第14話 傾聴

 自分がまだ歩けると思っている藤枝さんは、毎日のように「自分でするわ」「私が片付けとくわ」と動き始める。

 多くの職員達は藤枝さんの言動を頭ごなしに否定し、藤枝さんはここに居たら何もしなくて良いんやから、何の心配もないんやから、と、取りなす。

 言外に、あなたは何もできない人だから何もするな、もっとぶっちゃけると、あなたが自主的に自分の意思で行動すると職員や回りの利用者が迷惑するから自分の意思では一切動いてくれるな、という意味のことを、上手く言い換えて伝えるが、藤枝さんにはどう聴こえているだろうか。あなたはこの世の中に必要とされていない、と聴こえているのではないだろうか。

 それを示すように藤枝さんはこれ以上ないような寂しさを帯びた顔つきになる。藤枝さんばかりではなく、他の高齢者達も同じことを言われると一様にそんな表情に変わる。

 職員側としては、勝手に動き回られて転倒して骨折でもされて病院に連れて行かなければならなくなることが煩わしいだけなのだが、相手の気持ちへの想像力の欠けた対応は、少なからず高齢者の心を傷付けているのだろう。だんだんと心を開かなくなり、本音を言わなくなる。

 それはそれで好都合とばかり、職員は他にも山積みになっている自分の仕事をやり続ける。表面上丁重に扱われてはいるが、するべきことを奪われた人は哀れだ。

 藤枝さんは昔はラジオやテレビで歌を聴くのが好きで、映画もよく観たそうで、体調や機嫌の良い時は歌手や映画の思い出話を始めるが、聴こうとする職員は少数で、多いのは、藤枝さんのする若者にとっては聞いたこともない名前の歌手の話の腰を折って、今人気のテレビ番組や今話題の映画、今のアイドルや歌手の名前を出し、知ってますか、などと問い掛けて藤枝さんの話をぶち壊しにした挙げ句、結局は互いにしらけて会話が終わってしまう。

 他にも、下着の名前でも昔はズロースとか襦袢とか今とは違った言い方をするし、藤枝さんもよく、襦袢がない、と言ったり、ベルトのことを腰巻きと言ったりするが、若い職員は即座に、その言い方は間違っている、と言わんばかりに、今の言い方に訂正する。

 高齢者本人の生きてきた世界に対して想像が及ばず、理解しようとしたり知ろうともしない職員が圧倒的に多い中、アジャイは高齢者達の話を、日本語が完全に理解できないながらも聴こうとしていた。日本人の職員ができない『傾聴』を、インド人が日本人に対してできている。以前のインドネシア、ベトナムの研修生もそうだったが、母国語ではないからできるのか、あるいは、今の日本の流行を知らず、古い日本の流行をダサいと思うような感覚がないからだろうか。それとも、日本人が失ってしまった精神を彼らが持っているのだろうか。

 アジャイが藤枝さんの妄想的な話にも付き合って熱心に聴いていると、他の職員は鼻で笑い、またルーティン的な業務にアジャイが手を付けないことに対して怒りを露わにしたりもする。

 アジャイは、日本の演歌に興味があるのだそうだ。義彦は四十歳位になったら自分も自然に演歌やクラシックに興味が湧いてくるのかと思っていたが、そんなことはなかった。今でも、洋楽を聴く。ただ、演歌でも、心に沁みる、繰り返し聴きたくなる好きな曲はある。

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