表裏と三すくみ

森本 晃次

第1話 孤立という位置

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年8月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。今回は、苗字はできるだけ使わなようにと、考えています。


 正孝少年が、

「絵を描きたい」

 と思うようになったのは、いくつのことだっただろう。

 元々は、小学生の頃から、

「風景画のようなものが描ければいい」

 と思っていた。

 しかし、性格的に細かいところを描くのが苦手なところがあったので、

「人物画にしよう」

 と思うようになった。

 といっても、油絵のような、キャンバスを置いて、モデルが目の前にいて、絵筆を持って、

 というような感じはなかなかなかった。

 自分は、

「絵を描くのが苦手だ」

 とずっと思っていた。

 特に小学生の時はそうで、何と言っても、絵の具で手柄が汚れたりするのは、嫌だったのだ。

 それともう一つ嫌だったのは、

「絵具の匂いだったのだ。

 水彩絵の具をパレットに乗せて、そこに水を注いで、筆でかき混ぜるかのような感じであるが、その時の水に溶ける絵具の感覚と、薬品のような匂いがするのが、実に気持ち悪かった。

 だから、小学生の時、図工は好きだったが、絵画の方は嫌いだったのだ。

 何かを工作するということは、出来上がったものを、絵と工作で比べると、明らかに、工作の方が、

「できあがった感」

 があるではないか、

 だから、絵というのは、苦手だし嫌いだったが、同じ人物を描くにしても、彫刻であれば、うまくできなかったとしても、

「次はうまく作ろう」

 と考えることができるというものだった。

 ただ、最初のとっかかりというのは、工作でも、苦手だった。

 何をどこから手を付ければいいのか?

 ということが分からない。

 特に、彫刻というのは立体感であるから、全体方向から見ることができないで、絵を描くということはできないのだった。

 絵の場合は、二次元なので、そこまで細かいところはいらないかのように見えるのだが、考えてみれば、

「三次元のものを二次元で描く」

 というのだから、これこそ、難しいだろう。

 だが、絵に関していえば、人の話を聞いていると、

「バランスと強弱さえうまくできれば、描ける」

 ということであった。

 バランスというのは、遠近感とも似たところがあり、風景画であれば、

「膿と山のバランス」

 というものが命なのだろう。

 そのバランスを感じようと、

「上下逆さま」

 というものを見るのであって、普通の角度から見れば、それぞれに中間に見えているのだが、上下逆さまに見ると、まったく空の方が、ものすごく広く感じるのだ。

 これは、上下逆さまという感覚を理屈でしか知らないので、見ているつもりであっても、綺麗に見えるわけではない。

「本当は空が広いんだ」

 ということは分かり切っているのに、自分で思い込みで見てしまうと、

「空ばかりではないか」

 と勝手に思い込むくせがあるようだった。

「上下逆さまに見ると、まったく自分でも想像していたなかったような、違ったものや、おかしな距離感、おかしなバランスと言った錯覚が現れる」

 のであった。

 これを、

「サッチャー効果」

 あるいは、

「サッチャー錯視」

 ということであった。

 前に見えている錯覚は、何も逆さまに見るとおかしく見えるのが、あたかも最近のことのように感じるがそんなことはない。

 我が国日本にだって、そういうことはあるというもので、

「日本三景」

 と呼ばれる中の一つに、

「天橋立」

 というのがあるが、そこでは、

「股を開いて、その間から見る」

 という。

「股覗き」

 という見方があるという。

 まるで、

「竜が天に昇っていくかのように見える」

 というのが、天橋立の絶景スポットなのである。

 「石細工で、立方体になっている、白い、軽石のようなもので、人の顔を作る」

  という課題が出た。

  それを、先生の言う通りにい、司法っぽ宇から見た姿を、それぞれの方向から、下書きのようなものをして、輪郭を作るという作業をしていたのだが、まったくうまくいかない。

 どこをどのように輪郭を取ればいいのか、正直分からない。

 前から焦点を合わせようとすると、横がうまく取れない。

 それを先生に言わずに、自分でいろいろ細工していると、

「自分では、もうどうすることもできない」

 というところまで来てしまっていた。

 先生もさすがにそれを見て、

「少しだけ手伝ってあげます」

 ということで、先生が輪郭を取るところまでは、うまく導いてくれた。

 その様子を見ていると、

「先生、本当にうまくできてますね」

 と、他人事のように言ったのだが、何と言っても、何もできなかった本人からすれば、他人事とでもいいたくなるほど、先生は上手だったのだ。

 ただ、先生が別に魔法を使っているわけではないようだ。

「やろうと思えば、俺にだってできそうだもんな」

 とは思うのだが、それでいて、

「やっぱり、俺にはできないや」 

 と感じるのは、なぜなのか分からなかった。

 先生に、

「どうして、僕は先生のようにできないんだろう?」

 と聞くと、

「正孝君は、何でも、真面目に正面から見ているからなんでしょうね」

 というのだった。

 正孝は、そういわれて、

「いやいや、そんな」

 と照れているかのように言っているが、それが、先生の皮肉であることに気付きもしない。

「そうか、俺は、真面目でまっすぐに見ているからできないんだ」

 ということで、

「できない」

 ということが、まるでいいことのように思えるのだった。

 何しろ、学校の授業でも、

「国語、算数、理科、社会」

 という、主要科目と違って、

「音楽、図工」

 などというのは、それほど大切な科目ではない。

 特に、受験を目指している連中には、

「音楽、図工の授業を受けないということが許されている学校がある」

 ということも聞いたことがある。

 正孝は、皆から、

「真面目だと見られたい」

 という思いが強い。

 特に、同級生からというよりも、先生から、そう見られたいと感じていたのだ。

 同級生であれば、真面目じゃない連中は、何かと皮肉めいたことを言ったりして、

「真面目ではない」

 ということが、自分にとって、いかに正当性のあるものかというと、それは、

「先生が認めてくれた」

 と感じるのが、一番だと思うのだった。

 だから、図工の授業の時。先生から言われた皮肉を、実にまっすぐに受け取ってしまい、そのおかげか、図工や、音楽などの、

「芸術的な授業」

 というものが、

「俺にとっては必要ない科目なんだ」

 と、完全に思い込んでしまった時だっただろう。

 先生の言葉が大きな影響をその後も与えていくということで、学校に、行きたくなくなるという時が来るということを、その時はわかっていなかったのだ。

 正孝は、図工の彫刻を作った先生に、一時期憧れていた。

 その先生は、女性の先生だったのだが、まだ、

「異性を好きになる」

 ということのないはずの正孝だったので、

「好きだったのか?」

 と聞かれると、

「分からない」

 としか、答えられないだろう。

「先生のあの華奢な指先から、作品を作る時の、大胆な力強さは、どこから出てくるというのだろう?」

 というところから始まって、先生の身体を、舐めるように見ていたという感覚があった、

 その視線の強さは、

「大人になっても、これほど強い視線を浴びせることはないだろう」

 という根拠のない思いがあったのだ。

 だが、それは実際にそうだったようで、

「異性を意識するようになると、今度は、その視線の鋭さが、自分にとって、気持ち悪さに繋がるような気持ちがあったのだ」

 というものだ。

 その心としては、

「大人になると、自分がしている行動を、相手がどう感じるのか? ということが分かるようになってくる」

 というのが、その理由で、だからこそ、大人になるということがどういうことなのかということが分かってくるというものだった。

 だが、先生はちゃんと心得ているのか、相手は小学生。こちらがどんなに熱い視線を送ろうとも、軽くいなしているだけで、何とも思っていないのは分かるのだった。

 そんな先生へのあこがれは、

「先生が描く絵」

 に注がれるようになった。

 最初こそ、確かに、

「絵を描くというのは、絵の具で汚れるだけで、しかも、その匂いのひどさに、閉口していたというのが、本音ではなかったか」

 ということを思い出していたのだった。

 先生は油絵を描いているようだったが、さすがに小学生に油絵は敷居が高い。

「まずは、鉛筆デッサンからかな?」

 と思いながら、スケッチブックを買って、それなりに、近くの公園に行って、そこで、スケッチをしたりするのが、好きになっていた。

「公園というのはうるさいだけだ」

 と、思っていた。

 実際に、子供が奇声を挙げて、叫びながら遊んでいるのを見ると、ウンザリするのだった。

「何も、そんなに奇声を挙げなくてお」

 と思っていた。

 奇声だと思うから、苛立ちが募ってくる。

「静かに遊べないものか?」

 と思うのだ。

「自分だったら、あんなに奇声を挙げたりしない」

 と思うのは、最初に、

「なぜ、あんな奇声を挙げるのか分からない」

 と思ったからだ。

「自分の存在を示したい?」

 あるいは、

「一緒に遊んでいる仲間の中で、一番でありたい?」

 あるいは、

「他のグループに負けたくない?」

 などという、まわりの範囲にもよるのだが、結論としては、

「存在を示したい」

 ということなのか、それとも、

「自分が一番になりたい」

 ということなのか、どちらにしても、

「誰よりもうるさくしたい」

 という目立ちたがりな性格が、そうさせるのだろうと思うのだった。

 それが、一種の、

「わざとらしさ」

 であり、それが自分なりに分かっているから、余計に、そう感じるのではないだろうか?

 それを思うと、公園で奇声を挙げている連中を見て、

「俺は、あんなやつらとは仲間でも何でもない」

 と言いたい気持ちの表れが、鬱陶しさや、苛立ちになるのだろう。

 だから、公園というところは嫌いだったのだ。

 それ以上に、

「友達とつるむ」

 ということが、嫌だった。

 だから、いつも一人でいることが多かったのだが、それを先生や、親は、何やら心配しているようだった。

「子供が、孤立しているのではないか?」

 と思うと、大人は、必要以上に、何かを警戒するもののようで、

「何を警戒するのか?」

 というと、たぶん、

「孤立している子供が、苛めを受けるようになり、引きこもりになったり、最悪、自殺を試みようとするのではないか?」

 と思うのではないかと、正孝は大人に対して感じた。

 確かに、その可能性は高いといってもいいだろう。

 実際に、苛めというのが存在し、それが横行してくると、苛められている子がどういう運命になるのかということは、結果だけだが分かっている。

 原因が分からないから、どうすることもできないわけで、そもそも、原因が分かったとしても、それをマニュアルという形で残すことはできない。

 なぜなら、

「人それぞれで、パターンが違うからだ」

 といえるだろう。

「苛めの数だけ、そのパターンは違っている」

 と言われる。

 そもそも、苛めている側に、

「どうして苛めるのか」

 と聞いたとすると、その原因について、本人たちは、

「さあ?」

 と答えるかも知れない。

 それは、苛めを受けている方も同じで、いじめられっ子が、その理由を言わないのは、苛めっ子に、

「絶対に言うなよ」

 と言われているわけではなく、苛められる方にも心当たりがないのだろう。

 もっといえば、

「俺が苛めっ子なのか?」

 と、苛めっ子に、

「自分がいじめている」

 という意識がないのだろう。

 最初から意識があれば、本人も、

「苛めが悪いことだ」

 と分かっているだろうから、苛めなどしないのかも知れない。

 だが、実際に、苛めをしている子に、

「苛めの意識がない」

 というのは、本当に稀なことだろう。

 最初はおぼろげでも、

「これが苛めというものか」

 と感じるようになると、

「時すでに遅し」

 というべきなのか、苛めをやめられなくなっているのだ。

 というのも、苛めを行っている方は、もう辞めることができなくなってしまっているのではないか?

 なぜなら、sでに、仲間を形成しているからだ。

 その仲間というのは、

「苛めを本格的にするには、自分一人ではできない」

 という意識を持っているからではないだろうか。

 なるほど、確かに苛めっ子というのは、一人ではない。必ず複数いるではないか。

 それは、

「苛めというものが、一人では成り立たない」

 というよりも、

「下手をすれば、立場が逆転してしまうかも知れない」

 という思いからであろう。

 しかし、正孝が感じているのは、

「苛めっ子、いじめられっ子」

 という括りは、

「最初から決まっているというもので、それぞれに、苛めっ子をしている子が、苛められているその図を想像することは難しい」

 といえるだろう。

 つまり、生まれながらに、

「立場の優劣は、最初から決まっているのではないか?」

 ということである。

 それは、人間を一つの動物として考えた時、人間というものが自然の中で、

「どのランクにいるのか?」

 というのが分かっているのと同じ理屈である。

 つまりは、自然界というところは、

「自然の摂理」

 というものがあり、その摂理は、その生理的な関係にも似ているのではないだろうか?

 なぜなら、

「弱肉強食」

 というのは、最初から決まったもので、

「食用になる」

 あるいは、

「自分が食べる」

 というのは、その優劣性にあるのであり、それでも、

「食われたくない」

 と思う動物には、生まれながらに、

「相手に襲われない」

 というような、本能というか、習性をもっているというものだ。

 たとえば、

「カメレオンなどの保護色を持ったもの」

 あるいは、

「ハリセンボンなどのように、危険を感じると、針を身体に作ろうとするもの」

 さらには、

「フグなどのように、身体に毒を持っているもの」

 と、それぞれ、外敵に対しての

「持って生まれた特性がある」

 ということだ。

 つまりは、

「本能というものは、生まれながらにあるというもので、裏を返せば、最初方立場の優劣は、天地がひっくり返ろうとも、変わりはない」

 ということになるのだろう。

 そんな状態において、

「子供と大人の関係性というものは、完全に優劣があるもので、苛めをする理由の一つに、家でのことが大きいと言われる」

 親が離婚したり、親が事業に失敗したりなどと、

「子供には関係のない」

 そんなことで、子供は嫌な思いをすることで、

「この苛立ちをどこに持って行けばいいのか?」

 ということなので、

「子供が生まれつき、苛めっ子になるというのは、ちょっと強引な発想ではないだろうか?」

 と考えるのだろうが、果たしてそうだろうか?

 人間には、

「遺伝子」

 なるものがあって、

「子供を巻き込むようなことをする親から生まれた子供」

 ということで、遺伝子によって、その性格が形成されているとすれば、

「親も子供の頃は、苛めっ子だったのではないか?」

 ということになる。

「苛めっ子の家系は、ずっと苛めっ子であり、いじめられっ子の家系はずっといじめられっ子となる」」

 というのは、やはり、強引な考えであろうか?

 正孝は、

「俺って苛めっ子なのか、いじめられっ子なのか?」

 と思っていたが、小学生の頃から孤独だと、意外と苛められることもないようで、かといって、苛めもない。

 なぜなら、

「孤独な人間に、誰かとつるむということはないからだ」

 ということである。

 ただ、中学に入ると、徐々に見えてくるものがあった。

 それが、

「大きく分けて、3つに分類できる」

 ということであった。

 一つは、

「苛めっ子集団」

 やはり、苛めっ子というのは、集団でしか存在できないものだということである。

 もう一つは、

「いじめられっ子」

 苛めっ子がいるのだから、いじめられっ子がいないと、その存在意義はないだろう。

 だが、それを考えてみると、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 という、禅問答を思い出す。

 ただ、こちらの場合は、

「いじめられっこが先だろう」

 と思う、苛めっ子というのは、群れをつくるからだ。

 そして、もう一つは、

「孤独な団体」

 ということになるのだが、

「じゃあ、つるんでいるけど、苛めっ子ではない連中などいないということなのか」

 と言われるようになるが、

「それはその通りだ」

 と自分に言い聞かせてみた。

 なぜなら、いじめられっ子がいて、苛めっ子連中が苛めているという、卑劣な行動に。、皆止めるでもなく、黙っているではないか。

「先生に言いつける」

 という人もいない。

 そんなことをすれば、

「苛めのターゲットは自分に向いてくるからだ」

 というわけである。

 苛めというのは、エスカレートしてくると、いじめられっ子は引きこもりになる。

 そうなると、ターゲットがいなくなるので、今度は別のターゲットを探すことになり、その時、何かで目だったりすると、その矛先が自分に向いてくるということを考えると、何もできなくなる。

 本当は、

「苛めっ子が一番悪い」

 ということは分かっているのだが、

「苛められる方にも、それなりに理由があるのではないか?」

 と考えてしまうので、

「母艦者ほど、自分に都合よく考える人間はいない」

 ということだ。

 その時、

「自分だけが悪い」

 とかんがえないように、自分以外の人とつるむことで、

「その責任を分配する」

 と考えるようになる。

 だから、

「傍観者ほど、孤独を怖がるものはいない」

 といえるのだろう。

 しかし、かといって、

「苛めっ子だってつるんでいるではないか?」

 と思われるが、母艦者と苛めっ子とでは、その意識が違っている。

 肩や、

「苛めっ子の立場が逆転するということを恐れている」

 というもの、肩や、

「一人でいると、苛められてしまうという考えではなく、傍観者の責任を人にも負わせる」

 ということでの、責任逃れであるが、この二つは、どっちが悪いというのだろうか?

 ということであった。

 苛めっ子であったり、いじめられっ子に、強引にそのどちらかに入れ込もうとすると、

「孤立していない人は皆、苛めっ子だ」

 といってもいいだろう。

 孤立している子は、中には、

「苛めっ子」

 という部類に入るといってもいいだろうが、それも一部で、基本的には、一人でいる場合というのは、

「そのどちらにも属さない」

 つまりは、

「苛めっ子」

「いじめられっ子」

 そして、

「孤立してる人」

 という3つに分類されるのだ。

 その中で、孤立している人は、

「何から孤立しているというのだろう?」

 と考えるが、そもそも、孤立している人は、

「自分が孤立している」

 ということを分かっていて、わざと孤立の道を選んでいるのだから、

「苛めの世界とは違う」

 といってもいいだろう。

 いじめられっ子が、孤立して、行き場がなくなると、

「引きこもりになってしまう」

 というのとの違いであろう。

 引きこもるということは、

「最初から、そして自分から引きこもりの道を選んだわけではなく、苛められたので、逃げ道を探していると、引きこもりしかない」

 と考えるからあろう。

 いじめられっ子は、

「生まれながらにしていじめられっ子だ」

 というゆえんがここにある。

 つまり、

「一度苛められてしまうと、その行き着く先というのは、ある程度決まってくる」

 ということだからだろう。

 そういう

「3つの分類」

 をわかっている人がどれだけいるだろう。

 きっと、孤立している人は分かるはずだ。

 孤立していない人から見れば、

「孤立しているんだから、まわりが見えるはずなどない」

 と思うことだろう。

 だが、それはあくまでも、相手の言い分でしかなく、

「孤立するには、それなりに、つるむということが分かっての上のことで、しかも、苛めというものに絡みたくない」

 という思いから起こってきた考えであった。

 それを思うと、

「孤立というもの、まんざら悪いことではない」

 と考えるようになったのだった。


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