第36話 大妖魔の復活
雪こそやんだものの、風の冷たさはいや増すばかりの帝都。
曇天を背ににそびえる妖力発電所を、科人は虚無の表情で見上げていた。
肩に乗ったナメクジ――分裂していたのは合体して、子猫サイズに戻っている――が囁きかける。
『さァ、ここだよ。この中にあるものを解き放てば、アンタはお兄ちゃんに勝つことができる』
「義兄さまに、勝つ……」
科人は虚ろに呟いて、イサナメの妖気をまとった。
グニョリ――と体が軟体化して、発電所を囲む塀にへばりつくと、ナメクジのように這い上る。
有刺鉄線の隙間をくぐり、軟体を解除して着地。
ジリリリリリリッッ!!!
けたたましいベルの音が一帯に鳴り響いた。
塀に付与されていた永続式の結界が作動したのだ。呪文詠唱や霊波による操作がないため強度は大したことがないものの、警報装置との連動により、すぐさま警備隊が駆けつける。
『今だよ、坊や』
「ん」
発電所に併設された兵舎から飛び出してくる警備隊を前にして、科人は抜刀した。
元から腰に差していた、自分の軍刀である。
それを地面に突き刺して、抜身で引っ提げていたもう一振り。イサナメの妖力が込められた雄鷹の刀を構えて――斬!
軽い音を立てて、軍刀は真っ二つに斬砕された。
直立した刀身を残して、鍔元が打ち首よろしく転がり落ちる。
器が破壊されたことにより、封魔呪文の効力も失われて、式神が自由を取り戻す。
『シャギャアアアア!!』
戒めから解き放たれたミズチが、歓喜の雄たけびを上げた。
天に向かって吼え猛る大蛇の長大な体躯を、科人はすばやく駆け上がると、喉元あたりを手の平で撫で下ろした。
ツルツルとした感触に、一点だけ引っかかりを覚える。
蛇の鱗は、すべて上から下へと行儀よく並んでいるが、たった一枚だけ逆向きになっている『逆鱗』。竜蛇にとっての急所であり、触れられただけでも激痛を発して暴れ狂うとされている。もちろんそれは、ミズチ――蛟竜も例外ではない。
『ギャアアアアア!!?』
解放の喜びが、痛みの絶叫へと変化する。
ただの一撫でで、ミズチは我を失い七転八倒に狂乱した。
泣き喚き、巨体をのたうち回して苦しみ悶える。その暴れっぷりは天変地異のごとく、不用意に近づいた警備隊員が野球のボールみたいに打ち上げられた。
「な、なんで竜種が!?」
「うろたえるな! 陣形を固めろ!」
「報告! 暴走状態のミズチが敷地内に出現!」
混乱が広がりそうになるのを抑えつけ、賢明に対応しようとする警備隊だったが、彼らは目の間の大きすぎる脅威に気を取られて、つい見逃してしまっていた。
軟体化した科人が、音もなくドアの隙間から発電所内部に侵入したことを。
『ミズチが暴れてくれてる間に、チャチャッと済ませちまうよ』
そう言って、イサナメは意識を集中させる。
妖魔の骸なんてものは、大都市の電力を長年にわたってまかなえるほどの莫大なエネルギーを有している。よってその管理は極めて厳重であり、発電炉の場所だって念入りに隠されている。
しかし、迷路のように設計された内部構造も、部外者を迷わせる効果の永続結界も、イサナメにとってはさしたる障害にならなかった。
なにせ、自分の本体を探すのである。
たとえ耳目を塞がれたとしても、右手で左手を掴むことくらい容易いように、本体の位置を感知するなどわけないことだった。
『あっちだよ』
触手が指示した方角に向けて科人が刀を振るうと、溶解液を含んだ斬撃がコンクリート壁を斬り抜いて人間大の穴を作りだした。
一切の障害を無視した、最速最短の直線ルートである。
途中の壁はぶち抜き。
立ちはだかる防衛装置や警備隊員は、イサナメの妖力に任せてぶちのめし。
最初に溶解させたコンクリート壁が固まりきらないうちに、科人たちは発電炉にまで到着してしまった。
『ああ、三年ぶりだねェ。感動の再会だ』
イサナメは発電炉の扉に飛びつくと、付与された封印をたちどころに看破して解封。大銀行の地下金庫みたいな馬鹿でかい扉が地響きを立てて開かれて、中から濃密な瘴気が吹き出した。
炉の内部は高いレベルの汚染に満たされているのだ。科人は霊波で身を守らなければ生命が危うかったが、イサナメは清風でも浴びているかのように鼻歌混じりで入っていく。
入り口から炉心を見下ろすと、そこには白濁色の小山が横たわっていた。
一軒家ほどの大きさがあるだろうか。それがナメクジの体であると、すぐには理解が及ばないかもしれない。
九重もの多層型魔法陣の中央に置かれた本体は、それ自体もまた緻密で強力な封印でもって雁字搦めに縛られており、何本もの極太ケーブルを通して妖気から変換した電気を吸い取られ続けていた。
『ハンッ! けったクソ悪い!』
イサナメにとっては不愉快な光景だったろう。
忌々しげに吐き捨てると、いったん炉の外に出た。
高密度に妖力を練り上げて溶解液を放つと、小部屋くらい仕込めそうな分厚い壁を貫通して、空いた穴からは同じように瘴気が吹き出してくる。炉の中よりも、さらに濃い。
こちらは、廃棄物の一時保管室だ。
発電の過程で崩壊した妖魔の肉体。妖力の絞りカスと、発生した瘴気を凝縮した劇毒の塊である。ほんの一欠片で上級妖魔『塵塚怪王』が生み出されるような危険物を、イサナメは妖力操作でもって鷲掴みにすると、発電炉へと放り込んでいった。科人も追従して、穴を広げると廃棄物の運搬に参加する。
みるみるうちに、汚染レベルが上昇していく。
設置された計器が狂ったように警鐘を鳴らし、科人は霊波による防御が追いつかずに膝を着き、警備隊の派遣した新手がせまってくる。それらにイサナメは見向きもせず、触角を伸ばして炉の中を覗き込んでいた。
やがて――ボロッ。
これまで五人。儀式に捧げられてきた生け贄によって弱っていた封印の縛鎖が、瘴気に侵されて決定的なほころびを生んだ。
●
外からは、前触れを見て取ることができなかった。
突如として爆音とともに天井が吹っ飛んだかと思うと、先端に目玉のついた触角が二本伸びてきて、巨大なナメクジが顔を出したのである。
『ア――ッハッハッハッハッハ!! ようやく、ようやくだァ!!』
本体を取り戻したイサナメは高らかに哄笑しながら、水を吸った昆布よろしく大きさを増していく。炉の中では民家程度だったのが、今では発電所全体にすら匹敵する勢いだ。
『んー。……三年も力を吸われてちゃァ衰えてるねェ。八十年前に復活した時にゃァ、山くらいはあったんだけどね』
触角で己が巨躯を眺め回して、イサナメは独り言ちる。
餌を喰らって栄養補給といこうか、それとも人里離れた穢霊地を探してゆっくりと回復するべきか……と、思案していると、不意に気づいた。
彼方から、高速でこっちに向かってくる存在がいる。
近隣住民が背を向けて逃げ惑う中、屋根から屋根へと走るというよりは飛ぶようにしてせまり来る人物とは。
『よォ、遅かったじゃァないかい』
「イサナメェ!」
烏京のまとった妖気が火炎のごとく燃え上がった。
テナントビルの屋上を陥没するほどに蹴って跳躍し、発電所の塀の有刺鉄線を踏み潰しながらもう一跳びして、巨大ナメクジへと斬りかかって、
『シャギャアアアアア!!』
横からミズチが乱入した。
警備隊との戦いで傷を負いつつもいまだ健在で、宙を舞う退魔士を叩き落とさんと蛇尾を振るった。
「チィ!」
烏京は舌打ち。
軍刀の刃を返して迎撃すると、刃渡りなどよりずっと太い尾の先端がスパッと輪切りにされる。ミズチの悲鳴。ついでに
とんでもない量である。
ゲリラ豪雨じみた液体は、すべて万物を溶かす溶解液だ。
回避しようとして、しかし眼下には警備隊らしい人々が多数確認される。果たして、彼らが受けて耐えられるだろうか?
「クソッタレが!」
やむを得ず、正面から受け止めた。
奪ったばかりの妖気をありったけ費やして作った防壁と、溶解液が反応して白煙を上げる。
凄まじいのは、量だけではなく威力の面でもそうだった。
烏京をして、防ぎきれるかわからない。これが封印から解かれた真の力か。式神として使っていた頃とは、比べ物にならないほど強い。
浸食される妖力防壁を、渾身の霊波で維持し続ける。耐えて、耐えて、耐え抜いて、ようやく溶解液が止まったところに……黒い人影。
「科人!」
白煙の向こうから飛び込んできた義弟は、虚ろな目で烏京を見据えながら刀を大上段に振りかざした。
ガキィン!
刃と刃が噛み合って、甲高い音を上げる。
防御の構えで受けた烏京は押し返そうとして、できないことに驚愕した。
科人が持つ刀には、十年に一人という約定の生け贄三人分に相当する妖力がイサナミから与えられている。もはや世界最強の一振りと呼んでも過言ではない、桁外れの妖力量である。
鍔迫り合いの末、押し負けたのはなんと烏京の方だった。
列車とぶつかったみたいな衝撃とともに地面へと墜落。アスファルトを砕いて、半ば埋没させられる。
「うぐ……ぐ……」
なんとか起き上がると、視界が真っ赤に染まっていた。
どうやら出血しているらしい。これほどの負傷を負うとは、いつ以来だろうか。
「大丈夫ですか!」
「あなたはいったい?」
「来るな!」
突然降ってきた青年に警備隊の面々が駆け寄ろうとするが、烏京は怒鳴りつけた。
「総員退避! あんたらの出る幕じゃない!」
霊波を込めて、有無を言わさず命令する。
魂の霊的波動を乗せた言葉は相手の魂をも振るわせて、彼らは反発する気を起こすこともできずに走り去っていく。
これで、庇うべき足手まといは消えた……が、好転したとまでは言うことができなかった。
対する敵は、暴走状態にあるミズチ。
完全体へと戻ったイサナメ。
そして、膨大な妖力を操る退魔士、科人。
一対一なら、勝てるだろう。二対一でも、なんとかなる。だが、三対一となるとどうだろうか。
「クックク……さすがにキツいな」
額から流れる血を拭い、烏京は闘犬のごとく笑った。
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