第24話 京都デート(中編)
「ちょっと温かい物でも飲みましょうか」
そう言って、兎木子は観光案内図を映した携帯端末を片手に通りを進んでいく。
目当ての店があるらしいが、なかなか見つからないようだ。喫茶店、居酒屋、ラーメン店。書店に魔具店、金物屋。道の両側をキョロキョロと見回しながら、交差点の信号で足を止めた時だった。
調子の軽い声が、右横から飛んできた。
「あっれー? こないだのおねーさんじゃん」
若い女だ。髪を明るく染めて、短めのスカートからは冬だというのに生秋をさらしている。
烏京は知らない女だったが、兎木子は驚いたように手で口元を隠す。
「まあ、あなたは……」
「ってウワどしたん、そのほっぺ!? ちょー痛そうなんですけど、大丈夫?」
そちらに顔を向けて初めて左頬の傷に気づいたようで、女は遠慮もなくギョッと目を剥いた。
「そういえば一昨日はお化粧で隠してたんでしたっけ」
「マジで!? ぜんぜん気づかんかったわ。いや、ちゃんと見てたわけでもないけどさ。おねーさんメイク上手なんね」
「いえいえ、それほどでも。ごまかすのは本当に大変で、もうやめちゃいました」
「そっかー。んで、そっちの男前はおねーさんのイイヒト? 仲良く京都旅行なんてイカしてるじゃん」
まるで旧知の仲とばかりに親しく話しているが、直後の紹介で互いに名前も知らないのだと教えられた。
「烏京様。こちらは前にお話した、増田様のお知り合いです」
「あぁ、増田少佐の……」
「
烏京たちが明言を避けたのに、原井と名乗った女はあっけらかんと愛人を自称した。本心をごまかしているようには見えない。兎木子への接し方といい、さっぱりした性格をしているようだ。
信号が変わって、原井は兎木子と並んで歩き出す。
「奥さんがいるのは知ってたんだけどさー。あんなビビり散らかすほど立場が弱いとは思わなくてさ? もし奥さんにバレたら、アタシまで危なくなるかもじゃん。ってなって、もう即断即決バイバイさよならーって感じ」
「それで京都に」
「金払いよかったからマジ惜しいけどねー。ま、オッサンからは手切れ金もらって、来月には鏡屋のヤローから慰謝料が来ることになってっから、新天地で再スタートするには悪くないかにゃー」
「あの後、慰謝料の交渉までしてたんですか。さすがですね」
波長が合っているのかは知らないが、なんともコメントしづらい内容である。
愛人に逃げられ、烏京への嫌がらせにも失敗し、浮気の事実は妻に握られているという踏んだり蹴ったりな状況の増田には同情するしかない。身から出た錆ではあるけれども。
話題の転換もかねて、口を挟む。
「兎木子。探し物があるなら、訊かなくていいのか」
「なになに、どしたの?」
「あ、そうでした。実はこれから行きたい喫茶店がありまして……」
兎木子が携帯端末の画面を見せると、原井は一目で「あー」と声を上げた。
「『マヤー』ね。この店、今日は開いてないよ」
「え!? で、でもネットではそんなこと……」
「不定期休業って書いたるっしょ? アタシも働きたいと思ってた店だから、よく知ってんだよねー」
そんなぁ、と情けない顔をする兎木子。
烏京は知らないが、若い女子には有名な店なのだろうか。肩を落とす様子を見かねたか、原井は慰めるように言った。
「代わりにさ。今アタシが働いてる店においでよ。結構イイトコだよ? この時間なら空いてるし、個室あるからダンナとイイコトできるしね」
悪戯っぽく「ニヒヒ」と笑う。
一言余計なお世話が付け加えられたものの、嘘は吐いていないようだ。
烏京たちは顔を見合わせて、これもなにかの縁だと従うことにした。
表通りから逸れて、古都と呼ばれた街並みを再現したような板塀に挟まれた小路を行くこと五分足らず。
着いたのは、『ふでや』という暖簾を下げた店だった。文具でも売っていそうな名前に反して、いかにも隠れ家的な小料理屋といった風情である。店名といい午前のお茶に寄るような外観ではないが、原井は勝手知ったるとばかりに暖簾をくぐった。
「元は夜だけだったらしぃんだけどさー。女将さんの趣味で、昼は喫茶店っぽいこともやってんだって」
と、戸を開けると、静かなジャズとともにコーヒーの香りが流れてきた。
中に入るとカウンター席があり、内側の厨房には日本酒の瓶が並んでいたりするからちぐはぐに見えそうなものだが、不思議と馴染んでいる。
「あら、コンちゃんやないの。どないしたん?」
厨房の奥から、割烹着をまとった痩身の女性が顔を出した。なにか下ごしらえでもしていたのか襷をかけており、濡れた手を布巾で拭いている。
「どもー、女将さん。東京で世話んなった人に会って、喫茶店探してるって言うから連れて来ちゃった。入ってもらっても大丈夫そ?」
「そう……」
女将は少し小首を傾げて、襷を解きながら烏京と兎木子に視線を走らせた後、にこやかに頷いた。
「もちろんやよ。どうぞ、お入りやす。カウンターと奥のお座敷がございますけど、どちらになさはりますか?」
「あー。では、カウンターで」
「お邪魔します」
「んじゃ、アタシはこれで。シフト入れてんの、夜だけなんよねー。お二人さん、ごゆっくりー」
おずおずと席に着くのと入れ違いに、原井は店を出ていく。
ブンブン手を振って去っていくその勢いに、女将は苦笑するように頭を下げた。
「申し訳ありまへんねぇ。あの子がご無理を言うたんとちゃいます?」
「いいえ、そんな。わたしたちもネットで調べていたお店が開いてなくて途方にくれてたところだったので、助かりました」
兎木子がペコペコと応じて社交辞令の恐縮を交わした後、コーヒーを淹れた女将は追加注文がないことを確かめてから一旦店の奥へと姿を消した。
しばし沈黙が下りる。
普段はもっぱらお茶派であるが、良質な酸味の利いたコーヒーは美味だった。
「あの女将さん。一人でお店を切り盛りしてるんでしょうか」
カップをさすりながら、兎木子がポツリと呟いた。
「気になるか?」
「カッコいいですね。強い女性というのは、眩しく見えます」
「お前もたいがい強かだと思うがな」
「自立してる、って意味ですよ。自分のお店を持ったり、さっきの原井さんみたく身軽に渡り歩いたりなんて生き方は、わたしにはできません」
「……ふうん?」
胆力があり、行動力もあり、知力にも恵まれている兎木子だが、こういう自虐的な一面を見せるのは意外だった。
そういえば、見合いの席でも似たようなことを言っていただろうか。
「お前の夢。国会議員だったか」
「?」
「今まで、深くは聞いたことがなかったな。なにか、やりたいことでもあるのか?」
「そう……ですね」
問いかけに対して、兎木子はゆっくりとコーヒーを口に含んで喉を潤してから、烏京の方を向いて答えた。
「楽しそう、だからです」
「……なんだと?」
「だって、帝国の一番高いところにある言論の府ですよ? 手八丁口八丁で人民から支持を集め、表に裏にと丁々発止で国家の存亡すら左右する。こんなに面白そうな仕事はありません」
「……そりゃ、なんというか」
中身がない……いや、この場合は純真無垢と評した方がいいだろうか。
確固たる政治思想の持ち主が聞いたら往復ビンタをかましそうな言い草であるが、兎木子はクリスマスを待つ幼子のように澄んだ目をしていた。
こんな無邪気にされていると意見する方が野暮にも思えるが、しかし言わせてもらう。
「お前、自分が遊びたいから俺に出世しろとか言ってたのか」
「どうせ親に言われた結婚しかできないなら、せめて楽しみは最大限にほしいじゃないですか。その点で烏京様は、出世の目がある上に旦那様としてもわたし好みですから大当たりですね」
「……そりゃ、光栄だな」
返答が、半ば棒読みになったのは仕方あるまい。
烏京はなんとも言いがたい表情でカップを置き、ワシワシと頭を掻いた。
「つくづく思うが、厄介な嫁をもらったもんだ」
「ふひひ。後悔はさせませんよ?」
「実際にしてないんだから、たちが悪いな」
八重歯を覗かせて笑う兎木子に、烏京はそう返すしかなかった。
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