第11話 兎木子は探偵する

 入った瞬間、兎木子は心臓が凍りついた。


 見渡す限り、鏡、鏡、鏡、鏡、鏡、鏡!


 店内は無数の鏡に埋め尽くされていたのだ。

 自立式の姿見。荘厳な祭事用大鏡。可愛らしい手鏡に、招福や魔除けをうたう飾り物まで。どれも今様にデザインされた色とりどり大小さまざまな陳列されている。

 客や店員の姿は他にないのに、鏡に映った虚像のせいで何十人にも囲まれているような錯覚に襲われた。

 まだ記憶に生々しい、森の祠の地下室がフラッシュバックする。大ナメクジの生け贄にされかけた心的外傷がうずいて、呼吸が乱れて汗がにじみ出す。


「兎木子さま、お気を確かに」


 手の平にグリと硬い感触があって、鈍い痛みが意識を引き戻した。

 見れば、お鶴が手を握っていた。皺だらけな老婆の指が力強くツボを押すと、石が水に沈むように心が鎮まっていく。


「落ち着かれましたか」

「ええ、ありがとうございます」


 暗くなっていた視野が広がって、今さらながら店内のレコードから流れる穏やかなクラシック曲が聞こえてきた。

 気を取り直すように、壁に貼られた地元のイベントポスターや金融会社のカレンダーや「おすすめ!」「割引!」「商品にお手を触れないでください」などの張り紙を眺めてみると、店の奥から中年の男が揉み手をしながら現れた。


「いらっしゃいませッ。なにかお探しですかッ?」


 小豆みたいな顔をした小男だ。

 真新しいエプロンには店のロゴらしい模様と「店長」と書かれた名札が光っている。


「あ、と……いえ、なんとなく、すてきなお店だなって。ちょっと見てみても構わないでしょうか?」

「そうですかッ、どうぞどうぞッ。ごゆっくりご覧くださいッ。ただしッ、商品には触らないようにだけお願いいたしますッ」


 店長はあっさり引き下がってくれたので、兎木子はお鶴をともなって窓際に置かれた鏡を見て回る――フリをして、外の様子をうかがった。

 愛くるしい動物の形をした鏡や飾り文字で彩られた鏡の隙間から、行き交う人波に増田たちを探し、窓のすぐ近くを歩くのを発見。こっちの顔を見られたくないので身を引きながら観察していたら、なんと彼らは店内へと入ってきたではないか。


「お邪魔しマスよ」

「これはこれはッッ、いつもお世話になっておりますッッ」


 店長は顔見知りなのか、兎木子の時よりもすばやく、高い声色で出迎えた。

 増田がなにやら冗談を言って、店長が愛想笑いをし、連れの女は我関せずで商品に気を取られている。


「ねーえ、アタシあっちの鏡が気になるなー」

「おおゴメンよ、キミ。退屈させてしまったネ。じゃあさっそく見させてもらいマショウか」


 女が鼻にかかった声ですり寄ると、増田は話を打ち切って店奥側の棚の方へと足を向けた。店長は揉み手をしつつ、後からついていく。

「これカワイイー!」「うんうん、そうだネェ」などと、目を輝かせる女に、増田はデレデレ鼻の下を伸ばしっぱなしだ。手鏡を手に取っては顔を映したり裏返してみたりしているのだが、店長はあえて注意することもなく、ソワソワと蓄音機をいじりながら見守るばかり。


 と、その時。レコードの曲調が乱れた。


 ――バチッ!

 短い女性の悲鳴。

 ガラスの割れる音。


 静かなクラシック曲が消えて、店は内騒然となった。

 床には金属の額縁だけが転がり、内部の鏡は無残に砕けて飛び散っている。鋭い破片の一つが女の生足を掠めたのか、ふくらはぎを押さえる指の間から赤い血が垂れていた。


「あれはいけません」


 即応したのがお鶴だった。

 すばやい身のこなしでうずくまった女の元へと駆けつけると、オロオロしている増田を押しのけ、女に優しく声をかけて、着物の袂から手拭いを取り出して傷口に強く押し当てた。

 迅速で手慣れた処置である。

 それに一歩遅れて、店長が血相を変えて駆け寄った。


「ああ、うちの鏡がッッ!?」


 怪我をした女などそっちのけで散乱した破片の前に膝をつき、額縁を拾い上げる。金属製で、流れるような曲線でデザインされた額縁は遠目には無事に見えたが、内にはめてあった鏡は完膚なく、わずかにくっついていた残りも持ち上げた拍子にこぼれて落ちた。


「なんてことをしてくれたんですかッッ! 大事な商品を……弁償してもらいますよッッ!」

「い、今はそれどころじゃないデショウ」


 詰め寄る店長に対して、増田はまともに応答することができないでいる。


「……妙なことになりましたね」


 そんな様子を一通り、一歩離れたところから見ていた兎木子は独りごちた。

 なにかあればと期待はしていたが、このような展開はさすがに予想外である。


「常連だから、触ったって見逃していたのに。まさか壊されるなんてッッ!」

「そんな、アタシは……鏡を持ってたら、いきなり静電気みたいにバチッときて、それでうっかり」

「うっかりで済まさないでいただきたいッッ!」

「怪我の治療に障りますので、静かにしていただけませんでしょうか」

「一点物の高級品なんですよッッ! そうでなくても、今は鏡が品薄で仕入れにくくなってるんですッ。責任取ってもらいますからねッッ!」

「う、ムムムムム」


 額縁に張っていた値札を突きつけられた増田は、顔色を悪くして唸っている。


「さて、どうしたものでしょうか」


 眼鏡を汗で曇らせる増田を見て。

 半泣きの女と、手当てに集中するお鶴を見て。

 鼻息荒い店長を見て。


 兎木子は考えを巡らせた末に、一つ思いついた。

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