閻魔様が放してくれない
第10話 手伝ってくれる理由
「えいっ!」
か~ん!
「てやっ!」
か~ん!
「とうっ!」
ぐしゃっ!
「いっだぁぁああああっ!」
梓の悲鳴が三途の川のほとりに響き渡る。梓は自分の手を抱えて、砂利石の上で痛みに悶え苦しんでいた。金槌の目測を誤って自分の手を叩いてしまったのだ。
「はぁ……本当に潰れちゃったかと思った」
手をグーパーして、骨が折れていないのを確認する。幽霊みたいな身体なのに骨を心配するのもおかしな話だが、行動は無意識のうちに現世基準になってしまう。
(だけど、こうしている場合じゃない)
息も上がっているが、歯を食いしばって梓は作業を続ける。
幽世へ来てから今日で十日というのに、まだ木札の数字が目標に届いていないのだ。数日は誤差があると宗一郎からは聞いていたが、二倍になることはないだろうとも思う。
(もう、時間がない)
文字通り、明日をも知れない命。胸元から伸びる糸はまだ切れていないが、これが見えなくなったときが、現世の身体が死んだということになる。そうなれば、二度と現世で目覚めることは叶わない。
現世で瀕死だという自分の身体。たとえ帰れたとしても、健康を取り戻すには時間がかかるかもしれない。それでも、凛太郎のためにここで諦めるわけにはいかないのだ。
一心不乱に作業を続けているといつの間にか陽が傾いていた。それにも気が付かない様子で、梓は作業の手を止めない。
「……さ」
ぎーこぎーこ。
「あずさ」
か~ん。
「お~い~、あ~ず~さ~!」
「きゃぁっ!?」
金槌を振り下ろそうとした手を、背後から何者かに掴まれ、梓は悲鳴を上げてしまった。振り返るとそこには、呆れたような表情で見下ろしてくる宗一郎の姿。
「梓の悲鳴は本当に大きいな。向こう岸まで聞こえているのではないか?」
「あなたが驚かすからでしょ!」
言い返してから作業に戻ろうとすると、宗一郎が沈みゆく太陽を指差した。
「そろそろ時間だから迎えに来たのだが」
「もう、そんな時間なんだ」
あれが沈んだら現世の身体が死んでしまう。明日の朝くらいまでは猶予があってほしい、と願いながら梓はお願いする。
「あとちょっとだから。今日は最後までやらせて」
「無理をすると現世の身体に障ると何度も忠告しているであろう」
宗一郎が地面に散らばった端材を片付けながら続ける。
「桔梗の報告だと、お前の現世の身体の容体は安定しているようだぞ。そんなに焦らずとも、今日や明日死ぬような……」
「でも、もう十日を過ぎちゃうんだから!」
宗一郎の言葉を遮ってから、梓は落としていた金槌を拾った。
「これが全然貯まってないなら、あたしだって諦める。でも、本当にあと少しなんだから。そりゃあ、途中で妖に襲われて半日くらい無駄にしちゃったのは、あたしが悪いけど。その分くらいは無理をさせてよ」
再び金槌と鋸の音が河原に響く。脇目もふらずに没頭するその背中に、宗一郎が声を掛けようと何度か口を開き、その度に口を閉じる。しばらくして諦めたように息を吐くと、積まれている材木の方へ足を向ける。
「では、俺が直々に手伝ってやるとしよう」
「へ?」
驚いて梓が手を止めると、その隣に予備の鋸と、輪廻の輪の木材を持った宗一郎が立っていた。呆気にとられる梓の前で、ぎこぎこと鋸で材木を切っていく宗一郎。梓よりもずっと手慣れている。
「どうした? 急がぬと間に合わなくなるぞ」
「う、うん!」
我に返って梓は頷いた。渡された材木を輪廻の輪に固定していく。
しかし、これはどういった風の吹き回しなのだろう。今までは「梓の仕事だから、俺が手を出すわけにはいかない」と、宗一郎は意地悪をする様子でもなく言っていた。梓もそれはそうだろう、と納得していたものだ。
「幽世の掟としては駄目なのだがな」
疑問が梓の顔に出ていたのだろう。宗一郎は言い訳をするように言ってきた。
「少しくらいは手伝ってやらぬとな。これで間に合わなかったとかで悪霊になられようものなら、そのほうが俺の仕事が増えてしまう」
「……どうして」
梓が固定した木の棒の先端に、宗一郎が柄杓を取り付けている。それをちらりと横目で見てから梓は訊ねた。
「どうして、あたしにそこまでしてくれるの? 宗一郎にとってあたしは、数多くいる死者の一人じゃないの? そりゃ、まあ、まだあたしは生者だけど」
自分一人のために、世話を焼きすぎているのではないか、と。
もちろん、梓としてはここまでしてくれる宗一郎の存在はありがたい。初日に発見してくれて、幽世の理を教えてもらい、あまつさえこうして現世に帰る協力までしてくれている。
もしも、初日に遭遇していたのが妖だったらと思うとぞうっとする。きっと何もわからぬまま妖に襲われ、彼女の魂は妖のお腹の中に収まっていただろう。そうすれば、帰る魂を失った身体は、十日も経たずに死を迎えていたに違いない。
(だけど……)
その一方で、至れり尽くせりすぎやしないかと、逆に不安にもなってしまう。タダより高いいものはないと言うではないか。何か裏に下心が潜んでいるのではないのか。尤も、今ごろ心配しても、既に手遅れという可能性もあったりするのだが。
「……あまり人に語るような内容ではないのだが」
しばらく沈黙してから、宗一郎が息を吐いた。
「松風から、閻魔となる資格と試験の話は聞いていたな」
「うん。強い未練が必要なんだって」
このままだと梓自身が閻魔試験を受けることになるかもしれない。自分が閻魔様として幽世で活躍する姿を想像して、少しだけ梓は笑った。
「もしかして、あたしとかピッタリなんじゃない?」
「梓がこのまま死者になれば、強い未練を持ちそうだ。そのときは是非とも、俺のお勤めを手伝ってもらいたいものだな」
鋸を使う手を止めないまま、宗一郎も同じように声を出して笑う。
「俺が現世で許嫁と約束をしたときは、幾つもの国が戦をしている時代でな」
昔話をしてくれる気配に、梓は手を止めずに聞き耳を立てた。
「生憎と俺の住んでいた国も例外ではなくてな、何度も大きな戦があった。そして、俺も足軽として招集されてしまったのだよ。許嫁とささやかな祝言をあげる直前だったかな」
か~ん、と振り下ろした金槌の音が河原に響く。その木材に柄杓を固定しながら宗一郎が続けた。
「俺は少しだけ予定を変えた。祝言をあげるのは、この戦が終わってからにしよう、と。隣国と雌雄を決するような大きな戦が目の前に迫っていて、生きて帰れるかもわからなかった。もしものときは、俺を忘れて新しい人生を歩んでくれ、と告げて戦場へ赴いたのだ」
「そっか……宗一郎は、そこで死んじゃったんだね」
梓は沈んだ想いを抱きながら視線を落とす。
自分が死んだときのことまで考えるほど、許嫁のことを考えていたのだ。強い未練は戦場で倒れたときに残ったのだろう。
だが、梓の想像に反して、宗一郎は静かに首を横に振った。彼女に切った木材と釘を渡しながら言う。
「運のいいことに、俺は生きて帰れたよ」
「え……?」
それでどうして幸福にならなかったのだろうか。首を傾げる梓は、次の宗一郎の言葉で絶句する。
「許嫁のほうが死んでいたのだよ。流行り病だったらしい」
「そ、そんな……」
あまりの衝撃に作業をしていた手が止まってしまう。
せっかく生きて帰れたというのに、そのようなことがあっていいのだろうか。もしも自分が、これから現世に帰ったときに凛太郎がいなくなっていたら……と思ったら、絶望に駆られるのは当然だろう。
「彼女が死の間際に、俺へ遺言をのこしてくれていたよ。来世でお待ちしております、とな。それは奇しくも、俺がこっそりのこしていた遺言状の中身と一緒だった」
淡々と宗一郎は続ける。
「戦続きで物資も不足していたからな。薬を手に入れることもままならなかったのだろう。だがな――」
不意に宗一郎が身に纏う雰囲気が変わった。悔し気な感情がその瞳に乗っている。柄杓を取り付けようとしているその手が震えていた。
「その戦が終わるまでは半年足らずだった。あとたった半年。俺がそばについていれば、何かが変わっていたかも知れぬのだ。薬だって俺が手に入れられたかもしれぬではないか」
「で、でも、それは……招集されたんだから、仕方がな……」
「そんなわけがあるか!」
怖いくらいの激しい宗一郎の口調に梓は怯んだ。
「どうして招集逃れの方法を考えなかった。どうして彼女を連れて逃げることを考えなかったのだ! あと半年くらい、どうにかならなかったのか!」
「宗一郎……」
今でこそ現世の江戸の町は、争いがなく平和な時代を謳歌している。しかし、その前には百年以上にも続く長い戦の時代があった。それがいかに過酷な時代であったかを梓は知らない。招集逃れだって簡単にできるわけはないだろう。
それでも宗一郎は自らを責めていた。隣で見ていて痛いくらいに自責の念に駆られている。それが閻魔となるための強い未練となったのだ。
「俺は、守れなかったのだよ」
しばらくして激情は去ったのか、宗一郎の瞳は穏やかなものに戻っていた。梓が知らない間に落としていた釘を拾って渡す。
「だからな、そのような思いをするのは二度と御免なのだよ。幽世町に住む者は、現世で様々な事情を抱えて死んだ者ばかりだ。その者達の未練を晴らしてやりたいと思う。だからこそ、閻魔という者になったのだ」
ぽん、と梓の頭に、宗一郎の手が優しく置かれた。
「お前もだ。妖に襲われたときは、また守れないのかと冷や汗をかいたぞ。今度こそ、俺にお前を守らせてくれるか?」
「……う、うん」
神妙に梓は頷いた。それと同時に、お前というのが梓個人を指しているようにも聞こえて、知らず知らずのうちに頬が赤らんでしまう。
(これは、あたしのことじゃないんだから!)
閻魔という役職の者が、生者である梓を守ってくれると宣言しているだけだ。そこに恋愛感情などというものはないはずだ。宗一郎が亡き許嫁に対する未練……というか、強い想いは聞いたはずなのに、勘違いするとかあり得ない。
「さあ、あと少し! 宗一郎のためにも、あたしは頑張るよ!」
梓は意識して宗一郎から視線を外すと、修理中の輪廻の輪へと振り返る。
宗一郎の強い想いは受け取った。ここで梓が失敗すれば、彼の未練を増やしてしまうことになる。そんなことは望んでいないし、梓の場合は待ってくれている弟がいるのだ。
集中して、何度も何度も金槌を打ち付ける。いつしか太陽は地平線に沈み、宗一郎が火を焚いて周囲を明るくしていた。
一つ、また一つと修繕が終わったら輪廻の輪が増えてゆき――いきなり、梓の胸元が光った。慌てて木札を取り出すと、そこには目標金額に届いた数字が書かれていた。
「終わった……! 終わったよ、宗一郎!」
どれどれと宗一郎がそれを見て、やったな、とばかりに梓の頭をぐりぐりと撫でた。
「うむ。これだけあれば十分だろう」
「よかったぁ……」
安心した途端、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。立っていられなくなり、ぺしゃりと腰が砂利の上に落ちる。
(もしかして、これ……死ぬ? 時間切れ!?)
慌てかけるも、すぐに宗一郎が倒れそうになった身体を支えてくれた。
「どうやら疲れすぎたようだな。三途の川を渡る舟の手配などは、俺のほうでやっておこう。だから、今は安心してお休み」
「明日、目覚めたら死んでた……とか、ないよね?」
瞼がどうにも重くて開けていられない。意識が奈落の底へ落ちて行くのを感じながらも、最後に宗一郎がこう言ったのだけは聞こえた。
「梓は死にはしないよ。きっと、あと数十年はね」
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