春、色づく思いは謎めいて
柚子樹翠
第一章 花のおめでとう
一、せいくらべ
洗面所で少しはねた髪先を直していたところ、鏡にTシャツにスキニーとラフな格好をした姉の姿が映りこんできた。思わず髪から手を放す。
「大丈夫。決まってるよ」
満面の笑みで親指を立てられて、顔が熱くなる。
「別にそういうわけじゃ……」
「いやいや、ばっちり決めていかないと。今日入学式なんでしょ?」
姉さんは後ろから僕の肩に手を置いてそう言った。
「……そうだね」
改めて鏡で自分の姿を見る。真っ新なブレザー、胸元につけた「
「担任、誰?」
姉さんが戸棚から霧吹きを取り出しながら訊いてきた。
「まだ知らない」
「ああそっか。一年は入学式で発表だっけ?」
背後で姉さんは湿らせた髪を櫛で梳かす。
「一昨年はクラス発表と一緒だったから、てっきり知ってると思ってた」
「ふうん」
姉さんも一昨年まで、僕が今日から通うことになる
「クラスは?」
次はドライヤーが出てきて、髪を乾かすようだ。用事を終えた僕は後ろに行き位置を交代する。
「それもまだ知らない」
「クラス発表見に行かなかったの?」
「え、何それ」
冷やりとする。ひょっとして何か見逃がしていることがあったのだろうか。
ファンの音にかき消されてしまったのだろう、姉さんは何も言わない。余計に不安になり、声を張りあげてもう一度言う。
「何それ」
姉さんはドライヤーを止め、再び櫛で髪を整える。
「学校始まる前に発表されるでしょ。掲示板に。見に行かなかったの」
「えっ」
動揺する。聞いていない。
「……あっ、一年はクラスがわかるのも入学式の日だったか」
姉さんはそういえばというように斜め上を見ながら勝手に納得した。溜め息が出た。
「もうーびっくりした」
「ごめんごめん」
姉さんは手を合わせて謝るポーズを取る。僕は口を尖らせた。当日に不安を煽るようなことを言わないでほしい。
「あの子も一緒なんだよね?
人差し指を立てて訊かれ「うん」と頷く。
「面白い話し方する子」
その特徴の示し方に笑う。
慧とは中学二年で同じクラスになってから親交がある。ちょっと癖のある性格をしているけど変わっていて面白く、理屈っぽい喋りが強く印象に残る。
同じ高校になったのはただの偶然で、そうだとわかったときには本当に驚いた。
「隣の席になれるといいね」
「隣の席?」
妙なことを言われ、聞き返す。
「同じクラスじゃなくて?」
姉さんはわかってないと言わんばかりに人差し指を横に振る。
「同じクラスになるのは普通に起こりうることじゃない。世の中もっと奇跡みたいなことだって実際に起こるものなんだよ? どうせなら夢は大きく」
あまり共感できることではなく、苦笑する。
「友達と隣の席になるのは確かに小さな奇跡だけど、夢にしては小さすぎない?」
「ふふ、それはそうね」
姉さんは笑いながらあっさり同意する。
「でもほら、悠太郎はそういう小さい夢みたいなの好きでしょ?」
「あー」
小さな夢か。そんな言葉でくくって考えたことはなかったけど、お小遣いを貯めてほしかったものを買うとかテストで満点を取るとか友達の誕生日にサプライズをして驚かせるとか、そういうちょっとしたことが好きなのは確かだ。
「それはそうかも」
だからといって慧と隣の席になりたいと望む気にはならない。
「でもさ、そういう期待をしてしまうとそうじゃなかったときの落胆が大きくなるよ?」
姉さんは「ふふ」と笑みを漏らし胸を張って得意げにする。
「そうなったらむしろ意気込めるじゃない。悔しいから隣の知らない子と仲良くなってやろうって」
目を見開き、それからふっと口元を緩める。なるほど、いかにも意気軒昂な姉さんらしい考え方だ。
「それは……確かにね!」
そしてそれに乗せられるのが、僕なんだよね。よし、願ってみよう。隣の席が慧になりますように。
「あっ、そうだ」
姉さんは手をぽんと叩く。
「桐時高校は席替えないから。伝統的に一年中ずっと同じ、出席番号順。だからお隣が誰になるか仲良くなれるかっていうのは結構大事なことだよ」
「へえ、そうなんだ」
「席替えなくて残念?」
「うーん、残念ってことはないけど、変わったほうが面白かったかな。心機一転になる」
姉さんが小刻みに頷く。
小中と席替えは小さなイベントとして盛り上がっていたので、残念に思う人は多そうだ。
それはそうと座席が出席番号順で決まるなら「い」ずみと「か」きはらが隣の席になるのはありえないことではなさそうだ。同じクラスになるのは姉さんの言う通り普通に起こりうることなので、割と現実味を帯びた望みだと思えてきた。
そういえば、と思い出す。慧と出席番号が一番になるかどうかで賭けをしていたんだった。僕は「あ」から始まる人がいる可能性が高いと踏んだ。慧は「どっちに転んでもいいから」と反対に賭けた。出席番号一番はどうしても先頭に立たされることが多くなる。そうならないほうがいいし、そうなっても賭けには勝てる、とのことだ。実に慧らしい合理的な選択だ。
クラスと出席番号、早く知りたいな。
「わたしは一年のとき窓際最後列の席だった。みんなのことよく見渡せて楽しいし、体育の授業が窓から見えるから面白かったよ」
「へえ、いいな」
「隣の子とはいまもよく会うぐらい仲良くなったし」
姉さんは細い腰に手を当てて誇らしげにする。
「姉さんなら誰が隣になっても仲良くなるでしょ」
「違うよ。誰が隣でも仲良くなろうとするの」
姉さんは柔和な口調で訂正した。
一緒じゃないか、と僕は苦笑する。
「あ、悠太郎」
洗面所を出ようとしたところ、呼び止められた。
「あとでいいものあげる」
また何か思いつきをしたらしい。僕は振り返って眉をひそめて訊く。
「いいものって」
「さあ、何でしょう」
鏡を見ると、姉さんが悪戯っぽく笑っている。ふと思い立って姉さんの隣まで行き、鏡の向こうで肩を並べた。
「どうしたの?」
姉さんが不思議そうに僕を見上げる。見上げるんだ。
自分が姉さんの背を追い越していたこと、数字の上では知っていた。一緒に生活しているのだから並ぶ機会は幾度となくあった。わかっていたはずだ。
でも何だか、いまこのとき初めて実感した気がする。いつも姉のほうが年上で、背が高くて、見上げてばかりだった。それが当たり前になって、ずっと見上げる感覚を持っていたんだ。
改めて背比べをして、こんなに自分は成長していたんだと驚かされた。……信じられないことのように思ってしまう。
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