閻魔様が放してくれない

美夕乃由美

一章 ここは幽世

第1話 三途の川のほとりで

「う……ん……」


 頬に当たる冷たい石の感触に、あずさはパチリと目を覚ました。ぼんやりとした頭を振りながら、ゆっくりとその場に起き上がる。


「……ここ、は?」


 周囲をぐるりと見回してから、小さく首を傾げた。

 目の前には川幅が数百メートルはあろうかという、大きな川が流れていた。その向こう岸は濃い霧に包まれていて、何があるのかはっきりとは見えない。白波の立たないゆっくりとした流れ。水面は澄んでいるが、それに映る空模様もまた、薄い雲のようなものに覆われていた。

 反対側へ視線を向けると、土を盛られた堤防のようなものがあり、そのすぐ下には河道のようなものがあった。どうやら、梓が倒れていた場所は、どこかの河川敷のようだ。


 ガラン ガラン


 少し先のほうから聞こえてきた音に梓は立ち上がると、誘われるようにそちらへ歩く。幾らも行かないうちに、霧の中から水車のようなものが見えてきた。梓の知っている水車とは少し違う。なぜなら川の岸からは離れた場所に、何の支えもなく宙に浮かび、川の水を汲んでいたからだ。よく見ると川にはそんな水車が幾つもあり、水車の上のほうからは、白い光のようなものが空へと昇っていた。


「あれは人魂……? まさかね。……っていうか、ここは、どこ?」


 寝起きのようだった頭が、次第にはっきりとしてくる。こんな景色の場所を梓は知らない。何より周囲に人の気配というものがない。神秘的で美しい光景ではあったが、同時に不気味さも覚えてしまう。

(ええと……何してたんだっけ)

 水車を眺めながら、今日の行動を思い返してみる。


 代々続く貧乏陰陽師の家系である梓の一日は、弟である凛太郎りんたろうに、朝餉を作ってあげるところから始まる。


 梓よりも三つ下の凛太郎は、朝餉を猛烈な勢いで平らげてから、怪異に悩まされているというお武家さんの元へ出かけた。しばらく江戸の町を離れる凛太郎は、陰陽師の力を持たない梓を心配してか、何枚も妖除けのお札を渡してくれた。出立するその後ろ姿に手を振りながら、我が弟ながら立派に育っていると感激したものだ。

 それから、いつも通りに梓は町の料理屋で働いた。繁盛しているお店で、毎日がなかなかの重労働。昼から酒を飲んで暴れる客に手を焼きながらも、何とか一日を終えた。

 あいにく夕方から雨模様で、梓が料理屋を出るころにはしとしとと雨が降り出していた。

 ところが、急いで帰ろうと走っていると、途中で小鬼に憑りつかれようとしている人を見つけてしまったのだ。力がなくとも貧乏陰陽師の娘。放ってはおけないと凛太郎がくれたお札で追い払いにかかった。だが、その小鬼は凶悪な見た目の妖へと変化し、梓をひたすら追いかけ回し――


(そうだ。橋から落ちたんだった!)


 妖の繰り出した風に足をすくわれて、見事に橋から落とされた。泳ぎには自信があったにもかかわらず、何者かに足を引っ張られて水底に沈められたところまでは記憶がある。


「沈んだってことは……死んだ……?」

 そんな馬鹿な、と呟いたその時、背後から男の声が聞こえた。

「そろそろ頃合いだとは思っていたが。やっと見つけることができた」

「だ、だれっ!?」


 驚いて振り返ると、そこに立っていたのは美しい青年の姿。

 年のころは二十歳前半くらいだろうか。切れ長だが穏やかな光をたたえる黒瞳。鼻は少し高めで、唇はふっくらとしていてとても柔らかそう。黒を基調とした和装は小袖だろう。裏地は赤で、金で縁取りをしたその装束は、黒という色なのにとても派手に見えるも、少しも嫌味を感じない。裏地と同じ赤い帯には、刀のような武器と、小さな手鏡。小袖の胸元からは、和紙を閉じた帳面のようなものがある。


(だけど、この感覚は何……?)


 全く見覚えのない青年のはずなのに、どこか懐かしさも感じる。見知らぬ男に警戒をすべき場面なのに、足は全く動こうとしない。


「これは驚かせてしまったようだな」


 青年が苦笑したのを見て、はっと梓は我に返った。戸惑う彼女へ、青年は一歩だけ距離を詰めてから、軽やかにお辞儀する。


「ここは幽世。いわゆる死後の世界という場所だ。目の前に見えるのが三途の川であり、お前は向こう側からこちら側へ渡ってきたというわけだ。俺はこの幽世の治安を守り、輪廻の輪を管理する宗一郎そういちろうという。尤も――」


 にやり。青年の唇の端に、悪戯を暴露する悪童のような笑みが浮かんだ。


「人や鬼、妖からは、閻魔様、と呼ばれることが多いかな」

「えんまさま……って、あの閻魔様!?」


 ひょぇ、とばかりに梓の頬が引きつる。それを見た閻魔様――宗一郎が慌てたように両手を身体の前で振った。


「そんなに怖がられたら俺が傷ついてしまう。よほど現世でやましいことをしたのでなければ、気にするようなことはないぞ。大抵の者は三途の川に設置されている輪廻の輪で、来世に転生するのだから。それに、俺が持つ閻魔帳には、梓が地獄行きとはなっていない」


(ああ、よかっ……いやいや、よくないよくない)


 ほっと安心しかけ、心の中で激しくそれを打ち消す。


 この閻魔様――宗一郎とやらの話が本当なら、梓は死んだということになってしまう。それは困る。非常に困る。凛太郎が家に戻ったときに、自分の葬式が行われているなんて……。

 たった一人の肉親である自分が、弟を置いて急に逝ってしまうとかあり得ない。

 けれど、なまじ霊感が強かっただけに、宗一郎が嘘を言っているわけではないことも、頭では理解できてしまっていた。


 少なくともここは――現世ではない。


「……って、どうしてあたしの名前を?」

「それはさっきも言っただろう」


 宗一郎は胸元から先ほどの閻魔帳とやらを取り出した。それをぱらぱらとめくってある場所で手を止める。


「そろそろこちらへ来る頃合いだと、この閻魔帳にあったからね。梓の魂を捕まえて逃さぬよう、探しに来たというわけだ。輪廻の輪に入ってしまうと、次の転生まで待たないといけないから……ん?」


 そこで宗一郎は口を閉じると、梓をまじまじと見詰めてきた。その両の瞳は、真っ直ぐに彼女の胸元へと向けられている。

 乙女のそんな場所を凝視するなんてけしからん。閻魔様ともあろう者がそんなのでは……と思うも、どうやらそんな雰囲気ではない。


(あたしの胸に何か……?)


 つられるように自分の胸元へ視線を落とし、そこにあるものを見つけて眉をひそめる。

 細い糸のようなものが見えたからだ。半透明で、光の当たり具合によっては七色にも変化する。風に揺られるようにゆらゆらと伸びており、その先は三途の川の向こう側へ繋がっているように思えた。


「ふむ……」

 顎に手を当て何やら考え込むように宗一郎が言った。

「梓の魂はまだ現世の身体と繋がっているようだね」

「繋がってる……ってことは、死んでないってこと!?」


 思わず梓は叫んでいた。妖に襲われたとはいえ、目覚めたら三途の川を渡っていたとか、そんな現実は到底受け入れられなかったからだ。

 梓は宗一郎に駆け寄ると、その胸元を掴んで激しく揺さぶった。


「ねえ! 帰れるの!? この三途の川を渡って向こう側へ行ったらいいの!?」

「ま、まあ、理論的にはそうだが……」

「わかった! 教えてくれて、ありがとっ!」


 梓は、ぱっと両手を離すと、「おい、待て!」と慌てる宗一郎に背を向けて走り出した。途中で追いつかれるも、そんなことで止まるわけにはいかない。


「ごめんなさい!」

「うおっ!?」


 足を引っかけて転ばしてから再び走り出す。

 猛然と走って目指すは、もちろん三途の川。あの川を渡れば現世へと戻り、凛太郎を悲しませずに済むのだ。とても広い川幅だが、こちら側へ流れ着いたのなら、泳いで渡るのは不可能ではないはずだ。

 ばしゃばしゃと水をかき分けて前に進むと、すぐに足が川底から離れた。そのまま両手を前に出し、平泳ぎのようにして水を掻いていく。


(うっ……これは?)


 すぐに異変を感じて梓は焦った。いくら頑張っても前に進まないのだ。それどころか、どんどん下流へと流されるし、足元には何かが絡みつくような気配。藻でもあるのかと水中に視線を向けると、おどろおどろしい亡者が梓の足を掴もうとしていた。


「ひっ……!」


 何度も足で蹴ってみても、流れている亡者の数は山ほどいる。いつしか梓は泳ぐどころか、溺れないように水面へ顔を出すので精一杯という状態になっていた。


 ガラン ガラン


 大きく迫ってくる音の方へ顔を向けた先には、そこには川に浮かぶ水車の姿。柄杓の部分に水中の亡者が吸い込まれるようにして入ると、人魂のようなものになって、空の彼方へと昇天していく。


 ――あれに巻き込まれれば一巻の終わりだ。


 そう直感して必死に離れようとするも、相変わらずまとわりついてくる亡者のおかげで自由に泳げない。


 もう、水車は目の前だ。梓は恐怖のままに叫んでいた。


「がぽっ……だ、だれかぁっ!」

「梓! 今行く!」


 力強い声に、ざぱん、という飛び込むような音。

 けれど、水車は既に間近に近づいていて――

(死にたくない……!)

 その強い想いとともに、梓の意識と身体は水中へと沈んでいった。

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