二、眠気の理由
「でもさ、それにしては早い登校だね」
現在の時刻は七時五〇分過ぎ、遅刻どころかまだほとんどの生徒が登校していない時間帯だ。眠たいならもっと時間ギリギリまで寝ることもできたのでは。
「そういうお前こそ、普段からこんなに早いのか」
「まあね」
いま一緒に登校しているが、これは待ち合わせたわけではない。偶然、交差点で信号待ちをしている慧に会ったのだ。
「中学のときもそんなに早かったか?」
慧が訝しむ。
「いいや、高校になってから」
いつも僕のほうが早くに登校していたので慧は知らない。
「ほう。それは、殊勝だな。褒美に、俺がこんな時間に登校する羽目になった訳を教えてやろう」
「ありがたくないね」
「俺は昨日、ろくに寝られなかった」
冷ややかな視線を送る。
「遊んでたわけじゃないぞ。正当な理由がある」
「ふーん?」
続きを促す。
「今日提出しなければいけない数学の宿題があった」
「おお」
本当に正当な理由っぽい。
「お前信じてなかったな?」
手で制して蹴られないように少し遠ざかる。
「いやいや。宿題って、もしかしてあの冊子になってる感じの? 中学の復習って書いてる」
「それだ」
「慧のクラスでも出てたんだね。僕のところでも出たよ。明日、水曜提出」
二十枚ぐらいあるA4サイズのプリントに片面印刷で問題が乗っていて、ご丁寧に水色の表紙までつけてホッチキス止めされた、もはや冊子。それが僕らに課せられた高校数学への登竜門だ。
「あれも正気の沙汰とは思えない。まず内容が中学の復習なのがおかしい。高校に合格したということが中学の学習は充分に学修できていることの証明じゃないか。なぜそんなことしなければならないんだ」
「ふふ、まあね」
相変わらず揚げ足を取るのが上手いね。
「そして何より、俺が声を大にして言いたいのはな」
慧は息を吸ってから言う。
「入学早々一週間で二十ページもある冊子を課す奴があるか」
「あはは、それは本当に」
そこだけは直球な愚痴なことに笑わされる。
「数学の担当って秋村先生?」
「ああ、秋村悪魔」
「語呂が良いね。二組も一緒だよ」
「入学して一週間経ってから出すあたりが鬼の所業だ。お前らそろそろ高校の授業に慣れてきた頃だろう? 油断したな、そらこいつで苦しませてやろう、と言わんばかりの」
眼鏡をかけスーツをびっしり着込み生真面目そうなあの秋村先生が、実はそんなお茶目なことを考えていたと想像すると面白い。
「確かにかなりの量だったなー」
僕は勉強が割と好きなので苦ではなかったけど。
「その言い方、お前はもう終わってるんだな」
ピースサインを見せる。
「二日で終わらせた」
やるべきことは早々にしておかないと落ち着かないのだ。
慧は鼻を鳴らした。
「お前は少し時間を疎かにすることを学ぶべきだな」
「悪魔のささやきだ」
慧は反対に夏休み最終日に宿題を片付けるような、とことん追い込まれるまでやらないタイプだった。
「まあ慧が眠い眠いって言ってた理由はわかったよ。宿題がまだ終わってなかったから昨夜寝られなかったんだね」
「ろくに寝られなかった、が正しい。一時間ぐらいは寝た、というか少し休憩しようと横になったつもりが気づいたら意識がなかった」
「あはは、お疲れさま」
しかし冷静に考えると少しおかしいことに気づく。一日で終わらせるとしても徹夜しかけるほど時間がかかるような宿題ではなかったような……。僕は二日に分けてゆっくりやっただけで、簡単な復讐問題が大半なので見た目よりは時間がかからない。多めに見ても四時間ぐらいあれば終わるはずだ。
その疑問を投げかける前に、慧が長い首をさすりながら零した。
「一晩に詰め込むというのは、どうも良くないな。集中力が続かん。代わりに部屋の片付けと読書は捗ったんだがな」
「いや他のことしてるし!」
思わず突っ込みを入れる。道理で時間がかかるわけだ。
「俺が不満を言いたいことがもう一つあった」
慧が指をぱちんと鳴らした。
「提出期間の短さだ」
「うん?」
「手間のかかる宿題ならせめて来週中に提出とか、一定の期間を設けるべきだ。提出期間が仮に一週間あったなら、俺は初日の回収に向けて取り組むことで最終日には間に合わせることができた。徹夜しかけることもなく、ゆとりを持ってな」
首をかしげる。
「初日に向けて取り組むのに初日には終わらないんだ?」
「当然だ」
「いやいや当然じゃないから」
胸を張る慧に手を振って正す。まったく、それならただの気の持ちようじゃないか。
「まあ、ゆとりがあったほうが気が楽なのはわかるけど」
慧が顔をしかめる。
「おまけにあいつ、今日の授業開始直後にのみ提出を受けつけるとか言いやがった。それ以降の時間では減点されると」
こくこくと頷く。
「言ってた言ってた。内職で終わらせるのはだめだぞって」
慧はわざとらしい溜め息をついた。
「人類は時間を定めるようになってから心のゆとりを失ってしまったらしいな。気の毒に」
「スケールが大きすぎない?」
「高校生にもなると広い視野を持つべきだ」
苦笑する。また大袈裟な話を持ち出してる。
慧が口元に手を当て大きな欠伸をする。見ていると、僕も眠気がしてきた。
「……で、登校が早かった理由は?」
結局まだそれを聞いていない。慧はすっかり忘れていたようで、細い目を見開いた。
「ああ、その話だったな。俺は五時ぐらいに寝落ちして、変に寝たのがよくなかったんだろう、いつもより早くに目が覚めてしまった。朝食を食ってシャワーを浴び、冊子を残り少し仕上げて家を出た。で、いまに至る」
ふむふむと納得する。
「もう一回寝ればよかったのに」
あと二〇分ぐらいは寝れただろう。
「俺は二度寝をしない。頭が重くなる」
「……なるほど」
そういえば慧には時たま調子が悪いときほど好調に見えるような、あべこべな結果を出すことがあった。風邪を患いながらのテストでオール九〇点を取ったり、頭痛で走れないと言いながら持久走で一番を取ったり。本当に不思議だ。
それを考えれば寝られなかったときに限って早くに目覚め、眠たい中必要もなく早くに登校してくるのは、慧らしいのかもしれない。
「はー眠い……」
慧が恨めしそうにまた呟いた。
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