第7話 帰る
インドには長期滞在する先進国からの旅行者が六〇年代のヒッピームーブメントあたりから一定数居ると言われ、日本人も多く、十年、二十年という単位でインドを出たり入ったりしながら旅行している人にも何人か会ったが、彼らの多くは「インドへ帰って来た」と言う。義彦にとっても、だんだんとインドは「帰る」場所となっていった。
インドを出て他の色々な国々へ旅行したが、再びみたびインドへ入り、気付けばトータルで二年以上の月日をインドで過ごしていた。一度入国すると六ヶ月間滞在可能なので、いつの間にか長い間居たことになる。
義彦は京都で生まれ京都で育ったが、先祖代々京都に住んでいたわけではない。
義彦の父が生まれたのは、旧満州大連だとのことだ。満鉄職員だった義彦の祖父にあたる人が急逝したことで、終戦前に佐賀へ引き揚げた。もし祖父が元気で、一家で大連に暮らしていたら、一九四五年の日本の敗戦と同時にソ連軍が満州へ侵攻、略奪を繰り返し、逃げまどう日本人の一家離散が相次ぎ、中国残留孤児と呼ばれる人達がたくさん出た悲劇の渦中に巻き込まれていたであろうことは間違いない。
義彦の父に大連時代の記憶はなく、父の兄である伯父が佐賀から京都へ遊びに来るたび、義彦にも大連から命からがら帰って来たことや引き揚げ後の苦しい生活の話を義彦にも聞かせ、改めて義彦は自分が京都に生まれてきたことが奇跡的であることを感じさせられた。
大連から一家で引き揚げた後、祖父の実家に身を寄せたが台湾から引き揚げて来た祖父の兄一家も一緒でいつまでも居られず、父の長兄が炭坑に就職したことで社宅へ一家で移った。小中学校を出た父はすぐに就職しようとしたが、祖母や伯父に強くすすめられて高校へ進学した。早く家を出て自立したかったので九州を離れ、関西方面への就職を決意した。関西では、伝統のある京都に惹かれた。
実際に京都へ来てからは、いくばくかの辛酸も舐めたようだ。京都は観光するにはええとこかも知れんけど人間の住むとこやない、と義彦の父はよく吐き捨てるように言っていた。
中世から、京都の都の中心部に最低四代住んでいないと、京都人、みやこびととは認めてもらえない、との暗黙の了解がある。昔は、御所周辺から河原町や祇園などの中心部のみが京の都と言われ、義彦が生まれ育った左京区あたりは京都ではなく、母親も京都とは言っても郡部の、福井県との県境に近い村から市内へ出て来たので、左京区の長屋の一角に居を構える義彦一家は誰一人として京都人ではないことになる。
左京区は大学が多いせいか、人の出入りが激しく、京都生まれ京都育ちの人は多くはなかった。高校時代のアルバイトを通じて様々な地方から来た人達と知り合い、話すことができた。高校卒業後、義彦が東京へ出た理由のひとつには、父のように自分の人生をゼロから切り開きたい、との気持ちがあったように思える。父は義彦に厳しかったし、過酷な体験をしていない義彦を見下すようなところがあったので、父に負けたくない、父から認められたいという思いもあった。
東京は地方出身者の巣窟だが、他人に対しては無関心な空気が漂う。京都とはまた別種の人への冷たさがあった。
外国へ長期旅行に出た後、住む所もないので京都の実家にしばらく身を寄せ、その後、アパートを借りた。やがて結婚し、京都市内に住んでいる。実家のある左京区からは離れた西京区なので、京都に帰って来た、との感覚は薄く、新しい土地に来て、新しい挑戦をしている感じがする。
夕食の時間が近付いてくると、決まって認知症の高齢者達の何人かが「家に帰る」と言い出し、歩くための下肢筋力が衰えている人達も動き出そうとしたりする。
危険なので押しとどめるが、声掛けのしかたに気をつけないと逆上されたりする。「ご飯やから」と言い聞かせようとするが、決して聞かない。
職員の多くは、特に女性職員は、施設の決められた食事時間を言い立てて席に着かせようとする。しかし、独自の妄想世界に生きる認知症高齢者達に効果はない。
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