一四、……ごめん

 空の向こうが赤く色づいてきた。放課後の教室も夕暮れの寂しさがなだれ込み、人のいない置物と化した机や椅子からは哀愁が漂って見える。何だかいまの自分の心情を目の当たりにしているような気になる。

 慧は頭の後ろで手を組んだ。

「俺も今朝、妙だなという気はしたんだ。あいつは普段あんな朝早くに来る奴じゃない。遅刻ギリギリだ」

 堀内さんが先に行ったあと、訝しんでいた様子が思い出された。

「まあそれぐらいなら気まぐれかもしれない。俺も珍しく今日は早かったからな。ただ何か理由があって早くに来たのだと考えるとなお頷けるだろう。俺は思った、こんな時間に何か用事でもあったのかと。ま、思っただけであのときは気にも留めなかった。あいつに用事があろうがなかろうがどうでもいいことだ」

 慧がいつも以上に饒舌に話すのを黙って聞く。


「そしてお前が図書室で堀内に会ったこと、俺のファイルを持っていたことを聞いて、すぐにぴんと来た。なぜ俺のファイルなんて持っていったか。当然そこにある何かが目的だったからだ。朝、あいつは知ったな。あの中には……俺の睡眠時間の結晶体、スウガクノシュクダイがあることを」

 口を結んで俯く僕に、慧がスリッパを脛に当ててくる。

「笑えよ」

 笑顔を作る。

 もう一度、つつかれる。

「下手か」

 無茶な。


 宿題の提出日が明日だと発覚して、慧はまた持って帰るのは嫌だから机のファイルに入れておくことを話していた。

「でも、登校中に会ったのは偶然だよね? もし遭遇しなかったら、宿題がどこにあるかなんて知りえなかったはず……」

「いいや、捉え方が間違ってる。あいつは確かに偶然にして宝の在りかを知った。しかしそれは不幸中の幸いだと言っていい。俺があいつの来た時間に疑問を覚えるように、あいつからしたら俺の来た時間に驚いたことだろう。俺とは出くわしてしまったんだ。もし俺が普段通りであれば、どうなっていた?」

 想像してみる。ほとんど誰も来ないような時間帯、教室には堀内さんひとり。

「あいつは最初から教室で物色するつもりだったんだ。誰かの机に完成した宿題の冊子がありはしないかと。そのために朝早くに来ていた」

 なるほど。そういえば宿題の話題を出したのは堀内さんのほうからだ。慧のファイルにも食いついていた。宿題を入れておくとわかったあとで。


 慧がふんと鼻を鳴らす。

「まああれがお前の登校時刻だとなれば、あいつの朝早くは見込みが甘いな」

「……そうだね」

 千日紅さんならもう教室にいてるかもしれない。

「待って」

 朝の時間を思い描いて疑問が生じた。

「朝に、いや放課後でも、あれだけ量のあるものを写す時間なんてなかったはずだよ」

 朝は八時ごろからみんなが登校してくるまでの時間なんてあっても一〇分ちょっとだ。放課後も、僕が図書室に行ったのは午後四時過ぎだが、下校時刻の五時までは一時間もない。図書委員の仕事があっては難しいのでは。司書の先生の目もある。

「あと少しで終わりそうなぐらいならわざわざそんな危険、冒さないでしょ」

「いや」

 慧の返答は早かった。


「あいつがどの程度写すのか知らないが、仮に一から十までだとしても、いま全てを手で写す必要はないだろう」

 慧はポケットからスマホを取り出す。

「あ……」

「こいつがあれば、な。写真に収めるだけの時間があれば充分だ、ほんの数分。あとは家に帰ってからゆっくり書き写せばいい。写真部の風上にも置けない行為だがな」

 そんな簡単なことにも頭が回らないとは。あのファイルのそばに彼女のスマホが置いてあったのは見ていたのに。


「これは邪推かもしれんが、写真に収めれば複数人で共有することも可能だ。その場合、集団で同じ解答結果とあっては露見する危険性は高まる。少し改変するのがベストだ。さて、あいつにそこまでの頭があるかどうか」

「……」

「何か言えよ。冗談だぞ、半分ぐらい」

 半分は本気なのか。

「ごめん」

 項垂れるとデコピンされた。

「痛い!」

「謝ってどうする」

 慧は呆れた声を出す。


「あいつは不幸中の幸いで、俺との会話から目的のものに当たりをつけた。大当たりだ。俺だからだという意味ではないぞ。写真部だからだ。同じ部だから俺が今日の放課後、部室にいると知れる。俺と出くわし朝に実行することは叶わなくなった代わりに、放課後の図書室なら安全に俺の宿題を借りて写せるとわかった。ご丁寧に学校に置いて帰ることまで教えて友達のいない俺は恰好の的だったろうよ。露見する心配はない。……本来はな」

 でも偶然が重なった。僕は弥一の話を受けて、図書室に行くことにした。

「あいつは、お前に見られた。俺に関わりのある、お前に」

 長い人差し指を突き立てられ、肩に力が入る。

 対照的に慧は頬杖をついて脱力する。


「運に散々振り回されるな、今日のあいつは。どう思っただろう、お前を見て。焦ったか」

「……驚いては、いたと思う」

 慧は興味なさそうに短く息を吐いた。

「さあ、これであいつの所業の証明は完了だな。どうだ、反論があるなら受けつけるぞ」

 まるでゲームでも終えたかのような振舞いをする。たぶん、あえてだ。


 まだ疑問はある。

「どうしてファイルごと持ち出したの。中から宿題の冊子だけ持っていけば、僕はそれが慧のものだと気づくこともできなかったよ」

 慧はそれを予期していたかのようにすぐに答える。

「教室で他人の派手な柄のファイルをまさぐるのも不審だろう。俺がふらっと戻ってくるかもしれない。リスクは共にある。どっちを取るか天秤にかけて、ファイルごと持ち出すことにした」

「あー、そっか」

「あるいは、もっと別の天秤があったのかもな」

 慧は腕を組んで、低い声で言う。


「危機感との天秤」

 背筋に寒気が走った。

「ファイルを持ち出すリスクよりファイルの中身を見る好奇心のほうが勝った」

 その衝動には覚えがある。人より好奇心の強い僕は、変わった人やものに興味を惹かれるから。

「持ち主の秘密を知れるかもしれない。あんなみょうちきりんな柄となると、なおさら」

 うん、絶対見たくなるだろうね。


「まあ見られて困るものなんて何も入ってないがな」

「それはよかった。……いや、ちっともよくはないよね。ごめん」

 慧がまたスリッパで足を蹴ってくる。

「謝るな、こんなしょうもないことで。しかし取り返すのも面倒だ。返ってくるなら見逃すさ。下手なことして逆恨みされても面倒だしな」

「……」


 嘘だ。

 慧は自分で見て気づいたのなら、誰が相手だろうと物怖じしない、逆恨みなんて気にせず取り返しにいく。

 今回そうしないのは、発見したのが僕だからだ。慧が堀内さんを問い詰めれば僕が告げ口したとわかる。僕を気遣って慧は諦めると言っているんだ。さらに僕が気負わないように、下らないことだと振舞っている。


「……ごめん」

「だから、なぜお前が謝るんだ。お前が何か悪いことでもしたのかよ」

 僕が何もしなかったから、いけないんだ。

「……ごめん」

 謝っても仕方ないのに、謝ることしかできない自分が恨めしい。

 慧が深い溜め息を吐く。沈黙が降り、空気が重くなる。塞ぎこむのも良くないと、わかってはいるけど。


 そのとき陰鬱な雰囲気を蹴飛ばすかのようにドアが勢いよく開かれた。肩がビクッとなる。

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