二章

第15話 三年間

 ローレンが王都へ行ってから俺は二度、一人、運河に浮かぶランタンを見上げた。ローレンは二年間一度もエヴラール領に戻らなかったのだ。勇気を出して会いたいと送った手紙に、返事はもらえないまま。間も無く、運河にランタンが浮かぶ季節はローレンがいなくなって三回目を迎える。三年ともなると、さすがにローレンは心変わりしたのかも知れないと思うようになった。

 エドガー家での暮らしは快適だったけれど、ローレンが心変わりしたのなら此処にはいられない。身の振り方を、考えておかねばならない。頭で分かってはいても諦めることも簡単ではなく、週末は教会の礼拝に行き祈っていた。ローレンに掛けてもらったロザリオを握って。

 

 ローレンとまたランタンを見上げたい…。ただ、それだけ。



「ノア、私の話を聞いていなかったのか?先週教えたことを全く理解していない。」

 その男は手早く絵を確認しながら、俺が描いた絵に次々とダメ出しをしていく。

「まず基本を完璧にすること。来週、またやり直して来てくれ。」

 そう言って彼は俺に紙の束を渡す。俺はそれを受け取って、お礼を言うとその男の家を後にした。

 安息日は毎週、この男の家で絵を習っている。男は以前、俺に親切だった三人のうちの一人、四十代くらいの髭を生やした男、アロワ・デムラン。以前は王都で、本の挿絵を描いたりと画家ギルドに所属して仕事をしていたらしい。本の挿絵は小さいながらも存在感があり、この人に絵を習いたいと思わせる素敵な絵だった。どうしてか筆を折り、領都から少し離れた小さな家で当時の蓄えを切り崩しながら一人暮らしをしている。俺は約三年、まだアロワに褒められたことは一度もない。最初に才能があると言われて俺は絵を甘く考えていた…。今日も叱られて、夕暮れ、とぼとぼと一人エドガー邸に帰る。



「ノアー!」

「あっ!ルカ様!」

 エドガー邸に戻るとローレンの弟、ルカが俺に飛びついて来た。ルカを追って来た召使の女性、ベルは額に汗をかいている。

「ノアは今日お休みなのですから、ダメですよ!今日はこのベルと遊ぶ約束でしょう?」

 ルカは遊びたい盛りの、七歳。ローレンとは十以上歳が離れている。ローレンは弟と自分に対する両親の態度が違うと嘆いていたが、ルカは歳が離れすぎているのだから仕方ないのではないか?俺にはそう思えた。


「大丈夫ですよ。ルカ様、何して遊ぶ?夕食の前までだけど… 」

「ノア!いいのよ!ルカ様には我慢も必要だってジェイド様もおっしゃっていたし。それに、ノアには絵を描いて欲しいの!」

 ベルはふふ、と笑う。アロワに知れたら怒られそうなのだが…俺はベルや、その知り合いなどに頼まれて絵を描いて、少しだけ謝礼を受け取っている。当初謝礼は受け取っていなかったのだが、俺の境遇を知っているベルが、市場や店で絵を売るにはギルドを通す決まりだが私的な依頼で謝礼を受け取る分には問題にならないからと、謝礼の額まで取り決めてしまったのだ。

 絵は人物画が殆ど。年頃の女性達が片思いしている男…エヴラール辺境伯家に勤める騎士達の姿絵を主に描いている。本物よりかっこいいと喜んでもらえていて、俺も絵を描く喜びになっていた。


「大丈夫。もう出来てるから。はい、これ。」

俺は鞄から姿絵を取り出してベルに渡した。

「ノア!今回も素敵ね!」

 ベルは絵を見るなり笑顔になった。そして袋に入れた銅貨を俺に手渡す。

「え、こんなに?!」

「うん。私の実家の幼馴染達みんなすごく喜んで、取り合いにあってしまったの。今度お願いしたい方の名前もこの中にはいっているから!待っているわ!」

 ベルはそう言って片目を瞑って見せた。


 ルカは俺たちのやりとりに痺れを切らし、俺の手をぐいぐいと引っ張る。

「ノア、かくれんぼしよ!」

「いいよ。じゃ、俺が鬼!数えるよ。いーち、にー… 」

 俺が目をつぶって数を数えると、ルカはバタバタと走って行ってしまった。そうだ…隠れる範囲を言い忘れた!俺は十の辺りで少し慌てた。

「もういい?」

 ルカに問いかけてみたのだが、案の定返事がない。エドガー家はエヴラール領の双璧…。家が広いのである。


 俺が目を開けると、ベルは「ご愁傷様!」と笑っていた。俺は慌てて、ルカを呼びながら、ルカが走っていった方角へ向かう。


 その後、屋敷の中を探してたがなかなかルカが見つからないので、他の召使達も一緒にルカを探すことになった。


 エドガー家本邸を探し尽くした後、はたと俺は心当たりを思い出した。それは本邸の隣の離れ。昔、ジェイドの両親が隠居していたらしい離れは、あるじが数年前に亡くなってから今は誰も住んでおらず、倉庫になっている。離れをルカが探検しようとするたび、ジェイドに危ないからと叱られていた筈だが…。


 俺はもしかしてと思い、離れに足を踏み入れた。すると、奥の方から誰かが話す声が聞こえる。誰だろう…?まさかとは思うが、泥棒?俺は足音を立てないよう慎重に、廊下を歩き声のする方へ向かった。廊下を真っ直ぐ歩いて行くと突き当りの部屋のドアが少し開いている。そっと中を覗くと、部屋に飾られた大きな肖像画の前に、ジェイドがルカを抱き、静かに話をしていた。


「右端がおじい様、真ん中がおばあ様…その隣がお父様?」

 ルカが指を差しながらジェイドに問いかけている。その肖像画は、夫婦の左右に、そっくりな男の子が二人描かれていた。きっと、いまのルカくらい…いやそれよりも小さいころかもしれない。

「そうだよ 」

「じゃーこの人は?」

「それは…私のお兄さん 」

「お兄さん?」

 ルカは首をかしげている。そうだ。俺も三年エドガー家で働いているが、ジェイドに兄がいるというのは初耳だ。ジェイドも美形だが、ジェイドの兄という人も美しい。金の髪はジェイドと同じだが、瞳はジェイドよりずっと濃い緑色。そして兄という割に、小柄で儚げに描かれている。

「そう…。兄上は昔から身体が弱くってな。この領には治療できるものがおらず、ずっと王都で別々に暮らしていたんだ 」

「今も?」

「今は…もう…天に召されている。あれからもう、十八年、経ってしまった… 」

「天…。おにいさんが…十八年?ずっと前ってこと?」

「そう… 」

 そうか、それでこの邸でジェイドの兄の話を聞いたことがないのだな…。ルカは動揺して、すこし涙ぐんでいる。ジェイドの兄の早逝を理解したらしい…聡い子だ。

「父上、兄上は大丈夫ですか…兄上も王都に行っていて… 」

「お前の兄上は大丈夫だ。学校でもよい成績を収めていて、元気だから心配いらない 」

 ジェイドの話で、俺も胸をなでおろした。良かった、ローレンが元気で。でも、それなら尚更…。俺はその場で考え込んでしまい、ジェイドとルカがこちらにやって来たことに気付かずにいた。



「ノア!」

 ルカはジェイドの腕から降りて、俺のところに走って来る。

「ルカ様!見つけた!…でもだめですよ。ここには入らないように言われていたのに 」

「ノア。ルカは先ほど私に既に叱られて反省しているから、もう叱らないでやってくれ。それと…妻には秘密に…。さ、戻ろう 」

 ルカはジェイドに庇ってもらい、満面の笑みで俺の手を引く。…確かに、ジェイドはルカに甘い。

 俺はルカを食堂まで連れていった。内緒にしようと思っていたのだが…既に奥様にルカの事は知られていて、結局ルカは叱られてしまった。微笑ましくその様子を見ていると、ジェイドにそっと、声をかけられた。


「ノア、今度の騎士祭り、私は出場しないことにした。だから…一緒にランタンを見に行こう 」

「え… 」

 その誘いに俺は戸惑った。きっと、何か俺に二人だけで話があるということだろう…嫌な予感しかしない。


 俺は祈った。どうか、悪い知らせではありませんように。


 ――思えば、俺はいつも祈っていた。小さい頃は、親が迎えに来て借金を返してくれますように。そして愛していると言って抱きしめてくれますように…。恋をしてその想いが成就してからは、それが長く、永遠であるようにと…。そんな器ではない身に余るほどの願いに、神は辟易していたのだ、きっと…。


 ジェイドは俺に告げた。


「ノア…。来年の春、学校を卒業してエヴラール辺境伯の嫡男マリク様がお戻りになる。お前も知っている通りマリク様はオメガ。周囲に置くものは厳選しなければならぬ。エヴラール辺境伯はお前を、と指名された。春からは此処を出て、エヴラール辺境伯家へ行ってもらう 」

「し、しかし、私は… 」

「ノア…お前は学はないが賢い。ここまで言えば…分かるだろう?」

「…… 」

 

 賢い、なんてそんな…。言われたことがないし、ジェイドの言いたい事はよくわからない。ただ、出ていけと言われたのはわかった。ローレンから連絡がないのも、そういう事なんだろう…。


「ノア、お前の親がどんな罪を犯したか、知っているな?それでもお前が今日まで生きてこられたのはエヴラール辺境伯の温情あってのこと。それには必ず、報いなければならない… 」

 俺はジェイドの問いかけに頷いた。そしてジェイドが止めるのも聞かずにその場を逃げ出した。


 涙が溢れて止まらなかった。


 ローレンが出ていって三回目の騎士祭り…。空には無数のランタンの灯りと運河の両岸にもランタンを見物する船の灯りが輝く。それらは全て運河の水面に反射して、辺りは一面、光の渦…。でも、どこにも、あの日見つけたはずの希望の光は見えなかった。

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