第2話 肖像画

 絵が苦手だと思っていた正孝だが、中学に入ると、美術部に入部した。その理由は、実に不順で、

「好きなタイプの女性が先輩にいた」

 という理由だったのだ。

 その先輩は、名前を、

「ゆいか先輩」

 という。

 ゆいか先輩は、2年生で、一学年上なのだが、実際の学年差よりも、もっと離れているように感じる。

 しかし、その雰囲気はおとなしく、しかも、成績優秀の優等生ということで、男性先輩の、

「憧れの的」

 だったのだ。

 それこそ、

「高嶺の花」

 といってもいいくらいで、先輩たちも同じなのだろう。

 ただ、男性先輩の中には、

「ただ見ているだけでもいい」

 と言っている人もいる。

 確かに、憧れの的ではあるのだが、

「自分なんかに、対等に扱ってくれるわけはない」

 という、どこか、ひねくれた考えの人もいて、もっといえば、そういう、ひねくれた考えを持っている人に、ゆいか先輩のファンは多いようだ。

 ということは、

「ダメンズ」

 という連中の憧れであることから、彼らにとって、ゆいか先輩は、女神のように見えるのかも知れない。

 そう思うと、

「じゃあ、俺もダメンズということか?」

 と、正孝は思うのだったが、まさに、その通りであった。

 美術部に入ったのは、結構早い段階だった。もう4月の時点で入部を決めた。そもそも、最初に声を掛けてきた最初が、美術部だったというのも、何かの運命であろうか。

 最初は、

「億劫だな」

 と思っていたが、誘われるままに、部室に行ってみると、そこにいたのが、ゆいか先輩だった。

 先輩は、こちらを振り向くと、最初は、キョトンとしていたが、その様子は、何かたじろいでいるようにも思えるのだった。

 だが、次の瞬間に見せたその笑顔に、魅了されたといってもいい。

 しかし、それは、

「最初の戸惑っている顔を見たからだ」

 とずっと思っている。

 あの顔を見た瞬間に、

「先輩がどういう人なのかを分かったかのように思える」

 というくらいで、もし、

「先輩を好きになった瞬間があるとすれば、いつですか?」

 と聞かれると、

「最初の、あの戸惑いの表情を見た時」

 と、即答することだろう。

 アイドルの写真集などでも、

「確かに、笑顔が素敵な人がアイドルになるんだな」

 とは思うが、その中の数枚、まるで戸惑ったかのような表情を浮かべているのを見た時に、

「どこか、ホッとする気分がする」

 というのも事実で、

「いくら笑顔が素敵でも、最初から最後まで、すっと笑顔であるよりも、途中に、戸惑っているような表情がある方がいい」

 と思うのだ。

 それは、戸惑った表情に、

「ドキドキ感」

 というものを感じるからであった。

 笑顔がキレイだったり可愛いのは、その意識が、

「この人はアイドルなんだ」

 というイメージから、

「近づきがたい雰囲気なんだよな」

 ということを感じさせる。

 しかし、戸惑ったような表情をされると、

「ああ、あの近づきがたいあの人が、この俺に、まるで、助けを求めている」

 という感覚に襲われるのだ。

 そこで、急に、

「距離が縮まった」

 という意識が生まれ、相手に対して、劣等感がなくなり、

「俺はヲタクじゃないんだ」

 とも感じさせる瞬間だった。

 まだまだ、

「アイドルを追いかけている」

 ということになると、

「あいつは、ヲタクだ」

 と言われているような気がしていて、今では、

「推し活」

 と言われるように、市民権を得ているはずだと思いながら、結局は、

「大人から見れば、ヲタクにしか見えないんだろうな」

 と思うのだ。

 ただ、大人だって。子供の頃があったはずだ。

「ヲタク」

 という言葉はあったはずだが、なかったといても、

「アイドルの、追っかけ」

 という言葉はあっただろう。

 今と違って、

「そんなことは、人には言えない」

 という時代だったのは、間違いないだろう。

 今であれば、好きなアイドルやアーチストができると、

「そんなお金がどこから出てくるのか?」

 と思うほど、その人が全国ツアーというようなライブに、

「どこでもかしこでも姿を現す」

 というものである。

 当然、アイドルのスケジュールはすべてチェックしていて、チケットも、即行で購入し、チケットが取れれば、宿も同時に確保するということで、

「完璧な、推し活」

 というものが、できているということであろう。

 もちろん、正孝は、そこまでの

「ヲタク」

 というわけではない。

 むしろ、

「アイドルにうつつをぬかして、どうするというのか?」

 と、単純に、

「お金がもったいない」

 と思うのだった。

 しかも、

「そんな労力があるなら、他に使えばいいのに」

 と思うほどで、

「本人が、熱をあげればあげるほど、見ている方は、その逆に冷めていくものだ」

 と感じているのだった。

 まだ、中学に入ったばかりの正孝なので、アイドルに憧れるとしても、まだ、

「コンサートを見に行きたい」

 というところまでは思っていないのだった。

 そもそも、

「音楽というのは、CDなどで聴くものだ」

 と思っていた。

 コンサートやライブというと、

「それこそ、ファンやおっかけがギャーギャー騒いで、音楽の本当のよさを聞き逃す」

 と思っていた。

 人によっては、

「ライブで聴く音楽が、本当の音楽だ」

 と言っている人もいるが、正孝は、

「そんなことはない」

 と思っていたのだ。

 なぜ、そう思うのかというと、

「ライブで聴く音楽というのは、ファンと一体になって、作り上げるエンターテイメントだ」

 というイメージだった。

 だから、

「ただ、うるさいだけではないか」

 としか思えなかった。

 それは、音楽だけにいえることではなく、スポーツも同じだった。

 友達と野球を見にいった時、外野席の、ライトスタンド、つまりは、

「ひいきチームの応援団がいるところ」

 ということで、皆立ち上がったりして、応援に躍起になっている。

 それ以外の人はというと、応援団を見ながら、まるで他人事のように、ビールなどを飲んでいるのだ。

 要するに、

「真面目に野球の試合を見ている」

 というわけではない。

 いや、

「試合は見ているのかも知れないが、野球を見ているわけではない」

 ということだ。

 そもそも、野球を見にいくというのは、

「ピッチャーの球筋であったり、目の前で見るスピードボールや、そのB―るを打ち返す打者というものの、プロとしてのプレイを見るのが、野球観戦だ」

 と思っていた。

 それなのに、ホームベースから、100メーター近くも離れたところから見るのだから、球筋どころか、

「選手すら、豆粒にしか見えない」

 というものであった。

 ということは、

「プロの技を見ようとすると、バックネット裏などにいかないと見えない」

 ということである。

「野球を見る一番のベストポジションって、どこだか分かるか?」

 と誰かに聞かれたことがあったが、それに答えることができずに、黙っていると、その人は笑いながら、

「テレビで中継しているのが、一番のベストポジションなのさ」

 というではないか。

「なるほど、バックスクリーンあたりからズームで見るから、コースも球筋も、分かるというものですね」

 というと、

「それはそうだろう。それに、野球場で、解説が聞えるわけでもないし、テレビ中継が、一番のベストポジションではないかと思うんだけどな」

 と言われ、

「そうですね、しかも、タダですしね」

 というと、

「そうそう。それに、今は、有料放送にすれば、月額数百円で、試合終了まで見ることができて、ファンに寄りそう中継をしてくれる。それがありがたいんだよな」

 ということであった。

「じゃあ、どうして、皆、野球場に行くんでしょうね?」

 と聞くと、

「さあ、そのファン意識は分かりかねるところはあるが、やっぱり、野球場に出かけるというのは、ストレス解消もあるんだろうな。もっといえば、集団意識のなせるわざともいえるのではないかな?」

 というではないか。

「集団意識」

 という言葉はよく聞く。

 しかし、孤立というものを、自分で小学生の時点で選択していた正孝とって、

「集団意識」

 というのは、

「完全に他人事」

 という意識であった。

 野球にしても、コンサートにしても、確かに、

「集団意識のなせるわざ」

 であり、

「お金を払って見に行くのは、プロの技だ」

 と思っている、正孝にとっては、ファンが外野席で騒いでいるのは、目障りで仕方がない。

 しかも、トランペットやメガホンなどを叩いて、選手個人個人の応援歌を演奏するなどという応援方法は、

「日本独自のものだ」

 ということではないだろうか?

 アメリカでも、他の国でも、もっと静かに応援しているものだ。

 それを思えば、

「同じ日本人として恥ずかしい」

 とまで思うほどであった。

 野球やスポーツでそうなのだから、

「音楽ともなると」

 と考えてしまう。

 音楽というと、元来静かに楽しむものなのではないだろうか?

 クラシックコンサートなどで、声は完全に厳禁で、飲食の際に音を出すのも厳禁なので、飲食禁止というのは原則ではないだろうか?

 それなのに、コンサートでは、皆がざわざわ騒いでいる。

 しかも、アーチストが出てくると、

「キャー」

 とばかりに、声も枯れんばかりに叫んでいる。

 昔の、グループサウンズというのが流行っていた時代には、

「失神した」

 という人もいるくらいで、実際には、昭和バリバリの時期でも、今と変わらずに、コンサートの雰囲気は喧騒としていたものなのだろう。

 もちろん、昭和と今の令和とでは、その騒ぎ方もかなり変わっていることであろう。

 何といっても、アイドルという形式がかなり変わっているというのも、その理由ではないだろうか?

 ちょうど、世紀末くらいからのアイドルというと、それまでとは、革命的に変わってしまっていた。

 とにかく、たくさんの人を集めて、

「アイドルグループ」

 という形にしていたのだ。

「全国の都道府県代表を選んで、それでアイドルグループを結成しよう」

 という動きもあったくらいで、それが実現したのかどうなのかは分からないが、最近のアイドルグループというものには、それなりに、

「コンセプト」

 というものがあるといっても過言ではない。

「ブームというのは、15年に一度くらいのペースでやってくる」

 と言っているひとがいたが、その人というのは、

「メイドカフェの店長」

 で、テレビのドキュメンタリー番組でやっていたのだった。

 メイドカフェは、それこそ、

「コンカフェの一種」

 と言われている。

 そして、この

「コンカフェ」

 というのは、

「コンセプトカフェ」

 という言葉の短縮形であった。

 アイドルも、個人個人で自分の自己紹介のパターンを持っている。それも、一種の、

「コンセプトだ」

 といえるのではないだろうか?

 コンサートでは、楽曲演奏の合間に、ファンが勝手に作った、

「合いの手」

 のようなものを入れて、それを自分の人気だと思っているアイドルもいるだろう。

 確かに、アイドルからしても、

「ファンを大事」

 にして、さらに、

「ファンとのふれあい」

 というものを考えると、

「こんなに自分はファンから愛されているんだ」

 ということで嬉しいのも分かる。

 しかし、アイドルと言っても、それは、

「楽曲を披露してのパフォーマンス」

 というものが、アイドルの仕事なのではないだろうか?

 と思うのだが、最近の、

「アイドルプロデュース」

 ということで、

「歌って踊れるアイドル」

 というものから、

「すぐ近くにいるアイドル」

 というものに変わってきている。

 しかも、そのアイドルというものが、もっといえば、プロデュースをする方からすれば、

「アイドルを辞めても生きていける」

 ということを目指すようにもなっていた。

 それだけ、今までが、

「芸能界というものが、使い捨ての文化だった」

 ということかも知れない。

 正直、詳しいことは分からないが、

「分からない」

 ということだけで、それだけ、怪しいといえるのではないだろうか?

 だから、最近のアイドルは、

「歌って踊れるだけではダメで、勉強をしたり、アイドルが今までしてこなかったような分野にも積極的に顔を出す」

 ということをやるようになったのだ。

 テレビのエンタメ番組や、バラエティへの出演はもちろんのこと、最近のバラエティというと、

「芸人などが、コメンテイターという昔では考えられないほどの番組になってきた」

 ということであるが、アイドルが、そんな芸人と絡むという番組もあり、

「アイドルグループ」

 の中での、

「お笑い担当」

 と言われる部門が出てきたりしているのであった。

 それを思うと、本当に多種多様なアイドルがいる。

 中には。十数年くらい前から言われる、

「歴女」

 というように、

「歴史に関しては、誰にも負けない」

 というアイドルであったり、

「将棋や囲碁」

 などの教養番組に出て、段を取ったりする人もいる。

 もちろん、ミュージカルや舞台などで、女優として生きる人もいれば、テレビドラマや映画などで、スクリーン上の俳優として生き残る人もいる。

 ただ、あれだけたくさんのアイドルグループが、それこそ、各県にいくつかあるという状態なので、

「全国にはどれだけのアイドルがいるか?」

 ということになり、それを思うと、

「本当にアイドルというのも生き残りをかけて、年齢とともに、変わっていかないとダメなんだ」

 ということである。

 さすがに、40歳を超えてから、

「アイドル」

 というのはきついだろう。

 ただ、コンセプトとして、

「熟女アイドル」

 というのもいるので、そこも難しいところだ。

 アイドルという括りでいけば、

「地下アイドル」

 というものがある。

 最近のアイドルが、歌手や、俳優以外で活躍する人が多いことに対して言われることであるが、

「あくまでも、音楽を中心としたアイドルグループということで区別されるのが、この地下アイドルというものだ」

 ということである。

 だが、どちらかというと、

「インディーズと言われるような、野球でいえば、マイナーリーグ、二軍というような、一流アイドルへの下位組織」

 というイメージが強い。

 確かに、地下アイドルが目指すものは、

「メジャーデビュー」

 ということで、その言い方は明らかに、

「今の自分たちは、マイナーなんだ。だから頑張ってメジャーに上がりたい」

 と思っているのだろう。

 彼女たちのグループであれば、

「ライブやコンサートでは、すぐ目の前にファンがいて、ファンと一体になって騒いだりする」

 というのもありかも知れない。

 しかし、メジャーとなって、メディアへの露出が大きくなると、

「音楽を静かに聞きたいと思っている人には、きつく感じられる」

 だが、今のファンというのは、たぶん、地下アイドルの時代から、見守ってきていたとう人が多く、

「俺たちが育てたんだ」

 ということを思っているので、ファン層の厚みは、結構なものがある、。

 ということは同時に、

「後からのにわかファンは、入りにくい」

 ということでもあり、下手をすると、

「メジャーに上がった瞬間、ファンが伸び悩み」

 ということになるのではないだろうか?

 しかも、マイナーから支えていると自負しているファンの中には、アイドルの中には、メジャーに上がったことで、

「ファンを大切にする」

 という意識を忘れた人もいるかも知れない。

 本人には、そんな気持ちはないのかも知れないが、ファンというのは、アイドルの変わり方には、敏感になるものであろう。

 それを思えば、

「アイドルと、ファンというのは、厚い絆で結ばれているように見えるのだが、実際には、そんなことはなく、お互いに、利害関係という薄いもので、表裏一体だ」

 と思っているのかも知れない。

 ファンとすれば、ストレス解消であったり、アイドルとすれば、自分のステータスの証明をファンに求めたりするのだ。

 だから、ファンというのは、地下アイドルの間であれば、嫉妬のようなものがあっても、何とかなるものだが、メジャーに上がれば、そうもいかない」

 だから、アイドルに対して、

「恋愛禁止」

 という戒律を出しているかというと、

「アイドルは、あくまでもアイドルでなければいけない」

 ということになるのであろう。

 ゆいか先輩に、今のアイドルを見ることはできないが、

「自分の理想とするアイドル」

 というものを見つけることはできた。

 それが、正孝の、

「好きな女性の好みなのかどうか」

 ということは分からないが、

「決して、嫌いなタイプではない」

 といえるだろう。

 自分が好きなタイプというのは、

「おとなしい人で、従順な人」

 というのが、前提であった。

 そもそも、

「おとなしい人が、従順な人だ」

 ということであったり、逆に。

「従順な人が、おとなしいタイプだ」

 とは限らないだろう。

 それはあくまでも、その人の思い込みであり、相手をよく見ないと、

「おとなしい人だから、従順なはずなので、自分のタイプだ」

 というのは、結論を急ぎすぎているといっても過言ではない。

 しかも、

「自分のタイプだからといって、自分と合うということがいえるのかどうか?」

 とは言えないだろう。

 むしろ、それが合うのであれば、自分の好みの人を探しさえすれば、その人と、うまく行くということだから、この世で、

「離婚」

 などということはないはずである。

 しかも、

「成田離婚」

 という言葉があるように、

「付き合っている時は、問題なかったのに、結婚して、一緒に暮らすようになると、それまで分からなかったことが、分かるようになってくる」

 ということである。

 もっといえば、

「結婚して、一緒に暮らすということを、ゴールだ」

 と思っているからだということと、

「一緒に暮らすということが、まるで天国にいるかのような幸せしかない」

 と思い込んでいることから、実際には、

「スタート」

 であり、

「結婚は、人生の墓場だ」

 という言葉の意味を、初めて知ることになるというのであろう。

 結婚というものを考える時、

「今までは、付き合っていたのだから、こちらが与えていた」

 ということなのに、

「結婚すると、今度は甘えさせてもらおう」

 と考える男が多かったのかも知れない。

 確かに、

「成田離婚」

 と言われていた頃というのは、

「結婚しても、共稼ぎということはほとんどなく、旦那の稼ぎでうまく行っていた」

 という、バブル崩壊前だった。

 というのが大きいだろう。

 時代の変化とともに、

「人間の考え方」

 というのも変わっていかないといけない。

 というのが問題である。

 それを思うと、

「結婚というのは、スタートラインでしかない」

 ということになるのだった。

 そんなゆいか先輩見ていて、

「彼女は、すべてのことに長けている」

 というわけではない。

 そもそも、美術といっても、最初から、

「すべてにおいて、長けている」

 という人はいないだろう。

 美術といっても幅が広い、

 絵画もあれば彫刻もある。

 絵画の中には、

「油絵もあれば、水彩画もあれば、鉛筆デッサンもある」

 そのすべてを、

「絵画と呼ぶのだ」

 さて、そんな絵画であれば、その中に、被写体の違いで、分かる場合もある。

 被写体が、人物であったり、風景であったり、目の前に絵を描くために演出された物体というのもある。

 だから、そのすべてに長けているというのは、土台無理な話だった。

 だが、ゆいか先輩を見ていて、感じるのは、

「肖像画」

 というのは、

「確かにうまい」

 と感じた。

 目の前にある綺麗な絵をどのように自分で感じるかということなのだろうが、その美しさは、下手をすると、自画像を描いていて、

「実物よりもきれいだ」

 と感じることがある。

 それは、もちろん、相手が女性であるがゆえに、

「まるであなた本人は美しくない」

 と言っているようで、

「これ以上、失礼なことはない」

 ということになるのだが、本当は、

「あなたの美しさがあるからこそ、絵が引き立つのだ」

 と言いたい。

 彼女も、芸術家の端くれだとすれば、それを言ってもらいたいと思うのだが、特に相手が女性だと考えれば、あまり強くはいえない。

「特に、失言を何とか、取り繕うようにごまかそうとしているのであれば、それは、本当に失礼なことである」

 といえるだろう。

 どうせなら、失言だと思っても、キッパリと言い切ってしまう方が潔く、相手を傷つけないのかも知れない。

 ごまかそうとすると、本人にそんな意識はなくとも、

「言い訳をしている」

 としてしか見えないということになり、

「どうしようもない」

 という気持ちになり、感覚がマヒしてくるかのようになるのであろう。

 ただ、やはり、

「言いたくてたまらない」

 ということを言わないでおけば、相手ともぎこちなくなるだけなので、思い切っていってみることにした。

 すると彼女は、

「ありがとう」

 と言っただけで、それ以上は何も言わずに、考え込んでいる。

「俺が口にしたことを、彼女自身、こっちが、どういう気持ちで口にしたのだろう?」

 と考えているのだとすれば、思い切ったのは、失敗だったのかも知れない。

 というのは、

「相手に考えさせてしまうといけなかったのかも知れない。電光石火というべきに、即答できるものであれば、そんなことはないのだろうが、考えさせてしまうと、今度は、彼女に、余計な時間の隙間を与えてしまうことになり、まずいことになる」

 ということなのであろう。

 そんなゆいかを見ていると、自分も、

「ゆいかの肖像画を描いてみたいな」

 と思うようになるのだった。


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