二章 現世に戻るために奮闘する
第5話 朝起きたら隣に……
「うぅ……」
暗い水の中。何者かが足を引っ張る。
「――ずさ。梓、大丈夫かね?」
「苦しい……助けて……」
冷たい。冷たい。いくらもがいても水面は遠くなるばかり。
「梓! 気をしっかり持ちなさい!」
お腹のあたりが仄かに暖かくなる。それが救いとばかりに、無我夢中で掴んだ。
けれど、それを引き剥がそうとする力も強くて。
「あああっ!」
もう駄目――と思ったところで梓は目を覚ました。
「はぁっ、はぁっ……」
心臓が口から飛び出そうなほどバクバクと鳴る。背中が汗でべっとりと濡れて気持ち悪い。胸元に抱えたものを、お守りのようにしっかりと抱き締めた。
すると、梓の背中に大きな何かが触れた。夢の中と同じような暖かさが彼女の全身を包み込む。それが心地よくて身を任せていると、次第に荒かった息も収まってきた。
(あれ? これは……?)
気分が落ち着いたところで、今の状況がどこかおかしいと気が付く。一人で眠っていたはずなのに、目の前に誰かがいるような気がする。
ゆっくりと顔を上げると、宗一郎の心配そうな顔が間近に見えた。
「怖い夢を見たのかね。とてもうなされていたよ」
「え……?」
となると、この胸元に抱きしめているものは……宗一郎の手。背中に置かれているのは、もう一方の彼の手だ。
宗一郎の腕に抱かれているような状態。その状況を把握した梓の頭が瞬時に沸騰した。
「ひっ……ひああああああっ!」
屋敷全体が揺れるような悲鳴を上げて、力任せにどんっと宗一郎の身体を突き飛ばす。
さっきとは別の意味で呼吸が荒くなり、梓はあわあわと布団の上を後ずさった。
「ど、どどど、どうして一緒の布団に寝てるのーっ!」
慌てふためく梓を尻目に、宗一郎は悠々と起き上がった。突き飛ばされた拍子に乱れた小袖の襟を整えながら言う。
「梓がうなされていたから添い寝していただけだよ。一晩中、ずっとうなされていた」
一晩中……ということは、ずっと宗一郎が隣に居たということか。あまつさえ、彼の手を握り締めて、自分から密着しにいった気がする。
(と、ということは……)
梓は不意に心配になり、自分の身体を両腕で抱いた。
「あ、あたしに何かした……?」
「夜這いをするような趣味はないのだがな」
そこで、宗一郎が心配そうな表情から、からかうような表情へと変わった。
「梓のほうからぐいぐい来て、理性を保つのが大変だったよ。きみは俺の鉄壁の理性に感謝することだね」
「なっ、なっ、なっ……」
梓の手は反射的に枕へと伸びていた。そのまま振りかぶって思い切り投げつける。
「出てけーーーーっ!」
渾身の叫びを「ははは」と軽く受け流しながら、宗一郎はそのまま廊下へ出る。一人部屋に残された梓は、しばらく布団に突っ伏して羞恥に身体を震わせていた。
(あ、あたしは何てことを……お嫁に行けない)
宗一郎は下心があって隣にいたわけではない。それはあの様子から一目瞭然だ。だが、十八歳にもなった乙女からすると、動揺するには十分な出来事だった。
あうう……と悶えていると、廊下から桔梗の呼ぶ声がした。
「梓さんの悲鳴は屋敷の外まで聞こえていましたよ。地獄でも滅多に聞くことがないような、見事な悲鳴でした」
「う~……からかわないで」
のろのろと顔を上げると、桔梗が若芽色の小袖を差し出していた。
「こちらのお召し物をどうぞ。着替えたら朝餉が待っておりますよ」
もうそんな時間だったのか。太陽はとっくに上っており、これでは朝寝坊の部類になる。貴重な時間を無駄にしてしまった。
(なんだか身体が怠い……)
着付けを桔梗に手伝ってもらいながら顔をしかめる。
悪夢の影響だけではない気がする。寝不足というより、単純に身体の疲れが取れていないような気配。それだけ現世の身体が、死に近づいているというのだろうか。
「梓さん、どうかしましたか?」
目ざとく梓の様子に気が付いた桔梗が問いかけてくる。梓は腰の帯を確かめながら小さく欠伸をした。
「ちょっと怠くて。三途の川に飛び込んだから、風邪でも引いたのかな」
「現世で死にかけているので、そこは仕方がありませんね」
「うっ……」
改めて言われるとショックを受けてしまう。桔梗から「行きますよ~」と促されて、その背中を追った。
「このまま死んだら、どうなっちゃうんだろう……」
「幽世では肉体的な病はないですからね。きっと楽になれますよ? 肉体の苦しみから逃れるために、一度死んでみるとかどうですか?」
「いやいやいや」
ぶんぶんと首を横に振る梓をちらりと見て、桔梗が声を上げて笑った。
「夜は宗一郎さまがつきっきりで霊力をお与えになっていましたからね。現世の身体が急変してしまうことはないでしょう」
「そう……なんだ」
悪夢の中で感じた暖かい気配。やはり、あれは宗一郎のものだったのだ。自分のために力を使ってくれていたのに条件反射で怒鳴ってしまった。
(お礼くらいは言わないとね)
そう決心しているうちに、昨日の部屋へと案内された。既に朝餉の膳が用意されており、宗一郎が座ってお茶を啜っていた。その横では、松風が茶碗にご飯をよそっている。
宗一郎がにっこりと微笑んだ。
「梓。改めて、おはよう」
「お、おはよう……」
お礼を言わなければと思うものの、先ほどの件を思い出してしまい、正面から宗一郎を見ることができない。つい、と視線を逸らしつつ、梓の膳の前に座った。
くすくす、と笑いながら松風が茶碗を梓の膳に置いた。
「おはようございますぅ。死者も目覚めそうな梓さんの悲鳴でしたぁ」
「もう! お願いだから、松風もやめて!」
とどめを刺された気分で梓は茶碗を手に取った。このままでは肉体よりも先に魂のほうが先に昇天してしまいそうだ。
自分の中から記憶を消してしまえとばかりに、梓は食べることに集中したのだった。
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