第6話 兎木子は運命にあらがう
兎木子は烏京といくつか言葉を交わした後、さほど時間を置かずに地下牢から移動させられることになった。
金津由邸の裏手に広がる深い森。
寒空の下を歩いていくと、人目を避けるように建てられた祠があって、厳重に施錠された扉を開けると階段が続いていた。地下の暗がりからは、セミの声にも似た音が聞こえてくる。
下りていくと、本邸の地下室とは比べ物にならない広さだった。
ちょっとした舞踏場ほどはあろうか。土を掘って固めただけの、洞窟みたいな円筒状の空間である。
壁と天井には何千何万もの鏡が掛けられており、床に直置きされた蝋燭が赤々と燃えている。その中に混じって、小型の詠唱装置がスクロールを回転させていることに兎木子は気づいた。さっきから聞こえていた怪音の正体だろう。
蝋燭群に囲まれた硬い床には、大きく真円が描かれていた。遠目には墨で描いた線だが、よくよく見れば妖しげな紋様の連なりだ。
円の外には茣蓙が敷かれており、円心には大型の土器が鎮座している。
……骨壺みたい。
なんて。
不吉な印象を、兎木子は抱いてしまった。
思わず足が止まるが、後ろの男――金津由に仕える者だと思うが、兎木子は会ったことのない顔だ――が急かすように背中を小突くので、仕方なく先頭に立って地下室へと踏み入る。
鏡に映る虚像。
蝋燭が生み出す影。
無数の自分に囲まれるような薄気味悪さを覚えながら真っ直ぐ進んで、床に描かれた円を越えた瞬間、兎木子を異変が襲った。
無音。
耳に届いていたあらゆる音が、突然ギロチンを落とされたように途絶えたのだ。
詠唱装置のモーター音。
後から歩いてきていた人間の足音。
衣擦れや息遣い。
風や蝋燭の火の音に至るまですべてが消え去り、聞こえるのは兎木子自身の心拍と呼吸だけである。
……儀式では、まず生け贄は一人で結界の中に入る。
先ほど、烏京から教わった内容を思い返す。
結界を通ることができるのは白羽の矢を受けた者のみで、外界と遮断されてしまうのだ、と。
振り返ってみれば、視界だけは通っているようで、男たちが茣蓙に腰を下ろしているのが見えた。知らない男女が数人と、そこに交じって烏京親子の顔もある。一同は座を正して、聞こえないがなにやら呪文らしきものを唱え始めると、部屋中の鏡が淡い光を帯びてきた。
結界内の静寂に、音が生じる。
中央の土器から発されたそれに兎木子が向き直ると、固く封をしていた蓋がひとりでに開いて、隙間からドロドロとした妖気が溢れ出てきた。
粘液質な妖気は汚水みたいに床に広がる。自分の足元までやって来るの見た兎木子は嫌悪感に総毛立って後ずさるが……バチッ! と背中に触れた結界が電撃のような圧力で押し返されるので逃げられない。
そうこうしているうちに土器の蓋は完全に開いて、ついに中から本体が現れた。
濡れそぼった白濁色の表皮は細かく粒々としていて、まるで人の舌を脱色したよう。生々しくうごめく軟体は、土器に収まる大きさを超えて天井間際にまで届く山となり、頂上付近からヌッと二本の触角が突き出て兎木子を見下ろすように枝垂れる。
巨大ナメクジ。
金津由家が封印・管理する式神イサナメの、それが本性であった。
「ゔ……っ!」
生理的嫌悪を抱かずにはいられない巨躯である。聞いた話が本当ならば力の大半を奪われているはずだが、これより上があるとは信じられないほど凶悪でおぞましい姿だ。
思わず息を吸うのを拒むように、あるいは吐くのを耐えるように鼻と口を塞ぐ兎木子に、イサナメが粘っこい声で語りかけた。
『アンタが、六番目の贄だね?』
「………………」
体の芯が冷え、鳥肌が立つのを感じる。
蛇に睨まれた蛙、ならぬナメクジに睨まれた蛇の心地になりながらも、兎木子は意を決して手を口元から離すと、ハッキリと頷き返した。
「その、通りです」
『いい返事だ。覚悟は、決まっているんだね?』
「……はい」
これもまた、首肯する。
「金津由家が……烏京様が、お国を守り人々を助けるためです。これからも末永く、あの方の力になるのであれば」
『クックク。ああ、そうだねェ。生け贄を差し出す限りは未来永劫、子々孫々まで力を貸してやる、と――』
イサナメは愉快そうに巨躯を揺らして、おもむろに頭を垂れると、触覚を兎木子の顔に寄せて囁きかけた。
神経にベタつくような、粘質で不快な声で。
『――嘘に決まってじゃないさ』
意味を飲み込むのに、時間を有した。
「…………。……は?」
呆然とする兎木子の前で、イサナメは愉快満面に嗤っていた。
嘲笑と。
ナメクジの表情など読めるはずもないのに、明らかに理解できるほどの邪悪な笑みである。
「だって、契約があるって……」
『契約だって? ああ、そうだねェ。確かに、先代当主との間で契約を結んださ。式神になるのと引き換えに、生け贄の儀式をやるってね。……じゃあ、ここで問題だ。アタシが生け贄を欲しがったのは、いったいどういう理由だと思う?』
触覚の先端に付いた小さな眼が、いたぶるように眺めている。
知ってはならない、汚らわしいものを秘めた箱が開かれるような予感を覚えて兎木子は身震いするが、止めることなどできるはずもない。
イサナメは昔話でも聞かせるみたいに悠々と話し始めた。
『アタシを封印した術は、八人の巫女を人柱にしたとんでもなく強力なものでね。この大妖魔イサナメ様をもってしても、歯が立たない代物だった。このままなにもできずに衰えていくだけかと悲嘆にくれていたんだが……そんな時、接触してきたのが先代当主さ。アタシは思いついた。内側から封印を破ることはできなくても、外側からならやりようはある、ってね。それで、ヤツに取引を持ちかけたのさ』
「とり、ひき……。……っ、まさか!?」
『そう! アタシを封じるのに巫女が命を使ったのとは逆に、人の命を使って封印を破ろうってね!』
呵々大笑である。
秘密を明かしたイサナメは開放感に酔いしれるように巨体をうねらせ、日ごろ胸中を隠していた鬱憤を張らずように立て板に水でまくしたてる。
『国家鎮護? 衆生救済? はっ! 妖力を貸してやってたのは、ただ生け贄の代金を払ってやってただけだよ。封印さえ解いちまえば、後はコッチのもんだ。完全に復活したアタシに敵うヤツはいないからね。式神なんて奴隷働きを我慢したぶん、殺して喰らって壊しまくってやる!』
「なんてこと……」
『アッハハハハハハ!! いい顔になってきたじゃァないのさ。愉しいねェ。腹を括って命を捧げにきた女が、お家のためどころか化け物を世に放つための餌にされるんだと知った時の顔を見るのが、アタシは大好きだよ』
青ざめる兎木子に、イサナメの嗤い声は高まるばかり。
自身の反応が、妖魔の愉悦にしかなっていないことが、悔しくてたまらない。腹立たしくて仕方がない。煮えたぎる熱を吐き出すように、兎木子はなじる。
「この……悪魔!」
『お黙り!』
一閃で打ち据えられた。
イサナメは触角とは別に槍のような骨角を生やすと、兎木子の横面をはたいたのだ。
左頬に灼熱を感じて横倒しになった兎木子に、大ナメクジは冷たい声を浴びせる。
『そういうのはいらないんだよ。十年に一度しかない娯楽なんだ。もっと惨めったらしく泣いたり喚いたりしておくれ』
「ぅ……く……ゴホッ」
倒れた拍子に、足元にたまっていた妖気を吸い込んでしまった。
咳き込んだ拍子に、血の滴が土床に落ちる。
つらくて痛くて苦しくて、涙が視界を歪ませ息を詰まらせる。
――――……
――――――
……――――斬!!
絹を裂くように、結界を断って暴風が吹き込んできた。
乱入した黒い塊は兎木子の前で停止し、床を踏みしめた脚圧だけでその場の妖気を消し飛ばすと、右手に抜いた軍刀『雷国三代』をイサナメへと突き付けながら、後背を肩越しに見遣った。
「すまん、兎木子。出遅れた」
「……う、きょう……カハ……さま」
庇うように立ちはだかった黒狩衣の背中を、兎木子は息も絶え絶えに見上げる。
彼女の有り様を目の当たりにした烏京は怒りと悔いを噛みしめて、剣刃に負けず鋭利な眼光を大ナメクジへと向けた。
「もう二度と迷わない。嘘とわかったからには、ぶった斬ってやるから覚悟しろ、イサナメ!」
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