捜査編
病院の待合室で井上妙子に事情聴取をしていた小日向は、今の証言を信じるべきかどうか悩んでいた。妙子が言っていることがそのまま事実だと仮定したら、明らかな矛盾が生じてしまう。堅いソファに座ったまま、小日向はメモ帳をめくって関係者から得られた情報をまとめた。
内科の手術を終えた七十代男性の小津は、三床のベッドが備え付けられた病室で寝込んでいた。同室の別の患者を見舞いに来ていた井上妙子は、事件の三十分前にも小津がベッドで安らかに寝ている様子を目撃している。このとき、妙子は窓を閉めて鍵も掛けたそうだ。
それから三十分間、妙子は出入り口に一番近いベッドの脇で読書をしていたが、誰も病室に入ってこなかったと述べている。もちろん、窓をこじ開けて入ってきた者もいないという。
しかし、妙子が窓を閉めてから三十分後に小津の心拍は急停止した。看護師が駆けつけると、小津の胸には小型の果物ナイフが突き立てられていたことがわかった。医者や看護師たちは蘇生を試みたが、小津の息を吹き返すことはできなかった。
妙子の証言がすべて真実だとするなら、窓を閉めてから三十分の間には誰も病室に入らなかったことになる。それなのにいつの間にか小津の胸にはナイフが突き立てられて死んでいたのだ。
「あのー、そろそろ戻っても構わないでしょうか。夫が起きるかもしれないので」
事情聴取の最中に黙って長考し始めた小日向の様子を伺いながら妙子は訊いた。小日向は、はっとして意識を戻すと、追加の質問をした。
「窓を閉めに行くときに被害者の方が寝ているベッドをご覧になったんですよね。ベッドの下とかカーテンの陰に誰かが隠れていたということはありませんでしたか?」
妙子は小日向の指摘に小さな悲鳴を上げた。
「そんなことがあるんですか!?」
「それを知りたくてお聞きしているんですが……」
「あぁ、そうですよね。すみません。でも、どうなのでしょう。少なくともカーテンの陰には隠れていなかったと思います。死角はなさそうでしたから。ベッドの下までは何とも言えませんけど、そもそも人が隠れられるのでしょうか。人間が入るには狭かったように記憶しているのですが」
もっともな意見だった。図らずも参考人から捜査に関する意見を聞くことになってしまった。
小日向は横に座っている二回りほど年上の女性に顔を向けた。この四月から直属の上司になった捜査一課の塩月警部である。小日向はまだ殺人事件の捜査の経験は浅かったが、交番勤務のときにも二回ほど塩月の捜査に参加したことがあった。そのときの活動が評価されたのかどうかはよくわからないが、ともかく小日向は異動してきて塩月の指導を受けながら捜査をしていくことになった。
塩月はもう十分だという意味で首を横に振った。小日向が事情聴取の終わりを告げると、妙子は速やかに立ち上がって去っていった。自分がいた病室で起こった殺人事件よりも夫の安否の方が気になって仕方がなかったようだ。
小日向は先ほどの事情聴取の結果を基にこの事件のキーワードを述べようとした。
「これはみっ……」
「ダメダメダメ」
小日向がある単語を発しようとした直前に塩月が遮った。
「その言葉は禁句。これまでは交番の人間だったから甘く見てきたけど、一課の刑事はそんなことを言ってはいけないの」
「でも、妙子さんが被害者が生きているのを確認してから死亡するまでの三十分間、誰も病室には出入りしなかったんですよね。入り口を通ってきたら妙子さんの横を通りますし、窓の鍵も妙子さんが閉めているんですから。しかも、ベッドの下などに誰かが隠れていた可能性も低そうです。ということは、」
「言うなよ」
「密室状況ですよね」
「言っちゃった」
塩月は額に手を当てた。でも本当に密室状況なのだから仕方がない。いちいち人間の出入りができない部屋とか長ったらしい説明をするよりは、きっぱり密室と言ってしまった方が良いではないか。小日向は心の中でそう思っていた。
塩月はそんな思考を悟ったのか、自ら理由を説明した。
「密室というのは犯罪が不可能だったことを示すことを表す言葉だ。だが、現に犯罪は行われたんだから不可能ではなかったんだ。言葉として矛盾している。この世に密室殺人なんてものは存在しない」
そう言い切ると、この話は終わりとばかりに塩月はソファから立ち上がった。小日向は塩月の言説に納得しそうになりながらも、なんだか詭弁で騙されたような気もしていた。
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