第2話 地獄行き!?

「――お姉ちゃん。しっかしりして!」


 どこからかそんな声が聞こえる。


(凛太郎……?)


 これは弟の声だ。

 大丈夫。生きてるから、安心して。

 そう答えてやりたいのに、どんどん凛太郎の声が小さくなっていく。背後を振り向けば、一生懸命走ってくる弟の姿。梓は立ち止まっているつもりなのに、なぜか二人の距離は離れていった。


「お姉ちゃん!」


 もう一度呼ばれて、梓はとうとう凛太郎の方へと足を踏み出した。

 けれど、これはどういうことだろう。いくら足を動かしても、梓の身体は後ろへ後ろへと押しやられていく。二人の距離は全く縮まらない。それどころか、凛太郎の姿は小さくなる一方だ。


「凛太郎っ!」


 焦って梓は走り出した。だが、足を早めれば早めるほど、梓を前に行かせまいという力は強まる。いつしか梓の背後には、ぽっかりと開いた穴が迫っていた。


「――んっ!」


 やがて弟の姿は豆粒のような大きさになってしまい、その声も微かにしか聞こえない。「帰ってきて」と、最後にそう聞こえた気がした。

 その時には、梓は大きな穴の近くへと到達していた。何処へ繋がっているのだろうか。穴からは眩いばかりの光が溢れている。


 この穴をくぐってはいけない。


 そう思っても、彼女を引っ張る力は圧倒的で、あっという間に頭から光の溢れる穴へと飲み込まれてしまう。

(絶対に帰るから……!)

 光の粒子に包み込まれながら、梓はそれだけを一心に思っていた。


    ◆


「――い! ――しろ!」


 遠くのほうで声が聞こえる。けれど、全身の力が抜けてしまったようで、もうこれ以上は自分が保てない。ばらばらになっていくような感覚が、恐ろしいながらもとても気持ちよく、それに身を任せてしまいたい衝動に襲われる。

 その直後、口元が何か柔らかいもので覆われた感触。そこから新鮮な霊力のようなものが吹き込まれ、梓の意識は一気に覚醒した。


「げほげほっ!」


 思いっきり咳き込んでうつ伏せになると、梓はたらふく飲んでいた水を吐き出した。両手を河原について半身を起こしたところで再び咳き込むと、背中に大きな手が添えられた。


「やれやれ。間一髪だったようだな」


 ほうぅ、と安堵したような声。ちらりと視線だけで確認すると、宗一郎が梓の背中をさすってくれていた。ひとしきり水を吐き出し、荒かった息も収まったところで、梓はやっとへたり込むような姿勢で座り込むことができた。


「ええっと……」


 前後の状況から考えるに、溺れそうになった自分を宗一郎が助けてくれたのだろう。未だに背中をさすってくれている宗一郎へ、梓はお礼を言うべく頭を下げようとした。


「ありが……」

 パチン。

「アイタっ!?」


 宗一郎の指が伸びてきたかと思うと、梓の額をデコピンしたのだ。思わずのけ反るほどの力で、とても痛い。涙目になって苦情を入れようとすると、宗一郎がずずいっと、それこそ閻魔様のように怖い顔を近づけてきた。


「馬鹿者! 一度こちら側へ来た者が、無断であちら側へ戻ろうとするのは、幽世の理を乱す者として、問答無用の地獄行きということを知らぬのか!」

「そ、そんなこと知るわけがないし!」


 反射的に言い返してから、目の前の男が閻魔様とかのたまっていたのを思い出し、ヤバイとばかりに背筋が凍った。

(こ、これは地獄行き!?)

 一も二もなく謝るべきだった。もしかすると、閻魔様に許可を貰えば、すんなりと帰れたのかもしれない。


 あわわ、と内心で焦っていると、幸いにも宗一郎はそれ以上は責めてこなかった。その代わり、心配そうな表情で梓の身体のあちこちを調べてくる。


「どこか痛かったりはしないか? 記憶が欠けていたりとか、自分の名前を忘れているとかはないな? 自分の歳は言えるか?」

「ちょっと! さすがにベタベタ触り過ぎ! っていうか、どさくさに紛れて変なところ触ろうとしない!」


 宗一郎の手の届く距離から脱出して、めっ、とばかりに睨み付ける。宗一郎は「うははは」と豪快に笑うと、もう一度大きく息を吐いた。


「そのくらい元気があれば大丈夫そうだ。来世へ転生する亡者に引っ張られていたからな。魂がおかしなことになっていないか心配したのだ」

「あ、あたしのほうこそ。いきなり三途の川に飛び込んだりして、ごめんなさい」


 ここが謝る機会とばかりに梓は頭を下げた。あちら側へ行く許可を出してくれるのが閻魔様であるなら誠意を見せておくべきだ。


「助けてくれて、ありがと! よくわからないけど、水車も亡者も、怖かったぁ……もうちょっとで死ぬかと思ったよ」

「この広い川幅を見ても、迷いもなく飛び込んだのは梓が初めてだがな」


 何を言っているのだとばかりに宗一郎。

 梓はこんな場所からは一刻も早くおさらばすべく、一生懸命に説明をする。


「あたしね、弟の……凛太郎のために家で待っていないといけないの。陰陽師の卵として認められつつあるけど、まだ十五歳でしかない。お勤めから戻ったときに、あたしの葬式が行われてるとか可哀そうだと思わない? だから、現世に帰る許可が欲しいんだけど」

「ふぅむ……なるほど」

 腕を組んで聞いていた宗一郎の眉間にしわが刻まれる。

「梓の気持ちはよく理解した。だがな、魂だけこっち側に来たということは、梓の身体は瀕死の重傷といったところだろうなあ」

「ひ、瀕死の重傷…………」


 現世で橋から落ちたときの記憶が蘇る。さっきの三途の川ではないが、水の中まで妖は追いかけてきた。何度も何度も梓の足を引っ張り、水中でもがく梓の様を楽しんで見ていたような気がする。そのまま意識を失ってしまったから、きっとそのまま沈められたのだろう。


 宗一郎の話が本当であるという証拠はどこにもないが、先ほど三途の川に引き込まれそうになった感覚は、たしかに死者の魂に引っ張られたからだ。陰陽師として妖を祓う力はなくとも、霊感は強くて、幽霊などが見える体質だったからこそわかってしまう。


「だ、だったら、なおさら帰らないと!」


 胸元から伸びる糸は、三途の川で溺れかけたからか細くなっている気がする。この糸が見えなくなったときが本当の死だ。それが確信のように思えるのは、やはり自分の肉体と繋がっているからだろう。


「きっと今のあたしって魂みたいなものよね? 臨死体験真っ最中ってとこ。このまま、ずっと身体から離れてたら本当に死んじゃうんだよね。だったら早く現世に帰して!」

「し、しかしだな、ここに来たということは、帰ったところですぐに死ぬだけかもしれぬぞ。もしくは、目覚めずに眠り続ける可能性も。それよりも、俺の屋敷に……」

「それでもいい!」


 何やら言いかけた宗一郎の言葉を遮って、梓はきっぱりと宣言する。


「瀕死の重傷だとしても気合で治す!」

「……気合で?」


 ポカンと、一瞬間抜け面を晒した宗一郎だったが、すぐに真顔に戻って言ってきた。


「お前は馬鹿か? 死にかけて頭がおかしくなったか? やはりこのまま一度死んだほうが……いや、まて。馬鹿は死んでも治らぬと聞くな」

「失礼な! あたしはこれでも読み書きに、算盤もできるんだけど!」


 貧乏暮らしでも一生懸命に学んでいた成果を、声高らかに叫んでから梓は続ける。


「あたしはね、両親を早くに亡くして弟の凛太郎だけが身内なの。その凛太郎が、両親が死んだときにどれだけ悲しんだか。だから、あたしが死んで、また凛太郎に同じ辛い思いをさせるわけにはいかないの。凛太郎が一人前になるまでは、あたしが頑張るって決めたんだから!」


 梓の両親は彼女が十四のときに、流行り病で死んでしまった。実家は地方で遠い……というか、二人は実家から認められていない仲だったらしい。なので、ここで梓と凛太郎が戻っても、冷遇されるのは目に見えている。

 両親の死で、ふさぎ込みがちだった凛太郎。その姿を見て、自分も落ち込んでいる場合ではないと思ったのだ。


 幸いにも貧乏陰陽師とはいえ、小さなオンボロ屋敷だけは残してくれた。陰陽師としてはからっきしだった梓だが、算盤は早かったし、手先は器用で大工仕事もできた。町の人も二人の境遇を知っており、彼女のために仕事を探してくれたりした。


 ふさぎ込みだった凛太郎も、姉の背中を追うようにして立ち直った。梓とは違い、凛太郎は陰陽師として期待されていた。徐々に頭角を現し、小さな町の怪異を解決する坊ちゃんとして、町の人にも認められるようになってきた。それでも、ふとした瞬間に寂しそうな表情をしているのを梓は知っていた。だからこそ、こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。


「ふぅむ……弟か」

 呆れながらも梓の主張を黙って聞いていた宗一郎が腕を組んで考え込む。

「なるほど。梓の主張は理解したが、その願いは聞けないな」

「……なら、許してもらえなくても一人で帰る」

「まてまて、早まるな? さっき怖い思いをしただろうが」


 踵を返して三途の川に飛び込もうとした梓を、慌てた様子で宗一郎が止める。今度は絶対に逃げられないようにと、背後から羽交い絞めのようにされてしまう。そのまま、ずるずると川べりから引き離してから宗一郎が言った。


「現世に帰ってもらっては俺が困……ではなかった、幽世の掟的に、あれを壊したのが大問題なのだ」

「壊した……?」


 宗一郎の指した指先を追った先で、梓は驚きで目を見開いた。河原の上に壊れた水車が転がっていたのだから。三途の川でくるくると回り、川の亡者をすくい上げ、人魂のような光に変えて空へ送っていたあの水車だ。


「この水車は輪廻の輪というものでな」


 梓が暴れないのを確認してから、宗一郎は彼女の身体を解放した。その足で輪廻の輪の側にしゃがみ込む。


「三途の川を流れる魂を、来世へと転生させる役目を持っているのだ。梓は現世に強い心残りを持っていただけでなく、生者のまま巻き込まれたから、これを壊してしまった」

「……それを壊すとどうなるの?」


 嫌な予感を覚えつつ梓は問いかけた。ちょっと壊れたどころではなく、水車の輪の部分が三分の一くらい吹き飛んだ悲惨な状態。これを修理するには大変だろうと、素人の梓でもわかるほどだ。


「うむ……幽世の掟でいくとな」

 宗一郎はパラパラと閻魔帳の後ろの方を開いて確認すると、残念そうに首を横に振った。

「地獄行きらしいな」

「ええええ!?」

 河原に梓の悲鳴が響き渡る。

「それ、あたしのせいなの!? そりゃあ、三途の川に飛び込んだのはあたしだけど、その水車は勝手にあたしを巻き込もうとしたんじゃないの!」

「少しは落ち着け。それでは三途の川を流れる死者の魂も目覚めてしまう」


 顔をしかめながら宗一郎が三途の川を見る。

 静かだった水面が黒く曇り、少しばかり波立っていた。また引きずり込まれてしまうかもしれない。恐怖を感じた梓が、無意識のうちに川の側から距離を取ると、そのすぐ背後に宗一郎が立った。


「あたしを……地獄に連れて行くの?」


 現世に帰れないだけでなく地獄行きとか聞いていない。妖に襲われていた人を助けたあげく重傷を負い、こんな理不尽な理由で地獄行き。気丈に振る舞おうとする梓だったが、さすがに心が折れそうになっていた。


「そのような顔をされると、まるで俺が苛めているようではないか」


 宗一郎がやめてくれとばかりに顔をしかめる。

 梓は俯いて彼の小袖の袖をつまむようにして掴んだ。


「そう思うなら、現世に帰して……」

「幽世の掟を変えるわけにはいかぬのでな」

 泣きそうになった梓へ、すぐに宗一郎が続けた。

「だが、これは不可抗力という面もあるからな。一つ機会をやろうと思う」

「機会?」

 うむ、と頷いて、宗一郎は壊れた水車を見下ろした。

「これを元通りにすれば、地獄行きは無かったことにしてやろう」

「ほんとっ!?」

 ぱっ、と梓が顔を輝かせるも、すぐにあることに気が付く。

「あ、でも、現世に戻れるってわけじゃないんだ……」

「む……そ、それはそうなのだが……」


 再び泣きそうになった梓を見て、宗一郎が心底困ったような表情を浮かべた。「あー、えー、元気出せ? というか、それで許してくれ? 俺の屋敷でたんまりと美味い物を食わせてやるから、な? な?」などと意味不明な言葉を発している。


「…………」


 しばらくそうしていたが、だんまりのまま俯いている梓を見て、とうとう降参というように宗一郎が両手を上げた。


「わかったわかった。元通りにした暁には、特別に現世まで送ってやることにしよう」

「ほんとうに……?」

 のろのろと顔を上げた梓の頬を、宗一郎が人差し指で拭う。

「幽世の掟を大きく変えてしまいそうな気がしないでもないが」


 苦虫を嚙み潰したような顔で宗一郎は言うと、指を丸めてピーッと口笛を吹いた。ドコドコドコ、と何処からか足音が聞こえたかと思うと、河川敷の向こう側から大きな水牛が現れた。


「この輪廻の輪を治せたらな。修繕方法は明日教えてやるから、とりあえず今日は俺の屋敷へ来るがいい」

「本当に死んじゃう前に、今日から頑張りたいんだけど!」


 先ほどまでの世も末といった表情はどこへやら。元気を取り戻した梓はすでに腕まくりをしていた。それを苦笑しながら宗一郎が止める。


「三途の川に生きている状態で入ってしまったから魂に負担がかかっている。今日のところは休むべきだ。肉体と魂はまだ繋がっているから、魂が弱ればそれだけ肉体も死が近づく」

「もしかして、あたしが元気なら、身体も永遠に生きてるとか?」

「そのような馬鹿な話があるわけなかろう。梓の魂が健康でいれば、肉体のほうもまだ十日は持つだろうよ」

「十日……か」


 それが自分に儲けられた制限時間。現世に帰るまでは一日たりとも無駄にできない。

 そう決意する背後で、うまくいった、とばかりに不気味な笑みを浮かべている宗一郎に、梓は気が付かないのであった。

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