第12話 疑問

 アジャイが来日・入職して半年が過ぎた。

 一人一人を世話することにかけては慣れたアジャイだが、一日の業務の流れを理解するには至っていないようだ。ただ日々、楽々と業務をこなしてはいる。

 アジャイの教育係の義彦は、今までは時々の介助のやり方についてや個々の利用者についての質問を受けるばかりだったが、このところアジャイから職場全体の仕事のやり方についての疑問が聞かれるようになり、変化を感じ取っていた。

 なぜ他のみんなは藤枝さんがトイレへ行きたいと何度言っても連れて行ってあげないのか、との意見も言うようになった。

 今までに来たインドネシアやベトナムからのEPA研修生は、批判的なことは言わなかった。日本へ介護を学びに来て、日本の介護現場のやり方に異論を挟んではいけないと思っていたのかも知れない。インドから来たアジャイは東アジアから来た彼らとは少し文化背景が異なるのか、あるいはイギリス式の学校教育を受けたことによるものか、彼固有の性格的なものなのかは分からないが、堂々と異を唱える。

 彼の言う通り、できれば藤枝さんの望む通り、行きたい時に行きたいだけトイレへ連れて行ってあげたいが、職員の数もトイレの数も限られている中、同じ人ばかりトイレへ連れて行っていては他の人がトイレへ行けなくなってしまうということもある、と答えると、いや、他の人のトイレ誘導が終わっていても連れて行かない、と食い下がってくる。

 そう、じゃあ注意しとくよ、と彼には伝えるしかなかった。よく見ている、とも思った。介護職員の多くは忙しさの中にいる時はテキパキ動くが、日課的に決められた業務をやり終えてしまうと、あとは進んで何もしないところがある。

 藤枝さんはトイレへ行きたいという訴えを、今行ったとこやで、と職員に却下されると、ほな一人で行くさかい、と立てないのに立ち上がろうとするなど、自分がまだ歩けるつもりでいる。

 アジャイは藤枝さんのそんな妄想にも付き合い、行動を止めず、どこまで自分でできるのか、転倒しないように注意しながら近くで見守っている。

 女性職員が、アジャイがそばに付いているにも関わらず、危ない、危ない、と大きな声で藤枝さんを止めようとすると、アジャイはあからさまに嫌な顔をする。あのギョロ目で、声のする方向を睨み付ける。

 顔に出過ぎや、と義彦はヒヤッとする。

 この職場で女性を敵に回すと、ものすごく厄介で、こじれる。過去にそれで退職に至った職員が何人か居た。男性も居たし、女性同士の争いもあった。いずれも、火元は良い介護をする職員だった。

 相手の言うことにじっくりと耳を傾け、相手のペースを大事にする。それを続けていると、どうしても施設のスケジュール的なものと相反してしまう。多数派はいつでも、施設のスケジュールを高齢者個人の意思よりも優先させる、一日の仕事を早く終わらせたい職員達だった。個人の意思は、わがままとみなされがちだった。

 確かに認知症高齢者は同じことを何度も訴え続けるし、職員の話はまったく聞かないし、そもそも相手の言ったことや自分が言ったことを次の瞬間には忘れている。それをいちいち相手にしていたら、今度は他の高齢者の世話ができなくなってしまう。職員の数は限られていて、時間も限られている。多数派の職員達の考えも、この仕事を長く続けていると、痛いほどに分かる。

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