八、後悔はしたくない
千日紅さんは人付き合いが苦手だと言っていたけど、実際あれから席を動かず誰とも話していない。ひとりでずっと本を読んでいる。入学式の日に普通は本なんて持ってこない。……そうなることを想定していない限り。
そしてそんな彼女に誰も寄りつくことはなかった。本当にクラスメイトと交流する気がないんだ。周囲に目もくれない様子から慣れているのだとわかる。いままでずっとそうやってひとりで過ごしてきたのだろう。彼女にとっては当たり前で、そのほうが気楽で、辛くないのかもしれない。
しかしあの和菓子について生き生きと語っていた様子を思い出すと、なんだかいたたまれない。余計なお世話、だろうか。
予鈴が鳴った。
「席つけー、静かにしろ―」
スーツ姿に髪を真ん中で分けた眼鏡の先生が教室に入ってきて呼びかける。
「先生が二組の担任ですかあ」
ミディアムヘアのクラスの女子が間延びした声で問いかける。
「いいや、俺は担任じゃない。担任は入学式で発表する。その入学式の説明をこれからするから、全員静かに席につけ」
和田くんは窓から離れ、腰を伸ばす動作をすると僕に向けて手を上げた。
「じゃ、ユータ。俺戻るわ」
全員が着席すると、先生は大垣と名乗って軽い自己紹介をして手順よく入学式の段取りを説明した。
「そうして退場、教室に戻ってホームルームだ。以上、さあ外に並べ」
指示に従い、教室から出て廊下の右側に整列する。大垣先生が最後に扉を閉めた。
「二組の皆さん、体育館に向かって下さい」
遠くからそう呼び声がかかり、一組に続いて廊下の空いた左側、他の組が並ぶ横を抜けて中央の階段へと向かう。
五組の列の先頭に見慣れた慧の姿があった。背が高く体格も良いので目立つ。ポケットに手を入れて相変わらずつまらなさそうにしている。
目が合ったので手を振ると、一旦顔を背けてから何かを指差した。その先にあるのは、ドア……ああ、座席表か。慧の言わんとすることがわかり口元が緩む。出席番号一番になったことを恨んでいるのだ。席替えがないので、慧は一年間一番前の席で過ごすことになる。
強く生きろと親指を立てて励ますと、逆さ向きで返された。顔がほころぶ。
一階に着き体育館への入り口が見えてくると、大きな拍手の波音が届いてきた。その音が大きくなるにつれ、鼓動も早まる。造花で飾られた扉を抜けて入場する。
会場に入ると吹奏楽部の鳴らす明るい曲で迎えられる。側面を覆う紅白幕の裾が風で揺らいでいて趣深く見える。保護者席からの視線とカメラのシャッター音が凄まじい。フラッシュもある。どこかに母さんも来ているはずなので探すが、見当たらない。
高校入学式。一生に一度と思うと、貴重な時間だ。和田くんにはああ言ったけど、やっぱりこういう式典は忘れられない思い出となるだろう。
しかしこのまま今日を終えれば、この入学式は心残りのある日として思い出すことになるかもしれない。苦い記憶として憶えるのは、嫌だな。
後悔はしたくない。
「以上を持ちまして、桐時高等学校入学式を閉会いたします。一同、ご起立ください」
入学式は滞りなく執り行われた。
「令!」
教頭の声が会場に鮮明に響き渡り、みんな頭を下げる。
「ご着席ください。……えー、それでは、新入生、退場! ご臨席の皆様、どうか盛大な拍手でお送りください」
背後で扉の開く音がして、入学式は終わったのだと肩の力が抜ける。
入学式で発表された我らが二組の担任、坂井先生が先導し一組に次いで退場する。会場の詰めた空気から解放され、深い息をつく。緊張しながら長く座っていたので体が強張っている。気疲れした。外の空気が美味しい。
「はーい、教室に戻って」
坂井先生が手で誘導しながら生徒に呼びかける。
中央階段を上がって教室への帰り際、五組の教室の前を通ると、そのドアに違和感を覚えて、立ち止まった。見てみるとわかった。
座席表だ。僕が朝に見たものとは違う。そこには手作りっぽい装飾がなされていた。花がたくさん描かれた手の込んだフレームがつけられている。先の割れた花びら、桜の花だ。それに、この下のところは……。
こんな洒落た仕込みがあるのだろうかと自分のクラスに戻ってみると、そこには朝見たものと変わらず無味乾燥な座席表が貼られているだけだった。
思わず笑みが零れる。
「面白いね」
五組まで戻って「特別なクラス表」をスマホのカメラに収めた。
中学までは携帯なんて学校に持ってきてはいけなかったから、こうして気軽に写真が撮れるようになったのは便利だ。もちろん授業中は使用禁止。いま使うのは、グレーかな。
「何してるんだ、そんなとこで」
背後から和田くんに肩を叩かれた。
この不思議なことについてぜひとも話したい。
「……いや、何もないよ。教室に戻ろう」
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