第19話 孝行息子~凌統と甘寧

 船の上はひどく揺れた。十五歳の凌統はへりにつかまっているだけで精いっぱいである。

 父・凌操はもう船いくさは場数を踏んでいるので悠然としている。

 相手は黄祖である。目の前でこちら側にひっきりなしに矢を射放してくるのは、錦織りの太い綱を船体に張りわたした軍艦だ。

「甘寧め、しつこい」

 父が低い声で言って舌打ちする。絶え間なく長江からしぶきが跳ね上がって甲板と一緒に凌統の頬を濡らす。甘寧。初めて耳にする名だ。吐き戻しそうになるのをこらえて凌統は父に聞き返した。

「甘寧とは、あの、船の、将なのですか」

「おお。そうだ。見えるだろう、あのど派手な綱が。あれこそ甘寧の船よ」

 凌統は父の隣へ無理やり足を運んだ。揺れる上に甲板は水びたしなので、気をつけなければすぐに足を滑らせる。一歩一歩甲板に足の裏を押しつけるように進んだ。

「統。あぶなっかしいなあ、おまえは」

 父はあきれ顔で迎えた。

「も、申し訳ございませぬ」

「もっとしっかりせい。俺が死ぬれば、跡目を継ぐのはおまえなのだぞ。おまえしか、おらぬのだぞ」

 凌統のまだ薄い背中を大きなごつい手のひらでばしんと威勢よく叩いて父は大声で励ます。

 そのようなことはじゅうじゅう承知しております――凌統は周りの将兵がいくさの真っ最中にも関わらず、自分と父を苦笑まじりに眺めているのが恥ずかしくてたまらない。

 その時だった。

 突然父が凌統の目の前から消えた。甲板にあお向けに倒れている。その胸板の中心には一本の矢が深ぶかと突き立っていた。

 凌統は矢が飛んできたであろう方向を振り返る。錦織りの綱が張りめぐらされた軍艦が遠ざかっていく。父に目を転ずる。動かない。

 甘寧だ。甘寧のしわざだ。父上を射たのは甘寧だ。十五歳の凌統の頭に「甘寧」の名が「父の仇」として焼きつけられたのはこの時だった。


 凌統と父は孫権の配下である。そのため父が戦死したあとは、父の位だけでなく父が率いてきた将兵をも引き継ぐこととなった。

 緊張のあまり微動だにしないでいる凌統に孫権は顔いっぱいに笑みを広げて言った。

「そなたの父は国事に命を落とした。その上そなたは若くして父に従い戦場に赴くこと久しく、孝行息子であると、わしの側仕えの者らが褒めておったぞ。わしもそなたと同じで、若い時に父、そして兄を亡くしておる。お互い同じ辛酸を舐めた者同士、これからも共に手を取って、戦ってゆこうではないか」

 俺はほんとうに孝行息子なのだろうか。

 凌統は疑問に思う。孝行息子ならば父を死なせなかったはずだ。父の身代わりとなって矢を受けたはずだ。目の前にいる主君は、俺を自分のために働かせたいばかりに、大げさに称賛しすぎているだけではないのか。

 俺は孝行息子ということにされてしまった。凌統の中でその思いは日と月と年を追うごとに大きくふくらんでいった。甘寧が黄祖の下を離れて孫権の幕下に入ったのは、俺は孝行息子ではないという思いが声になって喉から舌へせり上がりそうになっている時であった。

 甘寧の姿を見かけると凌統は吐き気を抑えられない。実際のところ、甘寧が指揮する将兵が乗った船から射られた矢に父は倒れたのであり、甘寧その人が射た矢でないのかもしれないのである。しかし凌統にとっては甘寧を父の仇と思い定めることでしか、こみ上げる吐き気を抑えることかできないのだった。

 そんな凌統を、当の甘寧も避けていた。凌統の父が自分の船から射込んだ矢で死んだということを人づてに聞き知っていたからだ。

 ――甘寧をやらねば、俺は孝行息子にはなれない。

 凌統はいつしか真剣にそう考えるようになっていった。父の仇かもしれない男と同じ主君をあおぐことになるとは何という皮肉であろうか。

 孫権は凌統に釘を刺した。

「これからは同僚となるのだ。怨みを晴らそうなどと考えるのではないぞ」

 さらに悪いことには、二人の事情は孫権の幕下では知らぬ者は少なかったにも関わらず、同僚である呂蒙の宅で酒席に出ることになってしまったのである。

 凌統は自宅を出る前、父が佩いていた刀を腰に吊るした。今日こそこれで甘寧を殺して父の仇を討つのである。しかも幸いなことに酒が入る。酒の勢いを借りれば甘寧の体にこの刃を食い込ませることが可能になる。

 だから凌統は飲んだ。普段は飲まない酒を立て続けに流し込んだ。もう足もとがおぼつかない。十五の時に長江の水で濡れた甲板を転ばないように進んだことを思い出す。

 甘寧は一人、杯を重ねている。その顔は赤くもなく青くもなっていない。強いのであろう。

「甘興覇どの」

 前に立ちはだかった凌統に、甘寧はぎょっとする。

「公績どの――」

 刀を抜き持ち、凌統は言った。

「舞をお目にかけ申す」

 言いながら刃を振り下ろした。とたんに甘寧が杯を卓上に置くや椅子ごと後ろへ下がる。そして立ててあった自身の戟を二本手に取ると、言った。

「それではお相手つかまつろう」

 飲んでも顔色ひとつ変えないでいたのに今の甘寧の顔は青白い。容赦なく迫る白刃を両手に一本ずつ持った戟でかろうじてはね返すのが関の山である。

 ――孝行息子だと皆が見て、思ってくれなければ。

 ところが凌統は刀を落としてふらついた。常日頃飲まない酒を飲みすぎたからである。しかし倒れはしなかった。呂蒙が凌統を受け止めたのだ。同時に呂蒙は甘寧に顔を向け、目と目を合わせた。甘寧はそこで冷静さを取り戻し、戟を持ったまま直立した。

「これでお開きだ」

 笑って呂蒙は二人に言った。

 凌統は呂蒙の腕にかかえられたまま、甘寧は背筋も膝も伸ばしたまま、笑っていない目で睨む呂蒙に、無言でうなずいた。


「臣が申し上げましたでしょう」

 孫権に呂蒙は強張った目と声で言う。

「あの二人を同じ場所に居らせてはなりませぬ。公績は興覇に怨みがあるのですから」

 憮然として孫権が言い返す。

「わしとて公績には言い聞かせていたのに」

「きちんとお言葉を尽くされましたか」

「さようなこと、いちいち覚えておらぬわ」

「興覇を公績から離すべきです」

「ああ、わかった、わかった」

「すぐにご命令くださいませ」

「わかった、すぐにいたすゆえ、そう睨むな」

 かくして甘寧は軍勢と共に半州へ駐屯した。

 さて、凌統である。呂蒙に呼ばれ、共に岸辺に座り、長江を眺めている。

「気分はどうだ、公績」

「どう、と申しますと」

「興覇を怨んでいるか」

 少し考えて、凌統は答えた。

「私は、孝行息子になりたかっただけなのです」

「父の仇を討つことでか」

「はい。ほんとうは、興覇どのではなかったのかもしれません。しかし父は私の目の前で倒れたのです。私がもっと気をつけていたなら、父は命を落とさなかった」

「気をつけていても、生きる者は生きるし、死ぬる者は死ぬるのだと俺は、いくさ場に身を置いてみて、初めてわかった」

 語る呂蒙の横顔は長江に似て穏やかだ。

「子明どの。私に伝えたきこととは、そのお言葉でございましょうか」

「ああ。そうだ」

 長江はただ、ゆったりと流れてゆく。

 凌統は、胸にずっと居残っていた固くて重いものが、自分から離れて長江に落ちたと思った。

「父は、許してくれるでしょうか」

「それは、泉下で問うしかないな」

 呂蒙の声はやさしかった。

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