ナイフの刺さった入院患者〜不可能犯罪捜査ファイル03〜

小野ニシン

事件編

 井上妙子は、白い病室の白いベッドの横の椅子に座って、極度の心配が終わった後の安心感をじっくり味わっていた。目の前のベッドで眠っている夫の井上大樹は、午前中に全身麻酔の手術を受けたばかりだった。手術は無事に成功し、もうしばらくすれば目も覚めるという。心電計は一定のリズムを刻んでいた。


 窓から一陣の風が入り込んできて妙子の首を撫でた。これでは患者の体に障ってしまう。雲行きも怪しくなってきていたため、雨が吹き込んでくることを心配した妙子は窓を閉めることにした。


 病室には三つベッドが横並びに並べられていた。妙子の夫は一番入り口に近いベッドに寝ている。真ん中のベッドは空。一番離れたベッドには別の患者が寝ていた。


 三つ目のベッドの周囲には薄いピンク色のカーテンが掛けられているが、完全には閉められていない。隠されていると見たくなるのが人情である。妙子は、窓際の患者のベッドの足元を通ったときにカーテンの隙間から中をこっそり覗いてみた。


 ベッドの上で寝ていたのは七十代ほどの皺だらけの老人だった。だが、年齢の割には健康そうな体をしている。平均寿命が延びているこの国では、七十代でもまだまだ元気だ。老人の胸部を中心にして包帯が巻かれていたが、寝顔は穏やかである。微かな寝息さえ聞こえる。壁際の心電計は、一定の周期の波形を吐き出し続けていた。


 気が済んだ妙子は、顔を上げて部屋の一番奥まで進んだ。窓は三つ目のベッドの足の先にある。病室の入り口からまっすぐ歩いたところだ。縦に細長い窓は薄く開いていた。窓を閉めて鍵も掛けると、妙子は先ほどまでいた入り口近くのベッドの脇に戻った。


 数時間以内に夫は起きるだろうと医者には言われたが、実際のところあとどのくらい掛かるのかはよくわからない。妙子はバッグからエラリー・クイーンの『オランダ靴の秘密』を取り出して紙の栞を挟んでおいた場所から読み始めた。よりによって病院でだけは読むべき本ではなかったが、内容は存分に面白い。妙子は架空の病院で繰り広げられるエラリーの推理を引き込まれていた。


 誰も病室を訪れることがなく三十分がゆるゆると過ぎた。


 突然、部屋の中に鋭い電子音が響いた。先ほどまで一定のリズムを刻んでいた心電計が急に騒ぎ出したのだ。妙子の心拍数も急激に上がった。瞬く間にピーーという音が鳴り響く。心肺が停止した合図だ。


 まさか。そんなはずがない。手術は成功したのではなかったのか。


 不気味に心拍を刻む自分の胸を押さえながら、妙子は手元の本を置いて夫に取り付けられている心電計を見た。ほっと胸を撫で下ろす。大樹の心電図は今も変わらず同じ波形を描いている。


 心肺が停止したのは奥のベッドに寝ている患者のようだった。一人の看護師が駆け足でやってくる。すると、今度は黄色い悲鳴が部屋の中に響き渡った。


 さらに数名の看護師が慌ててやってくる。若い医者も入ってきた。白衣やナース服を着た病院の職員が次々と奥の薄ピンク色のカーテンの向こうに消えていく。


 まもなく耳障りな電子音は突然止まった。看護師たちも束の間黙り込んだ。無音の時間。心電計のスイッチが切られたのであろう。蘇生を諦めた瞬間だった。


 医者と看護師たちが話している声が聞こえてくる。「なんで患者にナイフが刺さっているんです」「誰かがナイフを持ち込んだんじゃないですか」「誰も持ち込んでいるわけがないでしょう」「もしかして殺人事件ですか」「でも窓は閉まっていたんですよ」「廊下に逃げ出してきた人もいませんからねぇ」「そしたら犯人は……」「とにかくまずは警察に通報しないといけない」「私が行ってきます」


 看護師が駆け足で一人出てきた。どうやら病院では対処できない物騒な事態が起こったらしい。妙子の横を通り過ぎるときに、看護師は妙子のことを鋭く一瞥していった。あるいは妙子の気のせいだったのかもしれないが、その視線には殺意に似たようなものさえ感じられた。

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