二二、口にできなかった思い
結婚。
愛の告白だとわかったときよりずっと大きな衝撃を受けた。まさかそんな。
「ご結婚、おめでとうございます……?」
先生の結婚を祝う言葉、それがあの「おめでとう」の真意だったというのか。
「それってつまり……その人は」
「ええ」
千日紅さんは僕の言いたいことがわかっているようで、神妙な面持ちで頷いた。僕も千日紅さんが真相に気づいてからどこか憂いを帯びて見えた理由がわかった。
表の文字が結婚の祝福だったなら、その裏に告白の言葉が隠されていることは何を示唆することになるのか。
「……失恋したことになる」
辛い事実に、思わず目を外した。
その人は先生に恋をしていた。おそらく本気の、ここまで手の込んだことをするほどに真剣な恋。相手は先生でも人並みの恋と同じように、ただ一人の人を好きになった。
しかしそれは先生にも同様のことが言えるんだ。一人の人として誰かに恋をする。その恋は叶い、結婚するに至った。
いつ先生が結婚したのか、どういう形で知ることになったのか、恋人がいたことは知っていたのか、どのぐらい先生と親しかったのか。……細かいことはわからない。
その人の思いは、叶わないものになったんだ。
千日紅さんが沈んだ声で話す。
「柿原くんの言ったこと、正しかった。その人は祝福の裏で、伝わらない告白をしたの。伝えることのできない思いだったから」
結婚する先生に、その気持ちを伝えるわけにはいかないだろう。
「でもそのままなかったことにはできなかった」
こくりと頷く。
望みが叶わず辛い思いをする気持ちはわかる。僕の場合、恋ではなかったが。
「簡単に整理がつくものではなかっただろうね。行き場のない思いを抱えて、どうしたらいいかたくさん悩んだと思う。そして、ああいうメッセージを残すことにしたんだ……」
もっと言うと、先生への心残りから直接先生にお祝いの言葉を伝えることができずにいたのではないか。
あるいはそうすることで、自分の気持ちに区切りをつけたかったのかもしれない。
もう一度、スマホの写真から花のフレームに書かれた文字を見つめる。おめでとう。そして、我愛敬北先。その人は北山先生を敬愛するばかりでなく、密かに好意を寄せていた。
複雑に暗号化されたメッセージは、その人の苦悩した感情をそのままに映しているのだという気がした。
「五つの漢字は、きっとこう読むんだね」
その人が伝えることのできなかった、叶わない思いを口にする。
「先生、あなたのことが好きでした」
切ない告白に、目を瞑る。
「……納得だよ」
千日紅さんが導き出した答えは、正しいと思う。
「悲しい話だね」
「……ええ」
みんな恋に対して宝石箱のようなキラキラしたものだというイメージをする。でも当然のこと、恋は叶うばかりではない。叶わなかったとき、ひどく落ち込むだろう。
恋することって、案外怖いことなのではないか。
ならばいっそ恋などしないほうがいいのか。その人は、後悔しただろうか。
首を振った。いいや、それは違うだろう。
僕はこれからの高校生活をとても楽しみにしている。しかしそれが本当に自分の望み通り楽しいものになるとは限らない。辛い思いをするときもあるだろう。未来は不確かで怖いものだ。
それでも僕は明日に向かって笑顔で踏み出すことを厭わない。楽しい毎日を過ごしたいと思わずにはいられないからだ。
恋も、同じなのではないか。きっと望まずにはいられないのだ。恋をしたからには、その相手との幸せな時間を。そして成就したとき、それこそ宝石箱を手に入れたかのような飛び上がるほど嬉しい気持ちになれるのだろう。だからみんな、恋に焦がれる。
「……次こそは、上手くいってほしいな」
遠くの空を眺めながら呟く。さっきまで上空を覆っていた雲は薄く散り散りになっている。
「その人は、辛いだろうにおめでとうって祝うことを選んだ。あの花のフレーム、細かく描かれていて綺麗だった。それだけ気持ちを込めて作っていたんだ。先生を祝福するために。優しい人なんだ」
言いながら感情的になっている自分に気づき、照れ隠しに笑う。
「ええ、そうね」
千日紅さんが柔らかい声で同じた。
相手のことを思えるその人の温かい心が、どうか報われてほしい。
「…………あなたも」
最後何か千日紅さんの口が動いたように見えたが、独り言だろうか。何も聞こえなかった。
スマホの時間を見ると、もう十二時半を過ぎている。
「そろそろ帰ろうか」
そう提案すると千日紅さんはこくりと頷き、校内に入っていく。僕も続こうとして、彼女の足が沓摺りを跨いだところでふと止まった。
上空にできた雲間から強い日差しが地上に差し込み、思わず目を眇める。
「……わたしも、口にできなかったことがあって」
千日紅さんは顔を見せずに後ろに向けて言った。
「言えなかったことは、机の中」
聞き返すこともできずに呆然とする僕を置いて、彼女は階段の向こうへ小走りに行ってしまった。
少しして言葉の意味を飲み込み、足が動いた。
千日紅さんはその人がどうしてメッセージを机の中に置くようなことはしなかったか、疑問視していた。身に覚えのあることだったんだ。そしてその人がなぜ告白する気になれたのか知りたかったのは、自分も伝えられなかったものがあったから……。
階段を上に駆け、二組の教室へ。ドアを開ける。
もう誰もいなくなっていた。
呼吸を正す。自分の机へ行き、中を見る。何もない。
隣の机に目を向ける。椅子を引いてゆっくりと屈み、遠慮気味に中を覗いた。
一枚の紙があった。小さな、桜色のメモ用紙。これか。恐る恐る取り出し、拝見する。
そこに書かれた一言を見て、僕は膝を崩して笑った。ちょっと涙まで出てくる。
それは、遅れても挨拶を返すぐらい変に律儀な彼女らしい、僕の言葉に対しての返事だった。すごい時間差で伝えられた、千日紅さんの気持ち。
「わたしももっと話したい」
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