第13話 閻魔帳
「梓さぁん。生きてますかぁ?」
ぷにぷに。ぷにぷに。
ほおをつつかれる気配に、梓の意識は覚醒した。はっ、と目を見開いて勢いよく起き上がる。その途端に、喉元に何かがせり上がってきて梓は咳き込んだ。
「げほげほっ!」
気絶していた間に飲んでいた水を、これでもかというくらいに吐き出す。苦しくて目尻に涙が浮かんでくる。
最近は、溺れかけてばかりだ。
そんなことを思いながらも、やっと落ち着いた梓は顔を上げることができた。先ほどの声の主を認めて呟く。
「松風?」
「よかった。魂まで死んじゃったかと思いました。まあ、もうすぐ身体のほうは死んじゃうんですけどぉ」
いつもの如く、少し間延びした声で松風がこたえる。
「ここは、どこ……?」
へたり込んだまま梓は周囲を見回す。彼女の前には三途の川が流れており、見上げるほどに巨大な輪廻の輪が三つほど、川の流れを遮るようにしてぐるぐると回っていた。それに装着された柄杓も相応の大きさで、大量の魂がすくい上げられ昇天していく。
「三途の川の終着地点ですよ。ここで転生し損ねると、漏れなく地獄行きになってしまうのですぅ」
「大きい……」
その迫力に圧倒されていた梓だが、直前の記憶からあることに思い当たる。
「ねえ、もしかして、助けてくれたのって松風?」
梓の問いかけに、にこにこと微笑む松風。
(いや、それだけじゃない)
小舟が沈んだときのことを思い出す。
どこかで感じたことのある霊力だと思ったのだ。三途の川では亡者の気配もあって確信はなかったが、今なら正確に気配を感じられる。
「ねえ、もしかして、松風があたしの小舟を沈めた……?」
「はい、その通りですぅ」
相変わらずの微笑みのまま、松風はあっさりと頷いてきた。
それを聞いて、梓は呆然と目を見開いた。怒りもあるが疑問も浮かんでくる。屋敷では一度も敵視されるようなことはなかった。それどころか、宗一郎の過去を教えてくれたりと、たまに物騒なことを言う桔梗よりも梓によくしてくれたではないか。
「どうして……」
「簡単なことです。梓さんが現世に帰ってはいけないからですよぉ」
あっけらかんとした様子で松風が言った。その理不尽な台詞に、ようやく梓の中で、ふつふつと怒りが込み上がってきた。
「あたしは宗一郎から出された課題を解決したよ。それでどうしてダメって言われるの?」
宗一郎は閻魔資格を持つ中でも、最も高い資格を持つ閻魔様。その者から現世へ帰る方法を聞いたのだ。それを実践し――多少の助けは借りたとはいえ――見事に成し遂げることができた。その事実は松風だって知っているはずだ。
「梓さんは閻魔帳って知っていますかぁ?」
松風の問いかけに、梓は睨むようにして首を横に振った。宗一郎がいつも懐に持っているものだ。何が書いてあるか中身を覗いたことはないが、想像することはできる。
「知らない。だけど、閻魔様が幽世で仕事をするために必要なもの……たとえば、幽世での法律とかが書いてあるんじゃない?」
「はい。梓さんの予想は間違ってはいませんよぅ」
だけど、と松風は後を続けた。
「もっと大切なことも書いてあって、松風や桔梗の資格を持つ者が調べた、現世の人間の寿命も書いてあるんですぅ」
「寿命が?」
「そう、寿命です。これに従って閻魔様は仕事の予定を組んでいるんです。一分一秒正確なものではないですけど、あまりかけ離れた数字になると、こちらからお迎えに行くこともあるくらい、大切な数字なのですよぅ」
「もしかして……」
梓は嫌な予感に包まれた。松風は懐から閻魔帳を取り出してパラパラとめくる。
「司録の資格を持つ者は男性、司命の資格を持つ者は女性の閻魔帳を作成するのですけど、ボクは見てしまったのですよ。宗一郎さまが梓さんの寿命を書き換えてしまったのぉ」
松風の手が止まり、開いた場所を梓へと向けてくる。その先頭には彼女の名前。そして、その下には十八という数字を二本線で消し、八十に修正している跡があった。
「桔梗の閻魔帳を拝借してきました。このように、梓さんは、本当は十八で死ぬはずだったのです。だから、梓さんが幽世へやって来たのは間違いではないのですよ。もちろん、こうして寿命を書き換えるのは、幽世の掟に反していますぅ」
「う、嘘よ!」
反射的に梓は叫んでしまっていた。そんなの認められるわけがない。では、どうして、わざわざ現世に帰すような手順を踏ませたのか。何かの間違いにしか思えなかった。
「信じられないのも無理はないですぅ」
松風は閻魔帳を閉じて懐にしまいながら、悲し気に視線を落とした。
「宗一郎さまが、現世で許嫁と結ばれなかった過去はお話しましたよねぇ」
いきなり話が飛び、梓は戸惑った。
「し、したけど……それが一体何の関係が……」
「関係は大ありですよ。だって、その許嫁は梓さんなのですからぁ!」
「え……?」
いきなり何を言い出すのだろう。突拍子もない事実に梓はポカンと口を開けた。
「知らないのも無理はありません。三途の川のお水には、前世の記憶を洗い流す効果があるのですからぁ」
松風の視線が三途の川の水面へと向かう。
「ですけど、妖に魂が食べられたりしない限りは、魂そのものに変化はないのですよ。梓さんの魂は、紛れもなく宗一郎さまの許嫁のものなのですぅ」
「そんなこと、信じられるわけが……」
「おやー? 霊力のある梓さんですから、少しは気が付いているかもと思っていたのですけど。これはボクの勘違いでしたかぁ?」
「勘違いも何も……」
と、言いかけて、ふと梓は口をつぐんだ。
思い返せば心当たりはあった。
初めて河原で宗一郎の顔を見たとき、どこか既視感を覚えた。妖に襲われたときの心配のされ方や、その後に輪廻の輪の修繕を手伝ってくれたのは、単なる閻魔様としての本分を超えているとずっと思っていた。
そして、今朝の夢だ。
霊感のある自分のことだ。もしも……もしも宗一郎に何かを感じて、そのような夢を見たとしたら……。
あまりにも現実離れした話を否定しようとしても、頭のどこかで松風の言葉が正しいと思ってしまう。
見知らぬ男性が、こんなに近くに居たのに、全然嫌ではなかった。毎晩眠っているときに、手を握られていると教えられても、全く嫌悪感はなかった。むしろ心強かったと思っていたではないか。
黙り込んでしまった梓を見て、松風が嬉しそうに破顔する。
「よかったです。ちゃぁんと梓さんも宗一郎さまを感じているではないですかぁ」
「……だったら何?」
松風のペースに乗っては駄目だ。自分の思考の流れを無理やりぶった切って梓は低い声で言う。
「書き換えられていようと、閻魔帳の数字は八十なんでしょ? だったら、あたしが現世に帰っても何も問題ないじゃない」
「いえいえ、大問題ですよぅ」
めっ、とばかりに松風が両手を腰に当てた。
「宗一郎さまも、そのまま梓さんを手元に置いていればよかったのに、許嫁の魂を持つお方のおねだりは断れなかったみたいです。このままだと、勝手に閻魔帳を書き換えた罪で、宗一郎さまは無間地獄に落とされてしまいますぅ」
「え……」
それを聞いて梓の心臓がドキリと跳ねた。
(宗一郎が地獄に落ちる……?)
咎人のように両手を縛られ、地獄の底へと連行されていく宗一郎の姿が脳裏に浮かんだ。自分を現世に帰すために幽世の掟を破った。そんなことをさせてはいけないと、己の魂が……いや、自分自身が思う。
「ですけど、まだ間に合うのですぅ」
動揺する梓へ、松風が両手を自分の身体の前で合わせた。お願いします、とばかりに拝んでくる。
「ここで梓さんが死ねば、きっと強い未練を残すと思うのです。そうすれば幽世の住人になることができますよね。そうして、宗一郎さまと一緒にお屋敷に住めば、二人とも幸せになれると思いませんかぁ?」
松風は最後に視線を上げて、心配そうに梓を見詰めてきた。
梓の舟を沈めて足止めしたのは、宗一郎を助けるためなのだ。梓が幽世に残れば、閻魔帳の書き換えられる前の数字の通りになる。過程がどうであれ、結果の辻褄が合っていれば問題はないのだろう。
(いえ、待って……!)
そこまで考えて梓は愕然とした。
元の寿命が十八。
梓はつい先月、十八の誕生日を迎えた。それは、たとえ頑張って現世に帰ったとしても、梓の余命が幾何も残っていないことを意味する。
「ええっと……」
ゴクリ、と唾を飲み込みながら梓は問いかけた。
「その数字を、元の十八に帰したら、あたしはどうなっちゃうの?」
「そうですねぇ」
もう一度、閻魔帳を開きながら松風は言う。
「閻魔帳の数字は絶対ではありません。だけど、数字も現世に影響を及ぼしてしまいます。重傷を負っている現世の梓さんの身体が回復に向かっているのは、この数字のおかげなんです。それを十八に戻したら……きっと、そのまま死んでしまうと思うんですぅ」
「そ、そんな……」
奈落の底へ落とされるような感覚に眩暈がする。目の前が真っ暗に染まってゆく。立っていることができなくなり、梓の腰が落ちた。じゃり、と軽い砂利石の音が梓のお尻の下で鳴る。
幽世へ来てしまったけれど、まだ生者。だから生き返ることができる。それを信じて凛太郎のために頑張ったのに……。生き返ったとて長くない命と宣告されたのだ。
(お別れを言うだけために現世に帰るの……?)
そんなのって残酷すぎるではないか。凛太郎にとっても、自分にとっても。
では、宗一郎を地獄に落としてでも、この閻魔帳の数字のまま無理やり現世に帰るほうがいいのだろうか。
ちらりと河原へ視線を向けると、そこには梓が乗っていた舟がひっくり返った状態で置かれていた。少し傷ついているものの、舟という役目はまだ果たしてくれそうだ。艪も近くに転がっている。
ここで松風を無理やり振り切って、三途の川を渡るのは果たして可能なのだろうか。
……だけど。
幽世へ来てから十日間。
たった十日間だったけれど、宗一郎自身が地獄に落ちるとわかっていて、そうしてくれたのだとしたら、全然違った日々に思えてきた。宗一郎にとって今生の別れどころではなく、魂の別れのつもりで世話をしていてくれたのかもしれない。
(あたしがそんなことを選べるの……?)
ぐるぐると頭の中が回る。
地面に付いていた梓の手の平が、ぎゅっ、と砂利石を掴んだ。
やっぱり、宗一郎を見捨てるなんてできない。
「……話させて」
梓は顔を上げた。その瞳の奥に強い意思の光を灯して。
「宗一郎と話しをさせて。他に手がないか考えたい」
「えぇ~……駄目ですよぉ」
松風の表情が、懇願するようなものに変わる。
「これは宗一郎さまだけの問題ではないのです。閻魔帳が書き換えられたことに気が付かなかった、桔梗の責任にもなってきてしまうのですよ。そうなったら、ボクの姉まで地獄に落とされてしまうんですぅ」
「くっ……」
松風がどうしてこのような手段に訴えたか。そのもう一つの理由を理解する。
松風と桔梗。双子のような二人が、とても仲が良かったのは今日まででよく見てきた。それこそ、自分と弟の関係のように。松風は宗一郎だけではない、自分の姉も守ろうとしているのだ。
(だけど……っ!)
たとえ十八が寿命だったとしても、妖に襲われてこんなことになってしまったのだ。少しくらい情状酌量の余地はあるのではないか。八十まで生きられなくてもいい。せめて弟が一人前になるまでは見届けたい。そのくらいの我が儘は通させて欲しい。
「あたしだって譲れないものがあるの。だから、宗一郎と話をさせて」
「そうでしたよね……。梓さんが残そうとしている未練は強いのでしたぁ」
松風が残念そうに首を横に振る。そして、その両眉が固い決意を示すように上がった。
「ですけど、その未練のために残ってもらいますよ。ボクが少し足止めさえすれば、梓さんの現世の身体は死んでしまうのですから。火葬までされちゃったら戻る肉体もなくなりますし、諦めも付きますよねぇ?」
松風の身体から強い霊力が吹き上がる。梓を襲った妖とは比べ物にならない。宗一郎の霊力にも匹敵しようかというものだ。
「え……わっ!?」
梓の頭上で竜巻が生み出され、それに吸い込まれるように梓の身体が浮いた。激しい風の渦の中で、ぐるんぐるんと勢いよく回され、梓の身体は木の葉のように翻弄された。
「松風っ、やめてっ!」
「やめませんよぅ」
松風が両手で風を操りながら言った。
「たとえ魂でも、意識のあるまま死を感じるのは怖いでしょうから、しばらく眠っていてもらいますよ。全てが終わったら教えてあげますぅ」
十分な勢いがついた梓の身体が竜巻から弾き出された。
きりもみ状態になった梓は、勢いよく地面へ落下していくのを感じる。こんな高さから落とされたら間違いなく死んでしまう。魂なら死ぬのとは異なるのかもしれないが、意識は失ってしまうに違いない。眠っている間に全ては終わり、梓は幽世町の住人となってしまうのだ。
(そんなのって……っ!)
死ぬにしてもこんな人外の力での理不尽は嫌だ。引導を渡されるなら宗一郎のほうがいい。彼ならもっと別の方法で梓を説得するのだろうから。
地面が迫る中、梓は叫んでいた。
「助けてっ、宗一郎っ!」
梓が最後の悲鳴を上げるのと同時、河原に轟音が響き渡り、黙々と土煙が上がったのだった。
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