四、おはよう……?

 唐突な挨拶に目を見開く。

「え? うん、おはよう……?」

 声が上擦った。

 目端が利く人でもこの不意打ちに困惑せずにいられるだろうか。いや、いられまい。これは、反語。なんて馬鹿なこと思ってる場合じゃない。


 向こうから話しかけてくれた。感動だ。でもどうしていまさら挨拶を。

 彼女がその疑問に答えるように付言する。

「さっき……わたし、言わなかったから」

 記憶を辿る。さっきというか、最初に「おはよう」と声をかけたときのことだよね。そうだったかな。

「そんな、いいよ。気にしてない」

 確かに挨拶を返すことは礼儀として大事だけど、上手く返せなかったからといってあとからわざわざ言い直すようなことでもないだろう。でも彼女はいまさらでも、言い直した。そんなことをずっと気にかけていたんだ。


 一息つくと、時計の針が進む音が聞こえた。

 窓から吹き込んできた風に、閉じかけのカーテンの端が揺れた。外を見る。誰もいないグラウンドの向こう側に、鮮やかな桜並木が覗ける。いまが盛りだろう、見事だ。通称桜通りと呼ばれるが、本当にその名がぴったりだ。

「春だね」

 自然と顔がほころぶ。

「……ええ」

 椅子に体を預けて、堅い面持ちをしている千日紅さんに緩んだ声で話しかける。

「学校の前の桜、見た?」

 千日紅さんがこくりと頷く。

「綺麗だったよね! 桜通りはもちろんだけど、ここの桜もなかなか絶好の花見スポットだ」

 姉さんに聞いてはいたが、実際に見たのは今日が初めてだ。


「小学校以来、花見も行かなくなったなあ。昔は毎年家族で行ってたのに」

 広い場所だった。緑が一面に広がっていて、レジャーシートの上でお弁当を食べた。しかしあのとき咲いていたはずの桜の姿がどんなものだったかは、どうにもはっきりと思い出せない。

「あのときは子どもだったからね、花より団子だったな」

 笑いながら言う。

「花より団子」

 千日紅さんが興味深そうに呟いた。

「うん、文字通りね。フードパックいっぱいに入った三色団子を頬張るのが花見の楽しみだったんだ。姉さんに『食べすぎ』って怒られてた」

 そのことだけ鮮明に憶えている。

 千日紅さんがくすりと笑った。

「三色団子、美味しいものね」

「うん」

 笑ってくれた。嬉しい。


「三色の色がそれぞれ何を表すか知ってる?」

「えっ、知らない。何?」

 さらに千日紅さんのほうから話を振ってくれて、僕も乗り気になる。どうしてあの三色なのか、深く考えたことはなかった。

「桃色が桜、白が白酒、緑が新緑」

 千日紅さんは机に指で丸を作りながらそう言った。

「へえ、なるほど、春の色だ」

 何気なく食べていたあの団子の色に、そういう意味があったとは。

「だから花見団子と呼ばれもするの」

「花見団子か。より風流に聞こえるね」

 これからそう呼ぼうかな。

「もう何年も食べてないなー。花見に行かなくなったから……。でもいま団子を食べるとしたら、みたらしがいいかな」

 あの香ばしい匂いに、醤油と砂糖の絶妙なバランスが好きだ。

「うん、みたらし団子も美味しい。……わたしは、桜餅を食べたい」

 千日紅さんの声が明るくなっているのがはっきりわかる。スイーツの話だからこんなに乗り気なのかな。女子は甘いもの好きというから。僕も美味しいから好きだけど。

「桜餅、美味しいよね」

 見た目も良く、春の象徴的な甘味だ。桜餅は母さんか姉さんが毎年見つけたときに買ってくる。

 ああ、話していると食べたくなってきた。僕も買おうかな。


「あっ、そういえば」

 桜餅で思い出した。

 僕は鞄から筆箱を取り出し、そこに付けたものを見せる。桃色の球体が葉でくるまれた、それ。

「桜餅?」

「の、ストラップ」

 直径二センチほどの小さい桜餅にボールチェーンがついている。

「道明寺」

「……ドウミョウジ?」

 どういうことだろうと首をかしげる。

「関西風の桜餅。道に明けるにお寺、道明寺」

「あっ、桜餅の名前なんだ?」

「ええ。道明寺はお寺のことだけれど、そこでお米を蒸して乾燥させたほしいいという、お供えや携行食とされたものが作られていたの。それを粗く挽いたものが道明寺粉で、和菓子の原料に使われている。その道明寺粉で作られているから、道明寺桜餅」

 千日紅さんは流暢にそう語った。詳しい。

「へえ」

 桜餅にそんな名前があったなんて、初耳だ。


「関西風ってことは、関東風もあるの?」

 千日紅さんは小さく頷く。

「ある。関東風は長命寺、長い命にお寺」

「あ、そっちもそういう名前があるんだ」

「ええ。小麦粉生地を薄く伸ばして焼き、餡を包んで、塩漬けした桜の葉で巻いたもの」

「ほほう。そんな桜餅が」

 知らなかった。

「どちらもお寺の名前なんだね。偶然かな」

 何気なく言うと、千日紅さんは人差し指を顎に当てて考える表情を浮かべた。すごい真剣だ。それから彼女は口を開いた。


「桜餅の発祥は長命寺のほうで、江戸時代、桜の名所隅田川提沿いの長命寺門前で、その桜の葉を塩漬けした餡餅を包んで作られた」

「ああ、だから長命寺って言うんだ?」

 千日紅さんはちょっと頷き、話を続ける。

「それが次第に伝播していって、関西では道明寺粉の生地で作られるようになった。お雑煮に赤味噌と白味噌、丸餅と角餅の違いがあるのと同じで、地域性が生じたのね。そして、昔の参詣、寺社へのお参りはいまと同じように娯楽としての一面があったそう。交通の大変さも加わって憩いの場としての機能を求められ、結果、寺社門前には多くお茶屋が作られた」

 僕は目をパチパチとする。

「だから和菓子のルーツが寺社にあるというのは珍しくないの。むしろ餅菓子やお団子といった庶民的な和菓子は門前菓子として親しまれていたものが多い。桜餅もその一つということね」


 滔々と壮大な背景から説明されて、しばし呆気に取られた。

「……なるほど、すごい」

 本当に驚いた。どうしてお寺の名前なのかの理由も聞いて感心したけど、ここまで丁寧な解説を聞けるとは思ってもみなかった。しかもあの考えていた様子、その場で話を組み立てたようだった。

「随分詳しいんだね。花見団子に、桜餅」

 まるで事典でも脳に飼っているようだ。

 彼女は頬をほんのり赤らめ、微笑む。

「わたし、和菓子が好きなの」

 僕もつられて表情が緩む。

「おお、そっか。いいねー」

 千日紅さんのお茶目な一面を知れて嬉しい。

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