第8話 宗一郎の過去
「さて、梓」
嵐の姿が見えなくなったところで、宗一郎がくるりと振り返った。
「これは一体、どういうことかね? 輪廻の輪の修繕をサボって何をしていたのだろうか」
宗一郎の唇には笑みが浮かんでいた。だが、その背後にゴゴゴと擬音すら聞こえてきそうなほどの、強い霊力が陽炎を作っているとなれば、友好的な微笑みでないことは一目瞭然だ。傲然と腕を組んで見下ろしてくる様子は、まさに閻魔様といったところ。
(お、怒ってる!?)
地獄に送られた亡者が裸足で逃げ出していきそうな、尋常ではない怒りの様子に、梓は頬を引きつらせた。
たしかに、持ち場を離れたのは自分だ。それも、宗一郎から「人を惑わす亡者や妖に気を付けろ」と注意されていたにもかかわらず、だ。
けれど、河原は嵐や他の鬼が定期的に巡回していた。この五日間、変な亡者に絡まれることもなかった。もちろん、妖の類なんて一匹も見なかった。
「え、ええっと……サボってたわけじゃないし?」
一歩距離を取ろうとした梓の腕を、逃がさないとばかりに掴まれる。これが痛ければ力任せに暴れるのだが、痛くもなく簡単には振り払えない絶妙な力加減。絶対に逃がさないという強い意思がひしひしと伝わってくる。
「俺はこの周囲から離れてはいけないと言ったはずだが?」
「そうだけど……」
「もっと楽に幽世両を稼がせてやると、妖に唆されたのだろう」
「ち、違うよ!」
それは濡れ衣だと梓は主張する。
「あの妖が、弟に似てるような年齢の姿に化けていたから……それで、つい……」
「ほほう? 下手な嘘はつかぬほうがよいぞ。俺の正体を知っているのならな。今なら真実を言えば許してやる」
宗一郎の左手が伸びてきて梓の顎を掴んだ。そのまま上を向かされ、宗一郎の右手が梓の恐怖を煽るようにひらひらと動いた。
「う、うひょひゃにゃいし!」
発音不明瞭ながら必死に抗弁するも、宗一郎の右手は徐々に近づいてきて、梓の口の前でピタリと止まった。
(舌を抜かれる!?)
先ほどの妖が可愛く思えるほどの威圧感。目を閉じることすらできず、梓はその場に立ち尽くすばかり。
どれほどの時間そうしていただろう。不意に宗一郎の手の力が緩み、つま先立ちになっていた梓の踵が地面についた。
(た、たすかっ……え?)
その次の瞬間、梓の身体は別の意味で硬直した。ふわりと風が動き、彼女の腰が引き寄せられたかと思うと、宗一郎の胸の中にすっぽりと身体が収まっていたのだ。
抱き締められている――そう把握して、どうしてこんなことになるのか理解が追いつかず、梓の頭は混乱した。骨が軋むような強い力に、梓は微かに呻いた。
「痛いから……」
「――った」
「え……?」
耳元でささやかれた言葉が小さすぎて聞こえない。梓が訊き返そうとするも、彼女の足は地面を離れ横抱きにされていた。そのまま水牛の上に乗せられる。
(これは、どういうことなのーっ)
まったくもって宗一郎の行動が意味不明。声を大にして問い質したいが、宗一郎のむっつりとした表情はそれを許してくれそうにない。さらには、横抱きにされたままなので、宗一郎の顔が手を少し伸ばすだけで届く距離にある。
(近い、近い……)
異性とこんなに近い距離になったのは、凛太郎くらいだろうか。それも、まだよちよち歩きのときの話だ。弟大好きお姉ちゃんとはいえ、それはあくまでもただ一人の肉親としてだ。大人の男性がこんなに近くにいるのは初めての経験だ。
それなのに――。
(なんだか安心する)
緊張を強いられているのに嫌ではない。そんな自分の感情にも戸惑ってしまう。何よりこれが初めてではない……と、そんな声が心の奥から聞こえてくるような気がした。
「――戻ったぞ。桔梗、松風」
水牛の上で固まっているうちに、宗一郎の屋敷へと到着していた。「は~い」と屋敷の奥から声が聞こえて、パタパタと二匹の小鬼が出て来る。
「おかえりなさいませぇ……って、おやぁ?」
すぐに松風が何やら気が付いたようで、桔梗と顔を見合わせる。水牛から降ろされる梓を、桔梗が手伝いながら言った。
「妖の霊力がしますね」
「うむ。俺も少し油断をしていた」
相変わらず不機嫌そうな表情で宗一郎が頷いた。
「嵐たちがいるから大丈夫だろうと思っていたのだが……。怪我はないと思うが見てやってくれ」
「なるほどなるほど。それは怖い思いをしましたね。こちらへどうぞ!」
宗一郎のほうが百倍怖かったんだけど。そんなことを思いながら梓は桔梗にお風呂に連れて行かれる。そこで怪我をしていないことを確かめられ、湯浴みをしてからいつもの夕餉を食べる部屋へ。
(あれ? 今日はあたし一人?)
いつもは待っている宗一郎の姿は部屋になく、松風だけが座っていた。膳のほうはちゃんと二つ用意されている。いつもの如く七輪で魚を炙っている松風が、梓を見てにっこりと微笑んだ。
「少しお待ちくださいぃ。宗一郎さまは、今日の件を処理していますのでぇ」
「うーん……」
どうするか梓は迷った。
きっと宗一郎は、まだ怒っているに違いない。あの般若の如き怒りの前で食事をするのは、地獄の苦行に匹敵するのではないだろうか。気まずさのあまり何も喉を通らない気がする。
「なんか食欲ないから、今日は……」
そこまで言いかけたところで、松風の顔色がさっと変わった。慌てたように梓のところへ来て、身体のあちこちを調べ始めた。
「妖にどこかやられてしまいましたかぁ? 早く処置をしないと、大変なことになってしまいますぅ」
「だ、だ、だだだ、大丈夫だから!」
松風を何とか宥めて、これは観念して膳の前に座るしかないと覚悟を決める。梓にも言い分があるとはいえ、言いつけを破ったから危険な目に遭ったのだ。それに対しては謝るべきだと思うし、それをこの夕餉で伝えられなかったが、一生伝えられない気がした。
はぁ……と重いため息をつきながら座ると、くすくすと松風が笑っていた。
「もしかして梓さん。宗一郎さまに怒られましたかぁ?」
「まあね……」
隠していても仕方がない。肩をすくめながら梓はこたえた。
「あたしが言いつけを守らなかったのがいけないんだけどね。あ~あ~、サボってるって勘違いもされちゃったし。もう、最悪。明日にでも地獄行きを命じられたりして」
「そのようなことは絶対にされないので、ご安心くださいぃ」
あまりにも自信満々な松風の様子。梓は眉をひそめながら問いかける。
「どうしてそんな簡単に言えるの? あ、もしかして、判決文とかも書いたりするのも仕事の一部だったりする?」
松風はすぐにはこたえず、しばらく七輪の火加減に集中していた。魚が香ばしく炙られたところでひっくり返す。その焼き色に満足したような表情を浮かべてから、梓へと視線を向けた。
「梓さんはぁ、閻魔試験の資格と試験内容を知っていますかぁ?」
先ほどまでとは全然違う話の内容に梓は戸惑う。松風も知っているとは思っていなかったのだろう。梓が答える前に口を開いた。
「受験資格の一つは、現世に強い未練を残した人間であることなのですぅ」
「人間って、そんなの当り前じゃ……」
そう言いかけて、いや違う、と梓は思い直した。
よくよく考えてみれば、三途の川を巡回していた者は全て鬼だった。この屋敷も桔梗、松風だけでなく、他の使用人たちもみんな鬼だ。他の閻魔様は見たことはないが、少なくとも人間は宗一郎だけだった。
「もしかして……閻魔様以外に幽世で働いている人たちって、みんな鬼なの?」
「正確には幽世町を治めている者がみんな鬼なのですよぉ。閻魔様だけが特別な役職で、人間が就くことになっているのですぅ」
「また、どうして閻魔様だけ?」
梓の当然の疑問に、松風が魚の焼け具合を見張りながらこたえる。
「幽世町に来る人間は、善人であれ悪人であれ、強い未練を持った人ばかりですからぁ。それを裁く閻魔様も、その人たちの未練に共感できる人でないといけないのですぅ。鬼は幽世生まれ幽世育ちで、そんな気持ちがわかりません。みんな地獄か極楽か、その二択になってしまいがちなんですぅ」
「へー、そんな裏話もあったのね」
確かに現世を知らない鬼に裁かれるより、元現世の人間に裁かれるほうが納得はできる。梓にしても、宗一郎が同じ人間だったからこそ、彼の言うことは信用できるだろうと思ったのだ。これが鬼だったら、頭ごなしに命令されている思って反発していたかもしれない。
「だからですね、閻魔様の位も、その未練の強さによって決まっているんですぅ」
「未練の強さ? 強い未練を持つと位の高い閻魔様になれるってこと?」
そうですよぅ、と松風が頷いた。
「宗一郎さまは閻魔試験で、現世で許嫁と結ばれなかった想いを、十年間ずっと叫び続けて、今の位を手に入れたのですよぉ」
「じゅ、十年間!?」
「ちょうど、梓さんと同じくらいの年頃の娘さんだったらしいですよぉ。だから宗一郎さまも、梓さんを放っておけないんだと思いますぅ」
松風の説明に、少しばかり梓はドン引いてしまう。
そんなに叫び続けていたとか、よほど強い未練だったのだろう。未練というよりも、執念と言い換えたほうがいいのではないだろうか。それほどに想われていた許嫁のほうにも未練があったのではと考えると同時に、自分だったら恥ずかしくて逃げてしまうかも、なんてことを思ったりもする。
しかし、見た目は穏やかそうに見える宗一郎に、そのような激しい一面があったとは。そんなことを考えていると、いつの間にか部屋の入り口にその張本人が立っていた。
「松風。余計なことを教えるのではない」
苦々し気な口調で宗一郎。今の一部始終を聞いていたのだろう。余計に機嫌が悪くなってしまったようにも見える。
「そうでしたかぁ、すみませ~ん」
松風は悪びれもせずに、ぺろりと舌を出した。焼けた魚を素早く二人の膳の上に置くと、部屋を出て障子に手をかけた。
「それでは、後はお若い二人でぇ」
まるでお見合いの席のような台詞を残して、松風が去って行く。その後、無言で宗一郎が自分の膳の前に座った。
「…………」
「…………」
(うわあ……やっぱり怖い!)
無言の威圧感に、梓の視線が泳ぐ。直接何かをされているわけではないが、この雰囲気は今すぐ逃げ出したくなる。何か言わなければと思うものの、意味のある言葉が頭に浮かんでこない。
やがて、宗一郎が口を開く。
「梓」
「は、はひっ!」
声が裏返ってしまった。そんな彼女には構わず宗一郎が続ける。
「松風が余計なことを喋っていたが、言っておくが、あれはだな、かなーり誇張された表現だからな? 全てが真実だと信じるのではないぞ?」
何やら様子がおかしい。やっと宗一郎の顔を見ることができて、彼も少しばかり視線が彷徨っているのを知る。
(これは……恥ずかしがってる?)
どうやら松風に過去を暴露されたのが堪えているらしい。宗一郎がむっつりとした顔をしていたのは、その照れ隠しらしいと気が付き、やっと梓は肩の力が抜けた気がした。
「今日は、ごめんなさい」
するりと意外と簡単に謝罪の言葉が口から出る。正座をしたまま畳に付くほど深々と頭を下げた。
「あなたの言いつけを守らずに、あの場から離れたのはあたしが悪かったと思う。だけど、これだけは信じて。輪廻の輪の修理をサボっていたわけではないの。明日からは今日よりも頑張るから、どうか地獄行きだけは許して」
「これこれ、早く顔を上げなさい」
梓が殊勝に謝るとは思ってもいなかったのか、宗一郎の狼狽したような声が聞こえた。
「俺も怖がらせて悪かった。梓がサボるような娘ではないのは知っているよ」
顔を上げた梓へ済まなそうに宗一郎が目を伏せた。
「俺のほうこそ油断をしていた。嵐たちがいるから危険はないと思い込んでいたのだよ。先ほど、河原の巡回を強化するよう連絡をしてきた。これでは幽世町の治安を守る閻魔としての落ち度だな。明日からは今日のようなことはないはずだよ」
宗一郎の言葉で、もう一つ誤解をしていたことに梓は気が付いた。彼が怒っていたのは、勝手な行動をした梓にではない。真の怒りは、不甲斐ない己自身に対してだったのだ。
閻魔様――その単語のイメージで、やはり宗一郎を怒らせると怖い人間だと思い込んでしまっていた。けれど、実際の宗一郎は、とても責任感の強い人間なのだろう。だからこそ、梓ではなく自分を責めてしまっているのだ。
そう思えば、宗一郎のことが途端に身近に感じるようになってしまった。閻魔としての役目を果たそうとしているだけと理解していても、まだ生者である自分のことを、こんなにも気にかけてくれている。
「今日は滅茶苦茶怖かったからね。宗一郎のおかげで死なずにすんだよ。本当にありがと!」
緊張を解いた梓の唇が自然と綻んだ。箸を手に取って「いただきます」と両手を合わせる。
「安心したらお腹が空いちゃった。せっかく松風が作ってくれた焼き魚が冷めちゃうよ。宗一郎も早く食べよう!」
「……ふふふ。そうしようか」
宗一郎も肩の荷が下りたようで、やっといつもの柔らかな表情に戻る。
「うんうん!」
一方で、頷きながら梓は別のことも思っていた。
これが現世だったらよかったのに――と。
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