第3話 婚約者

 数分後。

 大蛇の暴れる音や咆哮の聞こえなくなった山間は、耳が痛くなるほど静まり返っていた。


『「天網」、収束率十割。各種反応なし。対象の完全消滅を確認しました』

「了解。本作戦はこれにて終了。あとのことはそちらにお任せします」


 烏京は無線機で本陣と連絡を取り、第三小隊の面々に一つ礼だけすると、さっさと立ち去っていく。あれだけの大群と十分以上渡り合いながら、返り血の一滴すら汚れがない黒狩衣の背中を、隊員たちは畏怖の込もった眼差しで見送った。


「噂にゃ聞いていたが、スゲェお人だ」

「ああ。同じ人間とは思えねぇな」

「金津由家は化け物を飼ってる、だったか? 式神よりも、むしろ本人の方がバケモンじみてるぜ」


 ヒソヒソと囁き合いながら、隊員たちは撤退作業に入る。


 彼らを置いて本陣まで戻り、来た時に使った軍用車で下山。

 後始末を押し付けて早退なんていい身分に思われるかもしれないが、そうそう気楽なものでもない。

 帰還後も特務隊の上官に結果を報告したり、書類を書いたり、先輩に絡まれたり、食事や仮眠を取ったり、退勤しようとしたら別の幹部に呼び出しを受けたり等して、烏京が家に帰ることができたのはすっかり朝になってからだった。


 金津由家本邸。


 帝都東京は一等地、二百年近くの歴史を持つ高級住宅街に構えられた古式ゆかしき和洋折衷の屋敷である。

 烏京は戦闘用の黒狩衣のまま、専属の送迎車を降りて、軽く肩を回しながら玄関扉を開くと、開いた姿勢のまま固まった。


 使用人の出迎えくらいは予想していた。

 しかし、その先頭に立って待っていたのは地味な装いの女中ではなく、華やかな振り袖姿の少女だったのだ。


 清楚な大和撫子などという人種は、世界大戦にて連合国軍を相手に大敗してから七十九年も経った現代においては絶滅危惧種だそうだが、彼女は数少ない生き残りと呼ぶことができるだろう。

 艶やかな黒髪はクセもなく真っ直ぐに背中を流れ、ほっそりとした撫で肩。薄い唇にはささやかな紅を差しており、帯の前で揃えた指は白魚のごとく磨かれた爪が光っている。


「お帰りなさいませ、烏京様」

兎木子ときこ……。来ていたのか」

花江はなえ叔母様が遊びに来ていらっしゃいましたので、朝の舞台鑑賞に誘っていただいたんですよ。さっき帰ってきたところなんですけど、ちょうど烏京様がお戻りになると聞いたので、婚約者としてはお出迎えの一つもしなければと思った次第です」

「……それはご苦労」


 人形細工のように繊細な少女――四つ年下の許嫁である玉鞠たまり兎木子がチロと八重歯を覗かせてほほ笑む。性別を問わず心を奪われずにはいられないような美しさだったが、烏京はぶっきらぼうに答えただけで通り過ぎた。


「悪いが、仕事終わりなんだ。今はとにかく、湯を使いたい」

「むっ」


 愛想の欠片もなく、奥で控えていた下男に軍刀を預けて浴室へと向かう。

 熱いシャワーを浴びて汗や汚れを落とし、清潔で温かな格子柄の袷衣あわせを着流しにして、自分の部屋の扉を開けて……烏京は再び硬直した。


「早かったですね、烏京様。もっとゆっくり浸かっていらしたらよかったのに」


 兎木子がいた。

 六畳ほどの洋室。ベッドの他には小さな衣装棚と書き物机があるだけのガランとした部屋にテーブルを持ち込み、日当たりのよい窓際にお茶のセットを並べて、部屋の主みたいな顔をして座っている。


「……なんでいるんだ?」

「使用人の方にお願いしたら快く許可していただけましたけど、いない方がよかったですか?」


 非難がましく唸ると、兎木子はすっとぼけるように小首を傾げて、それから隣の席を見た。


「ですってよ、おつうさん」

「おやおや。付き添い役を追い出そうなんて、坊ちゃんも大胆になりましたねぇ」

「婆様まで、ふざけないでくれ」


 兎木子と調子を合わせてコロコロ笑う矮躯な老婆に、烏京は疲労が倍になった気がした。いっそ二人まとめて叩き出してくれようか、と暴力的手段がよぎるのを抑えて、理性に訴える。


「付き添いがいたとして、年頃の娘が男の寝起きする部屋に上がり込むのは問題だろう」

「そうはおっしゃいましても。せっかくお出迎えしたのにあんなすげない態度を取られては、愛らしい婚約者としては引き下がれないじゃないですか」


 ぷい、と兎木子は子どもっぽくそっぽを向いて、温めてあったカップにお茶を注ぐ。


「花江叔母様から北海道産の薫衣茶ラベンダーティーをいただいたんです。とてもいい香りで、ストレスが和らぎますよ。どうぞお飲みください。夢にまで、嫌な上司が出てこないように」

「話を逸らすな……って。おい、待て」


 帰宅してから三度目、烏京は固まることになった。

 知らぬ間に、刃を喉元に突きつけられていたような心地だ。なぜ、ストレスの原因を知っているのか。同僚にすら、まだ話していないというのに。


「どこから、『嫌な上司』なんて出てきた?」

「あら、正解でしたか」


 疑惑の目を向けると、兎木子はやはり子どもじみた表情で無邪気に笑った。

 形の良い細指を一本立てて、剣の師匠が教導するように振りながら種明かしする。


「確証があったわけではありません。ただ玄関で、お召し物から煙草のにおいがしましたので」

「……そんなに、くさかったか」

「烏京様は煙草がお嫌いでしたよね。ではなぜ、においがしたのか? きっと、喫煙者の近くにいたのでしょう。におい移りするくらい接近を許したのは、意見ができない目上の人間だから。しかも、烏京様への気遣いもしてくれない相手です。そういう人物との同席を余儀なくされていたのだとしたら、あれだけ不機嫌なお帰りだったことにも納得がいきます」

「おやまあ、まるで見てきたようでございますねぇ」


 推理を聞いたお鶴が感心したような顔をしている。


 果たして実際のところは、ご名答であった。

 やることをやって帰宅しようとしていた烏京は、とある幹部にいきなり呼びつけられたのだ。何の用かと思ったら、夜刀討伐に関するお叱りである。もしかしたら、後始末を任せた現場の指揮官からかなり偏った報告があげられたのかもしれない。

 要約すると、「若いくせに態度が~」とか。「『天網』を使うと地脈がズタズタになって後の復興が~」とか。まとめると三行ほどで済みそうなことを表現を変え言葉を変えて長々と説教された。

 煙草の煙が充満する執務室の中で、だ。まともに呼吸もできず、ある意味では大蛇の大群を相手にするよりも苦痛だった。


「と、いうわけで。少しでも気が紛れたら、とリラックス効果のあるお茶を淹れてみたのですが、いかがですか?」

「……。……わかった、もらおう」


 降参のポーズを取って、烏京は兎木子の対面に着いた。


 差し出されたカップから立ち上る白い湯気を吸い込む。

 高貴で澄んだ香りが鼻腔を満たし、頭の奥底にまで染みわたって、自然と目元が緩むのを感じた。続けて宝玉のような液体に口を着けると、花の甘さと渋みが舌を滑り、喉を温めながら胸いっぱいに広がっていく。


「どうです、美味しいでしょう」

「そうだな。言うだけある」


 素直に認めて、烏京は二度三度とカップをあおり、ため息といっしょにストレスを吐き出して背もたれに身を預けた。


「気を使わせてしまったな、兎木子。ありがとう。さっきは八つ当たりしてすまない」

「……ぇ」


 気持ちが緩んだままに任せて感謝と謝罪を言葉にすると、なぜだか今度は兎木子の方が凍りついてしまった。

 最初はキョトンと。

 それから納まりの悪そうに目線を泳がせて、袖で口元を隠す。


「そ、れは、まあ……婚約者としては当然ですし。……そう! 周りにもしっかりと触れ回ってくださいませね。そしたらわたしは、器量良しなのに加え優しくて気も利く婚約者だと、巷の評判もうなぎ上り!」

「……お前はそういう奴だよ」

「ふひひひひ。惚れ直しましたか?」


 様子がおかしいように見えたのは一瞬だけで、兎木子はすぐに調子のいいことを言い出す。

 烏京は呆れ顔を隠せなかったが、悪童みたいに八重歯を剥いて笑う彼女にはがまったくない。その一点について、烏京から兎木子に対する評価が揺らいだことは出会った時から一度もなかった。


 あけすけに話す兎木子に、烏京は半眼になって言い返し、そんな二人をお鶴がほほ笑ましげに眺めている。

 遠慮なく、飾り気なく、自然体で接することのできる関係性は心地よくて、何だかんだ言っても兎木子が婚約者になったのは幸福なのだろうと、少なくとも烏京はそのように感じていた。

 そんな保証がないことは誰よりも知っていたはずなのに、この関係が続いていくのだと信じていた。


 まさか、後に彼女と牢獄を挟んで対面することになるなど、夢にも思っていなかったのだ。

 

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