと言わないの! 今回の出張も、いっちゃんが一人なの心配だからって……」

 綾人は、ゴソゴソと制服の両サイドについたポケットに手を突っ込む。

 上下共に茶色……じゃなくて、薄いキャメル色をした指定の学ランだ。

 わりと有名なデザイナーが設計したものらしいが、詳しいことは忘れた。

 綾人の場合は、未だに制服に着られている感が抜けていなかった。

 もう少し背が伸びるだろうと、大きめを買ったんだろうな。

 見事に目論見が外れたようで、可哀想に。

「ほら見て。いっちゃんのお母さん、ボクに鍵、預けてくれたんだよ? いっちゃんに戸締り任せるの、心配なんだって」

「あのババア……」

 だからコイツは、俺しかいないはずの家に易々と侵入できたのか。

 そもそも母さんは普段だって、ほとんど家に帰ってこないんだ。

 国内だろうが海外だろうがいないことには変わりないんだから、綾人に鍵を渡す必要性がどこにあるんだよ。

「何ブツブツ文句言ってるの? そんなことよりさ、ほらほら! 早く着替えてっ」

 遅刻しちゃうよと、続ける。

「うわっ! 押すな、バカ綾人っ!」

「はいはいっ」

 人の言葉を無視して手を引っ張っていく。

 平均よりも小さめのくせに、俺を引く手はなかなかしっかりしていた。

「ご飯はリビングに用意してあるよっ! 早く学校行こっ」



 *一二月一八日 月曜日 登校



「うー、寒いねぇ……」

「そりゃ、冬だからな」

「それはそうなんだけどさあー」

 日本のどこにでもありそうな閑静な住宅街。

 学校への道のりは歩いて二〇分程度だったが、寒さが厳しいと予想されている今年の冬は、数分歩いただけではなかなか身体が暖まってこない。

 俺の隣を歩く、我慢という言葉を知らない幼馴染から、自然への不満の声が漏れた。

 冬休みを直前に控えた一二月一八日だ。

 この一週間が終われば、バタバタとした年末年始のイベントが慌ただしく押し寄せてくる。

「この時期って面倒くさいだけだよな」

「いっちゃんって、現実的っていうか、ロマンがないよねえ」

 小馬鹿にしたように綾人が見上げてくる。

 一発殴ってやろうかと思うが、大人げないのでやめておくことにする。

 なんだかんだコイツの頭は、身長差的に叩きやすい位置にあるのだ。

「そりゃあ彼女でもいれば、イベント目白押しの楽しい時期だろうよ」

「まあまあ。彼女いれば幸せってわけじゃないからさ」

 それはまあ、確かに。

 綾人なんかに宥められてしまった。

「さて。そんな夢も希望もロマンも彼女もいない、いっちゃんに朗報です!」

 綾人は小走りに、すぐ目の前にあった古びた電柱に近寄ると、そこに貼ってあるチラシを指差す。

 それは、近くの教会で行われるクリスマス会のお知らせだった。

「そういや、もうすぐクリスマスか」

「そうだよ、そうなんだよー!」

 どうやら、綾人はそれが言いたかったらしい。

 高校二年生にもなって、クリスマスにはしゃぐ幼馴染が俺には眩しいよ。

「あのね、あのねっ。今年のクリスマスイブも残念ながら、いっちゃんとは一緒にいられないのです」

「よっしゃ!」

「なんで喜ぶんだよぉ……」

 泣きそうな声を上げる。

 我が幼馴染ながら、昔からあまりにも変わらないコイツの行動に将来が心配になってくる。

「今年も教会へ出かけるのか?」

「うん! 今週の日曜日一二月二四日は、これに参加するんだ」

 えへんと、得意げな顔をして胸を張る。

「ボク、今年も劇に出るんだよ。緊張しないように頑張る!」

「へえ……木Aとか、草Cとかの役か」

「ちょっと! 今年は違うもん!」

 コイツの言う教会というのは、これから向かう学校を超えた先にある、商店街の端っこにある教会のことだ。

 意識せずに歩いていると、そのまま通り過ぎてしまいそうなほど存在感がない。

 普段からまるで人の気配もなく、まるで心霊スポットのような建物だ。

 しかしこの時期……クリスマスが近くになると途端に訪れる人が増え、活気づいてくる印象があった。

 その教会のすぐ横には児童養護施設もあり、たまに交流を図っているらしい。

 綾人はその施設の出身のため、幼い頃から何かとその教会とは縁があった。

 今の両親に引き取られた後も、たまに教会と施設に遊びに行っているらしい。

 毎年、その二つの施設の交流会を兼ねて演劇をやるらしいのだが……。

「今年はすごい役貰えたんだよねー! なんと主役!」

「…………」

「何さ、その顔」

 幼馴染の口から飛び出した言葉に、俺の口はいつの間にか開いたままになっていたらしい。

「い、いや……オマエを大役に持ってくるなんて、教会の関係者はとんでもない博打行為に出たな……と」

「失礼だな、もう!」

 顔を真っ赤にしてポカポカと叩いてくる。

 全然痛くないが。

「つーか、なんでクリスマス会なのに一二月二四日なんだ?」

 教会なら普通、二五日じゃないのか?

「やだな、いっちゃん。細かいことは気にしないものだよ。いろいろ事情があるんだよ、曜日とかさ」

 そういえば、今年の一二月二五日は月曜日だ。

 確かに人を集めるには不向きな日取りではある。

「神父さん、逆に二五日は忙しいって言ってたよ」

「まあ、海外ではそっちがクリスマス本番だからな……たぶん」

 なぜか日本では二四日の方が盛り上がっているが。

「そうそう。だからさ、日曜日だし、たくさん人が来ると思うんだ。でもま、昨日森の教会で練習もしたし、完璧だよ!」

 綾人は一人、うんうんと頷いているが……。

「ちょっと待て」

「え?」

「オマエ、今、森の教会って言ったよな? もしかして旧教会に行ったのか?」

「あ……やば」

 綾人は動きを止め、慌てた様子で自分の口を塞ぐ。

「え、えっとねえ……あ! 違う違う、昨日じゃないや。昨日ではないんだよ」

「なら、いつ行ったっていうんだ?」

「えーと……あ……うーん……。こ、これから……?」

「あーやーとー」

 このやろう……適当に誤魔化しやがって。

「あ、あはは。き、聞こえないもーん」

 そう言って綾人は耳をふさぎながら、逃亡を図る。

 何かしら感情の変化があると、耳をふさぐのが綾人のクセだった。

 だがしかし、足は俺の方が速い。

「わ」

 あっさり捕まえられたので、次は逃げられないように首根っこを掴んでおく。

 綾人は咥えられた子猫のように大人しくなった。

「あの教会はガタがきてて、危険だから行くなって言っただろうが!」

「だ、大丈夫! ちゃんと携帯、持ってった!」

「そういう問題じゃない!」

「ふええ、いっちゃんごめんー!」

 わざとらしく謝ってくる。コイツ、絶対反省してないな。

「だって、大事なクリスマス会だしさー。失敗するのやだし……」

 綾人はそう言ってこちらを見上げる。

 確かに、クリスマス会はコイツにとって特別なものだってことは知ってるけれど……。

「あ。だから、いっちゃん! その日は遊んであげられないけど、寂しがらないようにね。もし会いたいなら、夜早めに帰ってきてあげないこともないよ?」

「いや、それはどうでもいい」

「なんだよそれっ!」

 開放された綾人が、ぶつくさと文句を言いながら後ろからついてくる。

「ほら、遊んでないでとっとと行くぞ」

 他愛もない会話で時間を潰す、そんないつもの登校風景。

 いつの間にか、学校はすぐ目の前だった。



 *一二月一八日 月曜日 教室



「わ。遅刻ギリギリ」

 俺と綾人はホームルーム開始の予鈴と共に教室に滑り込んだ。

 教室はとっくに人が集まっていて、各自おしゃべりを楽しんでいる。

 俺達が通う柊明しゅうめい高校は、とりたてて勉強ができる訳でも、何か突出したものを持っているわけでもない、極めて平均的な生徒が集まる高校だ。

 特徴がないのが特徴の高校と、自虐している。

 それでも一部の生徒の活躍により、いくつかの部活は全国区だったりはする。

 そのおかげでスポーツ推薦なるものも存在するが、ほとんどは一般受験で入ったヤツらばかりだ。

「いっちゃんが、もっと早く起きれば余裕なのに。どうせ夜更かししてたんでしょ」

 ジトーっとした目で綾人が睨んできた。

 ……バレたか。

 いや、バレるも何も。

 家が隣同士な上に、部屋の窓を開ければすぐにコイツの部屋だから、深夜まで起きているのひと目で分かるんだよな。

 俺にはプライバシーというものはないのか。

 口うるさいヤツが隣に住んでいると、ものすごく不便だ。

「いやー、まさか風の魔法がなければ先に進めないなんて、思わなかったぜ。ちなみにやり方としては、風の力を利用して、武器の飛ぶ威力を上げて……」

「この前買ったゲームの話でしょそれ。そんなことばっかやってるから、テストで赤点取るんだよー」

「ぐ……」

 反論できない。綾人のヤツ……言うことがまるで母親のようになってきたな……。

 一瞬負けを認めるが、いや待て。

「おい、綾人。オマエだってこの前、赤点――――」

 綾人に言い返そうとしたその時だった。

「相変わらず、仲がいいな」

 凛とした声が背後から聞こえてきた。

「おはよう。大崎、月島」

 振り返ると、すぐ後ろにクラスの学級委員長が立っていた。

 上野うえのれん

 話し方通りのしっかりもので、うちの高校の弓道部のエースでもある。

 全国区で活躍する部活に所属する、数少ない生徒の一人だ。

 武道を嗜んでいるだけあり、その立ち姿はとても綺麗だ。

 そして切れ長の目に、俺よりも少し低めの身長と細身の体躯。

 また、肩甲骨まである髪を後ろで一つに縛っていることで、少しだけ女性らしい印象を受ける。

 本人に言ったら怒られそうだが。

 肩書きだけなら、俺達が近づけないほどすげえヤツなんだけど……。

 雰囲気や物腰が柔らかくて、話しやすいんだよな。

「よお、委員長」

「あ、お、おはよう……っ」

 綾人の挙動が少し不審になったが……。

 いつものことなので放っておく。

「ああ、おはよう」

 にこりと、物腰柔らかな表情を返してくれる。

 学級委員長という役職を決して鼻にかけることなく、一友人として接してくれているのが分かる。

「二人とも、遅刻……ではないが、もう少し時間に余裕を持って行動した方がいい。そろそろ、内申に響く時期になってきたからな」

 困ったように委員長は続ける。

「すまない……あまり、個々のそういったことに口出しをすべきではないとは思うのだが……。やはり、委員長としての立場もあってな」

「謝る必要なんかないさ。オマエは正しいこと言ってるよ」

 これ以上委員長の困り顔は見たくないため、全面的にその行動を肯定する。

 委員長がこういう表情してると、助けてあげたくなるんだよな。

 これが人徳というヤツだろうか。

「遅刻しそうな生徒に注意するのは、学級委員長として正しい姿だと思うぜ?」

「そう言ってもらえると助かる」

 委員長は心底安心した表情になった。

 こうやって人のことを気遣えるのも、委員長のいいところだよな。

 謙虚なところも、好感が持てる。

「それじゃあ、ホームルームなので席に着くように」

「おう」

 俺と綾人は委員長に促され、自分達の席に向かう。

 綾人は、教室後方からニ列目の窓際の席。

 そして俺は……その右隣。

 こんなところまで隣だなんて、小さい頃からの腐れ縁が過ぎるんだよなあ。



 *一二月一八日 月曜日 ホームルーム



 チャイムが鳴り終わると同時に、教師が教室に入ってきた。

 あまり手入れの行き届いていそうにない、白髪交じりの黒髪をしたクラス担任だ。

 秋頃から、産休の先生の代替えでやってきたのだが、特に口うるさいことも言わないため、生徒達からは可もなく不可もなくといった評価だった。

 身長は高めなのだが、いつも猫背で気だるげな表情をしている。

 科学担当なのだが、授業内容もただ教科書通りに進めていくだけというもので、そこからは一ミリのやる気も感じたことはない。

 毎日同じ仕事をやるなんて飽きるだろうな。

 社会人になったことはないが、教師に少し同情する。

 窓の外を見ながら、そんなどうでもいいことを考えていると……急に、クラス全体がざわめきだしたことに気付いた。

 何事かと、俺は視線を教壇に戻す。

「あー……本当に突然なんだが、転校生を紹介する」

「は……?」

 いつもとは違う、少し焦りを含んだ教師の声。

 いやいや、転校生って……今、一二月の後半だぞ?

 なんだってこんな時期に……。

 どうやらクラス中、思っていることは同じようだ。

 教室のあちこちから、好奇心を含んだ声が上がっている。

 ……そんなことを知ってか知らずか。

 静かな足音と共に、渦中の転校生が教室に入ってきた。

「…………」

 その転校生の姿を見た瞬間……思わず息を呑んだ。

 人形――――俺の頭の中に、一番初めに浮かんだ感想だ。

 身長は俺と同じくらいだが、足の長さは負けていそうな気がする。

 髪はサラサラしていて、綾人よりも少し襟足部分が長め。

 色素が薄い感じだった。

 それよりも一番目を惹くのは、その整った顔の造形だ。

 まるで、一つ一つ丁寧に造られた洋風の人形のようだった。

 なんとなくだが、どこか日本人離れしているような気もする。

 本当に同じ人間なのかと疑いたくなるほどに、完成されている中性的な顔立ち。

 そして、身にまとう不思議な雰囲気。

 その人物の登場に、クラスのざわめきはピークに達する。

 急な転校だったのか、制服すら……多分、前の学校のものだ。

 紺色のブレザーと、同系色のチェック柄が入ったスラックス。

 確か、この近くにある同じ公立校のものだったような気がする。

 茶色の学ランが指定の制服であるこの高校では、違いが目立つ。

 どこをとっても話題性抜群な転校生だった。

「ん……?」

 ふと視線を下に移すと、真っ白な手が制服の袖口から覗いていた。

 いや、手にしてはあまりにも白過ぎる。

「手袋……?」

 袖口から見えていたのは、素手ではなかった。

 転校生は、両手に真っ白な手袋をはめていたのだ

 制服とのアンバランスさで、妙にその存在が浮き出てしまっている。

 潔癖症……なのだろうか。

 こんな時期の転校生ということもあり、まさにミステリアスという言葉がぴったりだった。

「それじゃあ……ああ、自己紹介でもしてもらおうか」

 教師がたった今、思いついたであろう言葉を口にする。

 転校生の扱いに不慣れな様子がすぐに見て取れた。

 それとも、急な転校生に動揺しているのだろうか。

 いや、それでも一応教師なら、事前に分かっていることだよな?

「……渋谷しぶやあいです。よろしく」

 静かな声でそう言うと、転校生はそそくさと指示された席に移動していった。

 その無愛想さが、いっそ清々しい。

 新しい学校にも、クラスにも、一切興味がないようだった。

 俺とは遠く離れた位置にある、廊下側前方の席に静かに座る。

 ここからは背中しか見えない席だった。

「わー、すごいね! ボク、転校生って初めてだよ」

「ってことは、俺もそうなるな」

「そうだね!ボク達、ずっと一緒だもんね」

「……改めて口にするな」

 気恥ずかしさに、幼馴染を軽く睨んでおく。

「…………」

 俺は再び転校生の方を見る。

 季節外れの転校生、か。

 珍しいこともあるもんだな。



 *一二月一八日 月曜日 午前授業中



「ねみい……」

 二時限目の授業が始まる頃には、すっかり転校生に興味がなくなっていた。

 転校してきたのが女の子ならまだしも、無口な男だもんな。

 どんな事情があろうが、正直どうでもいい。

 しかもちょっと顔が整ってるからって、休み時間は女子達に囲まれやがって。

 ……べ、別に羨ましいわけじゃないぞ!

「ねえねえ、いっちゃん」

 すぐ隣の席から、綾人が話しかけてくる。

「なんだよ……今、授業中だぞ」

「うわ、いっちゃんがそういうこと言うんだ。ぜんっぜん違うこと考えてたくせに」

 綾人は心底驚いた顔をする。

「な、なんでそんなこと分かるんだよ」

「いやあ、いっちゃん分かりやすいし」

 ……失礼なヤツだな。

「で、何の用だよ」

「あ。ううん、特に用はないんだけど……」

「……おやすみ」

「えー」

「うるせえな、授業中だっつってんだろ。怒られるだろうが」

「うう……ごめん。んーとね……あ、そうだ。いっちゃんはさ、あの転校生のこと……どう思う?」

 コイツ、思いつきの質問してやがるな。

「どうって?」

「ほら、季節外れの転校生でしょ。なんか、意味ありげじゃない?」

「そうか? 親の都合とか、そんなんだろ」

「いっちゃん、ノリ悪い~……」

「そういうオマエは、どう思うんだよ。あの転校生のこと」

「え? ボク?」

 綾人はうーん……と、少し考えて。

「イケメンだと思う」

「そうかい」

 綾人とつまらない話していたら、いつの間にか俺は睡魔に負けていた。



 *一二月一八日 月曜日 昼



「ごっはんー! いっちゃん、そこ半分開けてーっ!」

 四限目のチャイムが鳴るや否や、綾人が人の机の占拠を始めた。

 机の上に広げてある教科書やノートを、雑にまとめて端の方へと寄せる。

「おい綾人、てめえ人の陣地に――――」

「はい。これいっちゃんの分」

「え」

 ぐい、と。

 弁当の包みらしきものを押し付けられる。

「いっちゃんのお母さんが帰ってくるまでの一週間は、うちでいっちゃんの食事の面倒見るので」

「……よし。オマエに机の三分の二のスペースを与えよう」

「ええー……別に半分でいいよー」

「遠慮するな。ほんのお礼だ」

 早速弁当の包みを開いてみる。

 水色を基調としたチェック柄の弁当包みの中に、こちらもシンプルなデザインの弁当箱が入っている。

 いかにも男子向けという感じの大きさだ。

 教室の好きなところで散らばって食べている女子のそれよりも、二回りほど大きなグレーの箱。

 サイドについたロックを外す。

 トマトとブロッコリーのサラダに、唐揚げ。

 アスパラのベーコン巻きに、自家製のふりかけがかかった白米。

 そして焦げ目一つない、ふわふわの卵焼き。

「めちゃくちゃちゃんとした弁当だな。相変わらずおばさん、料理うまいな」

「そうかな?」

 キョトンとした顔を返される。

「オマエ、いつも俺が食べてる昼飯知ってるだろ」

 購買のパンか、カップ麺だ。

 朝はいつも遅刻ギリギリのため、コンビニに寄ってくる時間はない。

「いっちゃん、自炊すればいいのに」

「やだよ、めんどくせえ」

「うーん……それじゃあ、ボクがひと肌脱いで教えてあげようか?」

「いや、オマエの料理は人間が食えるもんじゃないだろ」

「なんだよ、もーっ! 昔ちょっと失敗しちゃっただけでしょ!」

「作った料理と味見しないで直接渡す神経のヤツに、教わることなど何もない」

「ぐ……」

 綾人は悔しそうに口を閉ざす。

「ん?」

 ふと、教室から出ていく委員長の姿が目に入った。

 手には少し大きめの紙袋を持っている。

 そういや、いつも昼には姿が見えないな。

 どこか別の場所で食べるのだろうか。

「いっちゃん? どしたの?」

「……いや、なんでもない」

 ま、委員長のことだから心配することはないか。

 俺は月島家の唐揚げにかぶりついた。



 *一二月一八日 月曜日 放課後



「今日の授業はおしまーいっ」

 チャイムが鳴ると同時に、俺の席の前にやってくる律儀な幼馴染。

 窓の外は、すっかりオレンジ色に染まっていた。

 やはり冬は暗くなるのが早い。

 木々を揺らしている風は、朝よりもずっと冷たそうだ。

「今日は何して遊ぶ?」

 授業中の死んだ目はどこに行ったのか。

 まるで夏休みが始まる前の小学生のように、ワクワクしている。

「なんでもいい」

「それじゃあ、マスド行こうよ! 新作のホットココア飲んでみたい!」

「女子か」

 マスドとは安価で楽しめる有名ハンバーガーショップのことである。

 学校から歩いて一五分程度の駅の入口付近にあるため、放課後はたまに寄って、空いた小腹を満たしていた。

 綾人のお気に入りチェーン店の一つである。

「えー。いいじゃんーっ!」

 横で騒いでいる綾人は無視。

 俺はとっとと荷物をまとめ、教室の出口へ向かう。

「あーっ! 待ってよーっ」

 幼馴染は放置して、廊下に出る。

 綾人のことだから、すぐに追いついてくるだろう。

「さて、と……」

「五樹先輩!」

 廊下に出た瞬間、聞いたことのある声に名前を呼ばれ立ち止まる。

 放課後特有の喧騒にも負けず、その声はすんなりと俺の耳に入ってきた。

「ああ。悠希ゆうきか」

 廊下で、見知った後輩と鉢合わせた。

「五樹先輩、もうお帰りですか?」

「まあな」

 前髪を揺らす風と共に俺の前に現れたのは、駒込こまごめ悠希ゆうきだった。

 一つ下の後輩で、メンズなんとかっていう雑誌のモデルをやってるらしい。

 その甘いマスクの象徴であるタレ目を細め、柔和な笑みをこちらに向ける。

 色を抜いても全く痛みのない綺麗な金色の短髪が、再びサラリと揺れた。

 そこから見えるのは、いつも付けている銀色のピアス。

 身長一七八センチ、体重六三キロ、血液型はAB、趣味サッカー。

 出会った当初に渡された、雑誌の新人モデルインタビュー記事に載っていた。

 今年の前期、たまたま同じ委員会をやっていただけなのだが、何故か俺を気に入ってくれたようで、廊下などで会った際は向こうから話しかけてくれるようになったのだ。

 こんなにも図体がデカいくせに、まるで子犬のようなヤツだ。

「もー! いっちゃん! やっと追いつい……あ、悠希くん」

 すぐに綾人が後ろからやってきたが、悠希を見つけるや否や、一歩下がったところに立った。

 後ろに隠れないだけ、だいぶマシになったな。

「綾人先輩、こんにちは」

「あ、こ……こんにちは」

 一言発しただけで、すぐに綾人は俺の後ろに隠れようとする。

 やっぱり駄目じゃね―か。

 人見知りが過ぎる幼馴染に、俺は頭を悩ませる。

「悠希、どうしたんだ? こんなところにくるなんて珍しいじゃねーか」

 ここは校舎の二階、二年生の教室棟だ。

 一年の教室は一階だから、あまりここで悠希と会った記憶はない。

「モデルの仕事が突然入ったんです。でも今日は放課後もサッカー部の助っ人頼まれてること思い出しまして。だから、仕事場に先に行ってもらおうと思って、さっき桃香ももかちゃんにメッセージ送ったんですけど……。気付いてないみたいだから、直接伝えるためにここまで来ちゃいました」

 今月発売したばかりの最新機種を持った後輩から、既読マークが付いていないメッセージ画面を見せられる。

「…………」

「どうしたんですか五樹先輩。めちゃめちゃ顔が怖いですけど」

 眉間にシワを寄せた俺の顔を見て、後輩の目が見開く。

「桃香ちゃん、ねえ……」

 イケメンで、モデルで、運動神経抜群で、特に陸上ではその足の速さは全国レベル。

 サッカー部の応援まで頼まれる、完璧超人。

 そのうえ……!

「俺だって『田端たばたさん』呼びなのに……オマエは、オマエというヤツは……っ!」

「あ……」

 悠希はしまったと言わんばかりの顔で、くるりと思い切り視線を外す。

 しかしさすがはモデル。

 まあまあ……と、その有料スマイルで宥めようとしてくる。

 でも俺は許さないぞ。

 俺の……いや、学校のアイドルである隣のクラスの田端たばた桃香ももかさんを、馴れ馴れしく名前で呼ぶなど言語道断だ。

 あ、ちなみに田端さんもモデルをやっているらしい。

 可愛いから、当然と言ったら当然だけどな。

「しかも、オマエ後輩だろうが!」

「うーん。でも桃香ちゃんのこと、年上とか意識したことないんですよね。桃香ちゃんは幼馴染みたいなもので……」

「幼馴染……!?」

「あれ。言ってませんでしたっけ? だから桃香ちゃんは、昔から桃香ちゃんなんですよね」

「お、俺の幼馴染はこんなのだというのに……」

「失礼しちゃうな、もう!」

 綾人が後ろから蹴ってくるが、そんなの気にしちゃいられない。

 イケメンの上に、幼馴染が学校のアイドルなんてどんな設定だ。

「悠希、ちなみにオマエの彼女ではないんだよな!?」

「違いますよー。異性として意識したこともないです」

 え、あんなに可愛いのにそんなことあり得るか?

 頭の中にハテナマークがいくつも浮かぶが……。

 ふと、とんでもなくいいアイディアが頭の中に現れた。

「悠希!」

「は、はい?」

 俺は改めてその長身イケメンの肩を掴む。

「あのー……つかぬことをお訊きするのですが」

「はい」

「アイドルを俺にかるーく紹介してくれる、なんてことは……」

 可能でしょうか、と。

 上級生というプライドを投げ捨て、俺は深々と頭を下げる。

「え。そんなことでいいなら全然……」

「ほらほらー悠希くん困ってるから早く帰るよー」

「うお」

 突然、両足の力がカクンと抜ける。

 しびれを切らした綾人が、今度は膝裏に蹴りを入れてきたらしい。

 体制を崩す俺の腕を掴み、ズルズルと懇親の力を込めて引きずっていく。

 体重差があるというのに、なかなかやるなコイツ……いや、褒めている場合じゃない。

「こ、こら綾人! まだ話は……!」

「さーて。ココア~、ココア~」

「綾人てめえ……っ」

 呑気な顔をした幼馴染は、楽しそうに鼻歌なんか歌っている。

 そもそも、誰がオマエとマスドに行くって言ったんだ。

「おふたりとも、さようならー! お気をつけてー!」

 遠くから風に乗って聞こえる悠希の声。

 綾人に引きずられるという情けない姿のまま、俺は悠希の前から退場していった。



*一二月一八日 月曜日 下校



「んー! あったかくておいしい!」

 マスドのココアを飲みながら、綾人は自分の頬に手を当てる。

 ホッと息をつくと、温められた冬の空気が白く染まっていく。

 空の夕焼けは、いつの間にか紫色に変化し始めていた。

 夕方の住宅街。

 通学路の途中にある小さな公園からは、楽しそうに遊ぶ子供の声が聞こえてくる。

 

 あのあと綾人に引きずられたまま駅前のマスドに入り、ココアをテイクアウトした。

 さすが新作だけあり、店内はそれを求めた客で比較的混んでいた。

 しかし特に売り切れることもなく、無事に購入することができたのだ。

「つかれた」

「え? ごめん、聞いてなかった。いっちゃんも飲みたいの?」

「……いらん」

 綾人に向かってシッシッと手を降る。

 そんな甘いもの、飲めるか。

「なんだよー、ちょっとオトナ舌に進化したからって。小さい頃、こういう寒い日にはよく二人でココア飲んであったまったじゃん」

「さあな。忘れた」

 俺に軽くあしらわれた綾人は、ムスッとした顔で押し黙る。

 小さい頃ねえ……。

 綾人に言われたことを、ふと考える。

 そういや、甘いモノが苦手になったのはいつからだっただろうな。

 いつの間にか変わっていることに、気づかないことが増えた気がする。

「ん?」

 その時、何か黒いものが視界の端に入った。

 気になって、目線だけでそれ追う。

 住宅と住宅の間にある細い道。

 その真ん中をポテポテと歩く黒猫の姿があった。

「なんだ猫か」

 この辺りは飲食店はあまりないため、野良猫は少ない。

 近所で飼われているのだろうか。

 野良のわりには、身体は丸々としている気がするが。

 猫が向かう先を見てみる。

 細い道の先に、見覚えのある人物が立っていた。

 スラリとした身体にまとった、この辺りでは珍しい紺色のブレザー。

 風に靡く髪の毛が鬱陶しいのか、真っ白な手袋で、それをかき上げる。

「アイツは……」

 今日やってきた転校生だ。

 ええと、名前、なんだったっけ。

「…………」

 頭の中で名前を思い出そうとしていると、転校生と目が合ってしまった。

 その造り物のような顔立ちに、ドキリと胸が鳴ったのが分かった。

 なんだか気まずくなって、こちらから慌てて目をそらす。

 しかし転校生は、何も無かったかのようにすぐに踵を返し、細い道を奥へと進んで行ってしまった。

「うわ、なんか気まず……」

 あからさまに無視せずとも、少しくらい何かしら反応を返してくれてもいいものだと思うが。

 いや、でもアイツ、教室でも誰に対してもそうだったからな。

 新しく入る人間とは思えないくらい、無愛想な態度を思い出す。

 もしかしたら、他人に興味がないのだろうか。

 まあ……それなら、こっちが気を使ってやることもないのかもしれない。

「どしたの?」

 綾人が背後から覗き込んできた。

「誰もいないじゃん」

 どうやら少し目を離したスキに、更に奥へ行ってしまったらしい。

「別に、何もねえよ」

 なんだかスッキリしない気持ちを込めて、綾人の頭を軽く叩いておく。

「いったー!」

 さっき悠希と話していた時に蹴ってきた仕返しだ。

 今思い出した。

「そんなに痛いわけないだろ。ほら、早く帰るぞ」

「う、うん……」

 半べそをかいている綾人を連れて、俺は自宅へと歩く足を早める。

 犬の散歩をしている近所のマダムが、じゃれ合う俺達を見てクスリと笑った。



 *一二月一八日 月曜日 夕食



 窓の外はすっかり暗くなっていた。

 家の中には俺しか居ない。

 上下黒色のスウェットに着替え、リビングの二人がけソファの真ん中に座り、テレビゲームしていた。

 綾人が朝言っていたゲームである。

 飛び抜けて面白いわけではないのだが、家で時間を潰すにはもってこいだった。

 特に部活やバイトをやっているわけではないため、ちゃんとした学生生活を送っているヤツらよりもヒマなのだ。

 時間を確かめるため顔を上げると、天井にある照明が、掃き出し窓に映っているのが見えた。

 そろそろカーテンを閉めなければ、家の中が丸見えになってしまっている。

 俺は重い腰を上げると、厚手のベージュのカーテンをサッと閉めた。

 ちなみにうちのカーテンは、全てこの色で統一されている。

 この家を買った時に、部屋に合わせて色を選択するのが面倒くさかったらしい。

 そんな面倒くさがりの母さんがメインで購入した家のため、この家はどこにでもある建売住宅の造りだ。

 一階は二〇畳ほどのリビングダイニングが一部屋、そして風呂と、トイレ。

 二階は俺と母さんの部屋が各一部屋ずつと、誰も使っていない部屋が一つ。

 母さんの部屋というよりは、母さんが買ってきたものをそのまま放置するための物置部屋になっている。

 誰も使っていない部屋は、多分父さんの部屋だったんだろうな。

 結局家を買って数年後に離婚したのだ。

 家事全般をやってくれていた父さんがいなくなり、インテリアを増やすという趣味を持つ者もいないため、各部屋にあるものはいたってシンプルだ。

 部屋を装飾するものは一切ない。

 あとは少し広めのウォーキングクローゼットが階段横すぐに備え付けられているくらいか。

 一軒家のリビングは、一人でいるには少しだけ広く感じた。


 全てのカーテンを閉め終えたところで、インターホンが鳴る。

「やっほー、いっちゃん! 夕ご飯持ってきたよー!」

 応答のボタンを押せば、綾人のやかましい声が聞こえてきた。

 今朝の注意が功を奏したのか、綾人は合鍵を使って勝手に入ってくることを辞めたようだ。

 よしよし、ちゃんと学習したな。

 夕飯も持ってきたらしいし、玄関の鍵を開けてやろう。

 俺はリビングから玄関へと繋がるドアへ向かう。

「あー、寒かった」

 俺が手をかける前に、ガチャリとリビングの扉が開いた。

「なんで俺が出る前に、家の中に入ってくるんだよ!」

「ええー……だって寒いんだもん」

 ダイニングテーブルに、夕食の乗ったトレーを置くと、両手をこすって温める。

 綾人も制服から、真っ白い大きめのパーカーと、シンプルなジーンズ姿になっていた。

 入る前に一声かけたでしょと、まるで悪びれた様子はない。

 本当にコイツは、俺に対しては遠慮ないくせに、どうして他の人間に対してはあんなに消極的なんだよ。

「何々ー?」

 じっと幼馴染を見つめていると、きょとんとした目で見つめ返してくる。

「いや、なんでもない」

 諦めた。

 コイツは昔からそうなんだ。

 今更その人見知りがなんとかなるかなんて、考えるだけ無駄なんだ。

「腹減った。早く飯にしようぜ、用意しろ」

「サーイエッサー!」

 まあ……こんな風に上から目線で対応しても、気にしないところは少し可愛げがあるよな。

 ……本当に少しだけな!



 *一二月一八日 月曜日 就寝前



「あー……すっきりした」

 風呂に入り、洗濯を終わらせ、自室でくつろぎながら携帯電話のチェックをする。

 俺の部屋も至ってシンプルで、目立つ家具といったらベッドと勉強机、そして備え付けのクローゼットくらいか。

 部屋にはテレビがないため、この部屋でゲームをするときは、下のゲーム機を引っこ抜いて携帯機として利用している。

 そしてそのまま寝落ちするのがいつものパターンだ。

「何も来てないな」

 まあ、頻繁に誰かと連絡を取る方じゃないからな。

 そもそもクラスメイトの連絡先もあまり知らないし、必要な用事は電話で済ませることの方が多い。

 そっちの方が手っ取り早いしな。

 

 コンコン。

 

 ベッドのすぐ横にある窓ガラスを軽く叩く音がした。

 こんな時間にこんなことをするヤツは一人しかいない。

 この部屋には窓が二つあるが、ベッド側の窓はアイツの部屋と向かい合っているのだ。

 一呼吸おいて、リビングのカーテンと同じデザインのカーテンと窓を開いた。

 冬の冷え込んだ空気が、一気に部屋に入り込んでくる。

 せっかくエアコンで温めた空気が、一瞬にして冷えてしまった。

「やっほー」

 そいつは寒さなど平気そうに、開いた窓から手を振ってきた。

 綾人も寝る直前だったのか、薄桃色のパジャマ姿になっている。

 コイツは用があると……いや、無くてもこうやって窓を叩いてくる。

 いくら家が隣同士だからって、そりゃないだろ……と思うわけだが。

 ちいさい頃はよく、窓を飛び越えてお互いの家に入り込んだりもしていた。

 夏休みなんかはしょっちゅう、一緒に夜更かししたりしたもんだ。

 それが、つい最近のことのように感じる。

「何か用か? 俺は特にないぞ」

「ボクも特に用はないよ」

「……おやすみ」

「ち、ちょっとぉ……」

 綾人は慌てて、窓を閉めようとする手を阻止しようとする。

「んだよ、用はないんだろ」

「そうだけどさあ。んー……それじゃあ、綾人さんのちょっと勉強になった話を聞いてよ」

「…………」

「まあまあ、そんな嫌な顔しないでさ」

 綾人はにこにこと笑いながら、話を続ける。

「昨日さあ、泡で出てくるハンドソープの入れ物にね、間違えて普通の液体ハンドソープ入れちゃったんだよ」

「本当にアホだな、オマエ……」

「そしたらさ、どうなったと思う? ポンプがめちゃめちゃ固くなるわ、濃厚な液体と泡が混ざったものが出てくるわで使いにくいったらなくてさー。やっぱりやっちゃいけないってことは、やっちゃいけないよね」

 うんうんと、一人で頷いている。

「以上、ちょっと勉強になった話でした。ね? 豆知識が増えたでしょ?」

「おやすみ」

「えーっ!?」

 綾人から抗議が飛んでくる前に、サッと扉とカーテンを締めた。

 さて、明日も学校だからな、今日は早めに寝ることにしよう。

 ……まあ、多少家事を手伝っていることは褒めてやるか。

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