第38話 兎木子は手段を選ばない
守衛に武器を預けて、兎木子たちが通されたのは大臣室。一国の防衛を担う軍隊を管轄する者に相応しい、威厳に満ちた部屋だ。
絨毯は足音を吸い込んで漏らさず、天井の照明からは目に優しい光が過不足なく降り注ぐ。両側の壁は一面の本棚で、暗号めいた背表紙のファイルや軍事関係とおぼしき書籍でびっしりと埋め尽くされている。
奥の壁は全面ガラス張りで帝都の街並みを見渡すことができ、外からの自然光を背負う形で、ロマンスグレーのうりざね顔――陸軍大臣・相海与之助が座っていた。
年代を感じさせる重厚な執務机で腕を組む相海卿。
手前には応接用のソファとテーブルがあって、左右に一人ずつ、政治関連のニュースで何度も見たことのある顔が腰を下ろしている。
「お時間をいただき、まことに感謝いたします」
敬礼する恋太郎に倣って、兎木子もお辞儀をした。
「話は聞いている。『天網』の使用許可がほしい、とのことだったな」
「その前に、そっちの娘さんについて説明してもらいたいもんじゃ」
相海卿が険しい顔で本題に入ろうとすると、向かって左側にいる頭を坊主に丸めた老人が遮った。
不審者でも見るような目つきで、兎木子を睨む。
「なぜ部外者を入れた?」
「わ、わたしは、金津由烏京の妻で兎木子と申します。前線に出ている夫から、言伝を預かってまいりました」
「間に挟む人数が増えるとメッセージが歪みかねませんので、奥さんご本人においで願いました」
この場において、兎木子の身分なんてないに等しい。だから、「陸軍大尉である烏京の伝言係」という箔をつけることで、同席や発言の権利を得ようという魂胆だった。
「金津由烏京には、謹慎命令が出ているはずだが?」という相海卿の指摘には、予定通り恋太郎が「入れ違いになったみたいで。命令を受ける前に出ていってしまったようです」と返す。
「拙は別に構わないと思いますよ。どの道、結論はすでに出ている」
右側にいる四角い眼鏡をかけた痩身の男が、至極どうでもよさそうに言った。
眼鏡のレンズと同じく、四角四面な声である。
「却下、です。『天網』なんか使えるわけがない」
「っ! どうしてですか?」
「あれがどんな術なのかご存知ですか、お嬢さん?」
問われた兎木子は、返答に窮した。
「広域殲滅型退魔結界『天網』。展開すれば、結界内のあらゆる霊的存在を余すことなく滅ぼし尽くす、我が軍が誇る最終兵器の一つです」
「はい。イサナメという妖魔は分裂して逃げる能力があると聞きました。だから結界術で囲ったうえで、一網打尽にしたいと」
「あらゆる霊的存在を、と拙は言いました。結界の中に人間がいれば、魂を破壊されます。地脈――大地に張り巡らされた霊的エネルギーの流れをズタズタにしてしまうので、風水的な問題も大きい」
絡みつく蔦を斬り落としていくみたいに、四角眼鏡は順序を立てて説明する。
「土地の風水が狂えば、妖力発電所の運転にも支障が出ます。最悪、廃炉にするしかなくなるでしょう。そうなれば、帝都だけでも一日ごとに数千億単位の損失が生まれることになる」
「……お金、ですか」
「たかが金、されど金、ですよ。たとえば二千億円もあれば、札束で六畳一間を満杯にできるといいます。それほどの金額が、あちこちの銀行口座から次々に消失していくと思いなさい。世はパニックに陥るでしょう」
「…………」
具体的に、部屋を埋め尽くす一万円札を想像してしまった。それらすべてが紙切れになる様子も。
だが、閉口してはいられない。
できる限り研ぎ澄ましてきた
「すでに、イサナメによって発電所は破壊されていると聞きました。もう損失は避けられません。だったら、なりふり構わず全力で討伐するべきではないですか?」
「言われるまでもないわい。準備が整い次第、ありったけの兵力を投入することになっておる」
四角眼鏡に返すはずだった反撃は、割り込んだ坊主頭によって受け止められた。
「偵察部隊によれば、イサナメは記録にあるよりも大分小さい。三年も燃料にしてやったんで、弱体化しとるんだろう。手下はミズチと、洗脳したヒヨッコ退魔士一人だけ。わざわざ『天網』なんぞ使わんでも、討ち取れるじゃろうて」
「むっ」
楽観的な物言いに、兎木子のこめかみが引き攣って、
「お言葉ですが、烏京様でも勝てるかわからないとおっしゃるほどの敵です。そんなに容易くいくものでしょうか」
ついカッとなって突っかかった、その隙を見逃してもらえるはずがなかった。
「お嬢さん。我が国の軍は、そんなに頼りないかな?」
「っ!?」
悪寒を覚えて退く。
相海卿の視線が槍のごとくに鋭く、兎木子の胸を貫いていた。
「我が国の軍が、腕が立つとはいえ退魔士の一個人よりも弱いと思われているとしたら、心外だな」
「そ、そんなつもりじゃ……」
兎木子は顔色を変えて平伏した。
侮辱したと解釈されたら、交渉どころではなくなってしまう。
「わたしはただ……烏京様が、たとえ軍人の方に被害が出ることを憂慮なさっていたので」
「拙とて、隊員の命が安いとは思わない。しかし、過剰な対応を行った結果、後に経済が傾くことになれば、やはり人が死ぬのです。倒産や失業、それらから誘発される社会不安によって、ね」
言い訳がましい返しの太刀を、四角眼鏡は柔らかに受けて、逆に反対意見の補強として利用する。
上手い。
加えて、余裕がある。
完全に相海卿らのペースだった。
こちらの主張なんてお見通しといった様子でいなされて、逆に兎木子は相手に対してまともな反論もままならないでいる。
名実ともに子どもが大人に遊んでもらっているような状態だ。
「あー、発言よろしいでしょうか」
恋太郎が、見かねたように口を挟む。
「烏京……金津由大尉は、入隊してからの数年間、ずっとイサナメを式神として使ってきた男です。それが援軍ではなく『天網』を求めてきたんだから、信用してもいいのでは? 大尉が単独で妖魔を抑え、その間に残りの全員で大規模術式を発動させる、って戦法では何度も手柄を挙げていますし」
「バカもん! それのどこが信用できるんじゃ!」
助け舟が泥船ではないか、と坊主頭が青筋浮かべて怒鳴った。
「前と同じやり方で、手柄を独り占めしようとしているだけじゃろ」
「烏京様はそんなお方じゃありません!」
「十分に考えられる話では、ありますね」
兎木子の抗議を無視して、四角眼鏡が坊主頭に同調する。
「現在の金津由家は窮地にあります。ここで大手柄を挙げれば、首の皮が繋がるかもしれない」
「ふむ……」
相海卿は吟味するように顎を撫で、それから質問した。
「ちょうどいいから訊いておこう。金津由家はイサナメに生け贄を捧げていた、という報道がある。これは事実なのか?」
「うっ……」
「あー、っと」
言葉に詰まる。
兎木子が視線を逸らすと、相海卿らは恋太郎に注目。烏京の朋友は、しかし立場上黙秘を許されない。
「……大尉本人が、認めています」
「そら見ろ!」
坊主頭が、鬼の首を取ったように喚いた。
「人間を妖魔の餌にしていたような男の言葉など、信じられんわ!」
「そんな! う、烏京様は……」
「拙としても疑わざるを得ませんな。イサナメを討つため、と言いながら、その実は裏でイサナメと手を結んでいる可能性すら考えられる」
「っ!? 烏京様が、イサナメと……協力なんて……」
兎木子は呼吸を止めた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
感情が渦巻いて、口から飛び出してきそうだ。
ダメだ、いけない。
ここは堪えなくては。
耐えろ、耐えろ、耐えろ…………――まだ、笑っちゃいけない。
「実は、私もそう思っていました」
そう言い放った瞬間の、大人たち三人の表情は永遠に忘れないだろう。
オモチャの剣を振っていた小娘が、弁慶もかくやという大薙刀を持ち出してきたみたいな反応だった。
この機を逃さず、力いっぱい薙ぎ払う。
「妻の立場でこんなことを申し上げたくはありません。でも、つい考えてしまうのです。『烏京様とイサナメが手を組んだら、どうなってしまうだろう』、と」
手応えあり。
実際に想像したのか、坊主頭の喉笛を汗が伝った。
「もちろん、この国の軍隊を結集すれば烏京様より強いでしょう。イサナメにだって勝てるでしょう。……ですが、この両者が協力したら? よしんば勝てるとして、どれほどの被害が出るでしょうか」
さらに踏み込んで、大上段からトドメの一太刀。
「烏京様が裏切った時のことを考えれば、前もって最終兵器も使えるようにしておくべきではありませんか!」
シン、と。
兎木子の演説を最後に、大臣室は静まり返った。
坊主頭も四角眼鏡も、深手を負ったように息を荒げて、相海卿がどう返答するのかをうかがっている。
永遠にも数秒にも思える沈黙が続いて、この場の最終決定権を持つ男が口を開く。
「……いいだろう。お嬢さんの言うことにも一理ある。大規模退魔術式の使用許可を出そう」
「!! ありがとうございます!」
兎木子は顔を輝かせて、深々と頭を下げた。
●
大臣室を出た兎木子に続いて退室しようとしたら、恋太郎だけ相海卿に呼び止められた。
「あれは、お前の入れ知恵か?」
「いいえ? 全部、彼女が考えたことですよ」
振り返った恋太郎は、疲れたような笑顔で答えた。
「ボクはそれとなーく、話題を誘導してほしいって頼まれただけで。いやー、どこでなにしたら皆さん乗っかってくれるなんて予測できないから、緊張でガクガクでしたよ」
砕けた態度に代わる恋太郎を、坊主頭や四角眼鏡は恨めしそうに睨んだが、無言のままそろってため息を吐く。
「面白い娘だったでしょう。どうです、閣下。政界に欲しくありません?」
「断じてお断りだな」
相海卿は天井を仰いで、背もたれに体重を預けた。
「味方になっても敵になっても、寿命を削られそうだ」
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