推理編

 二人の刑事は鑑識の調べが終わった病室に入った。井上大樹はすでに別の病室に移動させられており、妙子もそちらの部屋に移っている。塩月は部下の一人に命じて、妙子が移動した先の病室を廊下から見張らせていた。今のところ、妙子は事件の唯一の重要参考人である。


 小日向はベッドの下を覗いてみた。妙子が言っていた通り、タイヤやベッド自体の構造が邪魔で人間が隠れられそうにはない。


 小日向が犯人役を演じ、一番の奥のベッドの横やカーテンの陰に隠れているところを、塩月がカーテンの隙間から覗いただけで見つけることができるかという実験も行ってみた。結果は明白だった。カーテンの中の空間は狭く、人間一人が隠れられるようなスペースはない。妙子がベッド付近に隠れていた人間を見逃した可能性は極めて低いことが確認された。


 真ん中と入り口側のベッドは常に妙子の目が届く状態にあったため、誰かが潜んでいた可能性はない。奥のベッドはカーテンで覆うことができるが、窓はベッドの足元よりさらに先のところにあるため、カーテンで隠れてしまうことはない。妙子の座っていたところからはっきり見えるため、いかなる手段を使って窓から侵入しても、妙子には必ず気づかれてしまう。


 当然、病室には秘密の通路などはない。真ん中のベッドの足先の位置にあたる天井部分には通気口があるが、細かい格子状の蓋がされているので、凶器のナイフさえ通る隙間はない。また、妙子の目が届く場所でもあるので、蓋を開けたりすればすぐに気づかれてしまう。入り口と窓と通気口以外には、病室と外部の空間を繋ぐ場所はまったくなかった。


 塩月は警察医に所見を聞いていた。


「死因は何でしょうか」


「出血性ショック死でしょうね。心臓をナイフでぐさりとやられていますから。ほぼ即死ですよ」


「死亡推定時刻は?」


「2時から2時15分の間です」


 医者と看護師が慌てて駆けつけて死亡確認をしたのが2時10分だった。その直前に心電図は止まったのだから見立ては矛盾しない。被害者の心拍はずっと心電計で測定されていたので、死亡推定時刻は2時5分12秒と秒単位でわかっている。警察医の意見はそのデータを裏付けていた。


 調べれば調べるほど、病室の密室性が高まってしまう。これまでに小日向が参加した塩月の担当事件では金庫室の密室などが出てきたので、今回の事件の密室はそれほど強固なものではないと思っていた。ところが、妙子と心電計の存在によって事件現場の病室は非常に堅牢な密室になっていた。


 この難問に対する最も簡単な解法は誰の目にも明らかだった。妙子が嘘を吐いていて、彼女自身が殺人犯だった場合だ。そう考えれば、密室は何の問題でもなくなる。誰にも監視されていない状況で、ただ妙子が被害者を刺し殺しただけだ。


 だが、この解でも疑問点がないわけではない。妙子が犯人だとするなら、なぜ病室が密室だったなどと証言するのだろうか。窓を事前に開けておいて、犯人は逃げて行ったとでも主張すれば、妙子自身は一応容疑から外れることができるのだ。それなのに、窓は確実に閉めただの、誰も入ってきていないだの、誰も隠れていないだの、とにかく自分に不利な証言ばかりをしている。


 妙子がアホなだけで、容疑者が自分だけに絞られてしまうことにも気づかずに事実を証言し続けていただけなのかもしれない。実際の事件では、真実は思っているよりあっけなかったりする。


 それでも、妙子が夫のことを見守っている様子を見ていると、小日向にはどうしても彼女が殺人犯だとは思えなかった。


「犯人は井上妙子で決まりなんですかね?」


 小日向は病室の中を歩き回っている塩月に訊いてみた。


「たぶんそうだろうな」


 そう言いながらも塩月は釈然としない表情をしていた。やはり塩月の中にもどこかしっくりきていないものがあるのだろう。


 塩月は心電計をじっくりと眺め始めた。その瞬間、小日向にはある考えが思いついた。


「心電計を使って死亡時刻を偽装した可能性はありますね」


 塩月が振り向いた。


「どういうこと?」


「心電計の端子が被害者に付けられていなかったと考えてみるんです。そうすれば死亡時刻を偽装することができます。犯人は事前に端子を被害者の胸から自分の胸に付け替えて殺害を行いました。その後、2時5分12秒に端子を再び被害者に装着します。そうすれば、実際には2時5分12秒よりも前に被害者が死んでいたとしても、その時刻に死んだように見せかけることができます」


 小日向は名案のように言ったが、塩月の顔は渋いままだった。


「そうすることに何の意味があるのかな。2時5分12秒に端子を被害者の胸に付け替える手間が必要なら、その時刻に被害者を刺し殺すのと大して変わらないと思うんだけど」


「まぁ……、そうですね。でも、もしかしたら自動で端子を付け替える装置があったのかも」


「そんなものがなかったのは明らかだ」


「じゃあ、井上妙子ならできますよ。誰にも見られずに端子を付け替えることができます」


「それでも良いけど、だったら結局妙子が犯人だということで変わらないよね。死亡時刻を偽装する意味がない。ちなみに、犯人は別だけど端子の入れ替えだけ妙子が行ったというのもなしだからね。死亡時刻は2時以降だけど、病室の窓が閉ざされたのは死の約30分前、つまり1時35分頃だから、部屋の中には妙子しかいたはずがないんだから」


 こうなった以上は、あと一つ残った禁断の案も吐き出しておこう。小日向は決心して言った。


「寝込んでいた井上大樹が実は起きていて……」


「ダメダメダメ」


 塩月は速攻で否定した。


「さっきまで麻酔で寝ていたのは私たちも確認したじゃないか。それに、たとえ大樹が起きていたなら妙子が気づかなかったわけがない。もしかしたら夫を庇っているかもしれないが、それならなぜ妙子が病室外の人物には犯行が不可能だったことをわざわざ証言しているのかが理解できない」


 小日向は降参した。無理だ。人もナイフも入り込む余地のない完全な密室で死亡時刻も誤魔化せない。カーテン一枚隔てたところに人が一人いるだけでこれほど鉄壁の密室ができあがってしまうのか。


 塩月は被害者のベッドに付いている名札を手に取っていた。だが、視線は全然別のところに向いている。何か考え事をしているのだ。


「あぁ、そういうことか」


 塩月が独り言のようにつぶやいた。あまりにもささやかな一言だったが、小日向にはわかった。これは塩月が事件解決の糸口を掴んだ合図である。


「警部、わかったんですか!」


「そうだね。妙子以外にも犯行が可能なことがわかった」

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