二、隣の席は
暑さ寒さも彼岸までと言うけど、四月になってもまだ肌寒い日はなくならず、昨日の朝などは冬の寒さだった。今朝も窓を少し開け網戸に手を近づけると、冷たい空気が漂ってきた。そのため身構えて玄関を出たのだけど、晴れ渡る空からは暖かな春の陽気が降り注いでおり、ほっと息をつけた。
交差点で曲がり、大通りを道なりに進んで高校へ向かう。まだ開店前の店が並ぶ閑静な街並みに、足どりもゆったりとしたものになる。あるいは、一歩一歩を踏みしめていると表現すべきか。よく利用する本屋、変わるまで長い信号。通い慣れた道なのに、どこか落ち着かない。この道の先で、新しい環境が待っている。どんな人と出会い、友達になるだろう。どんなイベントが待っているだろう。期待と不安が募る。
天色に晴れ渡る空を見上げたとき、春の陽気に追いやられたかのように肌寒い風が吹いた。校舎を守るように林立する桜の木が揺らされ、花吹雪に見舞われる。
宙で遊ぶ花びらに見入る。鮮やかな色合いは街の表情を一変させるが、人を魅了するその淡紅色の美を保てる時間は短い。わずか数週で溢れんばかりに纏った花の衣は散ってしまう。その儚さが、より桜を綺麗だと思わせるのだろう。
通用門は開かれており、そばに「桐時高校入学式」と書かれた立て看板がある。しかし敷地内に人の姿は見えず閑散としているので、緊張しながら入る。
正面の中庭を囲うように二つの校舎が構えている。左のほうが一般棟で、右が特別棟。二階に渡り廊下が伸びている。俯瞰してみれば、おおよそコの字になるだろう。中央に銅色のモニュメント時計が立っていて、周りにベンチが並ぶ。そこで昼休みに友達とお弁当を食べながら談笑する想像をしてみる。うん、いい。楽しみだ。慧を誘っても、移動が面倒だから嫌だと断られそうだけど。
現在の時刻は七時半過ぎ。入学式が始まるのは九時で、教室に集合するのが八時半だ。余裕を持ってきたわけだが、さすがに早すぎたね。
浅ましくも桐時高校を選んだ理由の一つは卑近であるからで、自宅から徒歩十五分かかってない。普段の朝の予鈴は八時半なので、いつもは八時ぐらいに家を出ようか。
中庭を進むと少し高くなったところに校舎への入り口がある。扉と扉の間を埋めるように傘立てが設置され、白い柱にクラス表が貼られている。姉さんが入学式でクラスがわかると言っていたけど、こういう形だったとは。自分のクラスと出席番号を確認する。
『1年2組6番 柿原 悠太郎』
六番か、惜しい。あと一つ後ろであればラッキーセブン、縁起が良いと思えた。
あるいは八番でもよかった。浮かぶのは桃栗三年柿八年。「柿」原が「八」を得たとなると、大成する前触れのようじゃないか。
「それで……と」
もう一度クラス表に目を走らせる。
「あった」
一人の名前を見つけて声が出た。
『1年5組1番 泉 慧』
「……残念」
隣の席どころか、同じクラスですらない。小さな夢は潰えた。本当にそうなるとは思っていなかったけど、もしかしたらという望みを持ってしまったがために少し気落ちする。
賭けにも負けた。負けたら何か奢るという話だったので、考えおこう。……慰める意味も込めてね。
「よし」
握りこぶしを作って気を取り直す。
「隣の人と仲良くなれるよう、がんばる」
小さく意気込んだ。
あらかじめ貰っていた入学式当日の流れを書いたプリントによると、自分のクラスを確認したあとは教室で集合だ。まだ集合時間には早いが、ひとまず教室に行ってみよう。
下駄箱は廊下を挟んで向こう、グラウンド側に寄って配置されており、しっかり一つ一つにクラスと番号が割り当てられている。自分の番号を探して、靴をスリッパに履き替える。
一階から二階へ続く踊り場の掲示板に校内図が貼ってある。見ると一年の教室は最上階の四階にあるらしい。さらに二組は北側、つまりは昇降口からかなり遠いところにある。
軽い運動になると思えば……嬉しくは、ない。
四階に上がった。窓から中庭が覗ける。そして右手前の教室の頭上に「1年5組」と書かれたプレートが出ている。案内図で見た通りだ。年季を感じさせる焼けた色の扉には座席表が貼られており、曇りガラスから中を見ることはできない。
この時間にはまだ誰も来ていないだろう。
と思っていたら、廊下の奥に人影があった。スクールバッグを持った一人の女子生徒が窓から外を見ている。僕以上に早く来た生徒がいることに驚く。
スリッパの色が同じ赤色なので新入生なのは間違いない。二組の教室の前にいるので、同じクラスかな。背は僕とそう変わらない。肩につかないぐらいのストレートボブに、翳りのある横顔。大人びた雰囲気がある。
左手に持つ藤色の巾着が目を惹いた。小学校の頃なら僕も給食用のランチョンマットを入れるのに使っていた。中学のときはポシェットを携帯する女子なら見たことがあったけど、巾着を持ってる人はいなかった。普段使いなら良い趣味をしている。それとも入学式なので浴衣に巾着を伴うようなお祭り気分ということだろうか。気になるところ。
初対面なので少し緊張しながらも声をかけてみる。
「おはよう」
切り揃えられた前髪の下に備わった黒い瞳が僕に向けられる。それが随分鋭い目つきなので、たじろぐ。彼女はこちらを横目で見ただけで、何も言わない。
笑顔でもう一声。
「来るの、早いね」
「……」
頷いた、ように見えた。会釈かもしれない。依然としてその口元は固く結ばれたままだ。
とりあえず、自己紹介でもしてみる。
「僕、柿原っていうんだ。柿原悠太郎。どうぞよろしく!」
「……」
静寂の落ちた廊下に、調子を上げた声がよく響く。
少しの間があってから、ようやく彼女の口は開かれた。
「……わたしは、
落ち着いた佇まいがそのまま出たような澄んだ声だ。
「千日紅さん。珍しい名前だね」
漢字は名札を見ればわかった。
「よろしく! あ、もう言ったか」
そう笑ってみせるが、相槌はなく、気まずい沈黙が降りただけだった。背中に汗が伝うのを感じる。
「千日紅さんも二組?」
彼女は小さく頷いた。
「一緒だ」
教室に目を向ける。一応と閉まっているドアに手をかけてみる。
おや。
「……開いてるんだ」
こちらの様子を窺う千日紅さんに驚いた様子はないので、知らなかったわけではないらしい。
「入らないの?」
訊くと、彼女は囁くような声で答えた。
「……どこに座ればいいか、わからないから」
はてな、と思って扉に貼られた座席表を確認する。そこには簡潔にクラスと、三十六人の名前が左上から縦に出席番号順に割り当てられており、自分の座席はわかる。
……いや。
「教卓の記載がないんだね?」
六人六列の正方形型ということもあって、どこが前となっているかを断定できない。直感的には上が教卓側になるのが自然だと思う。しかし例えばドアに貼られた向きのまま教室内の座席に当てはめると、座席表の右側が教卓側になる。
首をひねっていると、左下隅に自分の名前を見つけた。朝の姉さんの話を思い出し、僕なら論理的に説明できることに気づいた。
「あのさ、僕の姉もここの高校だったんだけど、一年のとき窓際の一番後ろの席だったらしい。体育の授業が見えるから面白かったとも言ってた。つまりそれってグラウンドの見えるあっち側の後ろ……」
教室の向こう、日の当たる窓側を指し、その奥の席を指差す。
「あそこだよね。ところでこの学校、伝統的に席替えがないらしいんだ」
それも姉さんに教わったことだ。
「千日紅さんは席替えしたかった?」
「別に」
心底興味がないといったご様子。
「そっか。まあとにかく、この座席表のような並びで姉さん、『柿原』って苗字が窓際最後列になるなら、丁度僕が同じ位置になってるからわかりやすいね、上が教卓側ってことになる」
一つ咳払いして、座席表に手のひらを向ける。
「僕はそう思うんだけど、どうかな」
千日紅さんは切れ長の目で僕を一瞥してから、こくりと頷いて教室に入っていった。本当に寡黙な人だ。残念ながらあまり話せなかった。
「さて」
漫然とクラス表を眺める。
偶然にも、僕は姉さんと同じ窓際最後列になった。今朝言っていたようなグラウンドを覗いたりクラス全体を見渡したりできるわけだ。楽しめそうで嬉しい。
「で、僕の隣は……あ」
僕は自分の名前の隣に書かれた名前を見て、固まる。「千日紅」とある。
そしてこの学校に、席替えはない。
「なるほど」
すでに自分の席についた千日紅さんに目を向ける。つまり僕の隣の席はこれから一年、あの子なんだ。
自分のささやかな意気込みを思い出す。
――隣の人と仲良くなれるよう、がんばる。
緊張が一段と増す。さあ、仲良くなれるだろうか。いままでのやり取りからすると簡単ではなさそうだ。それだけによりやる気が出るけどね。
深呼吸して、拳を握る。
いざ。
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