第11話 目標達成
「――ごめんなさい。宗一郎さま」
文机の前で、白い夜着を纏った女性が文を書いていた。
女性の顔は夜着よりも白く、頬骨が浮いて見えるほど痩せていた。あと数日で三途の川を渡ってしまうであろうことは、誰の目にも明らかなほどに衰弱している。
起き上がっているだけでも体力を消耗するのか、女性の筆を持つ手は震えていた。それを懸命に動かし、最後の一文字を書き終えたとき、力尽きたかのように文机の上に突っ伏した。
「宗一郎さま。どうかご無事で」
こほっ……と、弱々しい咳が出て女性の背中が震えた。
吐く息が自分のものではないかのように熱い。ずっと高熱が続いていて、食事も水すら喉を通らない。
もう自分は長くない。その一心で無理やり床から起きて筆を取った。
「一足先に、来世でお待ちしておりますよ」
だが、目を閉じる女性の表情は、なぜか幸福に包まれていた。これから来る幸せな未来を、まるで想像しているかのように。
(だって、わたしはこうして、出会えたのだから)
死への眠りにつく彼女の手を、そっと誰かの手が握ったのだった。
◆
――朝日が中庭を照らす。
それを見詰めながら、梓はぼうっと布団の上に座っていた。
昨日は疲労と達成感からか、どうしようもない睡魔に抗えず、そのまま眠りに落ちてしまった。宗一郎が操る水牛の背中に揺られ、屋敷に戻って来たのはおぼろげながらに覚えている。
自分の胸元を確認すると、現世への繋がりを示す糸は切れていない。むしろ、十日前と比べると力強くなっているような気すらする。現世へ帰るための舟を買うだけのお金が貯まったからかもしれない。
「よかった。まだ生きてる……」
十日が過ぎてしまったので、もう死んでしまったのではないかと気が気ではなかった。この様子なら今日はまだ大丈夫だろうと判断する。気分的に楽になったからか身体も随分と軽い。
(変な夢を見ちゃったなぁ……)
少しだけ眠気の残る頭を振ってはっきりとさせる。
まるで自分があの夢の中の女性になっているような感じだった。疲れている中で、宗一郎から秘密を聞いてしまったからだろうか。
これほどに想われている女性の魂が、宗一郎の元に来てくれたらいいのに。輪廻の輪を修理しながら、そんなことを考えてしまった。だから、今朝のような夢を見たのかもしれない。
「――梓さん、お目覚めになりましたね」
着替えようかと思っていると、朝餉を知らせに桔梗がやって来た。その両手に持っていた物を見て梓は首を傾げた。現世で着ていた継ぎはぎだらけの小袖だったからだ。
「おはよう。それは?」
幽世へ来てからは、ずっと宗一郎が用意してくれていた着物だった。最初の頃は豪華すぎて気後れしていたのだが、桜や椿、牡丹など、毎日違う柄のものが用意されていて、今日は何だろうといつしか楽しみにもなっていた。
「今日はこちらをお召しになるようにと申し付けられています。なんたって梓さんが現世に帰る日ですから!」
現世と小袖が結びつかなかったが、桔梗の言葉に、本当に帰れるんだと思う。梓は急いで着慣れた小袖へと着替えると、待っていた桔梗の後を追いかけた。いつもの朝餉をする部屋へ案内された。そこではこれまたいつもの如く、松風が七輪で魚を焼き、宗一郎がお茶を飲んでいる。
「おはよう、梓。ちゃんと現世の小袖を着てくれたようだね」
「おはよ。うん、この小袖は、桔梗に言われたんだよ。これって何か意味があるの?」
梓の問いかけにこたえたのは松風のほうだった。
「現世に帰るときは、現世からの持ち物を身に着けていると、魂が身体まで迷わないですむのですよぅ」
「へえええ」
膳の前に座ると、宗一郎がさらに補足をしてくれた。
「梓が眠っている間に、舟はわたしのほうで準備をしたよ。幽世町での書類上の準備も終わっている。あとは梓が現世に帰るだけだ。朝餉が終わったら河原へ向かおうか」
(本当に、帰れるんだ……)
いつも顔を合わせている宗一郎から告げられ、じわじわと実感が沸いてくる。
思えばこちら側に来てから助けられてばかりだった。特に宗一郎には、帰るためのお金を稼ぐ手段を教えてもらい、この屋敷で世話をしてもらった。至れり尽くせりの待遇は、お姫様にでもなったのかと錯覚しそうになるくらいだ。
宗一郎にも事情があったのは、昨日の話で理解した。生者まま三途の川を渡ってしまった梓を、ただ哀れに思っただけではない。それでも、梓にとって彼の存在は大きく、自分一人ではとっくの昔に諦めて、三途の川に飛び込んでいたかもしれない。
「こんなによくしてもらえたのに、あたし……」
朝餉が終わり、箸を膳の上に置きながら梓は言った。
「何のお礼も返せてないよ。どうしよう」
「お礼か。まあ、気にするな」
お茶を啜っていた宗一郎が、珍しくにやりと人の悪そうな笑みを浮かべた。
「初日に布団の中でいっぱい甘えてきてくれたからな。それで許してやろうよ」
「ぶーっ! げほげほっ!」
同じくお茶を飲もうとしていた梓は、思いっきりむせ返る。
「あたしを殺す気!? あれは事故よ、事故! あたしは何も覚えてないし、何もしてないから!」
「二日目以降もうなされていたようだからなぁ。できれば添い寝をしてやりたかったのだが、また熱烈に来られては俺も理性が持たぬと思って、手を握るだけにしていたのだよ。気が付かなかったのかね?」
「えっ、えっ……そうなの?」
驚愕の新事実に口をパクパクと開閉することしかできない。目覚めたときはいつも一人だったから、全く知らなかった。
(あ、でも、今日も何か……)
夢の中で誰かの手が握ってくれたような気がする。包容力に満ち溢れて、とても安心する温もりだった。それが宗一郎の手だったとすれば……。
(うわ~~~~っ!)
瞬時に頬が赤く染まった。
寝顔も完全に見られてしまったに違いない。油断していたから精神的にも完全に無防備だった。涎でも垂らしていたらどうしよう。
これは死ぬ。
恥ずかしすぎて、死ぬ。
羞恥に頭を抱えて悶える梓を見て、宗一郎がうははと笑う。そんな中で、松風だけは心配そうな声で梓へ声を掛けてきた。
「梓さん、本当に帰ってしまうのですかぁ?」
「う、うん。あっちに待ってる人がいるからね」
なんとか気持ちを切り替え、梓は顔を上げた。
「そうですか……残念ですぅ」
悲し気な表情で松風はしょんぼりと肩を落とした。
「せっかく仲良くなれましたのに。このままお屋敷に留まってくれたら、きっと宗一郎さまも喜ぶと思うのですぅ」
「これこれ、松風」
それを聞いて、咎めるように宗一郎が言った。
「梓を困らせてはいけないよ。現世に帰るために、今日まで頑張ってきたのだから。我々は快く送り出してあげるべきだ」
「はぁいぃ」
少しだけ不服そうに返事をしながらも、松風は二人分の膳を抱えて部屋から出て行ったのだった。
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