第10話 風呂

 入職から二週間ほどが経ち、アジャイにも入浴の介助に入ってもらうことになった。

 寒い季節は入浴介助をする方も辛いが、お風呂です、と声を掛けられた高齢者達も、断ろうとする人が多い。どうにか、騙し騙し浴室へ連れて行き、服を脱がせ、身体を洗い、あとは機械浴槽内に入れ込み、お湯を入れる。途中で暴れる人も居て、力ずくの行動が必要な時もある。

 朝に水浴びをするが、湯船に浸かる習慣のない国から来たアジャイにとっては、入浴の習慣そのものが不思議なようだ。なぜお湯に浸かるのか、身体にどんな作用があるのか、と義彦に質問してくる。あまりに疑問が根本的過ぎて、答えに窮した。

 入浴の習慣は日本だけではないが、世界には湯船に浸からない文化の方が多いことは各地を旅行した義彦には身をもって分かる。

 インドにも温泉地があり、義彦も何ヶ所かに訪れたことがある。インドの温泉は聖地であり、沐浴の場であるとされていることが多く、義彦の訪れたヒマラヤ山麓の温泉地では、お湯に頭から出たり入ったりを繰り返しながら聖句を唱える人や聖歌を歌う人が居たが、それ以外の地域では、水浴びや、お湯を身体に掛けるのみで、お湯の中に浸かる習慣はないようだ。

 なぜ日本人はお風呂へ浸かるようになったのだろうか。介護施設とお風呂はセットになっている。日本で入浴サービスのない介護施設というのは、まず考えられない。介助する側としては個々の動作能力がより詳細に確かめられる貴重な場でもあるし、普段は見えない服の下の皮膚の状態を観察できる場でもある。その身体には年輪のようなものを感じることがある。

 機械浴槽に浸かった高齢者が、入る前の激しい拒否や身体を洗われている時の大暴れとは裏腹に、まだ上がりたくない、と言い張るその変化が、アジャイには驚きだったようだ。


 藤枝さんの拒否ぶりは、すごい。二ヶ月入らなかったこともある。お風呂という言葉を聞いただけで「嫌や!」と叫び、取り付く島もない。

 風呂とは言わず、ちょっと行きましょうか、などと言って風呂場へ連れて行こうとするが、風呂に入れられようとしていることに感づくと、絶叫と大暴れが始まる。

「騙して連れて来やがって、私は一生風呂なんか入らへんのや!」などと叫びまくる。    

 身体を洗われているあたりはまだ激しく抵抗し、蹴ってきたり、職員の手を掴んだりして必死に抵抗している。対抗策として、わざとシャワーを顔に掛けて動きを止めることもある。

 シャワーのお湯を顔に浴びた藤枝さんの表情は怒りで阿修羅のようになるが、抵抗は少し止まる。阿鼻叫喚の中で洗身を終え、お湯に浸かると、これまでの騒ぎが嘘のようにおさまる。お湯には魔力があると言えるかも知れない。

 義彦の、敢えて相手を怒らせることも辞さない思い切った連れて行き方や手早い服の脱がせ方、藤枝さんの繰り出すパンチやキックをかわしながら身体を洗うやり方を見て、アジャイは大きな目をさらに大きく見開き、立ち尽くしていた。

 この仕事を長くやっていると、虐待すれすれのことをしなければいけない場面に多く遭遇する。清潔を保つため、また感染症を予防するために無理やり風呂に入れたり、言っても聞かない相手の抵抗を押さえつけておむつ交換をしたり、栄養状態を保つため、口に無理やりスプーンを突っ込むような食事介助をしなければならない時がある。

 入浴やおむつ交換を嫌がる人は多い。ある程度の拒否は認められても、あまり長く放置はできない。世の中に介護の虐待事例は多いが、介護と虐待の境目が見えにくい面もある。


 藤枝さんの娘さんは週一回のペースで訪ねて来ては、物腰柔らかではあるが、色んな要求を言ってくる。お風呂にはちゃんと入れてもらっているんでしょうか、ちゃんと食べていますか、などといったことだ。

 娘さんの希望にこたえようと思うと、どうしても無理なことをする必要も生じてくる。

 義彦は今日まで一ヶ月入浴していなかった藤枝さんを風呂に入れることができて、ホッとしている。ただ、アジャイに見せる光景としてはきつく映ったかも知れない、と少し反省する。

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